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【歴史探訪】神功皇后伝説と牛窓の古墳

鎧をまとった神話時代の東西のヒロイン
 神話は、世界各地でそれぞれ代々に伝えられてきたものですが、地域や時代が離れていても似ているところがあります。
 例えば、紀元前8世紀に書かれたというギリシャ神話にはオリーブと関わりの深い女神アテナが登場します。アテナは知恵の神であると同時に、略奪ではなく、自分の考える正義のために戦う神ですが、「生まれてくる男の子に王位を奪われるだろう」という呪いのような予言を避けようとした父ゼウスに母親ごと飲み込まれ、アテナはゼウスの額から鎧を着た状態で生まれてきました。そしてアテナはメドゥサの首がつき、その目で敵を倒す「イージス」という最強の盾を持っていました。トロイア戦争では、巨石を投げつけるなどスーパーパワーを発揮して勝利に導いたことも有名です。
 一方日本でも、アテナのように賢く、また勇ましい女性の伝説が語り継がれています。しばしば錦絵などで鎧姿で描かれてきた神功皇后です。神功皇后はもともと「息長帯比売(おきながたらしひめ)(※古事記での漢字表記)」と呼ばれ、仲哀天皇の后、そして応神天皇の母とされていますが、卑弥呼ではないかとも言われています。夫の仲哀天皇は身長が十尺(3m)もある大男。大和朝廷に服属しない九州の熊襲の征討のため瀬戸内海をわたります。同行していた皇后は神ががりとなり、「熊襲よりも、もっと宝のある新羅という国がある。私という神を祀れば、戦をせずとも新羅を帰服させ、また熊襲も服属させることができるだろう」と神託を受けます。ところが天皇は「すでに全ての神を祀っている。他に神がいるものか。」と信じません。結局、天皇は熊襲との戦で勝利を得られず、病死してしまいます。皇后は士気が下がることを恐れて天皇の死を隠し、髪を男のように結い、男装して戦いに挑みます。とはいえ、その時おなかの中には天皇との子がいました。皇后が、身ごもった子供の誕生を遅らせるためにお腹を冷やした「鎮懐石」などが各地で言い伝えられています。

「牛窓」の地名は神功皇后伝説そのもの
 では、牛窓に伝わる神功皇后伝説を紐解いて見ましょう。(注:話が先ほどとは異なる部分もあります。)戦の相手の新羅の三韓王は、王子唐琴に仲哀天皇と神功皇后の行く手を阻むよう命じます。王子唐琴は魔法使いの塵輪鬼(チンリンキ)を連れてやって来て待ち構えているところに天皇一行の船が着くやいなや、一天にわかにかき曇り、大雨に雷。そして頭が8つの真っ赤な怪物が現れ、天皇に襲い掛かります。天皇は弓で怪物を射落としますが、逆に唐琴軍の弓で天皇は命を落としてしまいます。しかし皇后が唐琴を追い詰め、射落としたのが前島と本土の間の海域。そこは「唐琴の瀬戸」と呼ばれるようになりました。そして塵輪鬼の銅が前島に、首が鬼(黄)島に、尾が尾(青)島になりました。
 その後皇后は新羅への戦に向かい、帰路、備前の海を過ぎたあたりで塵輪鬼の化身である大きな牛の鬼がまたまた船を狙ってきます。そこで住吉明神が老翁に扮して牛鬼の角を持ち、投げ倒しました。牛鬼が転んで「うしまろび」から「うしまど」と呼ばれるようになったというのが地名のいわれです。その牛の死骸が骸(むくろ)島=黒島、唐琴島=中ノ小島、石切島=端ノ小島となりました。さらに、その時に皇后が連れてきた新羅人を住まわせた新羅浦が現在の師楽(しらく)地区と伝えられています。

牛窓湾を囲む5つの前方後円墳
 さて、この神功皇后の陵は奈良市にある前方後円墳 狹城盾列池上陵と宮内庁では定めています。大和にしろ、吉備にしろ、多くの前方後円墳は稲作の中心地にあることが多いのですが、牛窓の前方後円墳は港を囲むように5基あります。(現在1基は消失)。神功皇后は伝説上の人物か、実在の人物か、難しいところですが、現在「実在性が高い最古の天皇」と言われ、巨大な前方後円墳に葬られている応神天皇は神功皇后の子と言われ、応神は吉備国から姫を娶り、姫が実家に戻っているときに恋しさのあまり吉備の義実家を訪問したと伝えられています。どうやら応神天皇は岡山にもゆかりがありそうですが、この頃、つまり4世紀半ばから後半にかけてできたとされているのが関町にある天神山古墳です。応神天皇は在位中に製鉄と製塩の技術の高い吉備国に統治権を与えましたが、牛窓も製塩には適しており、この古墳に葬られているのは大和と吉備の間を取り持つ海の支配者だったと考えられています。
 次に牛鬼の骸からできたといわれる黒島には5世紀前半と目されている前方後円墳、黒島古墳があります。430年頃、全国で巨大古墳がたくさん現れたようですが、まさに仁徳天皇陵がその最高水準のもの。仁徳天皇は応神天皇の第四王子で、吉備国から黒比売という美人を迎えましたが、もともとの女性関係の多さで皇后が嫉妬に苦しんでおり、黒比売はたまらず吉備に逃げ帰ったと言われています。
 だんだんと大和と吉備の関係が壊れ、5世紀後半には吉備国が反乱を起こしましたが、大和政権が盤石となっていきます。仁徳天皇の孫の雄略天皇の時代ですが、牛窓ヨットハーバーのすぐそばの鹿歩山古墳はこの頃のものと言われています。雄略天皇は新羅との戦いと新羅からの技術者の招致を吉備海部直赤尾に命じましたが、吉備国の中心は今の総社市周辺で、「秦」「服部」など織物に関する技術者を意味する地名が残っています。
 消失してしまった1基は波歌山古墳で、牛窓テレモーク(旧・牛窓町立病院)の近く、綾浦にありました。昭和の40年代頃まではかろうじて古墳の土もありましたが、現在は全くありません。この古墳ができたのは5世紀末から6世紀前半と言われていましたが、538年に仏教が伝来していることも非常に興味深いことです。
 最後、5つ目の前方後円墳は西脇海岸への途中にある二塚山古墳です。他の4基が竪穴式で、この二塚山だけ横穴式、この形式の違いにより、6世紀後半と言われています。天皇の中でも最後の前方後円墳は敏達天皇陵で、この陵も横穴式と言われています。574年には聖徳太子が誕生、583年には吉備海部羽島が日羅という僧を帰国させ、政権の仏教へ傾倒が進み始め、合わせるかのように天皇の陵も方墳や円墳へと変わっていきました。

薄葬令と阿弥陀山古墳群
 そもそも各地の古墳の時代は天皇陵に倣って推定されていると思われますが、大和から離れた地方には遅れて「流行」が伝わったという解釈も妥当性は高いと考えられます。
 そして母が吉備の姫である孝徳天皇の在位中、646年に中国に倣った「薄葬令」が出され、巨大な古墳は作られなくなりました。巨大な古墳を作る「厚葬」は墳丘を作ることで墓としたその土地を永久に所有することを意味し、副葬品も時代により変わっていきましたが、孝徳天皇は諸制度改革を行い、特に公地公民を推進し、土地所有を権威の象徴としなくなったという説もあります。
 牛窓オリーブ園のある阿弥陀山には、こじんまりとした円墳が57あります。字として残る「四ツ塚」や、「神道」「大廻」字は「十五塚」とも言われて古墳が沢山あったことを示しています。字「阿弥陀ケ峰」は現在の芝生広場付近ですが、この辺りにも円墳があります。この円墳の形式は薄葬令以降とすると、7世紀後半以降と考えられます。(注:6世紀とする説もあります。)
 そののち、天平勝宝年間(749-757)に報恩大師が孝謙天皇の加持祈祷を行い、備前48ケ寺を開基しました。そのうちの一つが阿弥陀山中腹にある今の室谷山金剛頂寺真光院です。その報恩大師の供養塚は千手の山の中にありますが、土を盛った形式ではありません。したがって、竪穴横穴も関係ありません。これが当時作られたものであるとすれば、石組みで作られた墓のスタンダードが現代まで約千年以上続いているつまり、私たちの深層意識は千年もの間、ほとんど変わっていないということでしょう。
 男性の頭に赤ちゃんが宿り、斧で割ったら鎧を着た女の子アテナが生まれたなどは、川から流れてきた桃から桃太郎が生まれた以上に生物としてあり得ない話です。教科書で習った人物が私たちの故郷とも関わりがありながら、官吏が残したであろう記録類は素っ気なく、しかしひとたび神功皇后のように国史教育にも利用され、人口に膾炙すると「神のお告げを信じない夫は死んでしまう」ネガティブなエピソードで脚色されたり、「子供を身ごもったら腹帯」など不思議な風俗が生まれ、名を残していない人々の生き残るヒントが伝説の中に隠され始めます。流れはしっかりと押さえながらも、荒唐無稽な神話の世界の発想の柔軟さを楽しめる……牛窓の町の古墳の面白さの一つです。単に知らなかっただけのこと、まだまだ分かっていないこと、沢山あります。歴史にとりかかりはじめると最初は点でしかありませんが、徐々に線になり、面になり、立体になっていきます。その点、牛窓やオリーブ園のある阿弥陀山はとても面白い場です。ぜひ古墳も巡ってみてください。

参考資料:「牛窓町史 民俗編」、「牛窓町 古墳図」

監修:金谷芳寛

写真/文:広報室 田村美紀


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