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虚実とのモミクチャの格闘 ー範宙遊泳『ディグ・ディグ・フレイミング!』を観る

今日は、劇団範宙遊泳の最新作『ディグ・ディグ・フレイミング』を観劇してきたので、その感想を書きます。

コロナ禍で、3年ぶりの観劇となり、アートエデュケーターとして仕事をしながらも舞台芸術に触れられない日々の鬱憤が晴れる素晴らしい観劇体験になったのでそのことを書いておきたいなと。

『ディグ・ディグ・フレイミング!〜私はロボットではありません〜』

「何故に謝らなければならぬのか?」をめぐる物語

『ディグ・ディグ・フレイミング!〜私はロボットではありません〜』は、劇団範宙遊泳の最新作です。2022年6月25日から7月10日にかけて東京芸術劇場シアターイーストにて上演されました。

時代は笑って許せるか?

その集団は何度も何度も人々を怒らせた。彼らを怒る人々はせいぜい遠隔的にいやがらせを行うくらいで決してその集団の目の前には現れなかった。怒られた実感のない集団は、自分たちの過ちを忘れまた再び人々を怒らせるようなことをする。怒る人々はますます怒るがその集団を社会から抹殺することはできない。なぜならばその集団には驚くべき愛らしさがあったからだった。

範宙遊泳公式ホームページより

ユーチューバー風の男性4人のインフルエンサー集団が、自分達のチャンネルの炎上について「何故に謝らなければならぬのか?」をめぐってすったもんだする冒頭からはじまって、彼らのファンにおきたある出来事をめぐる人々の認識のずれ、画面の向こうからとんでくる誹謗中傷との格闘を描いていく物語です。

作・演出は、前作『バナナの花は食べられる』で第66回岸田國士戯曲賞を受賞した山本卓卓さん。出演は範宙遊泳の埜本幸良さん、福原冠さん。客演に劇団 短距離男道ミサイルの小濱昭博さん、青年団/東京デスロックの李そじんさん、ナイロン100℃/阿佐ヶ谷スパイダースの村岡希美さん、百瀬朔さん、亀上空花さん。

範宙遊泳とのつながり

ぼくは2021年8月に山本さん、埜本さん、福原さんとワークショップ「ももたろうのつづきのつづきをつくってみよう」で共同で企画をしたり、2020年10月に講師を務めた「虚体験ファシリテータースクール」に山本さんにご参加いただいたりして、ここ2~3年でお仕事をご一緒させていただいていました。

しかし範宙遊泳作品を劇場で観劇したのは2014年の『生まれてないからまだ死ねない』以来で、今回はどうしても見にいきたいと思い、劇場まで足を運びました。

(余談)子ども2人を親に預けてどうにか観劇

以前と状況が違うのは、子ども2人が家にいることです。今回の観劇のために、前々から準備をして、うちの両親と日程を合わせて、子どもたちを預ける段取りをつけていました。

託児所を使ってもよかったのだけど、ジジババに預ける練習になればと思い、思い切って決行しました。コロナ禍になってから、妻と演劇に行くのは初めてで、妻は娘の出産前から数えて、約5年ぶりの観劇だったといいます。

待ち合わせのサンシャインシティに着いたのが11:30。両親と子どもたちとランチを食べ、おむつ替えたりなんだりして、12:40。ジジババと子どもたちは水族館に向かい、われわれは13:00開演まで時間がない!急いで芸術劇場まで向かいました。

客席は満員。なんとか2人並んで座れる席を見つける。トイレに行って、すぐに上演が始まりました。袖から役者のみなさんが登場した時には、ああ演劇がこの世界にあってよかった…と、安心したような気持ちになったのが新鮮でした。

向こう側の概念と、モミクチャの格闘を繰り広げる

めげるな、というシンプルなメッセージ

さて、本作をぼくがどう感じたかを書き連ねていきます。なるべくネタバレしないように書きますが、「うおいそれいうのかい!」っていうことを書いちゃってあらすみません。

2020年に遡ります。ファシリテータースクールで山本さんとご一緒した際、当時話題になっていた著名人の自殺の問題に触れながら、インターネット上の誹謗中傷が人の心を深く傷つけ殺してしまうという事象に対して、演劇がリアクションするべきだと語っていたことが印象にのこっています。

本作は、まさにその演劇としてのアクションを作品として具現化したものだとかんじました。生きることを諦めるな、めげるなというシンプルなメッセージを、強く発する作品でした。

虚実入り混じった、結論の宙吊り

しかしながら、そのような強いメッセージを発しながらも、演劇という虚実入り混じった表現媒体をたくみにもちいて、結論を宙吊りにしています。一方的なメッセージを発するためだけに演劇を用いるのでもなく、参加者を戸惑わせるような不気味な終わり方をするでもなく、結論を宙吊りにしながら生命を賛美するという見事な両立を成し遂げていたと感じました。

そもそも演劇とは、役者のリアルな肉体が物理的な場で、声をつかって空気を振るわせるそこにいる観客の鼓膜を、皮膚を振るわせるメディアです。古来から続くパフォーミングアーツを引き継いだ、最も古い表現方法の一つであると言えるでしょう。と同時に、舞台上でおこっていることは事実か嘘かはよくわかりません。ウソだけどホントであり、ホントだけどウソ、というのが演劇の面白いところです。

二つの認識、二つのパラレルワールド

本作は、そのような虚実入り混じったメディアであることを使い、私たちに二つのことを問いかけてきます。一つは「どちらの認識が正しかったのか?」という問い。もう一つは「ある出来事が起こらなかった世界では何が起きたか?」という問いです。二つの認識の違う世界と、二つのパラレルワールドを描き出していきます。

二つの認識 Rは何故にひきこもったのか?

まず、ある出来事をめぐる、二つの「認識」が演じられます。物語の中盤でRという人物が登場します。あるきっかけで部屋に引きこもってしまったというのですが、Rがひきこもってしまった原因について、まったく別の「認識」が存在することが舞台上で明らかになります。

一つは主人公達4人組がRをいじめたことが原因だ、という認識です。Rと動画でコラボ撮影し、どさくさにまぎれてRの正体をあばいてしまったのだという認識があります。

もう一つの認識は、Rが自分の正体をあかすことを自ら選んだにもかかわらず、Rの母との関係性がこじれてひきこもった、という認識です。主人公達4人組はRをいじめてなんかいなく、むしろその正体を讃えています。

この二つの認識は、どちらが正しかったとも明かされることはありませんでした。

二つのパラレルワールド 死んだのかそうじゃないのか

加えて、二つのパラレルワールドが描かれます。ある登場人物Yが死んでしまったかもしれないし、そうじゃないかもしれない世界があるかもしれないという二つの世界です。

Yは、ひごろから「文字」という存在に苦しめられています。「文字」とはインフルエンサーである彼のもとにとどく誹謗中傷のSNS投稿やYouTubeコメントなどの総称でしょう。「文字」が彼を脅かし、死に誘っていきます。

その誘いに耐えきれず死んでしまった世界と、そうではなかったかもしれない世界が描かれるのです。

この作品のなかでは、認識Aが正しく、Yが死んでしまった世界が現実かもしれない。でも、認識Bが正しく、Yが死ななかった世界も存在するかもしれない。どちらがホントウかはわからない、という状況が創出されています。

こうした複数の現実・複数の世界が描かれることで、結論が丁寧に宙吊りにされているのです。

画面の向こう側の声に「触れ」、モミクチャになる

このような物語構造であれば、映画やゲームでもつくりだせるかもしれません。しかし、本作の「演劇」であるがゆえの魅力は他にあります。それは、画面の向こうの声/概念に「触れる」ということです。

この2つの分岐(認識の分岐と、現実と想像の分岐)において、ある2つの人・物が、「画面」の向こうから引きずり出されます。

舞台上に設置された大きな枠があり、そこにはプロジェクターで映像が投影されています。その映像の投影が投影されるスクリーンはカーテンのようになっており、向こう側が見えないようになっています。

Yの存在を脅かす「文字」は、このスクリーンに投影されます。ツイートのポップアップ画面のようなこの枠組みは、Yの心にはこのように大きく見えているのだろうと思います。その巨大な「文字」の向こう側に、主人公達は挑もうとします。

まず、一度目は、ある人物が引きずり出されます。さながら貞子のような演出には思わず笑ってしまいましたが、画面の向こうから現実に身を乗り出してきて人を呪う「誹謗中傷」の「文字」は、まさに貞子のような呪いの存在なのだと感じます。

二度目は、ある概念が巨大かつポップな姿で引きずり出されます。見ながら思わず「うおおお、まじかこれ作ったの!?」と驚いてしまうこのシーンは、『ディグ・ディグ・フレイミング』屈指の名シーンでしょう。この恐ろしい概念が、ポップに消費されていくことを表象するような形状、素材感、そして空気で膨らんだ持ち運べそうな軽さもふくめて、歪で、だからこそ強烈な印象を残します。

触れられないものに触れる

画面の向こうから私たちに呼びかけてくるヘイト、誹謗中傷の向こう側にいる存在を引きずり出し、文字通り主人公たちはもみくちゃになって格闘していきます。

事実・認識・想像の世界を横断しながら、肉体でもって本来触れられないはずの概念や声なき声と「触れ合う」「戦う」ことができてしまうのは、まさに演劇ならではだと言えます。演劇であれば比喩に触れることができる。

客席で見ているぼくたちも、人や物として表象された概念の声や質感を体感することができます。そうしてもみくちゃになってやぶれかぶれに格闘する主人公達を思わず応援してしまうし、ボロボロになった彼らが最後に叫ぶ希望の言葉に、心を震わせてしまうのです。

モミクチャの格闘の末の叫びに、感動していいのか?

しかし、この大きな演劇的感動があるからこそ、先ほどの複数の物語の分岐が気になるのです。炎上集団であった主人公達は、もしかしたらRを引きこもりにしたイジメの主犯かもしれない。その認識がもし事実だったとしたら、ラストの勇ましい叫びも、一つの欺瞞に聞こえてしまう。

私たちはこの希望の言葉を、簡単に、単純に叫ぶことができるのだろうか?劇作家や俳優達も自問しながらやっているようにぼくには見えましたし、そのメッセージに「わかりみ」と賛同するのではなく、本当にそのメッセージに賛同できるんだっけ。ひとをめげさせたり貶めたりすることを、自分がしてないってどう言えるんだっけ。と、問い返してくる構造になっているです。

このような虚実入り混じった複数の世界線を描き出しながら、概念や声の表象と「触れ合う」ことを可能にする本作は、山本さんが一連の作品を「純粋演劇」と呼ぶ所以がわかるような気がしてきます。

アートエデュケーターとして向き合いたい問いは

さて、こんな感じで興奮しながら観劇を終えたのでした。ここからは、アートエデュケーターとして感じた余談です。

さきにあげた論点の他にも、本作のもう一つの主題である「母の悲しみ/母の呪い」について、「あのシーンにはどういう意味が見出せるんだろう?」と考えたくなる仕掛けがたくさんありました。ある人物のポリティカルコレクトネス的発言が空回るシーンも見事だったしなぁ、とか色々考えたいことがまだまだあります。

ただ、ぼくが主に大きく感じた魅力は4つに分岐する物語構造と、比喩に触れもみくちゃになる演劇的感動でした。そして、感動するがゆえに分岐構造のなかで、感動していいのかと問い返される構造もまた深まる魅力です。

このように結論が宙吊りにされた演劇だからこそ、客席で対話し議論されるべき演劇だと感じました。これは、ぼくのアートエデュケーターとしての視点です。

美術館がエデュケーション/ラーニングを積極的に行なっている一方で、劇場はまだまだエデュケーション活動が行き届いておらず、劇団の自主努力に任せているところが多いのが実情です。だからこそ、一観客として学びの活動にこの作品を生かすのであれば、ぜひこの作品をふりかえって対話する、演劇の対話型鑑賞企画のようなものをやりたいと感じます。

演劇の対話型鑑賞という提案

たとえば、ぼくは以前、グラフィックレコーダーの清水淳子さん、プロデューサーの中村茜さんとともに『プラータナー 憑依のポートレート』という作品を題材に演劇の対話型鑑賞ともいえる企画を実践しました。

上演をグラフィックレコーディングし、それをもとに観客と対話する「あなたのポストトーク」という企画です。

グラフィックレコーディングを導入するのは非常に魅力的なのですが、そうでなくても上演写真で作品のなかのシーンをふりかえりつつ、そこから感じた印象を語り合うことができるはずだと思います。

可能なら、劇場のロビーがこのような対話空間になっていたらなぁと思います。終演後、偶然会場に居合わせた清水さんや山本さんとも少しだけ顔を合わせたのですが、早めに撤収した方がよさそうで、そそくさと帰ってしまいました。

しかし本当は、対話したい衝動を感じていました。だからこそこうやって文章にしているのかもしれませんが。真実を宙吊りにした本作のような作品だからこそ、観客の議論を喚起し、ひいては社会の中で起こっている炎上や誹謗中傷について眼差しを向ける機会をつくれたらなぁと思っています。

あと、こういう大人だからできる観劇体験は非常に贅沢だと思いつつ、そのあいだは子どもを託児所に預けなければならないという問題は非常に心苦しいものを感じます。託児所があるだけありがたいのですが…劇場と託児所問題も、あれこれ面白い解決策を考えられるはずです。

劇場とアートエデュケーションの協力はまだまだできると思っています。

『ディグ・ディグ…』は配信される!!!!

最後に、ここまで読んでくださった方に朗報?です。もっと先に書いておいても良かったのですが、本作はローソンチケットにて7月15日(金)から8/14(金)まで、配信で見られるそうです!こんなにも早く!

気になったかたは、ぜひ本編をご覧ください。

オンラインでいいから、対話型鑑賞したいなぁ。

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