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【自由の刑】自由と責任について

私は「自由」と聞くと、とてもワクワクするし、いい言葉だと感じます。私の学校ではみんながルールと自由のはざまで様々なことを考えています。教師も生徒も「自由」をどう使いこなすのか、日々考えています。この記事は、「自由の刑」という哲学の中ででてくる言葉を書いていこうと思います。

学校の中の不自由

日本の学校の中には、よくわからないルール(不自由)が存在します。そして、そのよくわからないルールはたびたび議論の的となっています。例えば、「髪を染めてはいけない」、「生まれつき茶髪の人は黒髪証明書を提出しなくてはいけない」、「ケータイを持ち込んではいけない」、「全員部活に所属しなくてはいけない」、「高校生になるまでとなりの市で遊んではいけない」……

これらは非常に典型的なので最近は改善されつつあると思います。しかし、このように不条理なルールを筆頭に、細かい制限が学校の中には存在します。

私たちは、「小学校」→「中学校」→「高校」→「大学」→「大人」となるにつれ、どんどん自由を獲得してきたように思えます。そして、多くの人が「自由」が増えることはいいことだと考えていますし、自由を欲しがります。

そもそも人間は自由な存在で、何をやるにしてもなんでも自分で決めていいのです。


人間は自由の刑に処されている

サルトル(1905-1950)は、自由についてこのように言ったそうです。

「自由」とは、何が正しいのかわからないのに、「好きにしていい」と放り出されてしまった不安定な状態のことである

私も大人になるにつれ体験的にわかってきましたが、「自由」というのはかなり難しいです。

「さあ、あなたは自由です!」と言われたとき、「じゃあ、何しようかな…」と止まってしまう、そんな感覚があります。

自由なのだから、自分でなんでも選択できます。やりたいことをやればいいのです。しかし同時に、10年後、20年後のあなたの未来がどうなるのかわかりません。自由な選択の中で生きて行っていいですが、その結果も自分自身の責任であって、決して誰かのせいにはできません。

未来、自分がどうなるのかは考えなくてはいけません。しかし、どの選択肢をとっても未来なんてわかるはずもありません。
つまり、「さあ、あなたは自由です!」と言われることは、正しい選択肢なんて誰もわからないのに「自由に選んでいいよ、どれが正しいかなんてわかんないけどね」と言われているのと同じことなのです。

自由とは、何が正しいのかわからないのに「好きにしろ」と放り出されてしまった不安定な状態である。
正しい道がどれかわからないのだから、自分で決断してどれかを選ぶしかない。
何を選ぼうと自由。ただし、10年後、20年後の未来も自分の選択なのだから自分で責任をもて。


自由というのはとてもかっこいい響きですが、サルトルの言う通り、非常に不安定で悩ましいものだと私も思います。

だったら自分たちの手で社会を変えていこうよ

サルトルは、「自由の刑」を論じただけで終わったわけではありません。
彼は、自由ってこんなものだから、だったら世の中がよりよくなるような道を選ぼう、人類を理想の社会に向かうように歴史を動かしていこう、と説きました。

「どうせ正しい道なんてわかんないんだから。」とあきらめムードで過ごすのではなく、分かんないんだけど、でも一生懸命チャレンジしていこうよ、という雰囲気です。この熱意ある言説は若者を中心に広まったそうです。

その結果、いわゆる「学生運動」のようなものがブームとなりました。大勢の若者が熱気とともに社会に、政治に異議申し立てる行動です。
ある種の暴動、デモだと私は考えています。

細かい流れ、当時の時代などはわかりませんし、話としてはギャップがありますが、自由という不安定の中で、一生懸命選んだはずの道が暴動というカオス状態に続いていたという構造だと思います。この構造は非常に興味深いです。


学校の中で:「不自由」か「自由の刑」か

「不自由」というと響きが悪いのですが、よく考えると行動を制限されていた若いころも、その制限の中で楽しんでいたように思います。

部活も厳しかったですし、勉強も大変でした。学校の中では、「授業中は静かに」、「部活には絶対遅刻してはいけない」というようなある種のバイアスの中で生活していました。そして部活に遅刻したら、ひどく怒られるのです。人間は誰にも自由である、と考えると「遅刻して何がわるいか。時間の使い方はおれの自由だ」といえるわけですが、当時はそんなことも考えず、「遅刻したら怒られる。いやだ!」とだけ考えたものです。
そもそも遅刻したら怒られてしまうのだから、「遅刻して何がわるいか」なんて言い出したらもっと怒られます。そして、そんなことを言っても「遅刻しても怒られなくなる」可能性は低そうですから、あまりそういうことは考えない方がいいのだろうと思います。

このような制限、不自由の中で生きるというのは、見えているレールを進むということなのでとても楽だと思います。そして、ルールに従っていれば脅かされることはないですから心を落ち着けて生活できます。

つまり「不自由」、「ルール」、「制限」というのは必ずしも悪ではなく、安定をもたらすこともあるということです。
一方、「自由」とはサルトルの言う通り、心の中に「不安定」を生み出します。
この対比を見ると、「では私たちは、不自由を選ぶのか、それとも自由の刑を選ぶのか」ということになります。
日本の多くの学校は、「不自由」を選び安定を生むことを選択したわけです。そしてこれからも完全な「自由」は選ばないと思います。
やはり、ある程度の枠があり、その中でのみ通用する「自由」を生徒と教師は考えていくのです。

もし学校が完全な「自由」を選択したら、それは生徒に「自由の刑」を同時に与えることにもなります。
もちろん「自由の刑」という不安定な中でしかえられない思考もありえると思います。ここは、まさに教育現場の選択、ということですね。

いずれにしても、学校では「自由」と「不自由」どちらか一方に振り切ってしまうことが一番怖いなと、私は思います。

今回の記事は、「自由に対する批判」のようなイメージになってしまいましたが、批判したいわけではありません。もちろん、「自由を奪ってみんなラクに生きようぜ」なんて考えていません。

大人になり、生活に困らない給料をもらえて、自分で自由に使える時間がかなり増えました。そんな中で、自由について改めて考え、調べてみた、そんな記事です。


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