「野生の勘」が嫌いだ

友人とイオンに食料品を買いに行った。カートに食材やお菓子を山積みにしてレジのお姉さんに渡す。レジに立っているのは高校生か大学生くらいの女の子だろうか。自分とそれほど歳は変わらないと見えた。

友人が「ありがとうございます」と言ってレジを離れようとしたとき、レジ番さんの目にただならぬものを見た。ありがとうございます、とボソボソつぶやきながら友人を見つめる異質な瞳。こころなしか赤っぽい。意味するところは明らかであった。

時折、自分以外の誰かに向けられた特別な気持ちになんとなく勘づいてしまうことがある。答え合わせをしたことはないのでどの程度当たっているかはわからないが、はっきりと感じるものはそこにある。話し方であったり、目配せであったり、目つきであったり。野生の勘、と呼ぶのが適当かもしれないその感覚は、自分がいまふたりと同じ場にいることを拒絶してくるようで、微笑ましいけれどちょっと嫌いだ。

しかし不思議なことに、その野生の勘とやらは、気持ちが自分に向けられたとき驚くほど感度が下がる。昔好きだったんだよ。〇〇さんって君のこと好きだよね。そんなことをたまに言われると例外なく青天の霹靂であって、気付けなかった申し訳なさでいっぱいになる。野生の勘さんにはもうすこし実用的であってほしい。

彼はイオンのレジでただならぬ視線を浴びたことに気付いていただろうか。彼の野生の勘はちゃんと機能しただろうか。車に戻り、車内にならんで座った。思い切って、ねえさっきさ、と言いかけたが、続きを飲み込んでしまった。いやいや第三者から言うことではない。結局何も言うことはなかった。彼には彼女がいなかった。可能性をひとつ潰してしまったかもしれない罪悪感が残った。

人の色恋沙汰を傍観するのは確かに微笑ましい。だけど。楽しいけれど。気まずくて、役立たずで、罪悪感まで残す。ぼくはやっぱり「野生の勘」が嫌いだ。

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