弁護士が弱者の味方とかいう幻想
タイトルは皮肉とかではなく、勝手に理想化して勝手に幻滅して罵倒してくるやつマジやめろって話です。
まず私自身は弁護士でも法曹関係者でもないですが法学部は出てて身内に何人か弁護士もいるという立場です。
昨日のアベプラニュースでカンニング竹山氏が、障害者の死亡事故に関する賠償請求の民事裁判の話題の中で、被告である企業側の弁護士について「正義の味方であるべき弁護士がこんな差別をするなんて」という旨の発言があったのでイラついて文字を打っております。(リンク先の記事には発言は記載されてません)
凶悪犯の刑事裁判とかについてのコメントでも散見されるけど、この考え方する奴は本当にやめなさい。弁護士イコール被害者の味方でも弱者の味方でもないし、依頼人の考え方に同意するから依頼を受けてる訳でもない。勝手に弁護士に根拠のない良いイメージを持って、大企業とかの弁護につくと銭ゲバとか金の亡者とか汚職でもしたかのように言い募るのはあまりにも愚かです。
かといってこれは弁護士だって食ってくために金が必要とかそういう話でもない。例えば凶悪犯の刑事裁判につく弁護人なんか巨額の報酬が期待できるはずもない。悪人を弁護したという汚名を着せられ報酬も得られず、それでも罪が少しでも軽くなるように、ときにいけしゃあしゃあと犯罪者を擁護する(かのように見える)のはなぜか。
雑な喩え話で言うと、手加減しながらケンカしたところでどっちが強いかはわからない。同様に、裁判という争いの場が公正に運用されるためには双方の法律に基づく理屈を全力でぶつけ合った上で判決が下される必要があるのだ。凶悪犯の弁護人は凶悪犯が言い逃れできる可能性をすべて検討し、それでもなお凶悪犯であることを認めざるをえないという結論を出すのに不可欠な存在である。万一この弁護人が正義とやらに駆られて罪が重くなるように誘導したりすることがあれば、それは弁護士の職権を逸脱して公正な裁判を歪める、それこそが弁護士としての汚職であろう。
民事おいても同様である。互いに相手の理屈の弱いところを指摘しあうから議論が尽くせるのであり、判断材料を出し尽くすために必要な過程をすっとばしては公正な判決は下せない。まさに今回の裁判では賠償金の算出に障害者の生涯賃金という基準を使うことが俎上に上がっており、そこから議論が始まるところであるにも関わらず禁じ手を使ったかのように感情的に非難する行為は到底認められない。ここから始まるべき議論としては「賠償金は通常どのように算出されるか」「障害者・女性・年齢といった特性で区切って逸失利益を算出するのは合理的か」「障害者の生涯賃金に関する情報は近年の技術革新や労働環境の変化に合っているか」などいくらでもあるのであって、申し訳ないが「悲しい」とか「芸術方面で大成功したかも」とか「障害者に失礼だ」とかの感傷は何一つ解決しない。
裁判制度の中では一見、一般的な価値観とは乖離したことが起こりうる。しかしその多くは裁判が独立した体系の中で運用されているからこそであり、発達した社会において獲得された司法の場であることを忘れてはならない。弁護士を「弱者の味方じゃなかったのか!」とか非難する奴はドラマの悪役の俳優に文句を言うのと同じで、まずは自分の不勉強を恥じよと私は云いたいのです。魔女狩りがやりたければ中世でやってくれ。