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アルマートイフェル【第八話】






 視界一面に、満点の星空が映っている。かなり強めの冬風が吹いているようだが、そこに冷たさは感じない。寝そべる僕の右隣に陽がいる。今よりもずっと小さく、あどけない。だけどよく見ればその幼い顔立ちにも今の面影がよく映っていて……。左隣を見れば月哉もいる。月哉に至ってはまだ───小学生にもなっていない頃だろうか。

 どうやらまた過去の記憶を夢に見ているらしい。小学一年の時の記憶で、母を交通事故で亡くしてまだ間もない頃のことだ。

 よく晴れた冬の寒い日、夜の八時か九時ごろだった。それぞれ親の目を盗んで実家を抜け出し、鶴松町の公園に集合した僕たちは、土の上にブルーシートを敷いて、そこに三人川の字になって寝転がり、陽が水筒に淹れてきてくれたホットココアをちびちびと分け合いながら、雲一つない夜空を見上げていた。母を亡くして塞ぎ込む僕を心配した陽が、天体観測をしてみようと提案してくれたのだ。

 星座のことなんてなにも知らない僕だったが、ただ寡黙にキラキラと輝く天上の星たちを見つめているだけで、自分の心が無条件に打ち震えるのが分かった。母のいない悲しさも、これから先、あの恐ろしい父と二人で生きていかなければならない不安も、地面の雑草に張った霜が朝の陽射しに溶かされていくかのように、ほんの少しだけ、少なくとも星を見上げているこの時だけは、いくらか和らいだような気がした。

「京太にいちゃん、ほくとしちせいってどれ?」

 まだ幼稚園も卒園していない月哉が僕に訊ねた。

「さぁ、どれだろう。陽、北斗七星ってどれ?」

 僕が伝言ゲームのように陽に訊ねると、陽は夜空を指差して投げやりに答えた。

「んー、あそこにあるうちのどれかだろ」

「いやいや、それはそうでしょ」

 僕と陽はゲラゲラと笑い、月哉もよく分かっていないようではあったが、僕たちに釣られて楽しそうに笑った。なにがそんなに面白かったのかは僕も正直分からない。だけど僕たちはとにかく笑った。ただただ笑う。それが唯一にして最高の幸せだった。

 やがて僕たちは立ち上がり、帰り支度をしはじめた。ブルーシートを筒状に丸めて、水筒と三人分のカップをバッグに仕舞った。

「二人とも、安心しろよ」と、星空の魅力に少し酔ってしまったのか、唐突に陽がそんなことを言った。

「え?」

「京太も、今はまだ母ちゃんが死んじゃって悲しいと思うけど、俺が絶対にお前を守ってやるからな。月哉もだ。二人とも、俺が絶対に守るからな」

「僕たちを?」

「ああ、そうだ」

「だってさ、月哉。お前の兄ちゃんは頼もしいね」

 この一年前に幼稚園の園舎の影で、月哉が陽を助ける瞬間を僕は目の当たりにしていたから、僕にとってはすでに月哉も十分頼もしい男ではあったのだが、とはいえ実際、この日の陽はいつになく頼もしかったし、いつも以上に格好良く見えた。

 と、その時、遠くの方から口笛が聞こえた。もちろん、このとき実際に口笛が聞こえてきた記憶なんてないが、今見ている夢の中では、たしかに聞こえた。重厚で、どこか蠱惑的な、シューベルトの魔王だった。

「悪い、京太。今の全部、嘘だ」

 公園の出口に向かって歩いていた陽が突然、立ち止まった。僕に向けられた陽のその表情は、当時のものではなく、三十歳になった、今の彼の表情だった。

「え……?」

 急に覚悟を翻した陽に、僕は困惑した。

「俺はお前たちを守れない」

「どういうこと?」

「俺は、お前が思ってるような男にはなれなかった」

「なに、ちょっと待ってよ、陽」

「ごめんな、京太」

 陽の輪郭が夜闇の中に溶けて消えていく。

 待ってよ、陽。僕を守れないって、どういうこと?

 僕が思うような男で、どんな男?

 本当に陽が夕美を殺したの?

 答えてよ、陽。

 陽、陽、陽……───!





 今日は八月の十五日で、今は朝の六時半らしい。スマホのホーム画面に表示されたデジタル文字で、辛うじてそれを認識した。

 気が付くと僕は白いベッドに仰向けになって横たわり、大きな枕に深々と後頭部をうずめていた。いつも使っている自宅のベッドは黒色だから、ここが自分の部屋じゃないことはすぐに分かった。が、ここがどこだかまでは分からない。窓から射し込む朝陽が、涎の垂れた僕の右頬をじんわりと熱くしていた。

 ズズ……ガタンッ……。

 なにかがフローリングの床を擦る音がした。枕に預けていた頭をビクッと持ち上げ、上半身を起こすと、向かって正面、ベッドに伸ばした足の先の向こうに、爽やかなシャンプーの香りを漂わせながら、ドレッサーと向き合い化粧をする女性の背中があった。

「お、大沢さん……?」

「あ、起きた」

 大沢さんは鏡越しに僕に目をやり、ニコッと笑った。彼女の肩の上の辺りに映る僕の目は、まるで蜂に刺されたかのように腫れていた。

「こ、ここ……どこ、どうしたの、なにこれ」

 動揺するあまり舌がうまく回らない。反射して向かってくる大沢さんの視線から逃れるように、僕はあたふたと周囲を見渡した。左を見ればガラス張りになった大きな風呂場。右を見れば、ブラインド付きの大きな窓が、外からの陽光を一身に受け容れている。どんなに昔の記憶を手繰り寄せてもピンとこない、見覚えのない部屋だった。

「やっぱり覚えてないんですね。ま、だろうなとは思ってましたけど」

 狼狽する僕を見て、大沢さんは可笑しそうに、また笑った。

「なんで、大沢さんがいるの……?」

「なんでって、昨日の夜、水島さんが私に電話してきたんですよ」

「電話? 僕が大沢さんに? なんで?」

「さぁ。多分、私が鶴松町の実家に帰ってるって知ってたからじゃないですか? ほら、昨日、仕事の時にそんな話になったでしょ」

「それで、大沢さんに電話を……?」

 やはり、なにも思い出せない。百歩譲って昨日の夜、僕の方から大沢さんに電話をしてしまったとして、それじゃあ一体ここはどこなんだ。どうして僕は知らない部屋で目を覚ましたのだ。ここが僕の部屋じゃないのは間違いない。かといって、大沢さんの部屋のようにも思えない。もちろん、彼女の部屋を訪ねたことなんて一度もないが。

「あ、ここですか? ここはホテルです。私の部屋だと思いました?」

「ホ、ホテル?」僕は思わず声を翻した。「……で、でも、僕は……」

「でも、なんですか?」

 大沢さんは慌てる僕をからかうように、大きな目を悪戯にギュッと細めた。

「それは、その……」

 いつになく彼女から妖艶な雰囲気を感じてしまうのは、彼女から漂う風呂上がりのシャンプーの香りのせいだろうか、あるいはこの部屋にある独特な空気感がそうさせているのか。

「ふふふ、大丈夫ですよ」

 ひとしきり僕の狼狽を楽しむと、大沢さんはフッと息をついて、いつもの、つまり職場の同僚としての大沢さんに表情を戻した。

「大丈夫……?」

「なにもしてませんよ、私たち。だって水島さん、私と合流してすぐ、というか電話の時からずっとでしたけど、赤ちゃんみたいに泣いちゃうんですもん。しかも道のど真ん中で。大泣きする男性を実家に連れていくわけにもいかないし、かと言って、水島さんのご実家もどこにあるのか分からないし、そんなんじゃ電車にも乗れないし……。で、どうしようもないから、仕方なく駅の近くにあったこのホテルに入ったってわけです」

「ごめん……、僕、全然覚えてなくて……」

 視界の端に、子供が一人横になれるくらいの小さなソファがあるのが見えた。その上に、薄手の毛布が丁寧に畳んで置かれている。どうやら大沢さんは、このソファで一晩を明かしたらしい。ホテルに入って早々、僕がベッドを占領してしまったせいで、彼女はその狭いソファに体を縮めて眠るしかなかったのだ。

「あ、大丈夫大丈夫。私、どこでも寝られるタイプなんで」と、僕の慙愧を察した彼女が、冗談めかして言った。

「本当に、ごめん……」

 彼女のその健気さが、余計に僕の自己嫌悪を大きくさせた。

「それより水島さん、寝てるあいだ、ずっと寝言を言ってましたよ。陽、陽って。陽って、もしかしてあの、水島さんの幼馴染だっていう、あの陽さんですか?」

「え、なんで大沢さんが陽のこと知ってるの?」

「だって水島さん、ちょいちょい職場でも陽さんの話をしてるじゃないですか。僕の幼馴染は格好良くて、とか、サッカーがうまくて、とか」

「そうだったっけ……」

 そんな話をした覚えはないが、だけどたしかに陽は僕にとって本当に自慢の幼馴染だったから、無意識のうちに誰かに彼の話をしていても不思議じゃないな、とは思った。

「素敵な幼馴染さんですよね」

「うん……」

「……どうしました?」

「いや、……なんでもないよ」

「そうですか。それならいいですけど」

「…………」

「水島さん?」

「……こんな、僕みたいな人間に、生きている意味なんてあるのかな」

 ふと頭に浮かんだ素朴な疑問を、だけど心の内側には確実にずっとあった永遠の謎を、僕は嘆くように呟いた。母は早くに交通事故でこの世を去り、父の忍三も今や病床に伏してしまって、あとどれくらい生きられるか分からない。恋人の夕美は殺され、幼馴染で親友だった陽は昨日を境に赤の他人になった。なにせ僕が陽にあれだけ露骨に悪態をつくのは生まれて初めてのことだったから、今までのような関係には、もう戻れない。僕たちの関係は完全に破綻したのだ。親も両方いないに等しく、友達も皆無。こんな孤立無援の状態の僕に、果たしてこれ以上、生きている意味なんてあるのだろうか。

 すると、化粧を終えた大沢さんがベッドに腰を下ろして、隣で脱力した僕の右手をそっと握った。

「そんなの、いちいち難しく考えちゃダメですよ。たとえば……、奥さんや旦那さんがいる人は、相手の幸せが生きている意味かもしれないし、子供がいる人は、その子の成長が生きている意味かもしれない。だけどそうじゃなくたって、たとえば、今日の夜ご飯を楽しみにするのだって、起きたあとに歯を磨いて口の中をスッキリさせたいなって思うのだって、十分生きている意味になるんじゃないですか? ていうか、そのくらいで良くないですか? 生きる意味なんて」

「……それ、映画の中に出てくるセリフ?」

 僕が苦笑混じりに訊ねると、大沢さんはおどけるように首を傾け、ニコリと笑った。笑うと彼女の右頬に三日月のような笑窪が出来るのを、僕はこの時、この距離まで近づいて初めて知った。

「ううん、これは私の持論です。でも、良い言葉でしょ?」

「うん……、たしかに良い言葉だ」

「自分の生きている意味なんて、本当のところは、私だって、まだまだなにも分かってないですよ。だけどね、それでも私、毎日あの職場に行くだけで、あぁ生きてて楽しいな、生きてて良かったなって思えるんです。それってかなり素敵なことじゃないですか?」

「そりゃあ、ほら、大沢さんは映画が大好きだから。映画館の仕事なんて、君にとってはまさに天職のようなものでしょ」

「ふふふ、そうじゃないんだなぁ」

 大沢さんはそう言うと、一瞬だけ視線を自分の太ももに落として、すぐにまた僕の方に向けた。僕の右手を握る彼女の手のひらが、ほんの少しだけ汗ばんでいた。

「そうじゃない?」

「私が職場に生きがいを感じているのは、そこに水島さんがいるからですよ」

「え───?」

「私があの映画館で働きたいって思ったのも、水島さんがいたからなんですよ。初めはただ一緒に働きたいっていう気持ちだけだったけれど、だけど一緒に働いているうちに、いつのまにか好きになっていました」

「えっ……と……」

 僕は思わず声を詰まらせた。ドキッと胸が弾む。長らく忘れかけていた、この感覚。

「私、水島さんのことが好きなんです。ずっと」

 予期せぬ彼女からのその告白は、枯れ果てた大地に一滴の雫がしたたるように、本能とも言うべき生物学的な悦びを僕にもたらした。───が、それも結局は、ただの一瞬。水は水でも一滴だ。昂る感情に任せて彼女の服を剥ぎ取る気概も、なにも言わずにギュッと体を抱き寄せる力も、今の僕には残されていなかった。

「……ありがとう、大沢さん、だけど……、ごめん、今の僕には正直、大沢さんの気持ちに応えてあげられる余裕がないんだ。すごく嬉しいけど、けど、無理なんだ。ごめん、本当にごめん」

 この時、ほんの一瞬たりとも、大沢さんと二人で過ごす日々を頭に思い浮かべなかったわけではない。彼女と一緒になれたら、きっと楽しいだろう。だけど───だけど、いつか必ず僕は彼女に夕美の幻影を求めてしまう。そうなるに決まっている。そんな僕に、彼女の想いに応える資格なんてあるわけがなかった。

「……分かってますよ。だから、待ってます。水島さんの気持ちが落ち着くまで、気長に。映画でも見て、ずっと待ってますから」

 大沢さんは僕の右手を静かに離し、立ち上がって、ドレッサーの上の肩掛けカバンを手に取った。

「大沢さん……」

「ほら、水島さんは私と違ってお盆休みじゃないんだから。早く支度しないと、仕事に遅れますよ」





 鶴松駅の改札前で大沢さんとは別れ、ひとり電車に揺られて花吉町に戻った僕は、一度アパートに戻って、仕事着に着替えてから職場に向かった。

 事務所に入り、電気をつけて、タイムカードを切った。時刻は朝の八時十五分。まだ誰もいない映画館にはいつも純度の高い静謐な空気が漂っていて、朝一で出社するたび、現実と非現実の境目に足を踏み入れたような気持ちにさせられる。

 夏用のスーツジャケットを自分のデスクの椅子にかけた僕は、いつも通りの手順で朝九時半の開場に向けた準備に取り掛かった。まず初めに映画館全体のコンピューターを起動させ、レジのお金を用意し、物販の在庫を確認する。じきに映写係とアルバイトの子たちも出勤してきて、一緒に準備の仕上げを済ませにかかる。定時になったところで劇場ロビーの入り口の自動ドアをオンにする。外に出していた「CLOSED」の看板を裏に翻す頃には、すでに開場を待つ客たちが入り口前に短い列を作っている。

 ふうっとひと息ついて空を見上げると、久しぶりに見る夏の眩しい太陽がギラギラと目に焼き付いてきた。目庇をしながら辺りを見渡してみると、通勤のサラリーマンや学校に向かう学生たちが目の前の歩道を忙しなく行き交っている。

「お待たせ致しました、ただいまより開場致します」

 開場のアナウンスを告げると、列になっていた客たちが一斉にロビーの中へと入っていく。僕もそのあとに続いてロビーに戻る。足元にゴミクズが落ちていたので、それを拾ってゴミ箱に捨てた。チケットカウンターの方を一瞥する。アルバイトの子たちが、やってきた客たちに笑顔でチケットを渡している。さっきまで静かだったロビーはいつのまにか、心地の良い雑音で溢れている。

 なんだか───随分と久しぶりにいつもの日常を過ごしているような気がした。まるで昨日までの出来事がすべて夢だったみたいだ。なにもかもが夢の中の出来事で、僕はようやくその夢の中から抜け出すことができたのだ。

 しばらく経って、事務所でパソコン作業をしていると、すぐそばで同じくパソコンをいじっていた同僚の一人が辟易と溜息をついて、大沢さんと入れ替わりでお盆休みから帰ってきたばかりの劇場支配人に声をかけた。

「支配人、今日このあとまた雨だそうです」

「あら〜、傘袋出しておいた方がよさそうだね」

 丸々とした顔をこんがり焼いた支配人が残念そうに眉を八の字にした。どうやらお盆休みは故郷の沖縄に帰っていたらしい。

「俺、出しておきますよ」

「あい、よろしくね〜」

 二人の会話を横耳で聞きながら僕は、ウッ……と前日の残り酒が胃の底から迫り上がってくるような気持ちの悪さを感じた。
 だけど、その原因が昨日の酒ではないというのは自分でも分かっている。そもそも僕は昨日、ほとんど酒は飲んでいないのだから、二日酔いなんかになるはずがないのだ。だから、この不快感の原因はおそらく───。

「そうだ、水島くんも、よかったらアレ食べてね」

 支配人が事務所の隅に置かれた休憩机を指差した。折り畳み式の小さな机の上に、いかにも手作りそうなケーキが果物ナイフと一緒に置かれている。時々、支配人の奥さんがケーキを焼いて、それを支配人が職場に持ってきてくれるのだ。僕自身はあまりそれに手を出すことはないが、アルバイトの子たちには稀にあるご馳走として好評を博しているようだった。

「ありがとうございます。あとでいただきます」

 と、その時、突然、デスクの上のスマホがブルルルと震えた。知らない番号からの着信だった。とてつもなく嫌な予感がする。この着信は間違いなく僕に災いをもたらすことになる。この嫌な予感は、ただの予感というより、もはや確信に近いものがあった。

 つまり、この胃が煮えるような体の不調も、この着信と同じで、その予兆なのだ。このまましばらく待って、スマホのバイブレーションがピタリと止まれば、きっとこれ以上の災難は起きないだろう。少なくとも今日一日だけは穏やかに過ごせるに違いない。出なければいい。それだけで済む話だ。───それなのに、僕は体の内側からゾワゾワと込み上げてくる衝動に駆られて、震える指先で無意識にスマホの応答ボタンをタップしていた。もしかすると、この衝動は僕の厭世的な覚悟から来たものだったのかもしれないと思った。僕はもう、この先の人生の上昇を諦めているのだ。

「……み、水島くん?」

 スマホの向こう側から声が聞こえた。火口の声だった。

「……? なんで君が……」

 僕は声をひそめて応答した。

「はぁ、はぁ、昨日、陽くんから、番号を聞いて……」

 走りながら喋っているのだろうか、息を切らして応える火口の奥からは、なにかから逃げているような、慌ただしい足音が鳴っていた。

「……で? 僕になんの用?」

 僕のことは絶対に許さないんじゃなかったのか。彼女のその声を改めて聞き、僕は、昨日の夜に発火した怒りがまだ自分の中で轟々と燃え盛っていることに気が付いた。

「わ、私は……、はぁ、はぁ、私はなにも、悪くない……! あの日のことは、私のせいじゃない……!」

「あの日……?」

「あの日、起きた、ことは、私のせいじゃ、ないの……!」

「あの日って、夕美の事件の日? ……じゃあやっぱり、君は十二年前の事件についてなにか知ってるんだね?」

 十二年前、鶴松町の公園で夕美を殺害した犯人は、当時駅の近くで暮らしていたホームレスの稲田真一とされた。が、おそらく稲田は真犯人ではない。彼は濡れ衣を着せられたのだ。そして、その事件の真相には、陽、木崎、火口、土田、晴希が大きく関わっている。あるいはそこに月哉も加わることになるだろう。たしかにこれは所詮、陽や火口や晴希の態度、武蔵野先生の言い訳、月哉の不穏な言動等によって生まれた僕個人の勝手な推察ではあるが、今やその可能性は十分にあると言えた。

「も、元はと言えば、……陽くん、そう、陽くんよ! 陽くんが全部悪いの!」

「それはつまり、陽が夕美を殺したってこと?」

「そ、それは違う……! はぁ、はぁ……」ごくりと唾を飲み込む音がした。「こ、殺したのは、あのホームレス! 私たちは、関係ない!」

「そんなの嘘だ!」

 ここが職場であることも忘れて、僕は思わず立ち上がり、声を荒げた。近くで傘袋を取り出していた同僚がビクッとした様子で、怪訝な目をこっちに向けてきている。

「いや……、嘘じゃないけど。本当に雨降るみたいだよ?」

「あ、いや、すみません、そうじゃなくて……」

「なになに、どうしたの」

 支配人も心配そうな目をして、僕を見ている。

「あの、ちょっと一瞬、外します」

 事務所を飛び出し、映画館の裏手、ひと気のない搬入口に移動した。その間も電話の向こうでは火口が必死になって自己弁護と責任転嫁を繰り返していた。

「嘘、じゃない! 信じてよ……!」

「今さら君の言うことなんて信じられるはずがない」

「と、とにかく、私は、私は、悪くないの!」さっきからずっと、火口の声が不規則に跳ねている。「だから、はぁ、はぁ、お願い、助けて……!」

「助けてって、なに、今どこでなにしてるの?」

 なにかから逃げているような慌ただしい足音、火口の逼迫した様子……。今の彼女の状況が普通じゃないのは明らかだった。

「花吉、中央駅の、近く、はぁ、はぁ、今日、東京に帰る予定で、だから、空港行きのバスに乗ろうと思って、駅まで来て、はぁ、そしたら誰かに、後ろを、さっき、それに気付いて、だから今、逃げてる……」

「中央駅の近くのどこ?」

「分からない、ここに来るのは、久しぶりだから……、でも、待って、近くで、工事をしてる音がする……」

 たしかに、火口の声の奥の方からショベルカーなのか、重機らしき物音がうっすらと聞こえてきていた。そういえば中央駅の高架下を抜けたその先に、ここ数年ずっと空き地になっていた場所があったはずだ。最近になって作業着姿の人間をそこで頻繁に見かけるようになり、マンション建設の旨の看板が立てられているのを目にした記憶もある。走っていけば、この映画館からも五分とかからない距離だ。頭の中に浮かべた地図にルートを引き、スマホの時計を確認する。仕事中だが、少し抜けるくらいなら問題ないだろう。

「多分、場所は分かったかも。じゃあ今からそっち向かうから」

 言うまでもないが、僕が火口のもとに足を急がせたのは、人としての正義感や道徳心に突き動かされたからでは決してない。この時の僕の中にあったのは、傲慢で高飛車だったあの女の惨めな姿を、もっと近くで見てやりたいという単純な好奇心、ただそれだけだった。

「早く来て、早く……」

「君を助けたら、本当のことを僕に話してくれるよね?」と、走りながら僕は念を押すように訊ねた。

「わ、分かった、話すから、全部、事件の日のこと、話すから、はぁ、はぁ、だから、だから早く……、急い……───」

 突然、火口の声が途絶えた。彼女のスマホが地面に落ちる音がカランと鳴り、そのすぐあとに何者かの不気味な笑い声が続いた。

「くくく……」

 通話が切れる。ツー……ツー……。鳴り響く乾いた機械の音が、再び僕を深い闇の中へと引きずり込んでいく───。





 駅の高架下をくぐり抜け、工事中の空き地を横目にしながらしばらく狭窄な通りを進んだところに、火口の姿はあった。仰向けの状態で横になり、なにか恐ろしいものを見てしまったかのように目を見開き、血まみれになって、息絶えていた。

 さっきまでは確実に生きていた人間が死んでいるなんて、とても現実とは思えなかった。木崎の死体はブルーシートでそのほとんどが覆われていたし、夕美が殺された現場にも直接は居合わせなかったから、こうも惨たらしい人の死体を目の当たりにするのは、当然だが生まれて初めてのことだった。

 火口のもとに歩み寄り、その姿を真上からジッと見下ろした。人の血はこんなにも赤いのか。人は死んだら、こんな顔をするのか。

「おい、その女、どうしたんだよ……」

 背中から声をかけられ、振り向くと、作業着姿の男が慄然とした面持ちで僕と火口を見てきていた。すぐそこの工事現場で働く人間のうちの一人だろう。

「死んでますね」

「あ、あんたが殺したのか……?」

「まさか。僕も今ここに来たところなんです。近くで怪しい人は見ませんでしたか?」

 訊ねると、男は身震いするように肩を縮めてかぶりを振った。

「いや……、誰も……」

「そうですか」

 ゆっくりと腰を屈めて、より近くから火口の体を観察した。彼女は刃物かなにかで腹部を滅多刺しにされて殺されたようだった。それにしても───かつて誰よりも美しかったこの女を中心にして、渦を描くように広がる鮮血は、凄惨でありながら、それでいて究極的に美しい一つの芸術作品のようでもあった。

 ふと、横たわる火口の首筋辺りのコンクリートに、一本の木の枝が落ちているのに気が付いた。近くの木から落ちてきたのだろうかと顔を上向けると、あれだけ晴れ渡っていたのに、少しずつまた空から雨が降りはじめていた。

 そこに落ちた木の枝を、もう一度よく見た。なによりもまず頭に浮かんできたのは、あの都市伝説に出てくる、あの男。忽然と現れては人を殺し、必ず木の枝を一本、現場に残して去っていくという、あの殺人鬼。その特徴から、世間では「枝の王」と呼ばれ恐れられている、あの……。

 あの伝説の連続猟奇殺人鬼が、火口を殺したというのか? いや、まさかそんなはずはない。だって、枝の王なんて所詮はただの都市伝説。陽が創り出したグレムゴブリと一緒で、この世に実在するはずのない生き物じゃないか。

 いや、でも、だとしたらこの木の枝は───。

 ドクンッ……と心臓が弾んだ。ドクンッ……。また、弾む。血がたぎる。気が昂り、体が熱くなってくる。今までにない異様な興奮だった。と、そこで僕は、はたと気付いた。木崎の死を影で喜ぶクラスメイトに対して醜い奴らだと蔑んでいたはずの僕が、あろうことか火口の死を心の底から喜んでいるのだ。どうして僕は火口の死を喜んでいるのだろう。この女が夕美をいじめていたから? 僕を見下していたから? そんな女のくせに周りからチヤホヤされて良い気になっていたから?

「とりあえず、警察を呼んだ方が……」

 男がスマホを取り出しながら言った。

「そうですね、お願いしま……───」

 と、その時だった。死んでいるはずの火口の眼が鋭く光り、溢れ出た彼女の鮮血がビデオの逆再生のようになって、体の中に逆流しはじめた、ような気がした。

「う、うわぁあああ……!」

 恐怖のあまり僕は地面に尻餅をついて、そのままずりずりと後ずさりした。顎の震えが止まらない。地面のコンクリートで手のひらを擦り剥いてしまったようで、涎の垂れた口元をその手で拭うと、少し血の味がした。

 戦慄する体をなんとか持ち上げ、もう一度、目を凝らした。しかし、すでにそこには息絶えた火口の亡骸がだらりと横たわっているだけで、溢れ出た彼女の鮮血も、その場に美しい芸術を描いたままそこに残っていた。

 なんだったんだ、今のは……。

 息が上がる。心臓が痛い。これ以上ここにはいられない。気付けば僕は作業着姿の男を乱暴に押し除け、その場から逃げ出すように、地面を蹴り上げていた。





 内臓が浮き上がってくるような不快感を向かい風に紛らわせ、来た道をひたすらまっすぐ走った。やがて高架下のトンネルにまで差しかかり、そこでようやく足を止めた。冷たいコンクリートに体を預けて息を整えようとしてみるが、深呼吸を何度繰り返しても心臓の高鳴りは一向に止まず、虚しい吐息がトンネル内を反響するばかりだった。

 雨でしけった生風が、汗ばむ体にまとわりつくように流れていく。膝に手をつき、肩で息をしていると、背後からまた、あの口笛が聞こえた。皮膚を内側から逆撫でするかのような、あのメロディ。シューベルトの魔王。

「水島京太くん」

 名前を呼ばれて、肩をトントンと叩かれた。びくっと振り返ると、すぐ後ろに黒いTシャツ姿の男が一人、立っていた。

「誰……?」

「僕だよ、マスダ・アキラだ」

 マスダ・アキラ。月哉の友達で、なぜか僕や陽のことを知っている謎の男。前回、城金山の歩道で会った時の印象はすでに朧げに霞んでしまっているが、たしかによく見てみると、あの時のあの不気味な男と同じ男であるような気がした。そう、たしかにこんな顔だった。この憎たらしい顔で、あの時も僕を悪戯に挑発してきたのだ。

「マスダ……、ど、どうして君が、ここにいるの……?」

「そんなことより、どうだった? スッとした?」

「なに……、どういうこと……?」

「火口理恵だよ。北野夕美をいじめていたあの女が目の前で死んでいるのを見て、少しは気持ちが晴れたんじゃない?」

 自分の顔がピリピリと引き攣っていくのが分かった。恐怖に心がみるみると支配されていく。いや、単純な恐怖というよりは、むしろ神に対する畏怖に近いかもしれない。それくらい、自分と同じ種の生き物と対峙しているとは思えなかった。

「それじゃあ君が……、火口さんを、殺したの……?」

「くくく……」

 マスダは痩せて落ち窪んだ頬をニヤリと広げて、黄ばんだ歯を剥き出しにしながら、イエスともノーともつかない笑顔を浮かべた。

 その笑顔を目にして僕は、高校二年の、あの夏の日の記憶を再び蘇らせた。廊下の窓から僕と陽に話しかけてきた、あの謎の男子生徒。そういえば、あの日は朝から地元で起きた殺人事件の話題で学校は持ちきりだった。現場に残された一本の木の枝。火口の死体の傍らにも、やはり木の枝が落ちていた。そして今、シューベルトの魔王を吹き鳴らしながら僕の目の前に現れた、この男…………。

 枝の王───。得体の知れない連続猟奇殺人鬼の面影が、今まさに相対しているマスダ・アキラという男の姿と重なった。

「まさか……、君が……枝の王……?」

「くくく、枝の王ねぇ。みんなが勝手にそう呼んでいるだけで、僕は僕だよ。僕は僕で、僕は君で、僕は烏山陽なんだ」

 まるで呪文を唱えるように言い立てる彼のその言葉の意味が、僕にはさっぱり分からなかった。分かるのは彼が間違いなく枝の王であり、連続猟奇殺人鬼であり、火口を殺した犯人だということだけだ。

「木崎も、君が殺したの……?」

 困惑しつつ訊ねると、しかしマスダはやはりどっちつかずの笑顔を見せるばかりで、否定も肯定もしなかった。

「それにしても、すごいと思わない?」

「すごい……?」

「今や至るところにグレムゴブリがウジャウジャだ」

「え……? な、なんで君が、グレムゴブリを……?」

 同級生でもなければ友達でもないこの男が、どうして陽が創った架空のモンスターを知っているのだ。あの夏の日、教室で僕たちがグレムゴブリの話をしていたのを窓の外から聞いていたのだろうか。いや───あの時、マスダが現れたのはもっとあと、陽がウラド三世だかなんだかの話をしはじめた時だったはずだ。十年以上も前のことだから記憶も曖昧模糊としているが、たしかそうだったはずだ。

「教えてもらったんだ」と、マスダは答えた。

 誰に、と訊ねる前に、僕にはその答えが分かったような気がした。───月哉だ。陽の弟で、マスダとは同級生だったという月哉なら、どこかのタイミングでグレムゴブリの存在をマスダに話していてもおかしくはない。実際、ひと月ほど前にマスダは月哉のもとを訪れているのだ。学生の頃から二人は少なからず親交があったのかもしれない。

「北野夕美を殺したのは誰だっていう、あの手紙を出したのも……、まさか君なの?」

「いや、僕はただ、提案をしてあげただけだよ。自己保身に走る人間たちが右往左往する姿を見たくはないか、ってね」

「誰にそんな提案を……」

 誰に提案をし、誰があの手紙を出したのか。思い当たる人物はやはり一人しかいない。今回の一連の騒動は、すべてマスダと月哉が仕掛けたものだったのか……? 

「くくく……」

「君は……、君は、夕美を殺したのが誰なのか知ってるの?」

「まぁね」

 マスダは澄ました顔で、肩をすくめるようにして頷いた。

「殺したのは、稲田じゃないんでしょ?」

「まぁね」

「じゃあ、本当の犯人は……」

 親友の名前を言おうとする僕の声を遮るように、マスダは吊り上げた唇に伸ばした人差し指を押し当てた。

「どんな人間にだって、二面性があるんだよ」

「二面……性……?」

「人間だけじゃない。この世の物事すべてに二面性はある。善性と悪性と言い換えてもいいけど、人間が普段見ている景色っていうのは、そんな二面性の絶妙なバランスの上に成り立っているんだ。くくく、僕にはよく分からないけどさ、水島京太くん。今までずっと信じてきた人間に裏切られるって、どんな気持ちなのかな? 表の顔しか見てこなかった人間の裏の顔を初めて見た時、どんな気持ちになるのかな? さぞかし胸が苦しいんだろうね」

「……き、君は……、君は狂ってる……!」

 僕は唾を飛ばして叫んだ。それでもマスダは驚いた顔ひとつ見せずに、僕の震える肩に左手を置き、諭すように言った。

「うんうん、君の気持ちも分かるよ。でもね、水島京太くん、君ももう充分、僕の目には狂って見えるよ」そして、「───さぁ、笑いなよ、水島京太くん。笑って、もっともっと狂うんだ」

「笑えるわけがないだろ……!」

 もう一度叫ぶと、耳の奥がキンッと鳴った。頭が鉛のように重い。意識がぼんやりと霞んでいく。最近、ずっとこうだ。こいつや、陽や、木崎や、火口たちのせいで、アレルギー反応のように僕の内面の不安定さが時折発作を起こして、表面化する。

「いいかい、水島京太くん。人間っていうのは脆いものでね、理性と本能の分岐点に立たされた時、後ろから誰かに少し背中を押されただけで、簡単にバランスを崩して、善にも悪にもなるんだよ」

「な、なにが言いたいんだ……」

「あっ、そうだっ」マスダはケロッと眉を浮かせた。「これは君に渡しておくよ。あんまり意味はないだろうけど、一応、なるべく早く水に沈めるなり破壊するなりしておいた方がいいかもね」

 そう言ってマスダが僕に手渡してきたのは、一台のスマホだった。

「これは……」

「ほら、火口恵理のスマートフォンだよ。彼女が最後に通話をしたのは君だからね。まぁでも大丈夫だよ。そんなすぐに君のもとには警察は来ない。くくく、早くて明日かなっ、明後日かなっ」

 マスダは歌うようにそう言うと、再びシューベルトの魔王を口笛で吹き鳴らしながら、トンネルの向こうに姿を消していくのであった。





 その後、僕は無意識のうちに自宅アパートに向かって歩いていた。そういえばまだ仕事の最中だったが、今からまた職場に戻る気持ちにはどうしてもなれなかった。早く早退の連絡を入れなければならないのに、スマホを取り出す動作さえもが億劫だ。パラパラと降り注ぐ雨も気にはならなかった。

 アパートに到着し、錆びついた外付けの階段の一段目に足を乗せたところで、「あの」と後ろからまた声をかけられた。今度は誰だと辟易しながら後ろを向くと、すぐ目の前に、知らない女が僕を睨むようにして立っていた。綺麗な顔立ちをしているようだが、見るからに疲れた様子で、その表情は幽霊にでも取り憑かれたかのように青白い。

 あれ……と思った。彼女と面識がないのはおそらく間違いないが、しかし、どこかで見たことがあるような気がした。見たというより、気配を感じたことがある。こちらを睨むように見てくる彼女の視線を、どこかで感じたことがある。───そう、視線だ。僕はハッとした。花吉中央駅近くの居酒屋で、そして、同窓会の会場へと向かう道中で、僕は彼女の鋭い視線をたしかに感じたことがあった。

「あっ……、もしかして、ここ最近ずっと僕のことを尾けていた人……ですか?」

「……はい、まぁ結局はそうなりましたけど」女は露骨に嫌そうな顔をした。「でも、元々は私、陽くんのことが心配で、陽くんのあとを尾けていたんです」

 また陽だ。僕に近寄ってくる女は昔からいつだって陽が目的だった。僕は陽の素晴らしさを引き立てる装飾品で、金魚のフンで、オマケで、踏み台なのだ。昔からずっとそう。僕に対する周囲の評価には、いつも枕詞に陽の名前がついてきた。陽の親友の京太。陽の幼馴染の京太。優秀な陽に比べて、京太には才能がない。いつだって、どこにいたって陽、陽、陽。もう、ウンザリだ。

「なんでまた陽を。もしかして陽のストーカーですか?」

「そんなわけないじゃないですか。私、少し前まで陽くんと付き合ってたんです。もう……別れてますけど……」

 そういえば先日、それこそこの女の視線を初めて感じた時、居酒屋で陽も同じようなことを言っていた。数年前に合コンで知り合った相手がいて、名前はたしか千歳だったか、二年くらい付き合っていたけど、つい一週間前にフラれてしまった、と。

「もしかして……、あなた、千歳さん?」

「はい、柴崎しばさき千歳といいます」

「そうですか……。それで、その陽の元カノさんが僕になんの用ですか?」

「その……、陽くんことでお話があって」

「でしょうね」

 別れた元恋人のあとを尾行していた時点で、この柴崎千歳という女からは普通ではない、それこそストーカー染みた狂気を感じはしたが、同時に、そうまでしなければならない、なにか緊迫感のようなものもひしひしと伝わってきた。

「私たち、別れるまではずっと、陽くんのマンションで半同棲のような状態だったんです。それで、あの日も私、陽くんの部屋で彼の帰りをずっと待ってたんですけど……」

「あの日って?」

「私たちが別れた日……、というか、私が陽くんの部屋を出ていった日です。陽くん、私がいる日は仕事が終わるといつも一直線で家に帰ってくるのに、その日はやけに帰りが遅くて、夜中にようやく帰ってきたと思ったら、その……」

「その、なんですか?」

「その……、明らかに様子が変だったんです。青褪めた顔で、目も虚ろだったし、なにより着ていた服に血がたくさん付いていて、左手には大きな傷もあって……」

 たしかに陽は左手の甲を怪我していた。僕にはグレムゴブリに噛まれたといい、同窓会の女たちには彼女と喧嘩をしたんだと説明していたが、明らかにそれは嘘だと分かったし、本当のところは有耶無耶にされたままだった。

 柴崎はさらに続けた。

「私が『どうしたの?』って何度訊いても、彼、ぼうっとしたまま『あいつもグレムなんとかなんだ』って変なことを繰り返すばっかりで、なにも答えてくれなくて、それで私……、なんだかすごく怖くなっちゃって……」

「それで、部屋を出ていった、と」

 思考の断片が僕の頭の中で、つむじ風に吹かれた枯葉のように飛び交っている。───血まみれの陽。虚ろな目をして、うわ言を繰り返す陽。完璧超人だったあいつからは到底、想像もできない姿ではある。血まみれなのは誰かと争ったからだろうか。誰と? それは分からない。分からないけど、手の甲の傷はきっとその時に負ったものなのだろう。それほどまでに激しい争いだったというわけだ。それほど、とは、どれほどなのか。そのあと相手はどうなった? 相手はどこに消えた?

「とにかく私、陽くんにはちゃんと罪を償ってほしくて……。だから私、彼を説得しようと思って、何度か彼に声をかけるチャンスを窺ってたんです。そしたら最近になって頻繁にあなたに会っているから、陽くん、今度はあなたを殺してしまうんじゃないかって、それがもう心配で心配で……」

 なるほど、これまでの尾行は殺されるかもしれない僕を心配したというわけではなく、僕を殺してしまうかもしれない陽を心配しての行動だったらしい。

「まるで陽がすでに一人、誰かを殺してるような言い方ですね」

「まるでじゃありません。彼は……、陽くんは人を殺しています。間違いないです」

「……それで?」

「え?」

「それで結局、あなたはなにを言いに僕に会いにきたんですか?」

「だから、陽くんは人を殺してて……」

「それだけ?」

「それだけって……」

「まぁいいや。わざわざご親切にありがとうございます。じゃあ、僕はこれで」

 僕はすげなく頭を下げて、再び階段を昇りはじめた。結局、彼女が僕になにを伝えにやってきたのか、よく分からなかった。あなたの身にも危険が迫っているから用心しなさいと警告をしにきたのか、それとも、陽を説得して彼を警察に出頭させてくださいと頼みにきたのか。どちらにせよ、余計なお世話だと思った。陽が僕を殺す気なら、そうすればいい。警察に出頭するもしないも彼の自由だ。それにこの先、仮に陽が僕以外の誰かを殺すつもりであっても、そんなの僕には関係のない話だ。どうでもいいし、知ったこっちゃない。他人同士の殺し合いなんて興味はないし、大体、そもそも人を殺すような奴にロクな人間はいないのだ。そんな奴らはみんな───。

《そんな奴らはみんな、死ねばいいんだ───》

 この時、初めて僕の気持ちと、耳の奥に響く謎の声がシンクロした。

「陽は、本当に人殺しなの?」

 階段を昇りながら、僕は訊ねた。声は答えた。

《あの女も言っていただろう。その通り、陽は人殺しだ───》




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