朝顔

 「俺はこの江戸で一番の花火師になる。俺の花火に、老いも若きも男も女も夢中になるんだ。俺の名前は後の世に語り継がれるんだ」
 若き花火師弥一は、火薬の染み付いた黒い爪を掌にぐっと食い込ませて拳を作り、江戸の明るい夜空に誓った。
 弥一は今までにない赤を作ろうとしていた。これまでの江戸花火にも赤はあった。いや、むしろ赤こそが基本だったのだが、炭火のようなただ燃える赤ではなく、人の心を包み込むような優しい赤を弥一は生み出したかったのだ。
 ある夏の暮方、弥一は新しい火薬を混ぜ合わせて紙に巻き、線香花火にして試しに火をつけていた。すると通りかかった娘が話しかけてきた。
 「まあ、綺麗。こんな綺麗な花火、生まれて初めて」
 「いえ、俺が欲しいのはこんな色じゃないんです」
 「どんな色?」
 「それが、俺にもよく分からなくて。おっかさんみたいな赤かな」
 「おっかさんの赤…ふふ。いつか見てみたい」
 歳のころなら15、6。線香花火の柔らかな灯りに照らされた娘は、4尺玉の花火を夜空一面に打ち上げても敵わないほど美しいと弥一は思った。
 それから二人は度々夕方に半刻ほど会うようになり、線香花火を見つめながら色々な話をした。
 弥一は花火師で、江戸で一番の花火をあげたいこと。親はなく父にも母にも会ったことがないこと。娘の名前はお朝で、芝車町の材木屋の一人娘だということ。お互いの好きな色、好きな花…。二人の間にはたしかに恋心が芽生えていた。
 しかし秋の風が吹く頃になると、ぷつりとお朝が弥一の元を訪れることがなくなった。弥一はいてもたってもいられなくなり、芝車町の材木屋を訪ねていった。
 「ごめんなすって。もし!」「へい」
 やたらと愛想の良い番頭に、店の旦那と女将に急ぎの用があることを伝えると、奥から二人がこれまた愛想笑いを浮かべながら出てきた。
 「あっしは、この神田で花火師をしている弥一と申します」
 大した用ではなさそうだとわかると、材木屋の旦那と女将は途端に面持ちを変える。
 「で、花火屋がうちに何のようでえ」
 「朝さんと祝言をあげさせてほしいんです」
 「はあ?」旦那は素っ頓狂な声をあげる。
 弥一はいかに自分がお朝に恋焦がれ、夫婦になったら幸せにできるかを力説した。
 話を聞いて、旦那は使用人に塩を持って来させようとしたが、女将は弥一を見据えて、大きくうなづいた。
「よござんす」
「おい、お前!」旦那は女将に怒りと驚きの声をぶつける。 
「いいからあんたは黙ってな。弥一、と言ったね。その代わりに花火屋のお前に頼みがある。来年の3月3日の晩に大きな大きな花火を佃島からこっちに向けてあげてくれるかい?」
 「お前、その日はお朝の…」「しっ!」何か旦那が言いかけたが、女将はその先を続けさせない。
 「弥一、約束だよ。来年3月3日、ばばっと威勢のいい花火を景気よくあげておくれよ。そしたらお朝はお前のものだよ」
 「わ、わかりやした!」
 そこからの弥一は、お朝との祝言があげられる喜びで夢見心地のまま秋、冬と過ごした。弥一の望む美しい赤い花火は、作り上げることができなかったが、それでも花火をどん、と上げさえすればお朝と夫婦になれるのだ。きっとお朝も同じ気持ちなのだろう。
 3月3日、夕刻から佃島に小舟で渡った弥一は、3尺玉を二つ、自分とお朝、二人の思いの分だけと思って、江戸の夜空に打ち上げた。
 季節外れの花火はもちろんご法度。闇に紛れて逃げるように弥一は佃島を離れた。
 翌朝、弥一は芝車の材木屋に煤けた着物のまま、飛んで行った。これでお朝と夫婦だ。
 ところが今朝の材木屋は何かどこかが違う。普段は材木が整然と立てかけられ、端材の一つも見当たらないはずなのに、まるで昨日祭りでもあったように乱雑に材木が積み上げられていた。端材もあちらこちらに散らかっている。
 弥一は店の奥の座敷へと大声を投げかけた。
 「もし!」
 しばらくすると眠そうな顔で女将が出てきた。
 「誰だい朝っぱらから?ああ、お前か」 
 「約束通り、昨日大きな花火をあげました。お朝さんと結婚させてください」弥一は火薬で黒く汚れた顔で、目と歯だけを白く輝かせて女将に言った。
すると、材木屋の女将は、鼻で笑って蔑んだ目で弥一を見た。
 「お前、材木屋の娘が本気で花火屋なんかと一緒になると思ったのかい?ふん、間が抜けた話じゃねえか」
 「お朝のおっかさん、そいつは…」
 「誰がおっかさんだい!いいかい、お朝は昨日嫁に行ったよ。数寄屋呉服町の旦那と祝言だったのさ。お前のお陰で随分と豪勢な祝いになったよ。花火をあげる祝言があげられるなんて、この江戸じゃ将軍様とうちくらいだね」
 自慢の結婚を思い出したように女将が笑みを浮かべる。
 「そんな、話が違うじゃねえか…」
 「違わないよ!とっととお帰り。ああ、その火薬の付いた黒い手でその辺の木を触るんじゃないよ!きったねえ」女将ははだけた襦袢を引き釣りながら奥へと引っ込んでいった。きっと昼過ぎまで寝るつもりなのだろう。
 弥一はまだ信じられなかった。俺は好きな女の結婚を祝うための花火をあげてしまったのか。江戸で一番の花火師になる俺が。
 弥一の目に柱の切れっ端が止まる。大黒柱にでもなれそうな艶のある檜の端材だ。
 「お前もこの家に切り捨てられたのか。俺と同じだな。そっか、成仏させてやろう」
 弥一は着物の袖から白い布袋を取り出し、中の黒い粉をさらさらと檜にかけ、火打ち石で火をつけた。
 パチパチと音を立てた火花がやがて炎となる。弥一の涙で炎が滲む。
 「なんでぇ、こいつぁまさに俺が欲しかった赤じゃねえか。そうだよ。俺はこの赤が見たかったんだよ」
 次から次に弥一はそこら中の材木に火をつけた。
 「ああ、お朝とは結ばれなかったが、俺は幸せもんだ。俺の赤がこんなにたくさん」弥一は美しい赤の真ん中で大の字になった。
 折りしもその日は朝から南風が強く吹いていた。材木屋を赤く染め上げたその炎は、材木屋から隣の屋敷に、またその隣の屋敷へと瞬く間に燃え広がった。
 後に江戸三大大火の一つ、文化の大火と呼ばれるその大火事は、12万6000戸の家々を焼き尽くし、1200人を超える人々の命を奪った。
 春から夏へと季節が変わっても、多くの土地で家が再建されることもなく焦土のままだった。ある人が、かつて材木屋のあった空き地に朝顔の種を蒔いてみたところ、土に何かの思いがこめられていたのだろうか、今までに見たこともないような色・形の変わった花や葉の朝顔が生えてきた。花びらが糸のように細く千切れたもの、弥一の心が切り刻まれたが如く。葉が白く色の抜けたもの、弥一の魂が騙されて抜けたが如く。優しく暖かくでも激しい赤い花のもの、弥一が求め続けた恋と涙の炎の如く。
 ここから生まれた変わり朝顔は江戸に一大ブームを巻き起こし、老若男女が少しでも変わった朝顔を求めて熱狂することとなった。
 「花火、花と火で江戸中の人々の心を動かす」。弥一の言葉は、現実のものとなった。しかし、今のこの世に至るまで、弥一の名を知る者は誰もいない。

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