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【歴史探訪】黒島、二万九千年の歴史

 最近、地震が多いですね。南海トラフも心配ですが、「富士山が噴火したら……」という心配もあります。日本での歴史的大噴火と言えば、今から約2万9千年前頃、いわゆる後期旧石器時代の、鹿児島の姶良《あいら》火山。錦江湾の桜島より奥の直径約20㎞の現在海の部分です。火山灰は東北南部にまで到達したとか。中国地方でも20㎝以上の厚さで積もり、前後の層での植物の変化によって、噴火は気候・地形にも影響を与えたと考えられています。噴火前の遺跡は岡山では県北にしかまだ見つかっていませんが、噴火後~1万3千年前の間の遺跡は牛窓町でも黒島・黄島・前島に見つかっているので、日照が減り寒冷化して両極で氷が固まり、海が干上がり瀬戸内海も平原になって、山間部から人々が移ったのかもしれません。そして、香川産出のサヌカイト(今は楽器が有名です)を使ってナイフらしき石器などを作り、道具として使っていたらしいとのことです。
 続く縄文は約1万年続きます。長いので、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と分けられますが、約8千年前の早期に、温暖化で海面がぐんぐん上昇、じわじわと海が広がり瀬戸内海が形成されました。黄島貝塚の下層から発掘された貝の95%は汽水域に生息するヤマトシジミ、上層は90%が海水を好むハイガイで、黒島もほぼ同じ状況です。後に炭素14年代で紀元前6443±350年と公表されています。考古学的に重要な位置づけとされる押型紋土器(煮炊き用の深鉢)やサヌカイト石器も出土しています。
 残念ながら、続く縄文前期・中期・後期・晩期の遺跡は牛窓では未発見です。次に暮らしの痕跡が見つかるのは弥生時代のもので、石包丁や石鏃(矢じり)です。畑をしながら狩猟もしていたのではないか?という説に落ち着いているようです。
 そろそろ古墳時代になろうかというころ、239年、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送りました。邪馬台国がどこであるか、いまだに決着はついていませんが、残念ながら牛窓ではないでしょう。重要なのは「王が海を超えて他国の王とお付き合いを始めた」「大きな墳丘を作って埋葬をし始めた」この2点です。そして牛窓に吉井川流域では最大級、広げて「吉備」でもナンバー3の前方後円墳・牛窓天神山古墳が作られました。おおよそ4世紀半ばから後半のもので、香川県の屋島から石を運んで作られています。(吉備地域では大多数が豊島産石材です)。海上を支配した権力者の墓と言われていますが、牛窓の中で天神山をまず押さえたのは、非常にわかりやすい。何しろ、南西に開けた海が一望でき、吉備や讃岐からの船がよく見え、ほどほどの高台で、駆け下りればそこはすぐ港。南東は前島が備えとなり、唐琴の瀬戸を回れば大浦湾もありますから。369年には百済から倭に七支刀を贈られていますが、これは一説には神功皇后に贈られたものともいわれています。神功皇后は地名「牛窓」の名前のいわれの伝説にも登場しますので、もしかしたら、天神山古墳関係者にも七支刀を拝む機会があったかも、と歴史ロマンが膨らみますね。
 その神功皇后は伝説の人ながら、息子である応神天皇は実在性が高いと言われています。妃である吉備兄媛《きびのえひめ》が元気を取り戻すように(やさしいですね、応神天皇)、里の吉備に連れだって訪れたこともあったようです。応神天皇は兄媛の親族の歓待を喜んで、兄媛に「織部《はとりべ》」を与えたとか(ほんとにやさしいですね)。吉備と言えば総社の鬼ノ城の近くにある服部駅周辺は「服部郷」ともいわれ、この郷名はこの兄媛に与えられた織部と関係があるという説もあるそうです。(長船町の地名「服部」も同じ説があります。)
 続く5世紀前半、今度は黒島に古墳が築かれます。やはり吉備第三位の規模とみられており、須恵器はもちろん、朝鮮半島産の陶質土器も採取されています。それにしても、なぜ黒島という島に作られたのでしょうか。続く3つの前方後円墳は、5世紀後半の鹿歩山、5世紀末~6世紀前半の波歌山、6世紀後半の二塚山、牛窓港を囲むように前方後円墳が築かれているのに。私たちはコロナを経験したからこそ想像してしまうのですが、交流交易には疫病のリスクもあります。もしかすると、海を隔てた場所で療養、その地に葬らざるを得なかったのかもしれません。……推測ですが。では、それが黒島だったのは?黄島も縄文時代には同じような「場」だったのに?きっとその答えは、牛窓の町から見えるか否か、です。黄島は前島の南に位置し、ほとんど見えません。いつでもだれにでも見える場所に古墳を立派に作る、これが大事だったのでしょう。
 では、もう一つの大きな問題、黒島古墳の主は誰?について。文献を探れば、1015年に書かれた「備前国司解案」には邑久郡郡司に海宿禰《あまのすくね》の一族の名が記されています。遡って鹿歩山古墳ができたとされる頃、463年に吉備海部直赤尾《きびのあまのあたい・あかお》が新羅に派遣され、百済の技術者を連れて帰国とか。最後の二塚山古墳ができたとされる頃、583年には吉備海部直羽島《はしま》と紀押勝《きのおしかつ》が日羅という偉いお坊さんを日本に連れて帰ることに成功しているとか。海宿禰の祖先と考えられる吉備海部が古墳の主である可能性は濃厚です。
 また、気になるのは押勝の紀氏です。5~6世紀の都は南大和で、瀬戸内海に出るには吉野川と紀の川を経由しました。港は和歌山、紀氏の地盤です。船を作る木材も紀伊半島にはそれこそ「山のように」あります。押勝からさかのぼること120年ほど。紀小弓《きのおゆみ》が465年に新羅に派遣されますが、身の回りの世話に付き添ったのは吉備上道采女大海《きびのかみつみちのうねめ・おおしあま》。長きにわたって吉備氏と紀氏は、都と海外をつなぐ上で強いパートナーだったようですね。
 考えながら地図を眺めていると目に入ったのは、黒島の「武内神社」です。祭神は「武内宿禰」。「古事記」や「日本書紀」に登場する伝説の人物で、景行・成務・仲哀(皇后は神功)・応神・仁徳の5人の天皇に仕え、280歳いや295歳で亡くなったなど諸説あります。信じがたい長寿で、墓は不詳……この人は紀氏の祖ともいわれています。黒島には、紀氏の歴史的な痕跡も感じますね。これは……行ってみなくっちゃ!

武内神社の鳥居

 我々ミドルエイジ牛窓っ子にとっては、「黒島と言えば、貝掘り!」でした。子供の頃の潮干狩り、楽しかったです。最近はロマンチックなデートスポット、干潮時に現れるヴィーナスロードが有名になりました。中ノ小島から黒島への帰り道がヒタヒタと海に戻っていくなんてかなり原始的な恐怖なのですが、「二人なら大丈夫♡」という心理になるのでしょうね。……推測ですが。改めて訪れると、なんと、武内神社には雉がいましたし、都道府県
によっては絶滅危惧種にも指定されている在来種のジュウニヒトエも小道に美しく咲いていました。

竹林への道の途中にはジュウニヒトエが咲いていました

 縄文のビーナスとか、ハマグリを模した土偶とかが出てこないかなぁ……さすがに縄文時代は長いので、何千年も違うと無理か~と思いながら竹林を通り抜けました。それにしても、やはり牛窓は海を徹底的に活かすのが一番と歴史は言っているような……牛窓湾のおへそ「黒島」を中心に2万9千年の長尺の歴史を巡るのも一興です。

黒島北側浜辺ではハマダイコンが風に揺れていました
砂浜にはびっしりとハマヒルガオも咲いていました

■参考文献:『牛窓町史』、『吉備の縄文貝塚』河瀬正利、『渡来氏族の謎』加藤兼吉、『倭国 古代国家への道』古市晃
監修:金谷芳寛、村上岳
イラスト:ダ・鳥獣戯画
写真と文:田村美紀

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