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アルマートイフェル【第三話】








 午後から降り出した雨は次第に激しさを増していた。市立病院から花吉中央駅まではバスを使い、駅から自宅アパートまでは歩いて帰った。ほんの十数分の道のりを歩いただけで全身びしょ濡れになってしまったけれど、なんとなく、道中のコンビニで間に合わせの傘を買う気にはなれなかった。

 自宅は、就職を機にようやく実家を離れて越してきた二階建てのボロアパートだ。広さ八畳ほどの1Kで、家賃は3万2000円。決して高くはないけど、湿気の多さや害虫の出没頻度を勘案すると、とても住み良いとは言い難い。雨にまみれた手でポケットをまさぐりながら外階段を上がっていく。ようやく中から鍵を見つけて、ふと顔を前に持ち上げると、薄汚れた玄関の前に一人の女性が立っているのに気が付いた。

「え……」

 と思わず立ち止まる。随分と久しぶりではあるけれど、初めて見る顔ではなかった。

「あ、水島くん、よかった、今日はもう会えないかと思った」

 目を丸めて驚く僕に、女性はくしゃっと破顔した。

火口ひぐちさん……、どうしてここに……?」

 火口さんは、高校三年の時の僕のクラスメイトだった女性だ。クラスの中心人物で、学園のマドンナ。教室の隅でジッとしている僕のようなタイプの人間とは対極の世界に生息している典型的な陽キャラ。たしか下の名前は……恵理えり、だった気がする。

「どうしてって、そりゃあ、水島くんに会いにきたんだよ」火口さんはいかにも慣れていそうな口ぶりで言って、目尻をギュッと絞った。「あのね、五日後、次の木曜日なんだけど、高三のクラスの同窓会をするの。ほら、せっかくのお盆休みだし、今年でみんな三十でしょ? それじゃあ久しぶりに集まろうかって話になって。一応、みんなのところに招待状は送ったつもりなんだけと、水島くんだけまだ出欠の確認が取れていなかったから」

「それで、わざわざ?」

「そう」

「そっか、同窓会。ありがとう。行けたら行くよ」

 そういえば、たしかに半年ほど前、鶴松町の実家の郵便受けに同窓会の案内状が入っていたような気がする。とはいえ、あんなクラスの同窓会になんてハナから行くつもりはなかったから、そのまま中身も確認せずにゴミ箱に捨てたのだった。

「じゃあ一応、水島くんも参加するってことにしておくね」

「あー……、うん、じゃあ、よろしく」どうやら火口さんは僕の行けたら行くを額面通りに受け取ったらしい。わざわざそれを彼女に訂正するのも面倒だから、僕は他人行儀に話題を変えた。「それにしても、よくここが分かったね」

 ここの住所を知っているのは、父を除けば、陽だけのはずだった。他の誰かに教えた記憶はないし、教えるつもりもなかったし、もちろん誰かに訊かれた覚えもない。

拓郎たくろうに聞いたの」と、火口さんは答えた。

「拓郎……?」

「そう、木崎きざき拓郎」

「木崎拓郎……、あの木崎くんに、僕の家を……?」

 僕は解せずに顔をしかめた。木崎拓郎。僕たちの代のサッカー部のキャプテン。成績もかなり優秀で、教師たちからも一目置かれる、絵に描いたような優等生。高校卒業後はスポーツ推薦で東京の一流大学に進学し、そのまま都内大手の外資系企業に就職した、らしい。彼とは友達でもなんでもないので詳しいことは分からないけど、なんにせよ、今の彼がエリート中のエリートであることは間違いない。

 であればこそ、だ。そんな男が、どうしてクラスにいるかどうかも分からないような陰キャラだった僕の今の住所を知っているのか。

「多分、拓郎も誰かに訊いたんだよ。ほら、陽くんとかにさ。あの二人、高校の頃は同じサッカー部のチームメイトだったでしょ」

 陽に? 木崎くんが? まさか、そんなの絶対にありえない。僕は思わず内心で笑ってしまう。たしかに陽と木崎くんは同じサッカー部に所属してはいたけれど、当時の二人は水と油のような関係で、蛇蝎の如くいがみあい、なにかにつけて対立していた。そんな彼らの関係が今さらになって雪解けしたとは、とてもじゃないが思えなかった。

「陽が木崎くんにねぇ……」

「そうそう。絶対そうだよ」

「……ところで、火口さんは今、なにをしてるの?」

 下手な嘘をつく子供のように目を泳がせる火口さんを正面から見据え、僕は探るように訊ねてみた。木崎くんが陽から僕の住所を聞き出したなんて絶対に嘘だ。同窓会の出欠確認というのも、どうせ嘘に違いない。高校時代の彼女を知る者であれば誰だって分かる。地味で目立たない生徒だった僕の出欠なんて普通、彼女は確認するまでもなく欠席の欄に◯をするはずなのだ。つまり彼女は、なにかそれとは別の目的があって、ここにやってきたということだ。

「なにって、仕事ってこと? 私は今、東京の旅行会社で働いてるよ」

「東京。じゃあ、木崎くんと一緒だ」

「そうなの。偶然だけどね」

「偶然」

「そう、偶然」

 また、嘘だ。高校時代、火口さんと木崎くんは付き合っていた。卒業後に上京する木崎くんを追って、火口さんが東京の大学に進学したのも、同級生のあいだではそれなりに有名な話だった。二人がまだ付き合っているかどうかは分からないけれど、少なくとも彼女の言う偶然が偶然じゃないのは、その白々しい態度を見ても明らかだった。

「じゃあ、今は帰省中ってこと?」

「そうそう。ちょうど同窓会もあるしね。週末から来週のお盆にかけて、思い切って有休使っちゃった」

「そう……、よくこの時期にそんな大胆に有休が取れたね」

「優しい上司ばっかりなの、わたしのとこ」

「なるほど……」火口さんの美貌を持ってすれば、上司の一人や二人、簡単に手玉に取ることができるのだろう。「───でも、なんで火口さんが同窓会の出欠確認なんてしてるの? こっちに住んでもないのに、大変じゃない?」

「あー、同窓会のね、幹事なんだよ。私と拓郎が。ほら、卒業式の前の週くらいにさ、クラスの幹事決めの話し合いをしたの覚えてない? その時、誰も幹事なんてやりたがらなくて、そしたら武蔵野むさしの先生が勝手に私たちを指定したの」

「そうだったっけ」

 僕たちの高校三年の時の担任教師、武蔵野太一たいちの姿を頭に思い浮かべる。武蔵野先生は当時の時点ですでに還暦を過ぎたベテラン教師で、体育教師ならではの筋骨隆々とした見た目はすごく恐ろしかったけれど、僕みたいな影の薄い生徒にも分け隔てなく接してくれる、優しい先生だった。夕美が殺された時もなにかと僕を気にかけてくれて、その当時、信頼できる大人なんて僕の周りにはほとんどいなかったけれど、武蔵野先生だけは別だった。

「それなのに拓郎のやつ、今朝から全然連絡取れないんだよね」

「だから君が一人でここに来た、と」

「そういうこと。───てか、え、水島くん、どうしたの。びしょびしょじゃん。傘さしてなかったの?」

 火口さんが今さらになって目を広げ、肩にかけていたバッグの中からグレーのハンカチを取り出し、僕の左手の中に押し込んできた。が、僕はわざと見せつけるように、それとは反対の空の手で額の雨水を拭った。この自分でも情けなくなるくらい幼稚な行動の理由は、火口さんに対する嫌悪というより、むしろ夕美に対する罪悪感からくるものだった。この火口という女性からは、どんな些細なことであろうと、施しを受けてはならない。と、咄嗟に脳がそう判断したのだ。

 そもそも火口さんが過去の過ちを忘れて、いや、彼女は過ちとすら思っていないのかもしれないけれど、今もこうして幸せそうに生きていること自体、僕には納得できなかった。この人の呑気な顔を見ているだけで、沸々と頭の後ろが熱くなってくる。自分の心の奥底に眠る憎悪の扉が、ゆっくりと開いていくのを、僕は感じた。





 夕美は当時、火口さんを中心としたグループから悪辣ないじめを受けていた。火口さんがなぜ夕美をいじめの標的にしたのかは分からない。夕美は目立ちこそしないが顔立ちも良く、勉強もできて、そしてなにより心の美しい人だったから、もしかするとそれが火口さんにとっては癇に障ったのかもしれない。

 夕美に対するいじめは多種多様だった。たとえばトイレの個室に入った夕美に上から水を浴びせてみたり、教科書の文字を全部修正液で白くしてみたり。もちろん、彼女たちのその関係性は僕も認識していて、夕美にも直接、先生に相談した方がいいよと何度も説得を試みた。けれどその話になると、夕美はいつも決まって、

「どうってことないよ。あの人たちもきっと根はいい人たちなの。私とは住んでる世界が違うってだけ」

 と、そう言って歯牙にも掛けない様子で笑うのだった。彼女のその笑顔を見ていると、僕もそれ以上はなにも言い返せなくなった。彼女が平気だと言っている以上、僕はなにもしてあげられない。校内カーストの頂点に君臨する女帝に対して、自ら率先して立ち向かうなど、僕みたいな根っからの臆病者にできるはずがなかった。

「ねぇ京ちゃん、動物クッキーって分かる?」

 ある日の夕方、校舎から鶴松駅に向かう城金山の緩やかな坂道を二人で歩いていると、夕美が突然、隣の僕に顔を傾げてそんなことを言った。

「あー、あの、パンダの目がチョコになってるような、あれ?」

「そうそう、あれあれ。私ね、昔からあのクッキーが大好きだったんだ。幼稚園の頃なんて毎日食べていたくらい大好きで。だけどね、その中に入っているゴリラの形をしたクッキーだけは、今でもどうしても食べられないんだ」

「ゴリラ? どうしてまた」

「だってさ、ゴリラ、怖いじゃん。見た目がさ。なんか怪物みたいで。他のサルとかクマのクッキーは平気なんだけど、ゴリラだけはどうしてもダメなの。袋の中からゴリラが出てくるとね、いつも半べそかいて、お母さんに渡してた。今はさすがに泣かないけどね」

「よく分からない理屈だなぁ」

 相槌を打ちながら僕は笑った。ゴリラのクッキーが出てきた時だけ泣きじゃくる夕美の姿を想像しただけで、なんとも言えない可笑しさがあった。

「そしたらお母さんがある日、言ったんだよね。今はまだゴリラを食べられなくても大丈夫だよ。いつの日か、ふとした瞬間に食べられる日が来るかもしれない。その日が来るまで、あなたはサルやクマのクッキーを大切に食べればいいのって」夕美はそう言うと、少し恥ずかしそうに視線を僕から逸らし、前方に沈む夕陽に向かって目を細めた。「その時ね、私、思ったんだ。人間もそうなんじゃないかって」

「人間も?」

「人間もさ、自分にとって合う人、合わない人っていうのがいるでしょ? 世の中にはたくさんの人がいるから、それはもう仕方のないことなの。そういう時、人は分かりやすいように合わない人を自分の領域から弾き出す。私がゴリラのクッキーをお母さんに渡したみたいにね。それってさ、人間の本能みたいなものなんだよ。だけどある日突然、私もゴリラのクッキーを食べられるようになるかもしれない。サルもクマもゴリラも味は同じなんだから、ありえない話じゃない。それと同じで、合わなかった人が合う人に変わるかもしれない。だから、とにかくさ、今はただ袋の中からサルやクマのクッキーを食べていればいいんだよ。出てきた動物を大切に食べる。それが一番、大事なことなんじゃないかな」

「ふぅん、そんなもんなのかなぁ」

 夕美の視線を辿って、僕も前方の夕陽に目をやった。僕たちが暮らしている鶴松町は城金山の外縁を親指で押し広げるようにして形成されているため、沈みゆく太陽が対岸の城金山の稜線に黄金色の筋を引くのがよく見えた。夕美の言っていることはいまいちよく分からなかったけれど、二人でその絶景を陶然と眺めているうちに、彼女の言葉がなんだか自然と胸の中にじんわりと染み込んでくるような、そんな気がした。

「ねぇ京ちゃん、知ってる?」

「ん?」

「武蔵野先生が言ってたんだけどね。美しい色合いっていうのは、光と陰の絶妙なバランスで成り立ってるんだってさ」

「光と……影のバランス?」

「そう。明るすぎてもダメだし、暗すぎてもダメ。明と暗が絶妙に折り重なる時、そこに美しい色が生まれるの」

「へぇ……」

「私、ここから京ちゃんと二人で見る、この夕陽の景色が大好きだよ」

「うん、僕も……、この景色が大好き」

 しかし───この日からほんの数週間後、夕美は、よく知らないホームレスの手によって殺害されることになる。

 葬儀の日、僕は彼女の棺の中に、そっと動物クッキーを忍ばせた。せめて天国では怖い思いをしないようにと、袋の中に入っていたゴリラの絵柄はすべて取り除き、粉々に砕いて、ゴミ箱に捨てた。





「───水島くん、大丈夫?」

「……え?」火口さんのその声で、僕は過去の記憶から今の現実に引き戻された。

「なんか、思い詰めた顔してる。水島くん、もしかして、なにか私に言いたいことがあるんじゃない?」

「僕が? 火口さんに? なにかって、なにを」

 と、この時、僕の脳裏にふと、先週届いたあの謎の便箋の文言が浮かんだ。

『北野夕美を殺したのは誰だ』

 あの便箋を送りつけてきたのは、まさか、火口さん? あの便箋を読んだ僕の狼狽を一目見ようと、わざわざ僕に会いにきたのか? あくまで可能性ではあるけれど、なんにせよ、彼女の言う「なにか私に言いたいこと」の「なにか」には、それ相応の具体性が含まれているような気がした。

「大丈夫。火口さんに言いたいことなんて、なにもないよ」

「……そう、それならいいんだけど」

「あ、じゃあ一つだけ訊いていい?」と、僕は右手の人差し指を立てた。「その同窓会、陽も来るの?」

「陽くん? 一応、参加するって聞いてはいるけど」

「そっか。分かった。ありがとう」

 その後、二つ三つ当たり障りのない会話を消化したのち、火口さんは僕のアパートを去っていった。やがて彼女の姿が完全に見えなくなったところで、視線を下げると、彼女が強引に押し込んできたグレーのハンカチが僕の左手の中で皺くちゃになっていた。

《悪は誰だ───》

 どこからともなく声が聞こえた。夢の中でも聞こえた、あの声だった。

《追え───。今の女を逃がすな───》

 気付けば僕は外階段を駆け降り、アパートの敷地の外に飛び出していた。しかしすでに火口さんの姿はどこにも見当たらなくなっていた。

「くそ……」

 思わず、滅多にしない舌打ちをしてしまう。おそらく駅に向かったのだろうと見当をつけて、僕は臭いを頼りに犯人を追跡する警察犬みたいに、大通りに抜ける幅の狭い一本道をゆらゆらと歩いた。しばらくすると、ただならぬ人集りが僕の行き先を塞いでいた。彼らの視線の矛先はすべてコンクリート塀に設置されたゴミ集積所に向けられているようだった。そのゴミ集積所をぐるりと囲うようにして、なにやら物々しげな規制線が張られていた。事故か、あるいは事件でもあったのだろうか。規制線の手前でレインコートを着た警官が両手を広げて、人塊の対応をしているのが見えた。

 すると、その人塊の中から一組の若い男女が抜け出てきて、広げた傘を手に持つ男性がどこか興奮した様子で、

「俺、殺人現場とか初めて見たよ。ありゃ完全に刺殺だよな」

 と言った。どうやらこのゴミ集積所で人の死体が見つかったらしい。男性は、まるでミステリー映画を観たあとに感想を言い合うみたいな、そんな軽い口ぶりだった。

「血まみれだったね……。この辺に住んでる人なのかな……」

「死んでた人が? それとも犯人?」

「どっちとも。てか、犯人、まだこの近くにいたりしないよね……?」

 恐々と声をひそめる女性。彼女の視線が、目の前で佇むずぶ濡れの僕の姿を捉えた。その瞬間、可笑しな話だけど、女性は、まるで犯人を見つけたかのような目をして、真っ白になった顔をカチンと硬直させた。

《悪は雨に洗い流される───》

 みたび、あの不気味な声が聞こえた。全身にゾッと鳥肌が立つのが分かった。前髪に絡まった雨粒が、ポツ……ポツ……と足元に向かって落ちていく。それはまるで、これから始まる凄惨な悲劇のカウントダウンのようでもあった。

《悪は誰だ───》

 無意識のうちに僕は足を前に踏み出していた。一つの大きな心臓のように蠢く人塊を掻き分け、規制線の一歩手前まで躍り出た。目の前の警官が鬼の形相を浮かべて押し返そうとしてきたけれど、駄々をこねる子供のように両腕を振って抵抗した。

「だ、誰……、殺されたの……誰ですか……」

「いいから、下がりなさい!」

 恫喝気味に叫ぶ警官の腕の隙間から、薄い青色のビニールシートを被って担架に乗せられる被害者の姿が、雨風にヒラリと煽られ、わずかに見えた。

「あ……───」

 刹那、声を失った。よく知る男の姿がそこにあった。

 途端に高校時代の記憶が蘇る。僕は校舎の廊下を歩いている。前から歩いてきた彼と肩がぶつかり、情けなく尻餅をつく。

「おい、痛ぇな、この野郎」

「ご、ごめん……」

「おい京太、次ぶつかってきたら殺すぞ」

 たしかに彼は、親や教師といった大人たちの前では真面目で優しく、成績優秀でスポーツ万能な生徒を完璧に演じていた。だけど、僕は知っている。それがあくまで表の顔だということを。いや、僕だけじゃない。みんな知っている。みんな知っているのに、誰もそれを咎めようとはしなかった。それはなぜか。怖かったからだ。彼が行なう復讐が、報復が……。そう、品行方正な生徒を演じるその裏で、彼は身の毛のよだつ数々の蛮行、たとえばいじめや恫喝、暴力などを主導する悪逆無道な男でもあったのだ。

《お前が雨を降らせるのだ───》

 しとど雨が降っている。閑静な住宅街はいつになく騒がしい。警官が僕の体を押し返してくる。なにか言っているようだけど、なにを言っているかは分からない。刺殺体を乗せた担架が人塊の外に向かって走っていく。そこで死んでいたのは、間違いなく───。

「き、木崎くん……!」




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