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アルマートイフェル【最終話】





 鶴松町の公園は雨上がりの陰鬱とした臭気のせいもあってか、心なしか空気もぼんやりと霞んでいるように見えた。

 ちょうど今から一週間前が夕美の誕生日だった。入り口に僕が手向けた彼女への献花が、随分と萎れてはいるものの、辛うじてまだそこに残っていた。公園の右手に手狭な砂のグラウンドがあり、左手にいくつかの遊具が点々としている。鉄棒、雲梯、ブランコ、すべり台。入り口から見て、それらの一番手前にそびえ立つ三メートルほどの、小さな城を模したかのような木組みのアスレチックの天板の上に、月哉が胡座をかいて座っていた。

「月哉、僕だよ」

 地上から声をかけるが返事はない。仕方なく僕は備え付けの階段をよじ登り、月哉の隣に腰を下ろした。それでも尚、月哉は僕の方には見向きもせずに、ただひたすら正面の景色を見据えていた。

「事件の話をするためにこの公園に呼び出すなんて、月哉も趣味が悪いな」

 僕が言うと、月哉はようやくそこで重たい口をゆっくりと開いた。

「……みんな死んじゃったね。木崎も土田も火口も金子も、それから陽兄ちゃんも。残ったのは僕と京太兄ちゃんだけだ」

「マスダは違うのか?」

「マスダは……彼は違うよ。彼は特別なんだ」

「月哉はずっとマスダと繋がってたんだろ? てことは、あいつが枝の王で、木崎や火口を殺したってことも知ってるんだよな?」

「くくく……、駄目だよ、京太兄ちゃん。それじゃあ五十点だ」

 月哉が愉快そうに肩を揺らして笑う。どことなくマスダを彷彿とさせるその笑い方に、僕はゾッと背中を凍えさせた。

「五十点……?」

「───十二年前の一月七日、あの日の夜、僕は木崎たちに呼び出された。このアスレチックの柱に縄できつく縛られて、お前は人質なんだって言われた。木崎は冗談半分のつもりだったんだろうけど、彼の手には包丁が握られていた。本物の包丁だよ。あの時は……、まるで戦場の捕虜になったような気分だったなぁ」

 月哉は正面の景色をジッと見つめたまま、淡々と当時のことを話しはじめた。彼のその話によると、僕とのデートの帰り道だった夕美がこの公園にやってきたのは、月哉が木崎たちに拘束されてから数十分後のことだったらしい。公園の前を通りかかった夕美は拘束された月哉に気付くと、躊躇なく中に踏み入り、声を荒げたのだという。

「ちょっとみんな、月哉くんになにしてるの!」

「なんだ、北野か。別に、ただ一緒に遊んでるだけだよ。な、月哉」木崎は現れた夕美にも驚くことなく、平然と笑った。「実は俺たち、大の仲良しなんだ」

「そんなの嘘に決まってる! 今すぐ月哉くんを離してあげて!」

「はぁ、そういうところが嫌いなのよ、私」と、そう言って、わざとらしく溜息を落としてみせたのは、木崎の体にべったりと腕を絡ませた火口だ。「いつも良い子ぶって、私、あなたたちとは違うから、みたいにさ。そういうところだよ、あんたが嫌われるのって」

「まぁまぁ、そう怒るなって」木崎は火口の頭を撫でながらそう言うと、意外にもあっさりと縄をほどき、自由になった月哉の背中をトンと押した。「ほら、行けよ。早くそこにいるママのところに行って、おっぱいを飲ませてもらえ」

 ところが、月哉はようやく解放されたというのに、いつまで経ってもその場から動き出そうとしなかった。いや───動けなかったのだ。今ここで逃げてしまえば、この先どんなひどい仕打ちが待っているか。それを少し想像しただけで足が竦んだ。おそらく木崎もそれを分かって、敢えて月哉の縄をほどいたのだろう。ほら、行けよ。逃げられるもんなら逃げてみろよと、そういうわけだ。

「───月哉!」

 その時、公園の入り口から声が轟いた。月哉の携帯電話で呼び出されていた陽がようやく現場に駆けつけてきたのだ。

「おー、陽。やっと来たか。まぁ落ち着けよ。弟はここにいるぞ。ここにいるけど、そっちには行きたくないってよ」

「月哉、遅れて悪かった。もう大丈夫だから、こっちに来い」

 陽はそう言って腕を差し伸ばすが、月哉は尚も動けずにいる。ほどけた縄よりももっと固いなにかで体をがんじがらめにされているかのようだった。すぐ近くに兄がいるのに、遠い。二人を隔てる距離はほんの十数メートルに過ぎないが、月哉にはその距離の隔たりが、何百メートルにも、何千メートルにも感じられた。

「待て待て。なにが大丈夫なんだよ。弟を助けたかったら、まずはやるべきことがあるんじゃねぇのか」

 木崎が手にした包丁を月哉の顔の前でヒラヒラと踊らせた。月哉という人質がいる以上、優位な立場にあるのは間違いなく木崎の方だった。

「やるべきことって、なんだよ……」

「まずはそうだな……、とりあえず土下座じゃね? 俺に土下座しろ。そして、今までごめんなさいって言うんだ。そこの土に頭を擦りつけて、もう逆らいませんって宣誓するんだ。そしたら許してやるよ」

「…………」

 陽はほんの一瞬、一秒にも満たないわずかな時間で、月哉と木崎を交互に見やった。小さく息を吐き、目を閉じる。迷うまでもなかったのだろう。彼はそのまま腰を落として膝を折り、雨上がりでぬかるむ地面に頭をうずめた。

「俺が悪かった。もうお前には逆らわない。だから頼む、月哉をこっちに返してくれ」

「そんな」と、夕美が慌てて陽に駆け寄った。「陽くんがそんなことする必要ないよ!」

「いいんだよ、これで」

 しかし陽は、そんな彼女を腕で制してたしなめた。

「でも……」

「いいんだって」

「だけど……」

 陽と一緒になって地面に膝をつく夕美のその声には、怒りとも嘆きともつかない感情が滲んでいた。そんな二人の姿を見て、木崎は嬉しそうに笑った。土田も、火口も笑った。顔を俯かせて気まずそうにしているのは、彼らの奥にひっそりと立つ晴希だけだった。

 夜の住宅街、外は彼ら以外、誰も出歩いていない。周りに立ち並ぶ家々も、まるでこの状況をお膳立てするかのように寝静まっている。───と、その時だった。

「───その時、口笛が聞こえてきたんだ」

 月哉が言った。八月の生ぬるい風が、彼の隣に座る僕の背中に嫌な汗を伝わせている。

「口笛って……」

「そう、マスダだよ」

「……月哉は、マスダとは昔から仲が良かったの? 同級生だったんだろ?」

「いや……、実はね」月哉は可笑しそうに笑った。「僕もマスダと同級生だった記憶は全然ないんだ」

「え……、でも、マスダは陽が創ったグレムゴブリのことを知ってた。月哉が教えたんじゃないのか?」

「ううん、僕は教えてないよ。でも、そんなことはどうだっていいんだ。僕はね、京太兄ちゃん、思うんだよ。マスダは僕の同級生であり、京太兄ちゃんや陽兄ちゃんの同級生であり、そして、みんなの同級生でもあるんだって。僕たちが生まれた時から、彼はずっと僕たちのそばにいる。みんなの友達なんだ。だから、グレムゴブリを知っていても不思議じゃない。誰に聞いたわけでもなく、彼はグレムゴブリを知ってたんだよ」

「生まれた時から、か……」

 たしかに、あのマスダという男を形容する時、ありふれた言葉をただそこに当てはめるだけでは、ふさわしくないように思えた。彼はもっと巨大で、それでいてもっと小さく、曖昧で、抽象的な、言うなれば概念のような存在なのだ。

「───ねぇ、京太兄ちゃんは今、どんな気分?」

 月哉が唐突にそんなことを訊ねた。

「そりゃあもちろん、最高の気分に決まってる」

 木崎たちの死はもちろんのこと、なにより僕を悦ばせたのは、事件以来十二年ものあいだくだらない嘘をつき続け、僕の親友を騙っていたあの陽が、その挙げ句に見るも無惨な形で殺されたことであった。ずっと見下していたであろう幼馴染の僕に罵られ、野次馬たちの好奇の目に晒されながら、彼は、これまでの順風満帆な人生では決して味わうことのなかった大きな屈辱の中で死んでいったのだ。

「僕も……、最高の気分だよ」月哉は後ろに腕をくつろがせ、ゆったりと、労働後の一服のような息をついた。「それもこれも、全部マスダのおかげだ」

「それにしても、マスダはどんな風に月哉に近づいてきたの? ひと月前、あいつが実家に来たんでしょ?」

「自己保身に走る人間が右往左往する姿を見たくないかって」

「あぁ……」

 昨日、僕もマスダ本人の口から聞かされた言葉である。そしてその言葉の通り、僕はこの数日間で自己保身に走る人間たちが右往左往する姿をしかと目の当たりにした。絶景とは、まさにあの時のあいつらの惨めな姿のことを言うのだろうと思った。

「あと、十二年前の恨みを晴らす手助けをしてあげるよって」

「恨みを……」

 たしかに月哉は十二年前、木崎たちに縄で縛られた上に包丁で脅され、しかも実の兄の殺人を隠蔽するために嘘の証言までさせられたのだ。彼の積年の恨みというのも、相当のものであったに違いない。

「まず教えてもらったのは、土田の近況だった。ねぇ知ってた? あいつ、いつのまにか教師になってたらしいよ。笑えるよね。あんだけ学生の頃は悪さをしていたくせに、今や立派な先生様に大変身なんて。こっちはずっと部屋に引きこもったままだっていうのに……ほんと、笑えるよ。たしか……、教師として生徒と接するようになって、過去の自分の醜さを初めて痛感したとか言ってたかな。それもあってか、あいつ、十二年前の夕美さんの事件については、かなり後悔していたみたいだよ」

「今さら後悔したって遅いのにな」

 果たして土田は今からでも心からの懺悔をすれば、過去の過ちを清算できると、本気でそう思ったのだろうか。だとすると、それはあまりに短絡的で、自己中心的で、傲慢な考えであるように思えた。教師になったくせに、相変わらず救いようのない馬鹿である。なにがあっても過去は変えられない。どれだけ真摯に謝罪を繰り返そうが、彼らが赦されることは決してない。あっていいはずがないだろう。少なくとも僕は一生、赦さない。

「そう、だから僕もね、見てみたくなったんだ。マスダの言う、自己保身に走る人間たちが右往左往する姿っていうのを。───マスダの提案は至ってシンプルだった。僕はみんなに手紙を出すだけでよかった。あとは全部、マスダがやってくれた」

「それがあの、北野夕美を殺したのは……ってやつか」

「手紙を郵送せずに直接みんなの郵便受けに入れたのは、足がつくのを極力避けるためでもあったし、これから起きる悲劇を予感させる演出でもあった。木崎と火口は東京に住んでいたからやむなく郵送にしたけど、あの二人がそれを警察に相談することはないっていう確信もあった。あの手紙を警察に見せると、十二年前の事件が蒸し返される危険があるからね。これも全部、マスダのアドバイスだよ」

「そうか……」

 感心のあまり息が漏れる。悪の道に知悉したマスダは、人間たちを恐怖に陥れる術を完璧に把握しているのだろう。───いや、悪の道とか知悉とか把握とか、そんな言葉さえ、彼にあてがうとひどく陳腐なものに思えてくる。彼が恐怖を演出するのではなく、おそらく彼自身が根源的な恐怖そのものなのだ。

「僕が手紙を出すと、さっそく土田が動き出した」

 手紙を受け取った土田は、なによりもまず真っ先に月哉のもとを訪れたらしい。月哉に会うと彼は地面に脳天を押し当て、あの日のことは申し訳なかった、今でも後悔していると、心からの謝罪を口にした。どうやら彼の改心は本物ではあったようだ。が、どれだけ謝罪の言葉を言い並べようが、月哉がそれを受け入れることはなかった。当然だと思う。当時あの事件に関わった人間は全員、死ぬまで後悔しなければならない。そもそも赦しを乞うこと自体が誤りなのだ。

───一緒に警察に行こう。

 土田はひとしきり謝罪を繰り返した挙句、最後は月哉に向かって、そんなことを言い出したらしい。なんだよそれ。それを聞いて、僕はたまらず失笑した。どうして今さら再び月哉を苦しめるような真似をするのか。

「それで、月哉はなんて答えたの?」

「僕はなにも悪くない。悪いのは全部お前たちなんだから、警察に行きたければ勝手に一人で行け。そう言って追い返してやったよ。どのみち、土田もマスダに殺してもらう予定だったからね。まぁ結局、そうなる前に陽兄ちゃんに殺されちゃったわけだけど」

「たしかに、土田が警察に行くことで一番損をするのは陽だからな」

 土田が警察に出向いて十二年前の真実を詳らかにすれば、陽の犯した罪、夕美殺しの大罪が白日の下に晒される。そうなれば彼は、今まで築き上げてきたものすべてを一挙に失うことになる。そう考えると、土田の告発が無事実現し、陽が無様に堕ちていく世界線も見てみたかったな、とも一瞬、思った。

「それにしても……陽兄ちゃんもなかなかだよね。土田を殺して、しかもそれを森の中に埋めちゃうんだから」

 月哉が天を見上げて小さく笑った。僕も一緒になって上空を仰ぐが、濁った夜空には一つの星も浮かんでいなかった。

「ああ……、あいつは最低最悪の、グレムゴブリだ」

 ふと、昔のことを思い出した。僕がまだ小学一年生だった年、僕と陽と月哉の三人で一緒に天体観測の真似事をした時、あの時、陽は僕と月哉に対して、たしかこんなことを言ったのではなかったか。

『二人とも、安心しろよ。───俺が絶対に守ってやるからな』

 当時の僕は陽のその言葉を真に受け、心から頼もしく思ったものだが、今にして考えてみると、あの時の陽の発言は結局、彼の優越感から来るものでしかなかったことがよく分かる。なんの才能もなく、父親にも日常的に虐げられ、その挙句に母親を不慮の事故で亡くしてしまった僕と、早くに両親が離婚しているとはいえ、多類の才能に恵まれ、優しい母親と弟に囲まれて育った自分。その歴然たる境遇の差に胡座をかいて安直に言い放った、傲慢な男の傲慢な発言なのだ。

「思い返すと、みんな哀れな奴だったよな。……そう、アルマー・トイフェルだ。木崎も土田も火口も晴希も陽も……、みんな、アルマー・トイフェルだったんだ。死んでくれてなによりだよ」

 アルマー・トイフェル。哀れな奴。トイフェルというのはドイツ語で悪魔の意味。哀れで醜い、悪魔たち。

「くくく、そうだね」月哉は不気味に、また笑った。

「……あれ、でもちょっと待って」と、そこでふと頭に小さな疑問が浮かんだ。「どうして土田は陽よりも先に月哉に会いにいったのかな」

 これまでの月哉の話を聞く限り、そして、土田のスケジュール手帳を見た限り、彼の訪問の最たる目的は月哉への謝罪ではなく、警察への出頭だったはずだ。ならば、まず一番に訪ねるべきは月哉ではなく、事件の真犯人である陽ではないのか。

「くく、京太兄ちゃん、やっぱり分かってないんだ」

「分かってない? どういうこと?」

「さっきも言ったでしょ。京太兄ちゃんの答えは五十点だって。京太兄ちゃんはずっと、勘違いをしてるんだよ」

「か、勘違い……?」

 ぞわぞわと、全身の毛が心臓に向かって波打つような不快感が僕を襲った。

「ほら、あれ見てよ。あそこに僕の家があるのが分かる?」

 月哉が前方に広がる住宅街の景色を指差した。その一郭に、月哉と陽の実家がある。そのすぐ近くにはもちろん、僕の実家もある。

「そりゃあ……、もちろん分かるけど……」

「あそこでね、今、僕のお母さんが死んでるんだ」

「───え?」

「だから、僕の家のリビングで、僕のお母さんが死んでるんだよ。僕が殺したんだ」

「な……、なにをバカな……」

 その言葉の先が続かない。月哉がなにを言っているのか、本当に意味が分からなかった。月哉が聖子さんを殺した? ありえない。だってそんなの、脈略がまるでないじゃないか。

「本当だよ。僕が首を絞めて殺したんだ」

 刹那、緩やかなパーマをピョンピョンと跳ねさせながら、ふくよかな頬を揺らして快活に笑う聖子さんの顔が浮かんだ。そんな彼女が実の息子に扼殺される姿なんて、とてもじゃないが想像できない。

「な、なんで……」

「なんでだろうなぁ。強いて言うなら、なにもかもをリセットしたかったからかな。僕が存在している世界を、すべて無かったことにしたかったんだ」

 その時、ずっと正面を見据えていた月哉が初めて、ゆっくりと首を捻って、僕の方にその顔を向けた。

「───!」

 月哉の表情がぐにゃりと歪んで見えた。見覚えのある表情だった。これは───いつかの夢に出てきた稲田真一だ。あの時、夢の中で僕に刺し殺された稲田が今際の際に見せた、あの歪な笑みが、今まさにこちらを見つめる月哉の表情にそっくりだったのだ。

 驚きと恐怖のあまり、僕は咄嗟に目を閉じていた。しばらくして恐る恐るまぶたを持ち上げると、すでに稲田の亡霊は消え失せ、不気味に笑う月哉がそこにいるだけだった。

 戸惑い、うろたえ、全身を強張らせていると、次の瞬間、今度は左の太ももに突然、激痛が走った。体の内側から肉や細胞や神経が切り断たれていくような、今までに感じたことのない痛み。反射的に視線を落とすと、太ももになにかが刺さっていた。包丁だ。一体どうして包丁が刺さっているのだ。太ももの真上に、包丁の柄を握りしめる手があった。手から手首へ、手首から腕へと導線を辿る。腕から体へ、体から頭へ。月哉だ。月哉がいる。月哉が僕の太ももに包丁を突き刺したのだ。

「夕美さんを殺したのは僕だよ」

 月哉はそう言うと、僕の太ももから包丁を引き抜いた。途端、蓋を失くした傷口から血が噴き出しはじめた。月哉は僕の返り血を浴びながらヨロヨロと立ち上がると、そのままぎこちない身のこなしでアスレチックを降りていった。

 公園沿いの道路を走る月哉の背中が、徐々に小さくなっていく。長年の運動不足で体力も落ちているのだろう、彼のその動きは笑えるくらいに鈍重だ。しかし、その滑稽さがかえって僕を現実と非現実の狭間に迷い込ませた。

 これは現実なのか? それとも夢なのか? 

 頭が混乱した。もうなにがなんだか分からなかった。なんにせよ、とにかく今は月哉のあとを追いかけなければ───。





 月哉は鶴松駅の方を目指して走っていった。僕も必死で彼を追いかけた。足を引きずり、痛みに耐えながら、なかなか全速力とはいかないが、月哉は月哉でしばらく走ると足を止め、膝に手をつき、ハァハァと息を整えてから再び走り出すものだから、僕たちの低レベルのかけっこは付かず離れず、一定の距離を保ってのせめぎ合いが続いた。

 人影のない狭い道路をひた走り、駅舎まであとほんの数十メートルといったところまでやってきた。時刻は二十三時を過ぎた頃だろうか。駅舎に向かって左手側に、線路に架かる跨線橋が見えた。高校一年の時、僕が初めて夕美と言葉を交わした跨線橋。通称、オバケ橋。月哉はそのオバケ橋を、ダンダンと足音を踏み鳴らして昇っていった。

 すると、視界の左隅に月哉が見切れていくのと入れ替わるようにして、前方の駅舎の方からこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。初めはシーツの染みのようにぼんやりとしていた輪郭が、僕との距離が近づくにつれ、次第に鮮明になっていった。先に気がついたのは、彼女の方だった。

「……あれ、水島さん?」

「お、大沢さん……?」少し遅れて、僕もハッとした。「ど、どうしてここに……」

「どうしてって、こっちで友達とご飯食べてたんですよ。今はその帰りです。私の実家、すぐそこなんで。水島さんこそ、こんな時間にここでなにを……───」瞬間、大沢さんが目を剥いた。「水島さん、その怪我……! どうしたんですか!」

「これは……、大丈夫、大したことないから……」

 足の痛みは治るどころか、動くたびに増してはいたが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

「大丈夫なわけないでしょ! 早く止血しないと!」

 大沢さんは腰を屈めて、ためらうことなく僕の傷口に手を当てた。彼女のその手の温もりが、傷口に溜まった乱暴な熱を中和していく。なんとも言えない、心地の良い夢を見ているかのような温もりだった。

「でも、僕、早く行かなきゃ……」

「駄目、行かないで水島さん……、なにがあったのか私には分からないけど、けど、行っちゃ駄目です……」

 大沢さんは足元から僕を見上げて、懇願するように言った。

「行かなきゃ駄目なんだ、僕は、早く……」

「一人で背負わないで、水島さん……、助けてほしいことがあるのなら、私に助けてって言ってください。そしたら私、絶対に助けますから……」

 たしかに、それができたらどれだけいいか。だけど、もう無理なのだ。十二年間、それができずに苦しんできた。今さら彼女に助けを求めるなんて、そんなの無理だ。

「ありがとう、本当にありがとう……。だけど、ごめん、僕は行かなくちゃ駄目なんだ」

「待って……!」

 行こうとする僕を大沢さんは血のついた手で強引に引き留め、肩にかけていたカバンからハンカチを取り出した。かなり年季の入った、白色のハンカチだった。

「……ハンカチ?」

「私の……大切な宝物です。これ、返します。元々は水島さんのものだから」

「僕の……? これが……?」

 たしかにどこかで見たことがあるような気もするが、そもそも大沢さんにハンカチをあげたことなんてあっただろうか。───いや、今はそんなことよりも月哉だ。彼女の背後に目をやると、月哉はまだ跨線橋の階段を昇るのに苦労していた。今ならまだ追いつける。今度こそ大沢さんに別れを告げて、僕は再び足を前に踏み出した。受け取ったハンカチはポケットの中にねじ込んだ。

「待って、行かないで、水島さん……!」

 鼻息を鳴らして跨線橋へと急ぐ僕の耳に、後ろから大沢さんの声が響いた。随分と震えた声だった。泣いているのだろうか。僕なんかのために、彼女は泣いているのか。頼むから泣かないでくれ。もう構わないでくれ。優しくしないでくれ。

「水島さん……!」

 彼女の声が離れていく。僕は後ろを振り返らなかった。空を仰ぐと、雲の切れ間からぼんやりと輝く月が見えた。こうやって空を見上げて、月を見るのはいつぶりだろう。決して鮮明とは言えない月のその光彩に、しかし僕は今までにないくらいの美しさを感じた。やがてそこに強風が吹き荒れ、月は僕の視線から逃れるように、雲の後ろに姿を隠した。





 橋の欄干に体をもたれるようにして、月哉が僕を待ち構えていた。辛うじて明かりのついた駅舎を背にすると、周辺の光が途端に闇夜に飲み込まれ、唐突に宇宙の中へと放り込まれてしまったかのような感覚に陥った。正対する僕たちの不規則な鼓動が、雨上がりの夜の濁った空気を単調に刻んだ。

「ここで全部終わらせよう、京太兄ちゃん」

 僕と夕美の出逢いを知ってか知らずか、月哉は言った。だけどたしかに、すべてはここから始まったのだ。この跨線橋以外に、そのすべてを終わらせられる場所など存在するはずがなかった。

「……本当に、月哉が夕美を殺したのか?」

「くくく、そうだよ。陽兄ちゃんはあの日、僕が夕美さんを殺したという事実を隠蔽するために、僕に嘘の証言をさせて、偽の犯人をでっちあげたんだ」

「そんな……」

 犯人は陽じゃなかった? 陽は夕美を殺してなんかいなかった? いや、そんなはずない。陽は人殺しだ。みんな言ってたじゃないか。陽が全部悪いのだと。だけど、たしかに陽は昔からずっと───。

『二人とも、安心しろよ。───俺が絶対に守ってやるからな』

『夕美を殺したのは、ホームレスの稲田だ!』

 陽が死ぬまで貫き通したこの嘘は、すべて弟の月哉を守るためだったというのか。いや、それだけじゃない。夕美を殺したのは月哉。当時、その事実がそのまま公になれば、僕も正気ではいられなかったはずだ。加害者の幼馴染と被害者の恋人という板挟みに気を狂わせていたかもしれないし、怒りに任せて月哉を殺してしまっていた可能性も十分にある。

 夕美の死後も辛うじて僕が人間としての最低限の理性を保てていたのは、おそらく稲田真一という、自分という円周の外側にいる人間の存在があったからなのだ。人の肉体も単なる外傷は絆創膏で覆い隠すことができるが、体内の炎症となるとそうはいかない。それと同じだ。稲田という外側の存在を恨むことで、僕は十二年前の傷に絆創膏をした。そうやって今日までずっとギリギリの状態で生きてきたのだ。

 もしかすると陽にとって「稲田真一」という犯人のでっちあげは、僕と月哉の両方を守るための唯一の妥協点だったのかもしれない。

『信じてくれ、頼むよ京太───』

 陽の声が、僕の胸に重たくのしかかってくる。

『京太、ごめんな───』

 今にも心臓が押し潰されて、窒息してしまいそうだった。

「大丈夫、京太兄ちゃんが気に病むことはないよ」と、月哉は言った。「陽兄ちゃんが無実の人間を殺人犯に仕立て上げたのは事実なんだから。だからやっぱり、陽兄ちゃんも木崎たちと同じで、死んで然るべき人間だったんだよ」

「なんで……、なんでそんなに……」

 僕が声を詰まらせながらそう言うと、月哉は欄干に肘を置き、遠くを見るような目をして、十二年前の話の続きをしはじめた。

「あの日の夜、僕たちのいた公園に突然、マスダが現れた。その場にいる誰もマスダのことは知らなかった。だけど変な話……、全員が同じような既視感を抱いたんだ。初めて見る顔なのに、初めて会った気がしない。彼は自分をマスダ・アキラだと名乗った。僕たちはみんな、あぁ、マスダ・アキラか、と思った。そんな名前、一度も聞いたことないのに、どこかで聞いたことがあった。その名前を知っていた。本当に不思議な感覚だった」

「マスダは……みんなの友達だから……?」

「そう」月哉は頷いた。「そしてマスダは僕を呼んだ。こっちにおいでって。そしたら、今までずっと固まって動かなかったはずの僕の体が自然と動いた。気付けば僕は陽兄ちゃんや夕美さんの横を通り過ぎて、マスダのそばに立っていた。マスダは僕にこう囁いた。それで木崎拓郎を刺し殺すんだ、大丈夫、簡単だよって。いつのまにか僕の手には、木崎の包丁が握られていた」

「月哉が自分で奪い取ったのか?」

「さぁ、どうだったかな」

 月哉は首を傾げた。彼自身、いつその包丁を手にしたのかは、よく覚えていないらしい。歩きはじめた時に呆然とする木崎から奪い取ったような気もするし、マスダから直接、手渡されたような気もした。

「木崎を……、刺し殺す……、木崎を……」

 この時、包丁を手にした月哉は、ただ陶然と同じ言葉を繰り返すばかりだった。するとマスダは、そんな月哉をさらに焚きつけた。

「深く考えないで。ためらう必要なんてどこにもない。自分の感情に身を委ねれば、君は誰よりも自由になれる」

「ためらう……理由……」

「狂おう。思うがままに。さぁ!」

 マスダが月哉の背中をグイッと押した。すると、月哉の片足が一歩前のめった。その一歩こそが、今後の彼らの行く末を決める運命の一歩となった。

「その場に倒れてしまいそうになった僕は、反射的に体勢を取り戻そうとして、もう片方の足を前に踏み出した。だけど、体のバランスを取ろうとすればするほど、傾いた体勢は崩れていく一方で、よろけながら不器用にスキップを踏むみたいに、僕はあれよあれよと前の方につんのめっていった。───で、その先に陽兄ちゃんがいた」

「陽が……?」

「陽兄ちゃんもマスダの登場に呆然としていて、その上、僕や木崎にも注意を払わなくちゃいけなくて、多分、意識が色んなところに分散していたんだと思う。あの人にしては珍しく、かなり無防備な状態だった」

 背中を押されて数歩目のところで、月哉はいよいよ足をつまずき、体を前傾させた。彼の手の中にある包丁の切っ先が、陽の背中にめがけて一筋の弧を描いた。

 ズンッ……───。

 鋭利な刃が人の皮膚を突き破る音が、十二年の時を超えて、僕の耳にも聞こえたような気がした。当時の月哉と今の僕が重なり合う。包丁を振り下ろしたのは十二年前の月哉であり、十二年後の僕だった。

 人の体に包丁を突き刺すのは、空気の詰まった風船に針を刺す感覚に似ていた。刃先が皮膚に笑窪を作り、ある一定の域を超えた瞬間、パチンッと勢いよく破裂する。そうなったらもう止まらない。破けた風船が二度と元には戻らないのと一緒で、破けた皮膚からは血が溢れ出し、刺された体は力なく地面に崩れ落ちた。

「───でも、倒れたのは陽兄ちゃんじゃなかった。倒れたのは、夕美さんだった」

「なんで……、なんで夕美が……」

「夕美さんが陽兄ちゃんを庇ったんだよ。あまりに突然の出来事すぎて、誰もその場から動き出せずにいたのに、夕美さんだけは違った。あの人は刃の軌道の先に陽兄ちゃんがいることに気が付くと、咄嗟に僕と陽兄ちゃんの間に体を滑り込ませた。きっと本能だったんだと思う。僕の振り下ろした包丁は、夕美さんの背中に突き刺さっていた」

「夕美が……陽を……」

 自らの命の危険を顧みず、誰かを助けようとするなんて、そう簡単にできることじゃない。だけど、夕美ならそうすると思った。彼女はそういう女性なのだ。いつも自分のことは後回しにして、目の前で誰かに助けを求められれば、一目散にその人に駆け寄ってあげられる。優しくて気高い女性なのだ。

「その時になってようやく僕は我に返った」と、月哉はさらに続けた。「自分がしてしまったことの恐ろしさにも気が付いた。取り返しのつかないことをしてしまったと思った。実際、僕は取り返しのつかないことをしてしまったんだ。その時点ですでに夕美さんは死んでた。僕が夕美さんを殺したんだ」

 月哉が夕美を刺した時、その場にいる全員が混乱した。なにが起きたのかすぐには理解できず、理解してからも、どうしたらいいのか分からないでいた。そんな中、誰よりも早く頭を切り替え、次に取るべき行動を考えたのは、やはりと言うべきか、陽だった、らしい。

 マスダや木崎に気を取られるあまり、月哉の動きに反応しきれなかったのは、陽にとっては一生の不覚だったに違いない。もちろん、自分の身代わりにしてしまった夕美に対する罪悪感もあったことだろう。ただ、それ以上に彼を突き動かしたのはきっと、弟を守らなくてはならないという兄としての使命感だったはずだ。

 月哉を殺人犯にするわけにはいかない。であれば、月哉が人を刺したという事実を無かったことにする必要がある。しかし、現に今まさに一人の女性が刺され、命を落とした。夕美はほとんど即死の状態だった。陽はとにかく考えた。どうすればいい。いつものように指先を捏ねながら、持ち前の頭脳をフルに回転させて、思考を巡らせた。───やがて彼は一つの決断に辿り着く。それが、犯人のでっちあげだった。

 この決断が間違っていることくらい、陽自身、百も承知だったとは思う。らしくない馬鹿げた発想だった。ヒーローあるまじき行為だ。だけど、陽も追い詰められていたのだ。弟を救う方法は、それ以外には思いつかなかった。

 犯人を月哉以外の誰かにでっちあげる。問題は、その犯人を誰にするかだ。マスダはどうだろう。元はと言えば、あの男が月哉をけしかけたのが原因なのだ。一番に責任を取るべきはあいつじゃないのか。しかし、陽が公園の入り口に視線を戻した時にはもう、まるで夕美の死と共に空気に蒸発したかのように、マスダの姿はどこにも見えなくなっていた。ならば木崎たちの中から一人を選ぶしかない。いや、さすがにそれには無理があった。自ら進んで犯人になりたがる人間はいないし、無理やり犯人に仕立て上げたとしても、警察の聴取ですぐに真実を打ち明けてしまうだろう。

「悩んだ挙句、陽兄ちゃんは木崎たち全員を嘘に巻き込むことにした」月哉は遠い過去に思いを馳せるように、再び空を仰いだ。「木崎たちにも隠蔽の片棒を担がせてしまえば、それはもう共犯だ。裏切りの可能性は格段に低くなる。陽兄ちゃんはそう考えた」

 近頃、鶴松駅周辺を住処にしているホームレスがいたことを陽は思い出した。そう、稲田真一である。住所不定で、おそらく身寄りのないあの男ならば、アリバイを証言する人間もおそらく出てこない。金に困窮した末の犯行とすれば、それを疑う者もいないだろう。

 そうと決まれば、次にするべきは木崎たちへの説得だ。木崎と陽はすでに推薦での大学進学が内定していたし、晴希も地元の専門学校に進むことが決まっていた。土田と火口は一ヶ月後に大学試験を控える身だった。どちらにせよ、今回の事件が表沙汰になれば、彼らの進路にも少なからず影響が及ぶ。だから陽は、それを利用した。

「将来を棒に振りたくなければ、みんな、今から俺の言う通りにしろ。陽兄ちゃんはそう言って、木崎たちを無理やり説得した。いや、あれはもう脅しだよね。くくく、まぁどっちでもいいか。結果的に陽兄ちゃんの隠蔽工作はうまくいった。十二年間、僕があの手紙を出すまでずっと、あいつらは嘘を守り続けたわけだからね。だけどそれは別に、彼らに類稀なる団結心が

あったからというわけではなくて、ただ単純に、それぞれが自分を守るためだけにやったことだった。誰だって警察には捕まりたくないからね」

「それが……自己保身に走る人間……?」

「そういうこと」月哉が首肯する。「あとは包丁から僕や木崎の指紋を拭き取って、夕美さんの財布と一緒に駅沿いにあるホームレスの住処に隠せばよかった。だけど陽兄ちゃんは、それだけじゃ駄目だと言った。あともう一押し、ホームレスを今回の事件の犯人だとする決定的ななにかが必要だ……と」

 ホームレスを犯人だとする決定的な、なにか。たとえば事件当時、現場から逃げ去っていく稲田の姿を見たという目撃証言が一つでもあれば、事件は稲田の蛮行として片が付くのではないか。少なくとも、警察の疑いの目を稲田というホームレス一人に集中させることができるのではないか。───陽は汗だくの額を手のひらで拭い、やがて決然と光らせた目を、その場にいるうちの一人に向けた。

「……いいか月哉、よく聞け。今から俺が言うことを、そのまま一言一句違わずに警察に話すんだ───」





 肺が浮き上がるような息苦しさを感じた。視界が渦巻いて見える。足元の感覚が鈍り、自分の足が地についているのかどうかさえ分からなくなった。

 正直、今の月哉の話がどこまで本当なのかは分からない。その話を補完する僕の想像がどこまで正確なのかも定かじゃない。ただ、月哉の話は理路整然としていて、そうだと納得せざるをえない不思議な力というのか、切実さのようなものを感じさせた。だからこそ、僕は生きた心地がしなかった。こんな真実を知るために、僕は悪意の蠱惑に身を委ね、親友の死にさえ歓喜したというのか。

「分かってほしいのは」と、月哉が念を押すように言った。「陽兄ちゃんは僕を守るために事件を隠蔽したつもりかもしれないけど、そんなのは所詮、あいつの自己満足でしかないってこと。結局、偽善なんだよ。僕は苦しかった。楽になりたかった。だからずっと、僕を助けた陽兄ちゃんが憎かった。ずっと恨んでた」

「でも……、陽は月哉のことを……」

「僕のことを、なに? 全部陽兄ちゃんが悪いんじゃないか。そもそも、あいつが木崎と喧嘩なんかしてなければ、あんな事件は起きなかったんだ。そうでしょ? 全部あいつが悪いんだよ。なにもかも……あいつのせいなんだ」

「そ、それは違う……!」

 今さら陽を庇ったところで陽が生き返るわけでもなければ、過去を変えられるわけでもない。陽が事件を隠蔽したのは事実だし、一人の人間が無実の罪で裁かれ、そのせいで月哉が今日までずっと苦しみ続けていたのも事実なのだろう。僕だって、陽がしたことのすべてを許すつもりはないし、彼に対する怒りもまだ完全に消えたわけじゃない。ただ───それでも僕は言い返さずにはいられなかった。

「今さらなにを言っても遅いけど……、だけど多分、陽はずっと……、ただずっと……僕と月哉を守ろうとしてくれていただけなんだよ……」

 一瞬、月哉の目に涙が浮かんだ。しかし彼はその涙を乱暴に拭うと、想いを断ち切るように、深く息を吐き出した。

「……もういい、もうやめよう」

「やめるって、なにを……」

「なにもかもだよ」

 月哉は手にしていた包丁をくるりと逆さに持ち替えると、剥き出しの刃を握りしめ、そのまま反対の柄の部分を向き合う僕の左手の中に押し込んだ。

「なにするの、月哉……」

 ほんの数十センチの距離に月哉の顔がある。瞳は拭いきれない涙で潤み、充血して、赤くなっている。

「これでさ、僕を殺してよ、京太兄ちゃん」

「そ、そんなこと、できるわけないだろ……!」

「お願い、京太兄ちゃん、僕を殺して、頼むよ……」

「……月哉、駄目だよ。死ぬなんて、そんなの絶対に駄目だ。僕も陽を見殺しにした。助けられる命を、わざと助けなかった。これも立派な罪だ。だから一緒に警察に行こう。一緒に罪を償おう」

「それじゃ駄目なんだよ……」月哉は首を横に振って、目尻に溜まり続ける涙を左右に散らした。「今さらそんなことをしたって、僕のこの苦しみは消えない。この苦しみから解放されるためには、もう死ぬしかないんだよ……。だから京太兄ちゃん、僕を助けてよ。僕を苦しみから解放させてよ……」

「駄目だ! それでも生きるんだ!」

「これ以上、生きる意味なんて僕にはないよ、京太兄ちゃん」

「生きる意味なんて、そんなのなくたっていい。ただ生きる。それでいいじゃないか」

 自分でも正直、なにを言っているのか分からなかった。ただ、生きている意味なんてものは結局、後付けでもなんでもいいのではないかと思った。ただひたむきに、懸命に今を生きてさえいれば、意味はあとから必ず付いてくる。それでいいのではないか。

《駄目だよ、水島京太くん───》

 どこからともなくマスダの声が聞こえた。もちろん辺りには誰もいない。暗闇の中に僕と月哉がいるだけだ。

《そんなのは綺麗事だ───》

 よくよく耳を澄ませば、その声は僕の頭の中から響いてきているものだった。

「駄目じゃない。綺麗事でもなんでもいい。これでいいんだ。間違っているのはお前だ、マスダ!」

 僕は、自分自身に言い聞かせるように、そう叫んだ。

《烏山月哉が北野夕美を殺したんだよ───》

「それがどうした」

《そいつが、お前の恋人の命を奪ったんだ───》

「うるさい! だからなんだって言うんだ……!」

《早く復讐しろよ。早く殺せよ───》

「……マスダ、なんでもかんでも、お前の思い通りになると思うなよ……」

《…………》

「お前は言ったな。人間は脆い生き物だって。理性と本能の分岐点に立った時、善にも悪にもなるって。だったら僕は……なにがなんでも善になる。悪になんか染まらない。お前になんか負けない……!」

《……ふぅん、じゃあもういいや───》

 横殴りの風が吹き、それ以降、マスダの声は聞こえなくなった。

「さぁ、一緒に帰ろう、月哉」

 僕は月哉に右手を伸ばした。二人で一緒に帰ろう。たとえこの先、罪を償うための苦しい日々が待ち受けていようとも、それでも、僕たちにはまだ生きる価値のある人生が残されている。そう思いたかった。しかし───。

「ありがとう、京太兄ちゃん」

「月哉……」

「でも、もう駄目なんだよ」

「え───」

 月哉は包丁を握る僕の左手を上から両手で掴み取ると、そのまま強引に自分の体に引き寄せた。

 僕にはもはや、どうすることもできなかった。

 思考が止まり、音が消え、息ができない。それなのに、左手の嫌な感覚だけはいつまでも残存している。人の魂をすり潰すような、嫌な感覚。僕は蝋人形のように、その場に呆然と立ち尽くすしかなかった。

 やがて月哉は、静かに、ゆっくりと、膝から地面に崩れ落ちていった。

 彼の心臓から滴り落ちる血液が、ポタ……ポタ……と、足元にできた小さな水溜りに混じって溶けていく。

 その傍らに、どこにでもある一本の木の枝が無造作に転がっていた。

 ポタ…………ポタ…………。

 滴り落ちる血の音が、徐々に間隔を広げていく。

 口笛が聞こえた。シューベルトの魔王だった。

「あぁ、マスダ……」

 月哉が、どこか安堵の表情を浮かべて言った。虚ろに揺れ動く彼の視線は、間違いなく僕の姿を捉えていた。

「な、なに言ってんだよ、僕はマスダじゃないよ!」

「マスダが、来てくれた…………」

 ポタ………………ポタ………………。

「月哉! しっかりしろ! ここにマスダはいない! 僕だ! 京太だ!」

「僕を迎えに来てくれたんだね……」

「月哉、待って! 月哉!」

「あぁ……」

「月哉! 死ぬな月哉!」

 ポタ……………………。

「ごめんね、京太兄ちゃん……」

 …………………………。

 月哉は最後にその一言だけを空気に吐き出し、そのまま自然と眠りに落ちるように目を閉じた。

 その瞬間、僕は背中に、なにかとてつもなく重たい、重力のようなものを感じた。自分の体重がいきなり何倍、何十倍にも膨れ上がったかのようだった。今日までに死んでいった木崎や土田、火口、晴希に陽、そして月哉の魂が、怨念が、苦しみが、一挙に僕の体にのしかかってきたような気がした。

 と、その時だった───。

 古びた跨線橋が突然、金切り声のような叫声をあげた。地面がグラグラと揺らいだ。バキバキ……となにかが急速に壊れていく。とうとう橋の一部が崩壊したのだと気付いた時には、すでにもう僕の体は宙に浮かんでいた。

 一瞬、濁った夜空が視界に映り、その直後に背中に激しい衝撃が走った。線路の上に落下したのだろう。内臓かなにかが破裂したような音がした。痛みはないが、仰向けに倒れたまま体がピクリとも動かない。神経と筋肉が断絶し、骨も砕けてしまっているのかもしれない。とにかく身動きひとつ取れない状態だった。上空に向いた視界の片隅に、壊れたオバケ橋からジッと線路を見下ろす人影があった。

 どことなく、マスダの姿に似ているような気がした。マスダが橋を壊したのだろうか。いや、よく見ればマスダじゃない。女性だ。陽の元恋人。柴崎千歳さん。彼女が僕を橋から突き落としたのか。でも、だとしたら一体どうして。……あぁ、そうか。僕が陽を見殺しにしたからだ。別れたとはいえ、そのあとも陽のあとを尾行するくらいだ。もしかすると彼女はまだ陽のことを本心では愛していたのかもしれない。───しかし、もう一度目を凝らしてみると、そこにいるのは柴崎さんでもなかった。僕だ。僕の中にいる怨讐という名の醜い悪魔が、僕の心から分裂して現れ、僕自身を殺そうとしたのだ。かと思えば次の瞬間にはもう、そこには誰の姿もなくなっていた。真っ暗な夜空がひたすらのっぺりと広がるばかりで、月の明かりも、星の瞬きもない。すべてが闇に包まれている。

 するとそこに、そんな闇夜を切り裂く轟音が響いた。空を見上げたまま黒目を横に倒すと、けたたましい警笛を吹き鳴らしながらこちらに向かって猛然と走ってくる鉄の箱が見えた。鶴松駅には停まらずにそのまま通過する下りの最終電車だ。煌々と光る電車のヘッドライトが、線路の上に力なく横たわる僕の体を焼くように照らした。なんて大きな光なんだろう。光は次第に周囲の色を掻き消していき、やがて目に映るすべてのものを白色に飲み込んだ。

 たまらず双眸を閉じると、まぶたの裏にいつかの夕美の笑顔が浮かんだ。僕は、そこに映る彼女の残像に向かって、ひとりでに話しかけた。

 夕美、どうして僕はこうなってしまったんだろう。十二年前の一月七日、あの日、僕が君の気持ちに少しでも寄り添ってさえいれば、きっとこんなことにはならなかったんだろうね。いつでも君は僕の隣にいてくれたのに、僕は君の隣にいてあげられなかった。全部、僕がいけないんだよね。今日までの悲劇は全部、僕の臆病な心が引き起こしたものなんだ。

 ねぇ、夕美。あともう少しだけ、あとほんの少しだけ、君のような勇気を僕も持てていたなら───。

《京ちゃんはなにも悪くないよ───》

 夕美の声が聞こえた、ような気がした。 

 もしかすると僕はこの十二年間、ずっとこの言葉が聞きたかっただけなのかもしれない。夕美に、許してほしかっただけなのかもしれない。

 閉じていた目を見開いた。眩い光の中を掻き分けるように、一本の手が僕に向かって伸びてきていた。細くて美しい、女性の手。僕はその手を、自らの右手で力強く握り返した。

 電車の警笛が止まった。

 轟音の反動で辺りは静まり返った。

 握ったその手は、優しくて、懐かしくて、そしてなにより、暖かかった。



      ─── 終 ───

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