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曼珠沙華

 宣教師ジョアンは辞書を編んでいた。外国で神の教えを広めていくのに必要なのは教養であり言葉だった。そのためには、宣教師だけではなく誰もが使える分かりやすい辞書が必要だった。
 ジョアンは宣教師としてはまだ若かったが、母国ポルトガルでいくつかのヨーロッパの言語を習得し、派遣されたインドやマカオでも現地語の読み書きや会話ができるようになっていた。だからこの極東の国に先んじて送られ、布教とともに辞書編纂の任務も命じられたのだ。
 幸いにしてこの国の民は学ぶことだけではなく、教えることにも長けていた。赴任して1年、人々はジョアンが分からない言葉、知らない言葉をいつも進んで教えてくれた。ジョアンは発音や用例をひたすら紙に書き、集め続けた。

 ジョアンは、小さな村で教会の神父として布教にあたっていた。信心深い村人たちは様々な形でジョアンの生活を助け、神との対話を望み、日々を正しく生きようとしていて、教会を作ることにも協力的だった。
 教会といっても、正式な礼拝堂や祭壇はなく、この辺りによくある木造の粗末な家屋だった。
 土間の壁を打ち抜いて信者が祈りを捧げる部屋が作られてはいたが、10人入るともう息苦しさを感じるほどだった。壁には、長めの板を2枚交差させて縄で縛り朱で塗っただけの十字架が立てかけてあり、その両側に設えた簡単な棚には季節の花がいつも飾られていた。どこかジョアンの故郷の教会に似ている。
 ジョアンは、質素ではあったが花に彩られたこの場所が気に入っていた。

 「アキさん、いつもありがとう」
 ジョアンは少女に声をかけた。
 その少女、アキは毎日のように野山から花を摘んできてはギヤマンの器に活けてくれていた。
 この数ヶ月ジョアンの身の回りの世話をしているアキは、近くの集落からこの村にやってきて、信者の家で住み込みで働いている。
 「いえ、ノギクが咲いていたものですから。イエス様にも見ていただこうと思って。イエス様はノギクがお好きでしょうか?」
 純粋で汚れのないアキを見ていると、ジョアンは幼い頃に別れた小さな妹を思い出す。妹は今何をしているのだろうか。
 アキは十字架の前で跪いて、白く細い手を胸の前で組み、祈りを捧げている。
 妹もこうして教会で祈っているだろうか。
 思わず口から出る。
 「アキさん…あなたは私の妹に似ています」
 「え?ジョアン様の?」
 「はい。もうずっと会っていません」
 「いつから会われていないんですか?」
 「もう、10年以上…です」
 アキは驚くほど悲しい顔をした。その表情にジョアンは妹ではないもう一人の少女の面影を見た。ポルトガルの港で涙を流しながら手を振る少女。その少女はジョアンの名前を呼びながら、大きく手を振っていた。忘れようとしていた、忘れられない景色だった。目に焼き付いている悲しい顔。愛おしさに胸が締めつけられる。あの感情は一体何だったのか。この胸の高鳴りは一体何なのか。
 どこからかポルトガルの懐かしい弦楽器の旋律が聞こえてくる。
 「きっと妹さんは、今頃ジョアン様がお元気でいらっしゃることを神様にお願いしていると思います」
 アキが口を開いた。
 ジョアンは赤い十字架を見つめて答えた。
 「アキ、ありがとう」
 夏の終わりのやわらかな西陽が教会を包んでいた。

 朝晩ひんやりとしてきたある日、ジョアンは庭に奇妙な花が咲いているのを見つけた。
 「あの赤い花はなんという名前ですか?」
 横にいるアキに聞いた。
 「あれは曼珠沙華と言います」 
 葉もなく突然地面から生える血のように赤い花を、ジョアンは不気味に思ったので、おどけて言った。
 「マンジュシャ…?あの花は猫を食べたんですか?」
 「え?猫?いえ、猫は…、ふふ。ジョアン様は面白いことをおっしゃるのですね」
 「ああ、フランスではマンジュシャは猫を食べる、という意味です」
 「ジョアン様は何でもご存知です。曼珠沙華は綺麗でしょう?色が少なくなってきたこの季節に鮮やかで」
 「綺麗、ですか?私は気味が悪い花と思います…葉がないでしょう。何かが欠けている、足りない。生首の花、そう、血だらけの生首みたいです。美しくないですね」
 するとアキは向き直って答えた。
 「そうでしょうか、ジョアン様、葉がなくても実がならなくても、色が何色でも、生きて真っ直ぐ立つものは、全て美しいと、私は思います」
 アキの言葉の強さに、ジョアンはそれ以上話を続けることができなかった。
 生きるものはすべて美しい。どんな形であっても、どんな色であっても。この若い娘は私よりも神の御心を知っているのではないか。そう思うと、何か口に出せば、アキのことを妬んだり羨んだりしてしまいそうで、黙りこくるしかなかった。
 アキも何も喋らなかった。しばらく二人で花を見つめる静かな時間が流れた。

 ふと、この珍しい花を自らが編纂する辞書に入れるべきではないかとジョアンは考えた。
 「マンジュシャゲ…、はどういう意味ですか?」
 「はい、天竺の言葉で、極楽に咲く花、という意味だそうです」
 ジョアンはがっかりした。天竺、極楽…仏教の言葉だ。イエス様の教えを広めるのに一番の障壁、仏教の。マンジュシャゲ…この言葉は辞書に収めるわけにはいかない。我々のパライソと仏教の極楽は違う。
 そんなことを考えていたら、アキが真っ直ぐに自分を見つめていることに気がついた。
 ジョアンは、目を逸らした。アキの瞳を見続けたら、この国に来た目的を忘れそうになったからだった。
 穏やかな陽だまりの中で咲く曼殊沙華とアキの笑顔は、一枚の絵画のようにジョアンの心に刻まれた。
 
 一年が経った。ジョアンはもう間もなくこの地を発つことが決まっていた。数千に及ぶ言葉を書き連ねた紙を紐で束ねていたその時だった。
 「ジョアン様!おアキがっ!」
 村人が教会に飛び込んできた。アキが怪我をしたということだった。
 間もなくの稲刈りを前にして、稲田の脇に伸び切った雑草を刈り込もうと村人が振った大鎌が、たまたま萩の花を摘もうとしたアキの両腕に当たったのだ。
 ジョアンはアキの住む家に駆けつけた。そして、その姿を見るなり息を飲んだ。
 アキの美しく白い両腕は…すでにだらりとして、もげかかっていた。
 「アキ…」
 「ああ、ジョアン様…来てくださったのですね…」
 夥しい血が、桶に溜まっている。枕元には村の医者がいたが、すでになす術はないという表情だった。アキの顔はカゲロウの羽のように青白く透き通ってしまっていた。
 「…ジョアン様、私、腕を感じないのです…」
 「アキ、しっかりしてください」
 「私の腕、ありますか…」
 ジョアンは何と答えていいのかわからず目を伏せた。
 「ないのですね…。ジョアン様、アキは…腕がなくなって…醜いでしょうか…」
 ジョアンは首を千切れるほど横に振った。
 「いえ、アキ、腕がなくても何を失っても、あなたは美しいです。あなたは…綺麗です」
 アキは返事をする代わりに表情を緩めた。
 「…ジョアン様、お願いでございます。私を神様のところへ送ってくださいまし…聖なる油で…十字を…」
 ジョアン達の宗派では、死を間際にした人間の額に聖油を十字に塗ることになっている。
 しかしジョアンはどうしても十字を描くことをしたくなかった。それをしてしまえば、アキはもう死ぬという意味だからだ。
 「アキ、私はあなたを行かせたくはない…」
 「ジョアン様…私は…死ぬのは恐ろしくありません…でも、神のおそばに行けないのが恐ろしいのです。どうか、私に聖油を…十字を…」
 「わかりました。用意をします…」
 ジョアンは外へ出て、そのまま教会へと向った。
 油を用意するつもりはなかった。朱色の十字架に向かって跪いて、ひたすら祈った。
 「神よ、あの少女を、アキを連れていかないでください。アキはこれからあなたの言葉をたくさんの人に伝えることができます。この世に必要な人間です。神よ!」
 日が落ちて数時が経った頃、一人の村人が静かに教会の扉を開けて、ジョアンに告げた。
 「ジョアン様、おアキは…たった今、死にました…」
 
 なぜ私はアキの額に十字を切ることができなかったのか。なぜアキを安らかに神の御許へ送ることができなかったのか。
 神よ、私の何が悪かったのかがわかりません。私は間違っていたのでしょうか。
 神よ、アキの御霊をあなたの許に迎えたまえ。そして私を許してください!

 アキの遺体は、翌日の夕方に、山を二つ西へ越えた生まれ故郷の集落まで運ばれることになっていた。しかし、ジョアンは葬列へ参加することができなかった。
 日が西へと傾いた。出発する時間だった。
 もう二度とアキに会うことができないのだ。せめて遠くから見送ることで詫びを入れたい。そう思ったジョアンは教会を飛び出し、裏の丘の一番高いところへ登った。
 丘の上からアキの葬列が遠くに見えた。夕陽に照らされる一面の実った稲原。その黄金に染まる田を縦に大きく割るように真っ直ぐに太い道が続いていく。黒い葬列は今その真ん中を進もうとしていた。葬列からちょうど両手を広げたように道が左右に広がる。そして縦と横、十字になった道には、真っ赤な曼珠沙華がびっしりと赤い絨毯を敷き詰めたように咲いていた。金色のキャンバスに真紅の十字架が描かれている。その中心には、アキがいた。
 「ああ、神が…」
 ジョアンは心の底から神の存在を信じた。

 ジョアンがこの国を去る日がやってきた。もう戻ることはない。これからは生まれ故郷で神の恵みに感謝して生きていくことに決めていた。
 帰りの船の中で、ジョアンは紐で縛った紙の束、ジパングで集めた言葉を一つ一つ大切に見返していた。
 どれもこれからポルトガルとジパングを結ぶために必要な言葉たちだった。
 ジョアンは紙を捲る手を止めた。そこにはまだ余白がある。目の前の羽ペンを取って、もう一つ、書き加えた。

 曼珠沙華…日本の美しい秋に咲く、誰からも愛される赤い花、と。

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