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アルマートイフェル【第六話】








「それ、絶対お前のこと好きだって」

 八月十二日、火曜日。ベッドの上に腰かける陽が、クッション製の小さなサッカーボールをこねくりながら、そう言った。子供の頃から見慣れた部屋の壁にはひと世代前のサッカー選手のポスターが貼られ、小さな液晶テレビには埃が被り、勉強机には高校の教科書や赤本がいかにもガサツといった感じで雑然と並んでいる。陽が小学校から高校を卒業するまで使っていた彼の子供部屋だ。

 この日、仕事を終えた僕は鶴松町の住宅街の中にある、この陽の実家に足を運んだ。西洋風の瀟洒な一軒家。陽の両親はすでに陽が幼稚園の頃に離婚しているため、現在は彼の母親と弟の月哉が二人で住んでいる。

 陽の言う「それ」とは、大沢さんのことだ。お互いの仕事の話をしているうちに、僕が職場で倒れた時に彼女が介抱してくれた話になって、それを面白がった陽が、「お前、それ、間違いなく好かれてる」と言い出したのだ。

「別に、同僚が職場で倒れたら誰だって助けるでしょ」

 床の上の座布団に胡座をかいて、僕は肩を浮かせた。実際、大沢さんから直接好意を伝えられたことは一度もないし、好意を寄せられていると感じたことだって一度もない。映画が好きで、誰とでも仲良くなれる、気さくで楽しい仕事仲間。というのが、彼女に対する僕の素直な印象だった。

「お前は女心を分かってないな」と、陽は呆れるように言った。「お前の方からアクションを仕掛けてくるのを、その子は待ってるんだよ」

「女心なんて分からないよ。僕は陽と違ってモテたことないから」

 それに───たとえ大沢さんから好意を持たれていようと、この先、自分が誰かを好きになることはないという確信が僕にはあった。あれから十二年が経った今でもまだ、僕にとって女性というのは、夕美か、夕美以外かの二択でしかないのだ。

「でも、デートにも誘われたんだろ? 確定だよそれ」

「デートって……、ただ単に今度ご飯を食べに行こうって話になっただけだよ」

「良い機会じゃねぇか。いっそ付き合っちゃえよ」

「もういいよ。やめよう、この話は」僕は強引に話を終わらせた。「それで、面白いものってのはなんなの?」

 昨日の夜、陽から突然、連絡が来たのだ。

『母さんから電話があってな、実家の俺の部屋を掃除してたら、面白いものが出てきたらしいんだ。明日の夜、一緒に見にいかないか?』

 その面白いものというのがなんなのかは分からなかったけれど、ちょうど僕も陽には土田くんのことで話があったし、それじゃあ明日の夜、仕事終わりに陽の実家で落ち合おうという流れになったのだった。

「あ、そうそう、これこれ」陽が勉強机に置いていた大学ノートの束(全部で十冊くらいはある)を手に取り、僕の前に差し出した。「どうだ、懐かしいだろ」

「あぁ、これ、陽の昔の漫画か」

「そう、ヒーロー伝記」

 ヒーロー伝記。陽が幼稚園の頃に描いたオリジナル漫画。悪の権化たるグレムゴブリと、正義のヒーローの闘いを描いた、タイトル通りのヒーロー譚。

「まだ残してあったんだ。こんな古いもの」

「バカ、これは俺のバイブルだぞ? 捨てるわけないだろ」

「バイブルって、随分と大袈裟だな」

「大袈裟じゃねぇよ。俺が学生時代にあれだけ勉強を頑張ったのも、この漫画に出てくるヒーローの教えがあってこそだ。ヒーローたる者、勤勉さを忘れてはならないってな」

「陽が勉強を頑張ってるところなんて、見たことないけど」

 ロクに勉強せずとも、いつも良い成績を収めてしまうから、陽は凡人の僕と違って、天才なのだ。

「陰で頑張るタイプだったんだよ、俺は」

「はいはい」

「とにかく、これ懐かしいだろ。俺もさっき久しぶりに読んでみたけど、やっぱり、幼稚園児が描いたとは思えないクオリティなんだよなぁ、これ」

「自画自賛もヒーローの教え?」

「自分の作品に自信を持つのはいいことだ」

「モノは言いようだね」

 そもそも陽がこのヒーロー伝記を描くようになったのには、それなりにハッキリとしたキッカケがあった。僕たちがまだ幼稚園に通っていた頃、園の運動会があった日のことだ。出場したかけっこで安定の一位を獲った陽が、先生に貰った手作りの金メダルを誇らしげに掲げていると、そのレースで惜しくも二位に甘んじた男の子が悔しさのあまり泣き出してしまうという、なんとも可愛らしい事件が起きた。隣で同級生が泣いているのだから陽も控えめに喜べばいいのに、昔から変わらない性格の彼はそれでも無邪気に喜び続け、最終的に、その男の子は先生たちに抱えられて保護者のもとへと連れて行かれてしまう始末だった。

 それを見て、激怒したのが男の子の兄だった。当時小学三年生だったその兄は、泣き喚く弟の隣で自慢げにメダルを見せびらかす陽の憎たらしい姿に並々ならぬ怒りを覚えた。運動会の数日後、兄は小学校をこっそりと抜け出し、すぐ近くだった幼稚園の敷地内に忍び込むと、陽を見つけ出し、ヒョイヒョイと手招きをして園舎の裏に誘い出した。

「よくも弟に恥をかかせてくれたな!」

 兄はさながら正義のヒーローにでもなった気分だったのだろう。興奮で顔を真っ赤に染めて、その口調もどこか演技染みていた。

「兄ちゃんだかなんだか知らないけど、お前には関係ないだろ」

 陽の言い分は至極もっともではあるけれど、兄にとってはそれこそ、そんなことは関係ない。問答無用。否応なしに陽の存在が気に入らないのだ。兄は短い腕を精一杯に振り下ろし、陽の頭に一発、痛烈なゲンコツを食らわせた。

 それでも陽は痛いのを堪えて足を踏ん張り、彼らしい強気の姿勢を貫いた。

「すぐに暴力に走るなんて、弟と一緒で、可哀想な奴だな!」

「なにぃ?」

 その態度に、兄は余計に腹を立てた。泣けばいいのだ。泣いて、お母さん助けて! と一言喚いてくれればこちらとしても溜飲が下がるというのに、この強情っぱりは怯むどころか、一向に泣く気配がない。

 すると、その時だった。どこからともなく「やめろ!」と声がした。ザッと地面を蹴り上げる音が鳴り、かと思えば今度はゴンッと鈍重な音に続いて、「ぎょえっ」と叫ぶ兄の呻き声が辺りに響いた。

 陽が無意識に閉じていた目をパッと開くと、目の前にはバイクのヘルメットのようなものを被る男が立っていて、対峙していたはずの兄はいつの間にか男の足元に大の字になって倒れていた。男は、なにも言わなかった。ヘルメットも外さず、陽の方を振り返ろうともせず、ハァハァと肩で息をしながら、すぐにその場を立ち去っていった。

 この時、陽は驚くよりもまず先に歓喜した。暴力から解放されたからではない。フィクションの世界の住人だと思っていたヒーローが実在したからだ。以来、彼はしばらく夢中になって漫画を描くようになった。主人公は当然、あの日、自分を助けてくれた、あのヒーロー。つまりあの日のヒーローこそが陽にとっての理想像であり、それと対を成すのが悪の権化、グレムゴブリなのだ。

 実を言うと、陽を助けたそのヒーローが誰なのか、僕はその正体を知っていた。当時の出来事の一部始終を園舎の陰に隠れて見ていたからだ。陽を助けたい。けど、あの小学生に立ち向かう勇気はない。そうやってしばらくその場に立ちすくんで逡巡していたところ、一人の男が後ろから僕を追い越し、陽のもとに駆け寄った。陽はそれをバイクのヘルメットのようなものだと言ったけれど、実際はその辺に落ちていた工事用の防護ヘルメットだった。身長は僕や陽よりも少しだけ低く、見慣れた背中。───そう、月哉だ。今でも鮮明に覚えている。あの日、陽をグレムゴブリから救ったヒーローは、陽の一つ歳下の弟、月哉だったのだ。

 僕がその事実を陽に伝えなかった理由は、陽が夢中になって創り上げたヒーロー像を安易に壊したくなかったからというのが一つと、あともう一つ、月哉自身がそれを望まないと思ったからでもあった。月哉は当時から表立って目立つことを嫌う内気な性格だったから、突然ヒーローなんてものに崇められたりしてしまうと、それまで以上に心を閉ざしてしまうような予感がしたのだ。

 当然、陽は今もその事実を知らないでいる。とはいえ、今さら僕が教えてあげるのもなんか変だし、教えてあげる必要性もあまり感じてはいなかった。───と、そんな風に当時の記憶を思い出していると、突然、部屋のドアがガチャリと開き、廊下から一人の女性が入ってきた。陽の母親、烏山聖子せいこだ。ふっくらとした顔に笑みをたたえ、薄茶の頭髪にはクルクルのパーマが当たっている。

「あらー、京太くん、久しぶり。大きくなったねぇ。あ、身長は別に前に会った時とそんなに変わってないか。……あら、どうしたの、元気なさそうね。嫌なことでもあった? なんで今日はまたこっちに帰ってきたの?」

 聖子さんの相変わらずの饒舌ぶりに、僕は思わず苦笑した。昔からずっとこうだ。いつも明るくて、いつも元気で、少し口数が多すぎる嫌いはあるけれど、早くに母親を亡くした僕にとっては、母親代わりのような女性。優しくて、包容力があって、その名の通り、聖母のような女性だ。

「久しぶりに、聖子さんに会いたくなっちゃって」

「あらぁ、京太くんもお世辞を言うようになったのねぇ」

「母さんが見つけてくれた、このヒーロー伝記を見にきただけだよ」

 陽が煩わしそうに唇を尖らせ、包帯の巻かれた左手をシッシと払った。

 そんな、何気のない母と子のやり取りにも、僕は時折、言いようのない羨ましさを感じてしまうことがある。もし僕の母が今でも生きていたら、僕もこの二人と似たような会話をしていたのだろうか。僕も、もう少しマシな人間になれていたのだろうか。───いや、違う。今の僕を作り上げたのは、過去の僕以外の何者でもないじゃないか。母の早逝や虐待まがいの父の仕打ちも関係ない。今の僕があるのは僕の責任でしかないのだ。そばに親友の陽がいない世界線でも、きっと僕は卑屈で社交性のない人間になっていたに違いなかった。

「あのね、京太くん。この子にだけは恋愛の相談はしちゃダメよ」と、聖子さんが言った。どうやらドアの向こうから僕たちの会話を盗み聞きしていたらしい。「つい最近も彼女と喧嘩別れしちゃったばっかりなんだから。ほら、手に痛々しい傷まで作って」

「え、そうなんですか?」

「そうそう。だから、そんな人の助言なんて聞いても、いいことないよ」

「もういいから、さっさと行けよ」陽の語調が少しだけ苛立ちはじめる。

「はいはい、分かりましたよ」聖子さんはニヤニヤしながらクルリと体を翻し、ドアノブに手をかけたところで、「あ、そうだ」と再び僕たちに向き直った。「そういえば陽、ひと月くらい前に、この家にマスダ・アキラ……だったかな、そんな名前の子が来たんだけど、知ってる? あんたによろしく伝えておいてくれって言われたんだけど」

「マスダ……、マスダ……アキラ……?」

 誰だよそれ、と言わんばかりに眉をひそめた陽の怪訝な表情が、ハッとなにか嫌な記憶を思い出したみたいに、数秒と経たないうちにみるみると青褪めていくのが分かった。

「私もよく知らないんだけど、月哉の同級生だったの? なんか、その日は月哉も珍しく部屋から出てきて、玄関の外で長いこと話し込んでたみたいよ」

「月哉の同級生? 陽も知ってる人?」

「……いや、知らねぇ」

 僕が訊ねると、陽は弱々とかぶりを振った。……本当に、知らないのだろうか。知らない人間の名前を聞いただけで、こんなに表情を青くするだろうか。

「……本当に?」

「本当だって。なんで俺がお前に嘘をつくんだよ」

 陽はそう言うと落ち着きなくベッドのふちに座り直して、気を紛らわせるかのようにテレビをつけた。埃で少し白んだ液晶画面に、華やかなゴールデンタイムのバラエティ番組が映し出される。

「なんだか気持ちの悪い子だったよ」と、聖子さんが汚れた雑巾をつまみ上げる時みたいに顔を歪めた。「フードで顔の半分以上を隠しているし、口元はずっとニヤニヤしているし。まぁ、月哉の友達をあんまり悪くは言いたくないんだけどね」

「もういいって。やめろよ、そいつの話は!」

 荒ぶる語気と一緒に口から飛び出した陽の唾が、僕の頬にかすかに触れた。

「どうしたの、陽……」

 昔から血の昇りやすい性格だったとはいえ、陽が聖子さんに声を荒げるなんて、今まで一度もなかったはずだ。少なくとも僕は、母親に対する彼のこんな態度を今まで一度も見たことがなかった。

「いや、悪い、なんでもない」

 居心地の悪い沈黙が流れる中、テレビからは芸能人たちの楽しげな笑い声が絶え間なく鳴り響いている。僕にはそれが、僕たちに向けられた嘲笑のように聞こえてならなかった。





「ねぇ陽、土田くん……って覚えてる?」

 と、僕がいよいよ今日の本題を口にしたのは、少し悲しそうな目をして部屋を出ていく聖子さんの後ろ姿を見届けたあと、彼女がまたドアの向こうで聞き耳を立てていないか何度も確認してからのことだった。なんとなく、この話は誰にも聞かれてはいけないような直感があったのだ。親友で幼馴染の陽にしかできない話だった。

「……え? 誰って?」

「土田くんだよ。土田侑李」

「……覚えてるけど、なんで今、土田の名前が出てくるんだよ」

 陽の険しい眉尻が一瞬、ピクリと揺れた。火口さん、木崎くんと来て、今度は土田くん。もう勘弁してくれとばかりに顔を歪ませ、忙しなく指先を動かしている。

「実はね、その土田くんから手紙が届いてたんだよ。父さんの病室に」と、僕は後ろポケットに押し入れていた土田くんの手紙を取り出した。「……あぁ、でも、一昨日言った変な便箋とは違って、今度のはなんというか、僕に謝りたいことがある、みたいな内容の手紙だったんだけど」

「手紙……」

 それを僕から受け取った陽は、驚くというより、僕の言葉を頭の中でなんとか咀嚼するように、ボソリと同じ言葉を繰り返した。

「土田くんが病室に来たのは、看護師さんの話によると、だいたい一週間くらい前。多分、父さんに手紙を預けて、それを僕に渡してもらおうとしたんだろうけど……、でもほら、今の父さん、あんな状態でしょ? だから僕も昨日、初めてこの手紙の存在には気が付いたんだ。手紙には『また伺います』って書いてあるけど、それ以降は多分、父さんの病室には来てないと思う。もちろん、僕のアパートにも」

「謝りたいこと、か……」陽は項垂れるようにこうべを垂らして、重たい溜息をひとつこぼすと、「まぁ、あれだな」と髪を掻き上げながら視線を僕に持ち上げた。「土田もさ、大人になって改心したってことだろ。色々と悪さをしてきた過去の自分を悔いたんだ」

「あの土田くんが?」

 木崎くんの言いなりになるばかりで、物事の善悪の分別さえつけられていなかった、あの土田くんが?

「人は変わるんだよ。なにもかも、全部変わるんだ」

「そうなのかなぁ……」人は変わる。と、果たして本当にその一言だけで済ませていいのだろうか。「それにしても、土田くんは今さら僕になにを謝りたかったのかな?」

「知らねぇよ。俺もあいつとは、高校を卒業してから一回も会ってないんだから」

「そうだよね……」

 ふと部屋の時計に目をやると、いつのまにか時刻は夜の九時を迎えようとしていた。つけっぱなしにしていたテレビではバラエティ番組が終わり、若い女性アナウンサーが神妙な面持ちで手元のニュース原稿を読み上げている。その内容は、現在行方不明になっている男性の財布とスマホが花吉町の公園にあるゴミ箱から見つかった、というものだった。

『───現在、行方が分からなくなっているのは、土田侑李さん、三十歳男性。土田さんは十日前に用事があると家族に伝えて自宅を出たあと、帰宅することなく、今日まで連絡が途絶えたままとなっていました───』

 アナウンサーは原稿を読み終えると、すぐにまた新しい原稿をめくり、少し声のトーンを上げて、今度はお盆の帰省ラッシュに関するほのぼのとしたニュースを微笑混じりに読み上げはじめた。

「よ、陽……、ちょっと、今の……聞いた……?」

 僕は床から縋りつくように、ベッドに腰かける陽の足を揺すった。

「な、なんで……」

 と、陽もひどく困惑しているようだった。

「木崎くんの死に、土田くんの失踪……。なにがどうなってるの……」

 恐々と怯み声を漏らす僕のそばで、陽はしばらく渋面を浮かべて押し黙り、指先を当てもなくこね回しながら、やがて鼻から深く息を吸い上げ、口を開いた。

「───こういうのは、どうだ。こうは考えられないか? 木崎と土田は仲間割れをしたんだ。そして喧嘩になった。土田はその時、勢い余って木崎を殺してしまって、今はどこかに身を隠してるんだよ」

「土田くんが木崎くんを? ……でも、そもそも木崎くんの死体が見つかったのは一昨日の日曜日だよ。土田くんが行方不明になったのは十日前。時系列的に矛盾しない?」

「そんなの、どうとでもなるだろ。世間的に、行方不明になっているだけだ。誰にも見つからずに死体を捨てるのだって不可能じゃない。───たとえば、だ。土田にはなにか事情があって、姿をくらます必要があった。それを木崎が匿ったんだ。そう考えたら辻褄も合う。匿っているうちに、二人は仲違いを起こしたんだよ」

「木崎くんはお盆休みでたまたま数日前からこっちに帰ってきていただけで、普段は東京に住んでるんだよ。彼も十日前にはまだ東京にいただろうし、こっちに土田くんを匿う場所なんてないんじゃない?」

「実家があるだろ。両親なりに頼んで、十日前から実家に土田を匿わせておいて、数日前に木崎自身もそこに合流したんだ。で、喧嘩になった。ほら、これで辻褄は完璧だ」

「なるほど……」たしかにそれも考えられなくはない。陽の言うように辻褄も合っている。だけど……。「仮に木崎くんが土田くんを匿っていたとして、そもそもどうして土田くんは身を隠す必要があったの?」

「そりゃあ、なにか後ろめたいこと、なにかしらの罪を犯してしまったんだろ」

「犯罪って、たとえば……未成年との淫行とか?」

 僕は思いつきでそう言った。これは単なる僕の偏見ではあるけれど、男性教師が犯す罪と言われて真っ先に思い浮かぶのは、生徒に対する過剰な暴力か───これも土田くんなら十分にありえる───あるいは受け持つ女生徒との淫らな行為、だった。

「ありえるな。昔から変態そうな顔をしてたからな、あいつ。自分の生徒に手を出しても不思議じゃない。───それに、木崎に対しても、いつも手下みたいに扱われて不満もあっただろうしな」

「え、そうなの?」

 それは僕も知らない情報だった。木崎くんをトップに据えた彼らのグループも、決して一枚岩ではなかったということか。

「そりゃそうだろ。木崎の手下なんて、俺だったら耐えられないね」

「じゃあ……、土田くんは潜在的に木崎くんに対して反感を抱いていたってこと?」

「まぁ、そうなるな」

「だったら本当に陽の言う通り……───あれ、ちょっと待って」

 この時ふと、今回の一連の出来事のヒントとなりうる「なにか」が脳裏にヒタッと触れたような気がした。が、その「なにか」がなんなのかまでは、すぐにはピンとこなかった。

「なんだよ」

「……いや、なんでもない」

 僕がへなへなと頭を振ると、陽はどこか思い詰めた目をして、言った。

「……なぁ京太。もういいだろ。この辺にしとこうぜ」

「この辺?」

「いくら俺たちが考えたって、本当のことは分からない。だったらもう、無理して考えることないだろ。お前にとって夕美がどんな存在だったか、十二年前の事件がどんなに重い出来事だったかは、俺だって痛いほど分かってるつもりだ。だけど、もうやめよう。一昨日にも言ったけど、これは俺たちには関係のない出来事なんだ。それに……、このままだとお前がいつか壊れてしまいそうで、俺はそれが心配なんだよ」

 改めて僕に釘を刺すように、陽はひと息でそう言った。もしかすると陽が今日、わざわざ僕をこの家に呼び出したのは、単にヒーロー伝記を見せるためだけではなく、本当はこれを伝えるためだったのかもしれない。と、僕はふと思った。

「でも……、ごめん、ちょっとトイレ借りる……」

 氾濫する思考を整理するため、僕は一旦、トイレを口実にして部屋を出た。部屋のある二階から一階へと伸びる階段のふちに腰を下ろし、天井を仰いだ。

 僕の家の郵便受けに差出人不明の便箋が届いていたのは今から一週間と少し前。土田くんが父の病室に現れ、僕に手紙を残していったのも一週間と少し前。その土田くんが行方不明になったのも十日前、つまり、一週間と少し前だ。そして一昨日、雨が降りしきる中、木崎くんが何者かに殺され、そして僕の目の前に火口さんが現れた。

 陽は今日も一昨日も、それは俺たちとは関係がない、と言いきった。自分たちの人生にはまったく関係のない出来事なんだと。僕も初めはそう思うように努めたけれど───でも、駄目だ。今回の一連の出来事が僕と無関係とは、そして十二年前の夕美の事件と無関係とは、やっぱり、どうしても思えなかった。

 すると、その時───。後ろから不意に声をかけられた。

「久しぶり、京太兄ちゃん」

 天井に向けていた視線を後ろに捻り、僕は声を引き込んだ。

 そこに立っていたのは、陽の弟、烏山月哉だった。





「元気だった? 京太兄ちゃん」

 聖子さんや陽に気付かれるのを気にしているのか、月哉は声を忍ばせながら僕の隣に腰を下ろした。

「あ……つ、月哉、久しぶり……。う、うん、元気、だったよ」

 僕はこの時、二つの理由で驚いていた。まず、この月哉が突然、僕の前に現れたこと。もちろん月哉が長いあいだ部屋に引きこもっているのは知っていたし、月哉の部屋が陽の部屋の隣にあるのも分かってはいた。だけど、まさか月哉の方から部屋を出て、僕に顔を見せにくるとは思っていなかった。それともう一つ。驚いたのは、月哉のその容姿の変貌ぶりだ。引きこもる前の月哉はどちらかという細身の方で、頭も坊主に近かったけれど、久しぶりに見る彼の体には贅肉が弛み、頭髪も肩くらいまで伸びてしまって、まるで僕の知る月哉とはまったくの別人であるかのような見てくれになっていた。

「ふふふ……、なんだか、京太兄ちゃんに名前を呼ばれるのも久しぶりだなぁ。ふふ……ふふふ……」

「な……なにが、なにがそんなに面白いの……?」

「あぁ、ふふふ、ごめんね。僕、最近ほら、人とあんまり話してないからさ。どういう時に笑うとか、そういうの忘れちゃってるんだよね、ふふふ」

「そ、そっか……」

 なかなか言葉が続かない。一つ歳下の幼馴染と久しぶりに再会した、ただそれだけのことなのに、どうして僕はこんなにおどおどとうろたえているのだろう。

「ねぇ、京太兄ちゃん」

「な、なに?」

「京太兄ちゃんは、アルマー・トイフェルって言葉、知ってるよね?」

「アルマー・トイフェル……。し、知ってるけど、でも、なんでそれを月哉が……」

 アルマー・トイフェル。哀れな奴を意味するドイツ語の慣用句。……だけど、それをどうして月哉が知っているのだろうか。テレビで言っていたのか、それともドイツ語の辞書を気まぐれで買って読んだのか。そしてなにより、どうして月哉は、僕がその言葉を知っていると知っていたのだろう。僕が大学時代にドイツ語の授業を受けていたことを陽から聞いて知っていた? いや、それはない。ドイツ語の話なんて、陽はもちろん、他の誰とだってしたことはない。それじゃあ、一体どうして……。

「友達に教えてもらったんだ」と、月哉は言った。

「友達……って……」

「僕の友達に。京太兄ちゃんの友達に。みんなの友達に」

「なにそれ……どういう意味……?」

「ねぇ、京太兄ちゃん。一つ、いいことを教えてあげるよ」

「え……?」

「この腐りきった世の中ではね、悪い人間がのさばるのはもちろんだけど、それだけじゃないんだ。良い人間だって良い行いをするとは限らない。良い人間だって過ちを犯す。それに、良い人間が良い行いをしたとしても、そのせいで傷を負ってしまう人もいる。分かる? 要するにさ、そういうのって結局、自己満足なんだよ。僕はね、京太兄ちゃん。そういう種類の人間が大嫌いなんだ」

「な……、さっきからなにを……」

 やたら軽妙に言い立てる月哉に、僕はただ呆然とするばかりだった。月哉がなにを言っているのか、なにを言いたいのか、さっぱり分からない。

 やがて月哉は立ち上がり、周囲を気にするようにしながら僕に背を向け、自分の部屋のドアノブを握った。それから彼は僕の方には一瞥もくれずに、ただ後ろにいる僕の心に重たい氷を落とすかのように、冷たい声で言うのだった。

「ねぇ、京太兄ちゃん。───僕たちの中にも、アルマー・トイフェルはいると思う?」

 月哉のその一言に、僕はなぜだか震駭した。訳が分からないのに、輪郭のないおぞましさに体が強張った。なにも言葉を返すことができなかった。

 僕たちの中の「中」には、誰が含まれている? 僕と、陽と、月哉と……。他にもまだ別の人間がそこには含まれているような、そんな気がしてならなかった。

 すると、そんな僕のスマホが突然、ポケットの中でブルルルと震えた。おぼつかない手でなんとか取り出し、画面を確認すると、登録のない電話番号がそこに表示されていた。出るか出るまいか迷いつつ、訝りながら、応答した。

「……もしもし?」

「あ、もしもし。水島京太さんですね?」

 機械の向こうから聞こえてきたのは、知らない女性の声だった。





 翌日、僕は朝の七時に目を覚ました。いつもであればそろそろ出勤しなければならない時間だけれど、この日は急遽、職場に連絡を入れて午前休をもらった。

 八時になる前には部屋を出て、大通り沿いでタクシーを拾った。普段はタクシーなんて使わないけど、今日ばかりは仕方がない。それから約二十分、僕を乗せたタクシーはA市の市境を超えて、とある民家の前に到着した。背の低い石垣に囲まれた古い造りの平屋の一軒家。玄関に掲げられた表札には「武蔵野」とあった。

 タクシーを降りた途端に雨がまたぱらつきはじめ、珍しくタンスの奥から引っ張り出したグレーのジャケットにも黒色の水玉模様ができてしまった。肩についた雫を手で払いながら、玄関横のドアホンを押すと、目の前の引き戸がゆっくりと開き、中から老齢の女性が顔を覗かせ、ニコリと目尻に深い皺を作った。

「いらっしゃい。水島京太さんですね。ごめんなさいね、急にお呼びだてして」

「初めまして。先生の具合はどうですか?」

「寝室であなたをお待ちしていますよ。さぁ、どうぞ中に入って」

 昨晩、突然かかってきたあの電話は、高校三年の時の僕の担任教師、武蔵野太一先生の奥さんからのものだった。電話に出ると、奥さんは簡潔に用件を僕に伝えた。

『実は主人は長年、癌を患っていて、もう余命いくばくもないようなんです』

「武蔵野先生が、癌……ですか」

 癌という言葉を聞くと、どうしても僕の頭の中には市立病院のベッドで横になる父の姿が浮かんだ。あの癌が、弄ぶかのように生命を蝕むあの悪辣な癌細胞が、夕美の事件当時、傷心の僕を真剣に助けようとしてくれた数少ない大人の一人だった僕の恩師の身体にも巣食ってしまったなんて……。僕は、ショックを隠しきれなかった。

『そうなんです。末期の胃癌。それで、いよいよその日が来る前に、もう一度だけ水島さんに会っておきたいと、主人がそう強く言うものでして』

「それで僕に電話を」

 どうして僕の電話番号を知っているのか。どうして最後に会っておきたいのが僕なのか。恩師とはいえ、高校を卒業してからは一度も会っていなかったというのに。……と、素朴な疑問がいくつかあったにはあったけれど、とにかく明日の午前中にそちらに伺うと約束をして、僕は通話を切った。陽も誘おうと思ったけれど、よくよく考えれば明日は普通の平日だし、陽は僕と違って忙しい身だ。そう簡単に休みは取れないだろうと思って、仕方ないから僕は一人だけで行くことにした。

 そして今日、先生の自宅を訪れた僕は、玄関を上がり、そのまま広さ十五畳くらいの畳部屋に案内された。襖を開けて中に入ると、部屋の中央にでんと置かれた看護用ベッドに横になる先生が、やってきた僕を待ち構えていた。

「先生!」

 ベッドに駆け寄り、畳に膝をついて、声をかけた。十二年ぶりに見る恩師の顔。病気のせいだろう、当時と比べるとかなり痩せこけてしまってはいるけれど、落ち窪んだ眼窩に滲む威厳と優しさは、あの頃の先生の面影を十分に残していた。

「おお、京太、久しぶりだな」

 先生はゆっくりと視線を僕の方に動かし、小さく笑った。

「お久しぶりです、先生」

「元気だったか?」

「まぁ……はい、なんとか」

「この人はね」と、襖の前に立つ奥さんが言った。「あの事件があって以来、今日までずっと京太さんのことを心配していたんですよ」

「恥ずかしい話ですけど、今もまだ、あの時のことを引きずっています」

 夕美の事件が起きたあと、しばらくのあいだ僕は学校側が用意してくれた心理カウンセラーと面談をする日々が続いた。だけど、僕はその面談ではなにも話さなかった。僕や夕美のことなんてなにも知らないカウンセラーの人と話したところで、僕の後悔や悲しみが癒えることはない。と、そう確信していたからだ。

「それだけ、あなたが恋人さんのことを今でも大事に想っているということですよ」

「そうなんでしょうか……」

 僕には正直、よく分からなかった。もちろん夕美のことは今でも大好きだけど、僕の胸の中に今でもくすぶるこの嫌な感情は、夕美への想いとはまた別のところに、その発生源があるような気がした。

「時々ね、この人の元教え子───京太さんの同級生ね、その方からも京太さんの話は聞いていたんです。今はたしか花吉町の映画館にお勤めだとか。京太さんの電話番号も、その方に教えてもらったんですよ」

「元教え子って……もしかして、陽ですか?」

「そう。烏山陽さん。彼、たまにね、ふらっとこの家に遊びにきてくれるんです」

「そうだったんですか……」

 それなら今日も彼を誘っておけばよかったな。と、少し思った。それにしても、なんのために陽は先生に会いに、ここまで足を運んだのだろう。

「それじゃあ」奥さんはフッと息をつくようにそう言うと、「積もる話もあるでしょうから、あとは二人で、ごゆっくりどうぞ」と優しく微笑み、静かに部屋を出ていった。

 先生と僕の二人きりになった畳部屋は深閑としていて、部屋の窓ガラスを叩く雨音がそこに不協和音を鳴らしていた。その単調な音の連続に心地良い調和を与えるように、先生は天井に向けていた表情を少しだけ緩めた。

「そういえば、近々同窓会をやるそうだな」

「はい、明日。なんか、やるみたいですね」

「いいなぁ。俺も顔を出したかったよ」

「いやぁ、どうでしょう。そんなに楽しいものでもないと思いますけど」

「ふふ、そうかな」先生は言うと、「さて」と真剣な眼差しを再び僕に傾けた。「そろそろ本題に入ろうか」

「本題?」

「俺ももう長くない。あの時に聞けなかったお前の言葉が聞きたい。今日はそのためにお前をここに呼んだんだ」

「あの時の、僕の言葉……」

 あの時、あの日、夕美が殺された日、夕美と最後にデートをした日……。

「嫌なら、無理にとは言わないが」

「いや───話させてください。今なら、先生になら、話せる気がします」

 今日まで誰にも、もちろん陽や先生や心理カウンセラーの人にも話すことのできなかった、あの日のこと。誰にも吐露することのできなかった当時の自分の言葉。どういうわけか、今の先生にならスッと話せるような気がした。いや、話しておかなければならないと思った。





 十二年前の一月七日、高校三年の冬休み最後の日、僕と夕美は花吉中央駅の近くでいつものようにデートを楽しんでいた。映画館で流行りの映画を鑑賞して、そのあとに立ち寄った本屋ではお互いに最近読んだ小説をオススメしあって、ゲームセンターではクレーンゲームを楽しんで、だけど目当てのぬいぐるみは一つも取れなくて、つまるところそれは、なんの変哲もない、普通の高校生らしい普通のデートだった。

 夜になると、その日一日の余韻を味わうように、夜風に当たりながら川沿いに伸びる土手道を当てもなく歩いた。風が吹くたびに足元から込み上げてくる雨上がりの土の匂いに、二人で顔を歪めたりもした。どうでもいいような話を、いつまでもダラダラと飽きることなく話し続けた。
 しばらく歩いていると、土手を下った川べりに子供たちの集団がいることに気が付いた。そこから大きな声が聞こえてきたのだ。怒声というよりは、罵声に近い声だった。何事かと思って視線を向けると、そこで中学生くらいの男女が複数人で円を作って、同学年と思しき一人の少女を囲んでいた。間違いなく、いじめの現場だった。

「あの子、助けなくちゃ」

 夕美が土手の傾斜を一目散に駆け降りていった。

「待って、夕美、知ってる子なの?」

「知らないけど、でも、助けなきゃ」

 狂的な熱を帯びた集団の中に、ひとり颯爽と飛び込んでいく夕美の背中は、さながら多勢の敵陣に向かって徒手空拳で猛進する孤高の軍人のような勇ましさがあった。それと同時に、彼女をすぐに追いかけられない自分が、僕はなんとも情けなく感じた。

「やめなさい!」

 夕美は声を張り上げた。いきなり現れた彼女の姿に、さすがの少年少女たちもびっくりしたのか、少しばかりの抵抗は見せたものの、すぐに慌てて土手の向こうへと逃げていった。少し遅れて夕美のもとに駆け寄った僕は、自分の臆病さの帳尻を合わせるかのように、その場に取り残された少女の目線に合わせて腰を屈めた。

「大丈夫?」

 ダンゴムシのように背中を丸める少女の頬に泥がついていたので、持ち合わせていた白色のハンカチを渡した。涙を堪えるように唇を噛む少女はそのハンカチで泥を拭うと、「ありがとう」と一言だけ礼を残して、そのまま恥ずかしそうに僕たちのもとを去っていった。

「さっ、私たちも帰ろう」

 服についた土埃を手のひらで落としながら僕に笑顔を向ける夕美の、その手の甲から、じんわりと血が出ているのに気が付いた。そういえば彼女が集団の中に分け入った時、誰かに背中を押されて片膝をつく瞬間があった。おそらく、その時に手を擦り剥いてしまったのだろう。

「夕美、その怪我!」

 僕は思わず声を大きくした。

「あぁ、これ。どうってことないよ、こんなの」

「どうして……、どうしてあの子を助けようとしたの?」

「だって、あの子、苦しそうだったから」

「でも、人を助けようとして自分が怪我をしてしまったら元も子もないよ」

「逆だよ。このくらいの怪我であの子が助かったのなら、もうけもんだよ」

 夕美は肩を浮かせてそう言った。無理をしているようには見えなかった。

「本当に助かったかどうかなんて分からないでしょ。夕美があのいじめっ子たちを撃退したからといって、あの子へのいじめがなくなるとは限らない。むしろ今日のことが原因で、明日からもっとひどい目に遭うかもしれない」

 僕は怒りのあまり早口で捲し立てた。当然、その怒りの矛先は夕美ではなく、あの少年少女たちに向けられたものであるけれど、だけど怒りというのは、その動機がなんであっても、人に我を忘れさせ、語彙を失わせ、視野を狭くさせ、さまざまな感情を単一化させる。

「……じゃあなに? 見て見ぬふりをすればよかったってわけ?」

「そうじゃないけど、でも、所詮は赤の他人でしょ?」

「……京ちゃんはなにも分かってないよ」

 夕美は僕を憐れむように眉を垂らした。

「なに? なにが分かってないの?」

「人は誰だって誰かに助けてほしいと思ってるんだよ」

「でも、他人の揉め事に首を突っ込んでもロクなことないよ」

「それでも、私は傍観者にはなりたくないの。誰にだって、一人じゃどうにもならないことがある。そんな時は、それがたとえ赤の他人でも、手を差し伸べてあげられるような人間で私はいたいの」

「だけど……、夕美だって、一人で戦ってるじゃないか。その……火口さんたちとさ。そうでしょ?」

 僕がそう言った途端、夕美の目からポロリと一粒の涙が落ちた。僕には彼女のその涙の理由が分からなかった。

「やっぱり京ちゃん、分かってない。なにも分かってないよ」

「え……?」

「私はこれまで一度だって、一人で戦ってるなんて思ったことはないよ」

「ど、どういう意味?」

「ううん、なんでもない。もういいよ、私、行くね」

 夕美は最後にほんの少しだけ微笑を浮かべて、そのままひとり花吉中央駅の方へと歩いていった。

「待って、夕美、今のはどういうことなの?」

「それじゃあ、バイバイ。また明日、学校で会おうね」

 この時、僕は去っていく夕美の背中を追いかけなかった。追いかけることもできたはずなのに、自分の中にあるくだらないプライドがそれを邪魔した。彼女に追い縋るような真似はしたくないという、本当にくだらないプライドだ。本当なら帰り道だって、鶴松町の住宅街まで同じだったはずなのに……。

 事件が起きたのは、この出来事から一、二時間後のことだった。花吉中央駅から鶴松駅で電車を降りて、自宅に向かって住宅街の中の公園を横断しようとしたところ、夕美は襲われ、殺されたのだ。





 事件が起きてから早十二年、初めて僕はあの日の出来事を他の誰かに打ち明けた。今まで誰にも話してこなかったのは、本当のことを口に出して話してしまうと、たちまち自分のその言葉に重力が生まれてしまって、これまで以上に僕の心に重たくのしかかってくる、そんな気がしていたからだ。要するに、現実逃避だ。僕は、僕の犯した過ちを現実のものとして認めたくなかったのだろう。多分、きっと、そうなのだ。

「よく、話してくれたな」

 しばらく僕の話に耳を傾けていた先生が、久しぶりに干からびた唇を動かした。

「本当のことを話すのが怖くて、今日までずっと黙っていました。僕は、その……誰よりも臆病な人間だから」

「いいや、お前だけじゃない」

 自虐する僕に、先生は弱々と首を横に振った。というより、かすかに震わせた。

「え?」

「本物の勇気を持つ人間なんて、そうそういないさ。俺も、陽だってそう。人は誰しも必ず心のどこかに臆病を飼っている生き物なんだ」

「陽は───違いますよ、先生」僕は苦笑した。「あいつは、僕にとっては臆病とは対極にいるような、なんというか、正義とか勇気の象徴みたいな男なんです。あいつに限って臆病な心なんて、そんなの……」

「そうか。でもな」と、先生は息を吐き出すように言った。「今でこそ、こんな情けない姿をしているが、俺も一応、昔は教師をしていたんだ。相手の顔を見れば分かることもある」

「相手の顔?」

「陽だよ」

「どういうことですか?」

「俺が思うに、陽は十二年前の事件について、なにか秘密を抱えていた。打ち明けたくても打ち明けられない、そんな秘密だ。そうでなければ、わざわざ何度も何度もこの家に足を運ぶと思うか? ほんの一年間、一緒だっただけの、ただの老いぼれ教師に。そうだろ? あいつはなにか秘密を抱えていた。それを誰かに打ち明けたくて、俺のところに来たんだ。結局、詳しいことはハッキリと聞けなかったが」

「秘密……」

 陽は僕にとって正義や勇気の象徴のような男。陽は僕にとって、陽は───。だけど、たしかに思い返してみると、最近の陽には明らかに様子がおかしい瞬間が何度もあった。たしかになにかを隠しているように見えた。打ち明けたくても打ち明けられない秘密……。あの陽にも、そんな秘密が本当にあるのだろうか。───と、そこで僕は不意に、昨夜の月哉の言葉を思い出した。

「この腐りきった世の中ではね、悪い人間がのさばるのはもちろんだけど、それだけじゃないんだ。良い人間だって良い行いをするとは限らない。良い人間だって過ちを犯す」

 その瞬間、僕の頭の中に、最悪の仮説が生まれた。

 陽が、夕美を殺した?

 いやいや、そんなはずない。あの陽が人を殺すなんて、そんなのありえない。まして相手は親友で幼馴染の恋人だった女性だ。そんなわけがないだろう。

 いや、でも……───。

 あの日、あの公園でなにかが起きて、事故的に陽が夕美を殺してしまったとしたら? そして、その罪を隠すために、月哉に嘘の目撃証言をさせたのだとしたら? 考えてみると、そもそも犯人の目撃証言をしたくらいで、いくら元から内気な性格だったとはいえ、一人の男が何年も部屋に引きこもるようになるか? それ以上に月哉の胸を抉るなにかが、あの時あったんじゃないか?

「そういえば」と、先生が思い出したように眉を上げた。「高三の頃、陽が一度、俺のところに相談をしにきたことがあった。あいつは、自分のせいで弟が狙われるんじゃないかって、心配していた」

「狙われる……、誰に……?」

「拓郎たちにだよ」

「拓郎って、木崎くん……? なんで、なんであいつらが月哉を?」

「陽と拓郎は、あまり仲が良くなかっただろ。まるで水と油のように、事あるごとに対立していた。同じサッカー部の仲間のはずなのにな。だから陽は、拓郎の憎しみの矛先が自分ではなく、弟に向けられるんじゃないかって心配したんだ」

「憎しみの矛先が、陽から月哉に……?」

 先生はどうして突然、木崎くんの名前をここで出してきたのだろう。先生はなにか知っているのだろうか。十二年前の事件について、なにか……。

「陽は、あの頃から弟のことをいつも心配していたからな」

「それは……はい、その通りだと思います」

 陽は昔から誰よりも弟の月哉を大切にしていた。今でこそ少し疎遠になっているのかもしれないけれど、子供の頃はいつも二人で一緒にいたし、固い絆で結ばれた彼らの関係は、一番近い距離で見ていた僕が誰よりも知っている。だからこそ、そんな陽が自分の犯した罪の一端を月哉に担わせるとは、到底思えなかった。いや、思いたくなかった。

 陽は犯人じゃない。陽は犯人じゃない。───しかし、そう願えば願うほどに、夕美の葬儀の日の記憶が蘇り、僕のその淡い願望を軽々と打ち砕いた。

「───まったく……、どのツラ下げて来てんだって話だよな」

 あの日、葬儀に参列していた陽は虚空を見つめながら独り言のようにそう言った。当時の僕はそれが誰に対する言葉なのか分からないでいたが、しかし、改めて思うと、あの時の陽の言葉は、彼が彼自身に向けて呟いた言葉だったような気がしないでもなかった。殺人犯が被害者の葬儀に参列しているなんて、まさにどのツラ下げて、な状況ではある。

「なぁ、京太」それから先生は目を閉じ、苦しそうに唾を飲み込んでから、「これはお前には言い訳に聞こえるかもしれないが」と言った。

「言い訳?」

「実はな、俺も気付いてはいたんだ。当時のクラスが拓郎たちに支配されていたことを。そしてそこに、いじめがあったことも。つまり……、夕美がいじめられていたことも。だけど、それもいつかは収まるだろうと思っていた。いじめは若気の至りで、すぐに彼らも成長して、自分たちの過ちに気が付くだろうと」

 僕は一瞬、自分の耳を疑った。先生がクラスのいじめに気付いていた? 夕美がいじめられていることも? まさかそんなはずはない。だって……。

「……は、はは、嘘ですよね? だって、あの頃の木崎くんたちの横暴を止めてくれる先生なんて一人も……。武蔵野先生だって、木崎くんや火口さんと、いつも楽しげにしていたじゃないですか」

「俺はただ、生徒全員に平等に接していたつもりだったんだ。でも、今にして思うと、それがいけなかったのかもしれないな……」

「平等……」

 僕は呆気に取られ、しばらく言葉が出てこなかった。僕の中にある武蔵野太一という恩師の肖像が、ガラガラと音を立てて崩れ去った瞬間だった。

「俺も後悔している。ずっと後悔していたんだ。夕美を救えなかったことを。せめて亡くなる前に、彼女の心を救ってやれればよかった。すまなかったな、京太……」

 先生の目から涙が垂れた。僕の目にも涙が浮かんだ。だけど、この二つの涙は、それぞれまったく別のことを意味していた。

「先生は、事件のことで、なにか知ってるんですか……?」

「……いいや、なにも知らない。ただ、大体のことは想像がつく」

「想像……?」

「いや、なんでもない。ただ今日は、お前にこうして謝りたかっただけなんだ」

 そうか、この人は結局……と、僕は気付いた。結局、この人は自分の死を目前にして、そう、まさに言い訳だ。言い訳をしたかっただけなんだ。このままだと地獄に落ちてしまうかもしれないから、生きているうちに僕に上辺だけの謝罪を残して、当時の自分に赦しを与えておきたかっただけなんだ。

 夕美がいじめられていたのを知っていた? その夕美を救えなかったことをずっと後悔している? すまなかった? ふざけるな。僕がそれを聞いて、先生は悪くないですよ、なんて言うと思ったのだろうか。笑わせるな。僕は……僕は、そんな言葉を聞くために先生に会いにきたんじゃない。ずっと秘めていた十二年前の話を打ち明けたんじゃない。先生なら受け止めてくれると思ったから、今の僕の暗澹とした心を救ってくれると思ったから、だから……。

 悔しくて仕方がなかった。なんて侮辱だろう。この男は、僕や夕美や事件のことを自分のために利用したんだ。再会の喜びもたちまち消し飛び、代わりに僕の胸の奥底からは沸々と怒りが込み上げてきた。

「先生……、僕、そろそろ帰りますね。仕事に、行かなくちゃ……」

 頭が痛い。吐き気がする。これ以上ここにいると、溢れ出る怒りをそのまま先生にぶつけてしまいそうだった。

 別れ際、先生は僕を呼び止め、言った。

「なぁ京太。今度は陽と一緒に来てくれよ。久しぶりに三人で……」

「───いや」僕は先生の声を遮った。「もう先生に会うことはないと思います」




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