「空気は、読まない」では、前には進めない。

画像1

ちょっと前に、この絵が描かれたチラシがうちのポストに投函されていたのですが、吉田戦車の挿絵だったので、ちょっと懐かしさもあって捨てられずにいました。

それで思ったのですが、「空気を読む」って表現、いつごろから使われ始めたんだろう?って思って。2000年代には確実に使われてましたよね。2007年にはユーキャン新語・流行語大賞に「KY」がノミネートされ、社会的にも広く認知され、定着したと思います。

ところで、1980年代にはすでに「時代の空気をつかむ」という表現があったようです。amazonで「時代の空気」と検索したところ、このような書籍がヒットしました。

あてずっぽうですが、この「空気を読む」という表現は、おそらく「行間を読む」という慣用句から派生したものだと思います。文章には、行と行の間に余白がありますが、ここから、文章としては書かれていないが、筆者が本当に言いたかったであろうことを読み取る、という意味です。文章ではなく口頭で話される言葉には「行」がないので、「空気を読む」となったのではないでしょうか。

日本人は、文化的な均一性が高いため、会話の前提となる文化や価値観がより多く共有されており、「全てを語らずとも理解可能」という傾向があります。これを、ハイコンテクストというそうです。「一を聞いて十を知る」とか「以心伝心」というのも、そういうハイコンテクストな民族性という文脈で理解できると思います。

話を戻しますが、数人ないし数十人のコミュニティの「空気」すら読めない人、読もうと努力しない人には、もっと大きな単位の「時代の空気」を読むことはできないんじゃないかと思います。

先進的な人というのは、およそこの「時代の空気」を読む力に長けた人なのではないかと思うのですが、「空気は、読まない」という東京新聞のキャッチコピーからは「時代に背を向ける」というニュアンスを(私が、勝手に)感じ取ってしまうのです。

それが如実に現れているのが「真実」「進歩的」といったキーワードです。

まず、「真実」という単語のチョイス。説明がめんどくさいので適当なウェブサイトを引用しますが

意味は似ているが、事実はひとつで、真実は複数あると言われるように、事実と真実は異なり、一致しないことの方が多いくらいである。

ちなみに、英語だと、事実=fact、真実=truthですね。

それでなくても、真実という言葉は「ネットde真実」などと揶揄されるように、自分から言うのは正直ちょっと小っ恥ずかしい言葉です。

「進歩的」に至っては、もっと露骨ですね。字面通りに取れば、進歩的=先進的、みたいな印象を受けますが、なんせ「進歩的」という言葉は、1960~70年代の共産主義者たちが好んで使っていた、バリバリのアカワードですからね(笑)。こいつら、21世紀の現代に文革でもやるつもりかよ、と(笑)。

東京新聞が、もはや若者をターゲットにする意思は微塵もないということがよくわかりますよね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?