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生きる意味

 一体何のために生まれたのか、生きるのか、生きていくのか。これまで幾度となく自らに問いかけたが、答えは出ない。

 この狭い部屋で、俺はひたすら生きる意味を探して毎日を過ごしている。

 窓の外で蝉が鳴いている。あいつらは自分が生きているということを夏の間中その大きな声で周りに知らせているのだ。蝉たちが何をがなっているのか俺にはさっぱりわからないが、きっとあの爆音を奏でることで、存在を主張して、死んでいくのだろう。その他の生物にとっては意味を成すことのない、時には不快に感じさせるただの大きな音。俺は蝉にはなりたくない。 

 どこか南の島にでも行けば忘れられるのだろうか。思いっきり羽を伸ばして、自由な時間を持つ。波の音を聴きながら日がな一日、いや、時が経つのを忘れて死ぬまで過ごすのだ。何もしない。波打ち際で洗われる白く美しい貝殻。この貝も少し前まで生きていた。波にただ身を任せて漂う。食べるも生きるも死ぬも、潮の流れに従う。それが生きる意味と言えるのだろうか。違う。俺は貝ではない。

 真夜中に腹が減る。眠くはない。何か部屋の中に食べられるものはなかったか。ゴソゴソと部屋を探る。小バエが目の前を通りすぎた。顔やら腕やらにくっついてこようとする。俺の体を貪欲に舐めることで少しでも自らの栄養にしようとする。こいつらも生きる意味を探しているのだろうか。俺にはそうは思えない。小バエたちは何も考えずに生きているのだ。俺は小バエに生まれなくてよかった。

 また朝がやってきた。隣の部屋のテレビから朝の情報番組のオープニング音楽が聞こえてくる。スズメたちが囀っている。仲間たちとの会話を楽しんでいる。奴らはそうやって毎朝おしゃべりをすることが生きがいになっているのだろう。だからあんなに飽きもせずに楽しそうなのだ。でも俺は違う。誰かとあんなに仲良く話をすることなど想像すらできない。仲間と過ごすことは生きる意味になり得ない。俺は孤独だ。

 カーテンの隙間から一瞬だけジリジリと焼けつくような夏の陽の光が差し込む。その熱線を避けるように、俺は気だるく感じる体を寝床に潜り込ませる。ひんやりとした感触。間もなく眠りに落ちる。
 朝が来て、眠って、夜が来て、起きて。飯を食って、また眠る。何をするでもなく、生きる意味を探してまた一日が過ぎていく。このまま一生が終わっていくのか。 

 そんな生活にある変化があった。
 女と暮らすことになったのだ。女は俺の部屋にいつの間にか転がり込んでいた。最初は、俺は自分のペースを乱されることを心配した。しかし、彼女はこの部屋のルール、俺のルールをわきまえていた。だから俺は、今まで通りの生活リズムで暮らすことができた。
 時には隣で、時には背中を向けて、同じ寝床で眠る。食事も一緒に摂ることもあれば、それぞれが好きな時間に食べることもある。くっつきすぎず離れすぎず。その関係が心地よかった。 

 一緒に住むことになっても、俺と女の間に肉体関係はなかった。不思議だが、正直に言うと最初はそんな気にならなかったのだ。
 ただ、少しずつ気持ちは変わっていった。俺の食べ残しを女が遠慮がちに食べるのを見た時、俺はどうにかしてこの女を抱きたいと思った。
 ところが、女はその気があるように近くに来たと思ったら、俺が触れた途端に身をよじらせて逃げる。追いかけては逃げられる。その繰り返しだった。
 ひょっとしてこの女は俺に全く気がないのかもしれない。そう思い始めたある晩、その時はようやくやってきた。
 隣にきた女に、俺はいつものようにちょっかいをかける。少しずつ距離を詰める。逃げない。頭がぶつかるほど、お互いの息が聞こえるほど、近づく。それでも逃げない。腕が触れる。冷たい女の腕の感触。そのまま腕を腰に回す。力を込めて引き寄せる。
 あとは無我夢中だった。俺がどれだけ愛しているか、離れたくないかを伝え、女の体を両腕で抱きしめた。 女と結ばれた。俺は幸せを感じていた。生まれて初めての幸福感かもしれなかった。その日は珍しく夜まだ暗いうちに眠りについた。昼夜が逆転した生活を送り続けてきた俺にとって、こんなに満たされた中で夜眠るのはいつ以来だろう。

 明け方、悪い夢から覚めた。身体中に鈍い痛みがある。関節が軋み、呼吸が乱れ、手足の先が痺れる。体の内側で静かに何かが暴れているようだ。女は少し離れたところで、裸の背中を見せたまま寝ている。俺の異変には気がついていない。 
 体の違和感は、やがて耐えられないほどの激痛となる。稲妻が背中から指先まで走るかのようだ。今までに感じたことのない苦しみ。俺は悟った。これで終わりなのだと。
  薄れていく意識の中で、まだ俺は考えていた。一体何のために生きたのか。 結局は生きる意味など見つからなかったかもしれない。けれど、俺は生きた。もっと生きたかった。来年の夏も、その次の夏も、ずっとずっと生きたかった。この体が干からびて皺が全身に刻まれても生きていたかった。
 息が苦しい。とりあえず起き上がろうと腕を使って身を起こそうとしたが、ぐにゃりと手が曲がったように感じて、転んで背中をしこたま打った。そのまま仰向けになる。天井の格子状の模様が見える。
 いやだ。まだ死にたくない。まだ俺は何も手にしちゃいない。
 腕を伸ばしてみた。空を掴んでみた。何かを手に入れられるわけじゃない。それでも何度も何度も俺は空気を握りしめる。そこに生きる意味があるかのように。そうだ、何もないところに、何もありえないところにきっと意味があるのだ。今になって気がついた。
 何度も何度も腕を上にあげて、空気に抱きつこうとしてみた。でも、何にも触れることができない。
 少しずつ体が強張っていく。力が入らなくなる。目の前が暗くなってきた。生きる意味は、最期の最期までわからなかった。

  朝、いつものようにプラスティックのケースをのぞき込んだ男の子は、大きな声を上げた。
 「パパー、オスのカブトムシ、死んじゃってるよー」

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