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アルマートイフェル【第十話】





 時刻は夕方の六時。晴希のアパートをあとにした僕は、駅の東口にある花吉広場に場所を移した。広場を囲う環状の車道は、その場所柄、バスやタクシーを含めた車両の出入りが多く、そのくせあまり見通しもあまりよくはないので、いつもどこかでクラクションが鳴り響いている。今日のように雨の日となると、尚更だ。

 しばらく広場の銅像に背中をもたれて立っていると、ここに来るまでの道中で呼び出しておいた陽が僕の前に姿を見せた。怪我をしていない右手で傘をさし、露骨に気まずそうにしながら、包帯の巻かれた左手を上げた。

「よう」

「うん」

「あの……、体調とか、大丈夫だったか? 同窓会では悪かったよ。あの時は俺も少し……気が立ってたんだ」

「そんなのはいいから、これ見て」

 と、僕は挨拶もそこそこに、土田の死体から持ち出してきた彼のスケジュール手帳を陽の眼前に突きつけた。

「……? なんだよこれ」

「なんだと思う?」

「知らねぇよ。かなり汚れてるな」

「そりゃあね。城金山の山奥に埋まってたんだから、土でドロドロだ」

「…………」

 陽の片眉がピクンと跳ねた。どうやら今の僕の言葉ですべてを察したようだ。緩く結んだ唇を擦り合わせ、左手の指先を捏ねるように動かしている。なにかを真剣に考える時の、昔からの彼の奇妙な癖だ。

「やめろよ、その手。昔から嫌いだったんだ。見ていて気分が悪い」

「……なぁ、京太、もうやめようぜ、こんなこと」

「陽の方こそ、もうくだらない悪足掻きはやめよう。その左手の怪我、本当は誰にやられたんだよ」

「だから、これは……」

「───土田なんだろ?」

「……京太、とりあえず一旦、落ち着かないか?」

「僕は落ち着いてるよ。多分、今までにないくらいに」僕はそう言って、土田の手帳を陽の足元に投げ捨てた。「その手帳は城金山に埋まってた土田の死体に残ってたやつだ」

「……分かったよ」数秒の沈黙ののち、陽は覚悟を決めたように息を吐いた。「たしかに土田を殺したのは俺だ」

「なんで殺した?」

 僕の心は平然としていた。陽が罪を認めたことにさして驚きはなかった。驚く理由がどこにあろうか。プロのサッカー選手がリフティングを十回成功させて驚く人は誰もいない。それと同じで、やって当然の男が、やって当然の行いをし、それをただ認めたまでの話なのだ。

「その前に教えてくれよ。お前は、どうやって土田の死体を見つけたんだ?」

「マスダに教えてもらった」

「……なるほどな」陽はどこか腑に落ちたように顎を引いた。

「それで、なんで殺した?」

「なんでって……、理由なんて特にねぇよ。二週間くらい前かな、偶然、久しぶりにあいつと道端で再会したんだ。そしたら……まぁ、なんというか、昔の憎悪がぶり返したっていうのかな、気付いたら殺してた」

「ふふふ……、嘘だね」

 僕は思わず失笑した。晴希に続いて陽までもが、この期に及んで自分可愛さに嘘をつくなんて。人は自己保身に走ると、かくも醜くなれるものなのかと感心さえした。

「う、嘘じゃねぇって」

「いいや、嘘だ。お前が土田を殺したのは、十二年前の夕美の死の真相を警察にバラされそうになったからだ。そうだろ? 夕美を殺したのは陽、お前だって。だからお前はそうなる前に土田の口を封じたんだ」

「はぁ? なに言ってんだ、誰が夕美を殺したって?」

「お前だよ、陽。お前が夕美を殺したんだ」

「なにを馬鹿な……」

 無理して鼻で笑う陽の表情に余裕がないのは明らかだった。

───僕の導き出した答えは、こうだ。まず、大学を卒業して教師になった土田は、なぜかは分からないが改心し、過去の行いを悔い、僕に謝罪をしようとした。おそらくは僕の恋人の死の真相を隠蔽してしまったことに対する謝罪だったのだろう。ところがすぐには僕の連絡先が掴めずに、やむなく彼は父の病室に僕宛ての手紙を残し、その足で真犯人である陽のもとへと向かった。彼はそこで陽に自首を勧め、しかし陽はそれを拒絶した。元々は血の気の多い二人である。彼らは次第にヒートアップし、揉み合いになった。そんな中で土田の右手人差し指の爪が陽の左手の甲を抉った。陽は痛みやら焦燥やらで正気を失い、その場にあった鉄の棒かなにかで土田の頭を殴打した。

 陽はその後、気を失う土田を城金山の山中に運んで絞殺し、土に埋めた。突発的な出来事にしては、それなりに落ち着いた対処ができたと安堵したことだろう。だけど───事態が思わぬ方向に進んでいると気が付いたのは、僕と一緒に土田の失踪のニュースをテレビで初めて見た時だ。ニュースでは、現在行方不明中の土田の財布とスマホが花吉町の公園のゴミ箱から見つかったと報じられていた。しかし、よくよく考えて陽がそんなミスをするはずがない。スマホは破壊し、財布と一緒に土の中に埋めたはずだ。

 つまり、陽とは別の第三者が一度土を掘り起こし、その二つのアイテムを花吉町の公園に移動させたということである。僕が土田の死体を見つけた経緯から考えても、その第三者がマスダであることはまず間違いない。マスダがなぜそんな行動をとったのか、その理由は分かりかねるが、とはいえ別に、そこに深い理由なんてないのだろうという予感もあった。僕に火口のスマホを渡してきた時と同じで、なにもかも彼の気まぐれなのだ。

「そういえば───僕の部屋に届いた、あの便箋。あれと同じ手紙がお前のところにも届いてたんだろ? なんでそれを僕に黙ってた? それに思い返してみると、お前は一貫して、僕が同窓会に出席するのに反対していたな。どうしてだ?」

「そ、それはだから……、これ以上、お前に辛い思いをさせたくなくて……」

「いいや、僕に十二年前の事件を今さらみんなの前で蒸し返されたくなかったからだ。お前にとって、それは都合が悪いから。そして、お前が同窓会に出席したのは、あの手紙の差出人を見つけ出す目的もあった。違うか?」

 同窓会での陽は群がってきた女たちに鼻の下を伸ばす一方で、その視線には常に誰かを射るような鋭さがあった。きっと陽は陽で、あの手紙を寄越してきた不届き者を見つけ出そうと心中穏やかではなかったのだろう。なにせ手紙には十二年前の真相を告発せんとする文言が書き記されていたのだ。その告発で誰よりも不利益を被る陽が神経質になってしまうのも無理はなかった。

「違うっ……!」

「それに、だ。十二年前の一月七日の夜、お前は木崎に呼び出されていた。場所は鶴松町の公園。そう……夕美が殺された、あの公園だ。つまりあの日、お前と夕美は同じ時間、同じ場所にいたってことだ。それでもまだ、自分は事件とは無関係だとシラを切るつもりか?」

「木崎にって……、お前、なんでそれを……」

「晴希が隠し持っていた告白文に書いてあったんだよ。今日、あいつの実家に行って見つけてきた。当時、木崎たちが公園にいたことも、あいつらが月哉を人質に取ってお前を呼び出したことも、そこで夕美が殺されたことも書いてあった。でも、肝心な部分がすっぽりと抜けてるんだ。どういった経緯でお前は夕美を殺したのか。───僕が知りたいのはそこだ」

 晴希の告白文をポケットから引き抜き、土田の手帳のすぐそばに雑に放った。皺くちゃになった一枚の紙が雨に打たれて萎れていくさまは、舞台から退く老役者のような哀愁があった。

 陽は呆然と足元を見下ろしたまま、なにも言い返してこなかった。まさか晴希がこんなものを残していたとは、夢にも思っていなかったのだろう。

「……ま、待ってくれよ、そもそも、俺には夕美を殺す動機がない」

 しばらくしてようやく陽は重たい頭を持ち上げたが、向き合う僕と目が合うとすぐに視線を横に逸らした。肚に後ろめたさを抱えた人間の典型的な挙動である。

「じゃあ動機もなく殺したってことか?」

「だから、俺は夕美を殺してないんだって」

「いや、お前が殺したんだよ。そしてお前はその事実を隠蔽するために、木崎たちと口裏を合わせて月哉に嘘の証言をさせたんだ」

「京太、俺は殺してなんかいない。なぁ京太、信じてくれよ。ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染じゃないか。それに俺たち、親友だろ?」

「そうだよ。お前は僕の親友で、幼馴染だった。それなのに……それなのにお前は、その僕の大切な恋人の命を奪ったんだ。それとも犯人はお得意のグレムゴブリか? そうやってまた話をはぐらかすのか?」

「夕美を殺したのは、ホームレスの稲田だ!」

「……もういいよ。もう嘘はたくさんだ」

「信じてくれ、頼むよ京太……」

「信じるわけないだろ。お前なんてもう、幼馴染でもなければ親友でもない。ただの醜い人殺しだ。人殺しの言うことなんて、誰が信じるか」

「京太……俺は……」

 瞬きをした陽の目から涙が一滴、ポタリと落ちた。なにがあっても決して泣かなかった男の涙を、僕はこの日、初めて見た。

 直後、僕のスマホがブルルルと震えた。取り出して液晶画面を確認すると、見覚えのある番号からの着信だった。

「もしもし」

『あ、もしもし、京太さん、武蔵野です』武蔵野太一の奥さんの声だ。

「はい」

『ごめんなさいね、また突然に。つい先ほど、主人が永眠を致しました。なので、まずは最後に主人に会いにきてくれた貴方にご連絡をと』

「そうですか……」

『それでね、あの……───』

 奥さんはなにかを言いかけたが、その前に僕は通話を切った。雨に濡れた画面を肩で拭きながら、正面の陽を見据えた。

「陽」口元の緩みが抑えられない。「また一人、天罰が下ったよ」

「天罰……」

 陽は、僕のその言葉を弱々と反芻した。

 と、その時だった。

 降りしきる雨を全身で跳ね返しながら、こちらに向かって走ってくる人影が視界の隅にチラリと映った。陽もほとんど同時にそれに気付いたようだった。徐々に近づいてくる人影は、迷いなくその陽を目指して走っていた。血の気のない表情を浮かべて、しかしその目には稲妻のような赤い線を血走らせ、茶味がかった包丁を両手でギュッと握りしめている。

 陽はサッと腰を落として臨戦体勢を取った。───が、すぐになにかを悟ったように体勢を緩め、手にしていた傘をその場にポイと投げ捨てた。まるで、この方が狙いやすいだろ、と人影に的を絞らせるように……。

 しばらく、なにが起きたのか分からなかった。気付けば陽が僕の足元で苦しそうにうずくまっていた。そのまま視線を正面に向けると、少し離れたところに、血のついた包丁を手にした男の姿があった。

「これで……これでよかったんだよね……?」

「晴希……」

「ねぇ、よかったんだよね? 京太……」

「さぁ……、どうだろうな」

 晴希がなぜ陽を包丁で突き刺したのか、正直僕にはよく分からない。ただ、彼もまた十二年前の事件によって人生が歪み、ずっと苦しみ続けていたのだとしたら───、もしかすると陽を殺すことで、過去の残像を振り払えると思ったのかもしれない。なんにせよ、僕にはどうでもいいことだった。

 晴希の意識はもはやあってないようなものだった。一歩、また一歩と後ずさり、いよいよ中洲の広場からも足を踏み外すと、そのまま彼は多くの車両が行き交う環状の車道に身体を投げ出していた。

 叫声のような車のクラクションが鳴り響き、やがてグシャッと生鈍い音が辺りに陰鬱な空振を起こした。人の体がひしゃげる音は、口の中でクッキーを噛み砕く音に似ているのだな、と僕は思った。





 どこからか悲鳴が上がり、急ブレーキとクラクションの音がそれに連鎖した。瞬く間に辺りは騒然となり、その場から恐々と逃げ去る人間と、野次馬根性を燃やして嬉々とカメラを構える人間が二つに分かれた。

「京……太……」

 陽が下から震える右手で僕の足首を掴んできた。

「僕に触るな!」

 掴まれた足を乱暴に振り払うと、陽の右手は力なく離れた。かつての親友に対する同情の念は微塵もない。ただ、たとえば子供の頃に通い詰めた駄菓子屋が、大人になって、いつのまにかガソリンスタンドに変わっていた時のような、ある種の虚しさのようなものは感じた。

「京太……ごめんな……」陽は薄れゆく意識の中で僕を見上げた。すでに彼の涙は雨に混ざって判別がつかなくなっていた。「俺は……、俺は、あの時……、なにが正解なのか、どうすればいいのか……分からなかったんだ……」

「人を二人も殺しておいて、そんな言い訳聞きたくない!」

「そうだよな……、俺はたしかに……、俺が全部、悪いんだ……」

 陽は息も絶え絶えに体を仰向けに翻し、四肢を広げて、大の字になった。それはまるで空から沛然と降り注ぐ雨のすべてを、その一身に受け止めているようでもあった。

 この時、僕はふと、陽が幼稚園の頃に描いた自作の漫画「ヒーロー伝記」の、あるワンシーンを思い出した。

「なぁ陽、お前が描いたヒーロー伝記の最終回で、グレムゴブリがなにに化けて現れたか、覚えているか?」

 仰向けの陽を見下ろし、僕は訊ねた。これは以前、陽の方から僕に投げかけてきた質問だった。

「…………」

 陽はなにも答えない。だが彼が頭の中に思い浮かべたワンシーンは、僕の頭の中にあるワンシーンと同じものだったに違いない。

「グレムゴブリは最後、主人公であるヒーローの姿で現れるんだ」

 胸の動悸が無秩序に激しくなるのを感じた。しかし、目眩はもう感じなかった。頭も痛くないし、吐き気もしない。

「京太……俺は……」

「陽、お前はヒーローなんかじゃなかった。お前は……お前は、ただヒーローに化けただけのグレムゴブリだったんだ!」

「ふふ……、そう、だな……、そうだよな……」

 陽は白くなった表情に儚げな微笑を少し浮かべると、まぶたをわずかに持ち上げたまま、動かなくなった。その黒い瞳から、生気が消えた。

「じゃあな、陽」

 僕は元親友に最後の別れを残してその場をあとにし、騒然とする野次馬たちを乱雑に掻き分け、近くにいたタクシーを拾った。





 市立病院の一室で、来客用のパイプ椅子に腰を下ろした僕は、窓際のベッドに横になる父を見つめた。頬は痩せこけ、頭髪も薄くなり、額に刻まれた深い皺の数だけが、依然として理不尽なまでの彼の威厳を残している。

 別に、父に助けを乞うためにここに来たわけではない。そもそも今まで父に助けを求めて実際に助けてもらったことなど一度もないのだから、父に助けを乞うという発想自体が僕にはないのだ。───だけど、ただ、なんとなく、ここにしかもう自分の居場所はないような、そんな気がした。

「……天気はどうだ」

 眠りかけていた父が目を覚まし、窓を背にして座る僕の方に視線を向けた。僕に訊ねたというより、目の前に現れた人影に条件反射で訊ねたような反応だった。

「今日も雨だよ」

「そうか……残念だ」父は視線を僕から天井に戻し、浅く溜息をついた。「夏場の雨は教室がしけってしまって体に堪える。明日の出勤が憂鬱だな」

 元々は還暦を過ぎるまで長らく教師をしていた父は、癌の発覚と時を同じくして認知症を併発していた。おそらく今も、過去の教師だった頃の記憶と病床の現実が頭の中で混濁してしまっているのだろう。

「大丈夫だよ。もうすぐ降り止む。役目を終えたからね」

「役目ぇ……?」

 悪を洗い流す雨は降る───。驚くべきことに、まさにこの言葉の通りになった。人の皮を被った悪たちは、それこそ道端の側溝に溜まった汚いゴミが雨に洗い流されていくかのように、このたった数日のうちに軒並み無惨な死を遂げた。学生時代から幾度となく弱い者の心を傷つけてきた木崎も、その隣でいつも傍若無人に振る舞っていた土田も、意味もなく夕美をいじめていた火口も、自己保身のために僕を裏切った晴希も、そして、十二年間ずっと僕を騙し続けていた陽も───全員、死んだ。

「それより、ねぇねぇ父さん、聞いてよ」僕は父のベッドに前のめりになった。「夕美を殺した奴らに、やっと天罰が下ったんだよ」

「天罰か……」父は嘲るように鼻で笑うと、枕元に置かれていた一冊の文庫本を手に取り、僕に向けた。「この本は誰のだ?」

「……病院のロビーにあったやつを、父さんが自分で見つけて持ってきたんだよ」

 このあいだと同じ質問。同じ答え。僕は、父への哀れみが口からこぼれてしまわないように天井を仰いだ。青白く光る蛍光灯が切れかかっている。睡魔と戦う子供の微睡のように明滅を繰り返し、そのたびにゴムを弾くような鈍い音が鳴った。

「そうか……、病院の」

「そんなことより、ねぇ、僕の話を聞いてよ」

「なんだよ、うるせぇな」

「あのね、夕美を殺した本当の犯人は陽だったんだ。……いや、陽だけじゃない。木崎に土田に火口に晴希に……。あいつらこそ、僕を今日まで苦しませてきた悪の正体だったんだ。それがみんな、一匹残らず死んだ。どう? 笑っちゃうでしょ?」

「その、夕美ってのは誰だ?」

「僕の大切な人」

「他の奴らは? 友達か?」

「友達?」僕は思わず吹き出して笑った。「僕に友達なんていないよ」

「ふん……、つまらない人生を生きてきたんだな、君は」と、父は冷ややかに言った。

「つまらない? 僕の人生のどこがつまらないの?」

「全部だよ。自分でそう思わないか?」

「思わないね。今の僕の人生は、誰よりも幸福に満ち溢れている」

「そうか……、まぁ、俺にはどうでもいいことだ」父は退屈そうに欠伸をすると、改めて僕の姿を睥睨し、眉をひそめた。「───ところで、君は誰だ?」

「…………え?」

 父の声が意味を持たない音の羅列となって、しばらく頭の中を当てもなく彷徨った。耳ではそれを受容したのに、脳がそれを咀嚼しない。しかしそれもほんの数秒で、ようやくその言葉の意味するところを理解した時、僕の心に芽生えた感情は失望でも悲しみでもなく、ずっと胸に抱えていたものを失くしてしまったような、そんな空虚感だった。

 ふと、隣のチェストに置かれた月めくり式カレンダーが目に入った。八月の空いた白紙のところに、短い文章が走り書きされている。

『人は人から忘れられた時に初めて死ぬ』

 気付けば僕は立ち上がり、腕を伸ばして、衰弱して細くなった父の首を掴んでいた。あと少し、あと少しだけ手に力を込めれば、殺せる。あと少し、あと少し……。思えば僕はこれまでにも、何度も何度も父に対して並々ならぬ殺意を覚えてきた。早く死んでほしい、いつか殺してやりたいと、何度も何度もそう思った。全神経を手のひらに集中させて、持ちうる力のすべてをそこに注げば、僕のその積年の思いはついに成就する。

《殺せ! 殺せ!》

 耳の奥から響き渡る声が、僕を執拗に蠱惑する。殺せばいい。簡単な話だ。難しいことじゃない。殺せば終わる。元はと言えば、この男が悪いんだ。この男さえいなければ僕は、こんな醜くて汚い世界で屈辱にまみれた人生を送ることもなかったはずなのだ。こんな人生になるくらいなら、いっそ生まれてこなければよかった。生まれてきたくなんてなかった。この男のせいで、僕は───。

「───あの……水島さん?」

 と、そこで不意に声をかけられた。ハッとし、腕を引っ込める。口に溜まった粘り気のある唾を飲み込む。息が荒くなっている。声のした方に顔を向けると、病室の入り口のところに若い女性の看護師が立っていた。

「……はい?」

「あの……大丈夫、ですか?」

「……はい」

「そろそろ面会時間、終了ですよ」

「……はい」

「次はぜひ、もっと明るい時間に」

「……いや」僕は顔を伏せたまま、かぶりを振った。

「どうされました?」

「……いえ、なんでもないです」





 その後、僕は自分でも気付かぬうちに地元の鶴松町に帰ってきていた。

 実家に向かうでもなく、どこに向かうでもなく、ひと気のない住宅街の狭い通りをしばらく歩いていると、数メートル先に立つ外灯の足元でなにやら揉み合う二人の人間の姿があった。いや、よく見れば片方が片方を一方的に襲っているところのようだ。一人は若い女で、血まみれになって、その場に力なくへたり込んでいる。もう一人は見るからに不穏な雰囲気の漂う痩身の男。───マスダだった。

 すでに息絶えて動かない女の胸の辺りに、マスダは上から覆い被さるようにして、何度もナイフを突き刺していた。そうしているあいだにも無表情を崩さない彼のその異様な佇まいには、もはや世俗的な殺人の快楽なんてものはなく、ただ天命によって人の命を奪うしかない悪魔の憂鬱を想起させる惰性の感があった。

「───あっ、水島くんだ!」

 マスダはすぐ近くで呆然とする僕に気付くと、嬉しそうに眉を広げて、憂いのある悪魔から無邪気な人間に表情を翻した。

「マスダ……」

「また会ったね」

 マスダは僕に駆け寄りながら、笑顔を向けた。

「あの女は、なんで君に殺されたの……?」

「あの女?」

「いや、だからそこの……───」

 僕は彼の後方を指差しかけて、ギョッとした。今の今までマスダに襲われていたはずの女が、いつのまにか姿を消しているのだ。マスダの痩せこけた体を見ても、女の返り血は見て取れない。幻覚だったのだろうか。まぁ、この際それはどうでもいいか。

「それより、お宝は見つかった?」

「あぁ……、うん、おかげさまでね」少し笑みを取り戻して頷いた。「それに、あのお宝のおかげで、思わぬ幸運も得られたし」

「それってもしかして、烏山陽くんと金子晴希くんが死んだ話?」

「全部お見通しってわけか」

「くく、まぁね」

 あどけない顔をくしゃっと崩すマスダのその表情に、僕は恐怖や畏怖さえも超えて、心の底から感嘆した。このどこまでも掴みどころのない人間の裏側に、彼の本質がある。この男は本当に───ただの人間とは一線を画する、死の化身なのだ。

「一つ聞いてもいい?」

「なに?」

「どうして君は、事件現場にいつも木の枝を置いていくの? 木の枝には、なにか重要な意味があるの?」

「くくく、そんなの、ただの偶然だよ。木の枝なんて、どんな場所にだって落ちている。要するに、人間っていうのは得てして自分の理解したいように物事を理解しようとする生き物なんだっていう、ただそれだけの話だ。そしたら事件が起きるたびに、ここにも木の枝が、ここにも、ほらここにも、なんてね。きっと北野夕美が殺された現場にも、木崎拓郎が殺された現場にも、木の枝は落ちていたんじゃないかな」

「なるほど……」妙に納得のいく回答だった。「あともう一つ」と人差し指を立てる。「今回の事件、一体どこからが君の思惑通りなの?」

「愚問だなぁ。そんなの最初からに決まってるじゃん」

「最初?」

「一ヶ月くらい前かな、偶然、土田侑李くんの姿を見つけたんだ。川沿いの土手道に腰を丸めて座って、なにやら思い詰めた顔をしてた。すぐにピンときたよ。彼はあの時の事件のせいで、良心の呵責に苛まれてるって」

「あの時のって……まさか……」

「そう、北野夕美が死んだ、あの時だよ」

「なるほど……、良心の呵責っていうのは、夕美殺しの濡れ衣を稲田に着せたことか」

「それもあるね」

「それ《も》?」

「とにかく彼はもう十二年前の重荷に耐えられなくなっていた。すべてを警察に洗いざらい話すか、自ら死ぬかの二択に選択を迫られるほどにね」

「そんなの、警察に話せば済むことじゃないか。陽の罪を告発することが、土田にとって自殺を考えるほどの重責になるとは思えないけど」

「それは、土田侑李くんに直接聞いてみないと、彼の本心は誰にも分からないよ。あ、でもそっか。彼、もう死んでるんだっけ」マスダは可笑しそうに笑った。「くくく……、君にも分かるかな。どれだけ澄みきった川でも、たった一本の指で軽く掻き混ぜるだけで、その川はたちまち濁ってしまうものなのさ」

「どういう意味……?」

「さぁ、どういう意味だろうね。とにかく僕は土田侑李くんを見かけたあと、すぐに彼に会いにいったんだ」

「彼……って、まさか」

 と、僕が言いかけた、その時、突然、ズボンに入れていたスマホが再びブルルルと身震いを起こした。取り出してみると、ぼんやりとその場に光を灯す液晶画面には、味気のないデジタル文字で、「烏山月哉」と表示されていた。

「な、なんで……、なんで月哉から電話が……」

 今まさに頭に思い浮かべていた男からの突然の着信。戸惑いながら震える指で通話ボタンをタップし、スマホを耳に押し当てた。ややあって、月哉の声が聞こえた。

「………………もしもし、京太兄ちゃん?」

「……どうした、月哉」

「…………陽兄ちゃんが死んじゃったよ」

「…………ああ、そうだな。残念だったな」

「……くくく、残念、なのかなぁ」

「………………なんだよそれ」

「とにかく、こっちに来てよ、京太兄ちゃん。来てくれたら全部話すよ。十二年前の一月七日に本当はなにがあったのか。じゃあ、待ってるからね」

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