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アルマートイフェル【第七話】








「もうすぐ夜だってのに、蒸し暑ぃな、おい」

 待ち合わせ場所の鶴松駅で、先に来ていた僕と合流するなり、陽は苛立たしげに眉をしかめた。八月十四日、木曜日。病床の恩師と───今や恩師とさえ思っていないけど、武蔵野先生と再会を果たした、翌日だ。この日も相変わらず朝から雨雲がうろついていて、さらに気温も三十三度ということもあって、いつも以上に湿気が多く、息をするだけで体力を消耗するような、そんな一日だった。

 夕方に仕事を終えた僕は職場からそのまま電車に乗って、この鶴松町に移動した。高校三年のクラスの同窓会に出席するためだ。火口さんから会の案内を受け取った当初は出席するつもりなんて毛頭なかったけれど、昨日のうちに気が変わったのだ。元々出席の予定だった陽に電話を入れて、やっぱり顔を出すことにしたから一緒に行こうと伝えた。

『お前が行ってもいいことないぞ』

 昨晩、陽はメールで何度もそう念を押してきた。僕自身、今さら高校のクラスメイトたちと会ったところで、いいことがないのは分かっていた。ただ、それでも、どうしてもクラスのみんなに訊きたいことがあったのだ。『北野夕美を殺したのは誰だ』と書かれた、あの便箋。あの便箋を出してきたのは一体何者なのか。本当に火口さんと木崎くんのイタズラなのか、それとも他の誰かが、なにか目的があって送ってきたのか。どちらにせよ、あの便箋が送られてきた時期から木崎くんの死や土田くんの失踪など、僕の周りで不可解な事件が次々と起こり出したのだから、冷静に考えて、十二年前の事件を知る当時のクラスメイトの誰かが差出人である可能性が一番高いように思えた。

『行ったら俺は、お前の味方になれないかもしれない』

『味方って?』

『いや、なんでもない。とにかく変な話はするなよ』

『変な話ってなに』

『変な話は、変な話だよ』

『とりあえず、行くだけ行ってみるよ』





「えー、同窓会ですか」

 この日の午前中、仕事の合間にひょんなことから今夜の同窓会の話を大沢さんにしたところ、彼女はなぜか眉間に皺を作って、不服そうな表情を浮かべた。

「なんでそんな嫌そうなの」

「それ、大丈夫なんですか?」

「大丈夫って、なにが?」

「ほら、同窓会って、なんか色々あるって聞くし」

 なんか、色々、聞くし、と大沢さんは曖昧に言葉を濁した。───それ、絶対お前のこと好きだって。なんて、なまじ陽から無責任なことを言われたせいで、この日はいつになく職場の居心地が悪く感じた。

「そんなことより、そういえば大沢さん、明日からお盆休みでしょ。実家には帰るの?」

「はい、今日の夜から。私も今夜は高校の親友と久しぶりに会うんです」

 そういえば大沢さんの実家も僕と同じで鶴松町にあるとのことだった。中学の頃から住んでいたと言っていたから、年齢こそ五つ離れてはいるけれど、中学高校の出身校も僕と同じである可能性が高い。それなのに僕が、今夜の同窓会も鶴松町でやるんだよ、と彼女に言わなかったのは、それを言ってしまうと、なんか、色々、面倒くさい話の流れになりそうだな、と思ったからだ。

「そっか。まぁ、楽しんでね」

「水島さんも。あと、焼肉の約束も忘れないでくださいね」

「あぁ、うん。そうだったね」

「……あの、水島さん?」

 大沢さんが突然、真面目な表情になって声のトーンをひとつ落とした。

「どうした?」

「その……本当に、大丈夫、ですよね?」

「だから大丈夫だって。なにをそんなに心配してるの」

「……いえ、それならいいんですけど……。ただ、なんだか今日の水島さん、ずっと、なにか思い詰めたような顔をしてるから……」





 鶴松駅の線路に架かる跨線橋、通称「オバケ橋」を渡って、城金山の山なりの歩道を五、六分ほど進んだ先、僕たちの母校からもそう遠くない場所に、わりと大きな大衆居酒屋がある。どうやらそこが今回の同窓会の会場とのことだった。

「そういえば、先生の様子はどうだった? 会ってきたんだろ、昨日」

 オバケ橋の階段を気怠そうに昇りながら、陽が訊ねた。具体的なことはなにも話していないが、先生の家に行ってきたことだけは一応、彼にも伝えてはいた。

「うー…ん、元気そうだった、とは言えないかな」

「先生、なにか言ってたか?」

「なにかって?」

「なんか、俺のこととか」

「……気になるの?」

「いや、別にそういうわけじゃないけど」

「なんも言ってなかったよ」

 正直、武蔵野先生のことはもう忘れたかった。昨日のことも、できることなら無かったことにしたいくらいだ。あの人との十二年ぶりの再会で僕が得たものがあるとするなら、それは老齢の男の女々しい言い訳と、「陽が夕美を殺した」などという、考えるだに恐ろしい最悪のシナリオだけだった。陽が夕美殺しの犯人だとする証拠もなければ根拠もない。それなのになぜかそのシナリオには妙な説得力があるような気がして、というか実際にあって、それが余計に僕の気持ちを陰鬱とさせた。

 陽は、本当に夕美を殺したのだろうか。

 古い鉄製の階段を昇りきり、橋の中間まで来たところで、その陽が錆びついた欄干に右手を置いて、うんざりするように溜息をついた。

「相変わらずボロボロだなぁ、このオバケ橋も。いつになったら補強なり修繕なりされるんだろうな」

「多分、一生されないよ、ここは」

 そういえば高校一年の時に、夕美と初めて会話したのも、この橋だった。連日の降ったり止んだりの雨のせいで、雨水と太陽光を吸収した欄干からは鉄のすえた臭いが漂っている。空を仰ぐと、わずかに頬に冷たい水滴を感じた。

「うわっ、今ギシッて鳴った! 危ねぇー」

 陽が欄干に体重を傾け、声を翻した。橋はボロボロなのに、その下に伸びる線路は今でも普通に使われていて、毎日、そこを何本もの電車が行き交っている。

 いつか絶対に事故るよな、と不満を垂らす陽のその横顔をジッと見ていて、僕は不意に、ある想像に駆られた。───この男は、たとえばこの橋から自分が落ちる、誰かに背中を押されて落とされる、なんて想像を、今までの人生で一度でもしたことがあるだろうか。紙切れのようにヒラヒラと、なすすべなく線路の上に落ちていく、そんな哀れな自分の姿を思い浮かべたことがあるだろうか。

 僕は、ある。これまで何度も似たような想像をしてきた。したくてしたわけじゃない。自然と頭の中に起こりうる未来として浮かんでくるのだ。ここから落ちたら楽に死ねるだろうか。自分で落ちる勇気はないから、誰か僕の背中を押してくれないだろうか。母が交通事故で死んだ日、いつにも増して父に虐げられた日、夕美を亡くした日……。あぁもう死にたいと思った瞬間は幾度となくあった。

「───恵まれた人間は、そんなこと考えないでいいから、いい気なもんだよな」

 そんな言葉が、僕の口から無意識のうちに漏れていた。どうしてこんな言葉が口から出てきたのか、自分でも分からなかった。ただ幸いにも、僕のその言葉は隣の陽には聞こえなかったようで、

「ん? なんか言ったか?」

 と、彼は欄干から手を離し、僕の方に向き直った。

「いや、なんでもない」

「……なぁ、京太。覚えてるか?」

「なにを?」

「ヒーロー伝記の最終回だよ。その回でグレムゴブリがなにに化けて現れるか。お前、覚えてるか?」

「覚えてないよ、そんな、架空のモンスターが最後になにに化けたかなんて」

 とは言いつつ、すでに僕の頭の中にはヒーロー伝記の最終回の、とあるワンシーンが浮かんでいた。

「それは違うぞ、京太」と、陽はどこか物憂げに言った。「グレムゴブリは架空のモンスターなんかじゃない。現実の世界でも、誰もがグレムゴブリになりうるんだよ。どんな奴でもキッカケひとつでグレムゴブリになるんだ」

 陽が意味深長な口ぶりでそう言った、その直後───。不意に背中にゾクっと、氷で背筋を撫でられたような悪寒が走った。咄嗟に後ろを振り返る。が、別に変わった様子はなにもない。静かな田舎景色、古びた跨線橋、小さな駅舎……。

「どうした?」と、陽が不審そうに訊ねた。

「……いや、なんでもない」

 背後から、誰かに見られていたような気がした。───視線。数日前、花吉中央駅近くの居酒屋でも感じた視線だ。鋭くて冷たい、睨みつけてくるかのような、あの嫌な視線。

 一体、誰が誰を見てきているんだ。気分が悪い。息が苦しい。まるで僕の周りの酸素だけが突然、薄くなってしまったみたいだ。頭が痛い。───また、目眩がしてきた。





 オバケ橋を越えて、山なりの歩道をしばらく進んだ。高校の頃に嫌というほど歩いた道のりなのに、なんというか、意識が朦朧としているせいか、初めて経験する峻厳な山道を慎重に歩き進めていくような疲労感があった。ほんの少し歩いただけで息が上がる。暑さと湿度のせいで汗もかく。駅から居酒屋まではほんの数分の距離のはずなのに、もう何時間も同じ道を当てもなく歩いているような気がした。

「なんだ京太、お前、相変わらず体力ないな」

 呆れるように笑う陽の額にも、じわりと汗が滲んでいる。僕も陽も今や三十歳。ちょっとした運動で息を上げてしまうのも、まぁ無理はないのかもしれない。

「だって、大人になってから運動なんて、まったくしてこなかったから」

「よく言うよ、体力がないのは昔からだろ」

「まぁ、そうだけど」

 すると、その道中、前方から歩いてきていた男の肩と僕の肩がガツンとぶつかり、疲れているせいもあってか、僕はへなへなと力なくその場に尻餅をついた。

「くくく……、あぁ、ごめんね」

 男は口元に歪な笑みを浮かべながら、僕の腕を掴んで持ち上げた。夏だというのに厚手のパーカーを着ていて、鍔付きのキャップを浅く被っている。特徴的なまでに痩せ細ってはいるが、画質の荒い写真を見ているみたいに、顔の印象は薄い。どこかで見たことがある顔のような気もするし、今初めて見る顔のような気もした。

「いえ……、僕の方こそ、ごめんなさい」

 この時、僕は自分の心臓がぐるんと裏側に捲り上がるような「なにか」を感じた。自分の中で、その瞬間、なにかが変わったような、神経回路のレバーが切り替わったような、そんな感覚だった。なんで僕が謝ってるんだ? ぶつかってきたのはこの男であって僕じゃない。僕が謝る必要なんて、これっぽっちもないじゃないか。あぁ、目が眩む。砂利道を車で無理やり走っているみたいに、視界がグラグラと揺れている。

「いやいや、なんで京太が謝るんだよ」と、陽が僕の内心を代弁してくれた。いつだってそうだ。いつも陽は臆病な僕の代わりに相手に立ち向かってくれる。「ぶつかってきたのは、こいつの方だろ」

「ごめんね、わざとじゃないんだ。ただ、懐かしくて、ついね」

「はぁ? 懐かしいって、お前だれ……───」

 陽の口が言葉の途中で突然、止まった。慄然と目を見開き、ごくりと生唾を飲み込む音が、隣にいる僕の耳にもハッキリと聞こえた。

「ね、烏山陽くんに、水島京太くん」

「え……? な、なんで、なんで僕たちの名前を……? 陽、知ってる人……?」と、僕は陽と男を交互に見やって、訊ねた。

「…………」

 しかし陽は唇を結んで、なにも答えなかった。

「二人だって、僕のことは知ってるはずだよ」

 笑う男が僕に笑みを向けてくる。

「僕たちが……あなたを……?」

 僕は言いながら、ハッとした。記憶が遡行し、数日前の映像が頭の中に浮かんだ。たしかに僕は男を知っていた。父の病院へと向かうバスの車中だ。あの時、僕の隣に腰を下ろして、シューベルトの魔王について教えてくれた、あの不気味な男。曖昧な記憶で実像はハッキリとしないが、あの時のあの男こそ、今目の前にいる、この男ではないか。

「……も、もういいよ。行こうぜ、京太」

 陽が僕の腕を強く掴んでくるが、僕は、まるで地面に足がくっついてしまったかのようにその場から動くことができなかった。───ふと、過去にも今と似たようなことがあった気がした。陽が僕の注意をそれから逸らそうとして、だけど僕はどうしてもそれから視線を逸せなくて……。

 高校二年の、あの夏の日。吸血鬼と呼ばれた男の話を嬉々と語る陽と、それを退屈そうに受け流す僕。そんな僕たちを廊下の窓からニヤニヤと笑って見てきていた、あの少年───。

「あ、あなた、まさかあの時の……」

「いいね、水島京太くん。順調だね」

「じゅ、順調……?」

「烏山陽くんはどう? 僕のこと、思い出したよね?」

 男が今度は陽の方に笑いかけた。先に行こうとしていた陽は肩をビクンと跳ね上げ、立ち止まり、錆びたロボットのようにぎこちなく首を捻って、喉から声を絞り出した。

「……マスダ……アキラ、だろ」

「くくくく……」

 男は正解も不正解も言わずに、ただ嬉しそうにニヤニヤと笑った。

「マスダ? って、あの、このあいだ言ってた、あの?」

 ひと月ほど前、陽の実家にいきなり現れ、弟の月哉となにやら親しげに話し込んでいたという、あのマスダ・アキラ?

「なんで……、なんでいちいち俺たちに絡んでくるんだよ……」

 陽は言葉に嫌悪感をありありと滲ませ、嘆くように言った。

「ちょっと待って陽、陽はこの人のことを知ってるの?」

 たしか陽は先日、聖子さんがマスダ・アキラの名前を口にした時、そんな人は知らないと言っていたじゃないか。いや、だけど思えばあの時の陽は目に見えて───まさに今と同じように、動揺していた。明らかに、知らない人間の反応ではなかった。

「知ってるどころか、僕と烏山陽くんは切っても切れない縁で結ばれているんだ」マスダはそう言うと、再び僕に視線を寄越した。「もちろん水島京太くん、君ともね」

「ぼ、僕とも……?」

 マスダが放つ、その異質で不快な雰囲気に呑み込まれ、僕は今にも胃の中のものをすべて吐き出してしまいそうだった。それと同時に、この男を殴りたい、痛めつけたい、そんな衝動に駆られている自分がいることにも気が付いた。裏返った心臓にドクドクと血が巡っていく。マスダのこの怪異な笑みが、僕の中に眠る抑圧された狂気のようなものを執拗に逆撫でしてきている、そんな気がした。

「───アルマー・トイフェルは見つかった?」

 マスダが一歩歩み寄り、囁きかけるように僕の耳元でそう言った。

 と、その瞬間、脳内にある理性の回線がブチッと途絶えた。気付けば僕は腕を振り上げ、マスダの頬を殴っていた。マスダの体は空のビニール袋が風に吹かれて空に舞うようにヒラヒラと吹き飛んでいき、やがてシャボン玉が弾けるように、パチンと飛沫を上げて無くなった。武器にした拳に痛みはなく、ただ、えも言われぬ快感だけが食道の辺りを蠢いている。

 そこで僕ははたと我に返り、今の一瞬だけ、自分が幻覚を見ていたのだと自覚した。……なんて気色の悪い幻覚だ。現実では目の前でマスダが僕の顔を覗き込み、隣を見れば、陽が顔を真っ青に染め上げ立ち尽くしている。

「なに……今の……」

「くくく、その意気だよ、水島京太くん。あともう少しだ」

「え…………」

「それじゃあ、またね」

 マスダは醜怪に唇を吊り上げ、そう言うと、満足そうにシューベルトの魔王を口で吹き鳴らしながら、呆然とする僕たちのもとを去っていった。





 同窓会は、まるで葬式みたいな雰囲気だった。クラスの中心人物だった木崎くんが死に、さらには土田くんまでもが行方不明になっているのだ。会場の空気が消沈してしまうのも無理はなく、むしろよくこの状況で会を開いたものだと感心さえした。

 居酒屋の大部屋の一つを貸し切っているようで、四人掛けの背の低いテーブルをいくつかそこに並べて、各々が足を崩して座っている。出入り口は前方と後方に襖が一つずつ。僕と陽は後方の襖の目の前のテーブルに並んで腰を下ろした。

 僕たちとは対角線の端に置かれたテーブルに、今日の幹事である火口さんの姿があった。当時の仲間たち数名と一緒のようだが、彼らのテーブルは他のどのテーブルよりも沈鬱としていた。殺された木崎くんは自分たちの元リーダーで、まして火口さんにとっては長年付き合っていた元恋人なのだから、当然といえば当然か。

 意外だったのは、会全体としては鬱々とした雰囲気が漂っているものの、局所的には、それなりに盛り上がっている参加者もいることだった。おそらく高校時代、木崎くんたちとは特別関わりのなかった、もしくは快く思っていなかった人たちなのだろう。彼らは彼らで固まって卓を囲んで、それなりに楽しそうに旧交を温めているのだった。

 すると、別のテーブルでキャッキャと騒いでいた女子二人が、ほろ酔いの様子で、ビールグラスを片手に僕たちのテーブルに移動してきた。目当てはもちろん僕、ではなく、僕の隣にいる陽だ。

「陽くん、久しぶりー。私たちのこと覚えてるー?」

「あー、ごめん、あんまり覚えてない」

 陽がすげなく答える。が、後ろから陽の背中に体をすり寄せる女子二人は、なぜかそれさえも嬉しそうに笑って、頬をぷくっと膨らませた。

「えー、冷たいー」

「そんなこと言わないでよー」

 それにしても……。僕は彼女たちの傍らでひとり呆れた。たとえ交流はなかったにしろ、かつてのクラスメイトがほんの数日前に殺されたというのに、こうやって無邪気に盛り上がれる彼女たちの神経が分からなかった。実際、僕としても木崎くんの死に対する悲しみがあるわけではないが、だからといって特別、胸を弾ませるような話でもないだろう。それなのに恥ずかしげもなく陽の背中に胸の膨らみを押し当てるこの女子たちは、まるで犬のフンの周りを本能で飛び交う汚いハエのようだ。

「陽くんって、新聞社に勤めてるんだよね?」

「まぁ、うん」

 澄ました顔で頷く陽。その目は会場全体を鋭く見渡しているが、対照的に口元はだらしなく緩んでもいる。

「すごーい、エリートじゃーん」

「やっぱり格好良いー」

 興奮した女子二人はいよいよ僕を押し除け、陽の両脇にその艶かしい体を滑り込ませる。彼女たちが放つ香水の強い匂いが、僕の鼻の付け根の辺りをジンジンと刺激した。

「あ、じゃあさじゃあさ、陽くん、今って彼女とかいるの?」

 なにに対しての、じゃあ、なのか。最初からそれが訊きたかったくせに白々しい。蚊帳の外に置かれた僕は心の中で毒づいた。

「いないよ。このあいだ別れたんだ」

「すごい! タイムリー!」

「……あれ、これ」と、そこで女子の片割れが陽の左手の怪我に気が付いた。「その怪我、どうしたの?」

「あぁ、これは……、ちょっと、彼女と喧嘩しちゃって」

 陽は伸びてきた女子の指先をさっと避けるように、苦笑しながら包帯の巻かれた左手を右手で隠した。

「ははは、彼女いないって言ったばっかりじゃーん」

「だから、この喧嘩が原因で別れたんだ」

「なにそれー、嘘っぽーい」

 女子たちの奇声にも似た生ぬるい笑い声が、僕の耳のふちを不愉快に撫で回してくる。苛立ちが沸々と募っていく。なにより僕を苛立たせたのは、女子たちに言い寄られて鼻の下を伸ばす陽のその姿だった。

 成績優秀でスポーツ万能だった陽の周りに群がる女子は、学生の頃から星の数ほどたくさんいた。陽も当時からたしかに女の子好きではあったけど、とはいえ、学業や運動能力といった肩書きに惹かれてキャーキャーと群がってくるような節操のない女子たちのことは心の底から毛嫌いしていた。いつだったか、彼はそんな女子たちのことを、あいつらはグレムゴブリの魔力に取り憑かれた醜い魔女だと言って笑った。魔力の威光に頼って、ハリボテのドレスを身に纏う魔女なのだ、と。

 それなのに、なんだよ……、さっきまであんなにマスダ・アキラに狼狽していたくせに、今の陽は───まるで威光に吸い寄せられた醜い魔女たちに囲まれ、見せかけのハーレムを築いては悦に浸っているグレムゴブリそのものじゃないか。

「ねぇ、ちょっと陽」たまらず僕は声をかけた。「なんなの、なんか変だよ」

「変? なにが」

「なにがって……、陽、自分で気付いてないの?」

「だから、なにがだよ」

「陽の態度だよ。いつもそんなんじゃないだろ、陽は」

 すると、隣の女子の片割れが、そこで初めて僕の方に顔を向け、その無駄に真っ赤な唇にわざとらしい微笑みを浮かべて、言った。

水田・・くんも、ほら、そんな顔してないで、せっかく久しぶりにクラスのみんなに会えたんだから、もっと楽しまなくちゃ」

「…………」

 耳がキンとなった。口が閉じたまま動かない。

「水田くん? 聞いてるの?」

「違うよ、水田じゃなくて、水島だって」

 訂正する陽の声が、まるでプールの中にいるみたいに、ぼわんぼわんと聞こえた。

「あっ、ごめんね、そうそう、水島くんだ!」

「…………」

「ねぇ、水しkゐゞ───」

「…………」

 その瞬間、僕の裏返った胸の内側に、怒りとも悲しみともつかない、ひたすら心地の悪い感情がひらりと芽生えた。別に、名前を間違えられたから拗ねたってわけじゃない。ただ、なにもかもが馬鹿らしく思えた。これ以上、この場にいるのが耐えられなかった。気付けば僕は立ち上がり、逃げるように、会場の外に飛び出していた。





 会場を出て、通路右手の角を曲がったところにちょうど男子トイレがあったので、僕はそこに足をもつれさせながら駆け込み、個室の中に身を隠した。床のタイルに膝をつき、大便器の穴に顔をうずめた。便器に溜まった水が鼻先にヒヤリと触れたが、汚いとか、臭いとか、そんなことはもうなにも考えられなかった。頭がグラグラと揺れている。こんなにも気分が悪いのはどうしてだろう。数日前からの風邪がやはり尾を引いているのか、ここ最近の事件が精神的に響いているのか、あるいは僕自身になにか原因があるのか。胃液がぐるぐると込み上げてくる。口にすえた唾液が溜まる。いっそこのまますべてを吐き出せてしまえたらスッキリするだろうに、なにも吐き出せない。

 しばらく個室で悶えていると、トイレに男が二人、入ってくる音がした。同窓会の参加者のうちの誰かだった。

「火口さん、相変わらず美人だよな」

 二人並んで小便器の前に立ち、片方の男がそう言った。すると、もう片方の男も、スターの転落を楽しむ陰険さとかねてからの羨望をごった煮したような声で言い返した。

「だけど、かなりやつれてなかったか? やっぱ木崎が殺されたのが相当メンタルにきてるのかもな」

「ははは、そりゃそうだ。火口さん、昔から木崎にべったりだったから」

「気持ち悪いくらいにな」

 もしかすると外の二人は当時、木崎くんから「犯人当てゲーム」の犯人に指名された人たちなのかもしれない。と、僕はふと思った。だから彼らはこうやって今回の木崎くんの死と火口さんの憔悴した姿に、隠れて溜飲を下げているのだ。

「意外と火口さんが犯人だったりして」

「痴情のもつれってやつ?」

 二人はガハガハと笑いながら洗面台に場所を移して、さらに話を続けた。

「でも、枝の王の仕業って噂もあるよな」

「あぁ、俺もそれ聞いた。だとしたらさ、枝の王ってのは意外とヒーローなのかもな。ぶっちゃけ木崎が殺されたって聞いて内心スカッとした奴、俺ら以外にもたくさんいるだろ」

 枝の王。数ある都市伝説のうちの一つ。現場に必ず木の枝を一本残して去っていく幻の殺人鬼。ただの妄想甚だしいオカルトだ。

「誰にせよ、犯人には感謝だよな」と、どちらかが言った。「木崎みたいなクズはさ、一度痛い目に遭わなきゃ分からないんだよ。傷つけられる側の気持ちってやつがさ」

「まぁ、分かる前に死んじゃったわけだけど」

「それもそうか! はははは!」

 二人の会話を聞きながら、僕は無意識に小さく舌打ちをしていた。くだらない奴らだと、心の底から思った。当時、木崎くんたちに面と向かって立ち向かう勇気のなかった奴らが、今頃になって何者かに復讐の立て替えをしてもらって喜んでいる。そんなのまるで、離れた場所からしか吠えることのできない負け犬じゃないか。───僕はどうなんだ? 僕はこいつらと違って負け犬ではないとでも言うのか? いいや、違う。分かってる。今の僕は誰よりもみっともなくて、見苦しくて、自分でも死んだ方がマシだと思うくらいに、惨めだ。惨めで、情けなくて、遠吠えをすることさえ怖くてできない、負け犬なんだ。

 途端に僕はこの場にあるものすべてを破壊したくなった。なにもかも壊して、なかったことにしたかった。もう一度舌打ちをして、立ち上がる。個室のドアを荒々しく開けると、バタンッと大きな音がして、蝶番がギィィ……と悲しげに鳴いた。洗面台にいた二人のクラスメイトが、まさか個室に誰かいるなんて思っていなかったのだろう、鏡に映る僕の姿を見て呆然と目を丸くしていた。

 なに見てんだよ。早くその汚い手を洗って、二人で話の続きでもしていればいいだろ。僕の声が自分の耳に聞こえてきたが、実際に口に出して言ったかどうかは判然としない。乱調に跳ねる鼓動を無理やりごまかしながら、トイレをあとにし、廊下を歩いていると、L字になった突き当たりの角を曲がったところで、待ち構えていた誰かに腕を掴まれた。

「───ちょっと待って、水島くん」

 呼び止めてきたのは、火口さんだった。

「……なに、どうしたの」

「話があるの」





「ねぇ、本当に水島くんじゃないの?」

 火口さんは僕を店の外まで連れ出すと、そのまま噛み殺さんばかりの勢いで僕に詰め寄ってきた。サラサラと冷たい雨が降っている。目の前に接近してきた火口さんの目元には青黒いクマが浮かび、唇はヒビ割れ、僕の目がやはり眩んでおかしくなっているのか、数日前に会った時とはまったくの別人のように見えた。

「なんのこと?」

 なんの説明もなしに一方的に責め立ててくる彼女の態度に腹が立つ。彼女のようなタイプの人間はいつもこうだ。自分が分かっているのだから、当然、相手も分かっているだろうと思い上がり、こっち側の事情を一切、考慮しない。だから、望んだ反応をこっちが見せなければ平気で、嘘をつくな、ごまかすな、と非難してくる。

「しらばっくれないでよ!」

 ほら、やっぱりだ。

「しらばっくれてなんてない」

「……じゃあ、どこまで知ってるの?」

 火口さんは鬼のように目を剥いて、質問を変えた。

「だから、君はなんの話をしてるの?」

「手紙よ。この前、私の家に手紙が届いたの。気味の悪い手紙が。てっきり水島くんが送ってきたんだと思っていたけど、陽くんが言うには、君じゃないって」

「陽……? 手紙って、どんな手紙?」嫌な予感がした。

「北野夕美を殺したのは誰だ……って。訳が分からない。私のところ以外にも、拓郎や金子かねこや陽くんの家にも届いたみたいだし……。ねぇ、本当にアレ、水島くんが送ってきたんじゃないの?」

「ちょ、ちょっと待ってよ」嫌な予感をさらに上回るその言葉に、思わず僕は困惑した。「あの手紙、君のところにも届いたの? 陽のところにも? 本当に?」

 僕の部屋の郵便受けに入れられていた、あの便箋。まさかあれと同じものが火口さんにも届いていたなんて、それどころか陽のもとにも届いていたなんて、想像してもみなかった。陽もそんなことは一度も言っていなかったし、第一、木崎と火口が手紙の差出人だと言い切ったのは、陽じゃないか。……陽はやっぱり嘘をついていたんだ。でも、なんでそんな嘘をつく必要がある? ───陽が夕美を殺したから? ……胸にこべりついて離れない最悪のシナリオが、再び頭の中にもたげてくる。

……って、じゃあまさか……」

 火口さんも同様に困惑し、目を強張らせていた。

「僕のところにも同じものが届いたんだよ。内容もまったく同じ」

「ど、どういうこと……? そんなこと、陽くんは言ってなかった」

「だから正直……、あの手紙は君が送ってきたんだと思ってた。君と木崎がイタズラ目的で僕に送ってきたんだって。だから君はこの前、僕のその反応を見るために、わざわざ僕のアパートまでやってきたんだって」

「……た、たしかに」と、火口さんは頷くように唾を飲み込んだ。「たしかに、手紙のことを訊きたくて君に会いにいったのは認める。結局は訊けなかったわけだけど……。君のアパートの住所は、実は、拓郎じゃなくて陽くんに直接教えてもらったの」

「陽に?」

「その……手紙が届いたあと、すぐに私と拓郎と金子と陽くんで、連絡を取り合ったの。それで、もしかすると水島くんが手紙を出したんじゃないかって話になって……」

「待って、そもそも、なんで手紙が届いたあと、君たちはその四人で連絡を取り合ったの? それじゃあまるで、あの手紙の内容と君たちが関係しているみたいじゃないか」

 陽に火口に木崎に晴希はるきだと? 陽はともかく、他の三人は揃いも揃って、いかにも事件に関与していそうなメンバーじゃないか。

「そ、そうじゃないけど、それは……偶然だよ、偶然。とにかく……、あの手紙を出したのは私じゃない!」

 と、そうやって喚くように叫ぶ彼女の唾が頬に当たり、僕は背中に悪寒を感じた。この女の一部が僕に触れたと思うだけで虫唾が走る。───が、その感情が、ある意味で僕の困惑を強引に掻き消してくれもした。

「土田はどうなの? あいつが手紙に関与してるってことはないの?」

 僕のもとにあの便箋が届いたのは、木崎の死の約一週間前。ちょうどその頃、土田は僕の父の病室に僕宛ての手紙を残して失踪した。なにかがあるのだ。木崎の死と土田の失踪と謎の便箋とを結びつける、なにかが。

「分からないよ……、土田とは高校を卒業してからほとんど会ってなかったし」

「木崎は? 陽は?」

「拓郎も多分、土田とは会ってなかったと思う。陽くんも会ってないって言ってた。私たちが四人で連絡を取り合った時には、もう土田とは連絡は取れなくなっていたし……」

「へぇ、木崎も君も、土田とは高校の頃あんなに仲が良かったのに」

 僕がわざと嫌味っぽく言うと、火口は眉を逆立て、語気を強めた。

「そんなの、私たちの勝手でしょ! それともなに、高校の友達と大人になってからも仲良くしなきゃならないって法律でもあるわけ?」

「そういうわけじゃないけど」

 火口のその開き直ったような態度に、僕の嫌悪感はさらに膨らんだ。この女に対する怒りが着々と自分の中に積み上がっていくのが分かった。

「なんで……、なんで今さら……十年以上も前のことを思い出さなきゃいけないの……」

 火口は両手で顔を覆って、とうとうその場に泣き崩れてしまった。泣けばいいと思っているのだろうか。いや、思っているに違いない。可愛い私が涙を見せれば世間は同情し、許してくれると、そう思っているのだ。こいつは今までもそうやって生きてきたのだ。

 こんな女の相手をしていても、自分の心に無駄な負荷が掛かるだけだと思った。今すぐにでも会場に戻りたかったが、その前にふと、ついさっきトイレで耳にしたクラスメイトたちの会話を思い出し、僕は足元の火口を見下ろした。

「そういえばさっき、犯人は枝の王なんじゃないかって噂を、クラスの誰かが話してたよ。木崎拓郎をぐちゃぐちゃに刺し殺したのは、枝の王の仕業なんじゃないかって」

「枝の王……? そんなの、ただの都市伝説でしょ……?」

「さぁね。だけど、もし本当にそうだとしたら枝の王はヒーローだなって、そいつら、嬉しそうにそう言ってた」

「なによそれ、どういうこと」

「木崎が殺されて喜んでる奴は、たくさんいるってことだよ」

「さ、最低……! 私、あんたのこと絶対に許さないから……!」

「それはこっちのセリフだよ」

「ふざけんな……、誰に向かってそんな……。高校の頃は友達もいない、ただの陰キャラだったくせに……!」

「ふふ、たしかにね」思わず笑みが漏れた。「だけど今となっちゃ、友達なんていなくてよかったと思ってるよ。もし僕が君の立場で、木崎と友達だったら、こんな状況、耐えられない。きっと自殺してるだろうね、僕」

「うぅ……」

「逆に教えてよ。どうして君はそうやって平気で生きてられるの?」

「う……うぅ、うわぁぁああ」

 泣きじゃくる火口をその場に残し、僕は急いで会場に戻った。もちろん、席に座り直して楽しい酒を飲むためでも、懐かしいクラスメイトと懐かしい思い出話をするためでもない。僕の目的は、ただ一つだった。





 会場の襖を乱暴に開けると、悲壮と享楽が渾然一体となった大部屋が途端にシンと静まり返り、そこにいる全員の視線が一挙に僕に注がれた。

「……どうした、京太」

 襖の一番近くに座っていた陽が立ち上がろうとして片膝をついた。彼の体にまとわりついていた二人の魔女は、すでに別のテーブルに移動していた。

「みんなに、訊きたいことがある!」僕は声を張り上げた。「手紙! 手紙、みんなのところに手紙、届かなかった? 封筒の中に四つ折りの便箋が入った手紙。差出人不明の、北野夕美を殺したのは誰だって書かれた、手紙。僕のところには届いた。みんなはどう? 手紙、届かなかった?」

 呼吸も置かずに、普段なら絶対に出さない声量を吐き出したせいで、喉が掠れた。自分の口からこんなに大きな声が出るなんて初めて知った。

「お、おい、やめろって京太、お前、なに言ってんだよ……」

 陽が腕を伸ばしてくる。しかし僕は親友のその腕を振り払い、さらに叫んだ。

「やめるわけないだろ! 夕美の死を冒涜するような手紙が届いたんだ! その送り主を突き止めようとしてなにが悪いんだよ!」

「お前の気持ちも分かる。でも……」

「なんだよ、陽! 昔の陽でもこうしただろ! 昔の陽なら、こんなクソみたいな空気、気にしなかっただろ! 僕の気持ちが分かるっていうなら、せめて黙っててよ!」

「お、俺はただ……」

「それともなんだ、この話を蒸し返されたくない理由でもあるのか?」

 陽は、自分にもあの手紙が届いていたことを、僕にずっと黙っていた。そういえば居酒屋で僕が手紙の話をした時、あの時も彼は妙に動揺していた。そうか、なるほど、あの動揺にはこういう理由があったってわけだ。

 やはり、陽は間違いなくなにかを隠している。それも、夕美の死に関する決定的な、なにかをだ。

「な……、本当に、どうしたんだよ京太……」

「僕は、夕美が殺されたあの日の真相が知りたいだけなんだよ!」

 そう、僕は真相が知りたいだけなのだ。夕美を殺した犯人が稲田じゃないのなら、一体誰が夕美を殺したのか。あの日、あの公園で一体なにがあったのか。知ってどうにかしたいというわけじゃない。本当のことが知りたい。ただそれだけなのだ。

 しかし───周りのクラスメイトたちの反応は、寒気がするほどに冷ややかだった。それどころか騒然とする会場からは、ポツポツと次第に怒気の込もった声が立ちはじめた。

「───なにそれ、知らないよ」

「───勝手に一人で盛り上がんな」

「───早く帰れよ」

「───あーあ、せっかくの酒がマズくなった」

 それらの小さな罵声に紛れて、一人だけ明らかに様子のおかしい男がいた。腰を低くして立ち上がり、クラスメイトの陰に隠れてそそくさと会場を出ていこうとする一人の男。手紙が届いたあとに、火口が連絡を取り合ったという三人のうちの一人、金子晴希だ。

「待って、晴希! どこ行くの?」

 僕は前方の襖に手をかける晴希に駆け寄り、その肩を掴んで後ろに引いた。会場の淡いオレンジ色の照明が、ぐらつく晴希の額に滲み上がった脂汗を克明に照らし出していた。

 実を言うと、この金子晴希という男は、幼馴染で親友の陽を除けば、僕が唯一友達と呼んでいた存在だった。お互いに折り紙付きの小心者で、なかなか同級生たちとも打ち解けられない性格だった僕たちは、一年の時に同じクラスになったのを機に意気投合し、二年で別々のクラスに分かれたものの、三年に上がって再び同じクラスになった。陽以外に生まれて初めて同い年の友達ができたのが嬉しくて、何度も陽に自慢をしたし、夕美にも晴希の話をたくさんしたのを覚えている。だけど───あの忌々しいゲームが、そのすべてを台無しにした。すべてをぶち壊した。木崎たちが発案した、あの「犯人当てゲーム」だ。

 僕に初めてゲームの犯人役が回ってきた時、投票が終わって、犯人の正解発表がなされたあと、僕はまず真っ先に晴希に相談をしにいった。そもそも陽はこのゲームには参加していなかったし、晴希はすでに一度、犯人役に指名されていたから、誰よりも親身になって僕の話を聞いてくれると思ったのだ。

 僕に泣きつかれた晴希は右手の拳をグッと握って、「大丈夫だよ、僕がいるから」と言ってくれた。その時の晴希はすごく勇ましく、底なしの不安に襲われていた僕の気持ちも少しは落ち着いたような気がした。───はずだった。だけど、現実は僕に対して、もっと残酷で、もっと冷酷で、そして、無情だった。

 翌朝、いつものように校舎の昇降口に向かうと、周囲を気にしながら僕のスリッパにカッターを刺し込む人影があった。晴希だった。前日に力強く拳を握ったその手で鋭利な刃物を握る晴希は、僕に気付くとハッと表情を硬直させて、違うんだよ、と言い訳をするように弱々と首を振った。

 僕はなにも言わずに、というかなにも言えずに、ただ彼がその場から立ち去ってくれるのをしばらく待った。───想像するに、彼も木崎たちに無理やり命令されて、仕方なくやったことだったのだろう。ターゲットに対する嫌がらせを、敢えてターゲットの友達に実行させる。そうすることで、ターゲットの心の傷は、さらに深くなる。なんとも悪辣な木崎が考えそうなことではあった。

 だから正直、晴希のその行い自体は、どうでもよかったのだ。抗えないことだというのは分かっていたし、僕だって彼の立場だったら同じことをしてしまったに違いない。だから、僕が本当の意味で悲しかったのは、その後、彼が僕を避けるようになったことだった。いや、それだけじゃない。その日以来、晴希は平穏な学生生活を手に入れるため木崎たちに従属し、いじめの一旦を担うことを選択したのだ。

「離せよ! 僕は関係ないだろ!」

 晴希は掴みかかる僕の腕をバタバタと振りほどき、声を荒げた。

「手紙についてなにか知ってるんでしょ? 晴希、頼むから教えてくれよ! 僕たち、友達じゃないか!」

「う、うるさい! もう友達でもなんでもないだろ! いいから離せよ、僕はなにも知らないんだよ!」

「晴希……」

 再び静まり返った会場の至るところから、クラスメイトが隣同士でコソコソと耳打ちし合う声が聞こえた。

「───なんだあいつら」

「───コントでもしてんのか?」

「───てか、あれ誰だっけ」

「───ほら、なぜか陽くんと仲良かった」

「───あぁ、あの地味で目立たない」

「───そういえばいたね、そんな奴」

 なんなんだよ……。まるで僕が悪者にでもなったかのような気分だった。なにも悪いことはしていないのに、みんなが悪者を見るような目で僕を見てきている。一体なんなんだこれは……。悪者はどっちだよ。悪はどっちだよ。

 そういえば、この会場に来る途中で、陽がこんなことを言っていたっけ。

「誰もがグレムゴブリになりうるんだよ。どんな奴でもキッカケひとつでグレムゴブリになるんだ」

 本当に、その通りだと思った。今この会場にいるすべての人間が、僕の目にはグレムゴブリに見えた。醜くて、汚い、悪の権化。

「なぁ、少し落ち着けって、京太」

 再び陽が僕を宥めようと、近付いてきた。もういい。やめてくれ。お前はもう、なにも言わないでくれ。慰めや同情なんて欲しくないし、必要ない。だって僕はなにも悪くないじゃないか。悪いのはみんなの方だ。だからもう、なにも言葉を発しないでくれ。

「どうせ……どうせ陽も、僕が悪いと思ってるんだろ?」

「な、なんだよそれ。別に俺はただ、お前のことを……」

「僕のことを、なんだよ。ふざけんな、全部自分の保身だろ?」

「……京太、お前、多分、疲れてるんだよ。今日はもう帰ろう。な?」

「うるさい! 僕に話しかけるな!」

 僕は陽の体を両手で押し除け、ひとり会場をあとにした。鶴松駅に向かう道中、城金山の坂道を下りながらスマホを取り出し、電話をかけた。自分でも、どうしてこんな行動をしたのか分からない。すべて無意識だった。




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