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Re:象徴性

現在自分の設計において大切にしていることが二つある。
「象徴性」と「記憶の共同体」である。今回は象徴性について考えてまとめてみた。

建築と象徴性

日本人が象徴性を考えるときに最もイメージしやすいのは「天皇」である。日本人にとってシステムの一部としての「君主」ではなく、血縁や思想、歴史を超えた日本国、民という抽象的概念の代表としての「象徴」はふさわしい言葉であるのではないだろうか。この象徴によって内発的に心を落ち着けられる人は多くいるだろう。災害時の慈善活動や日々の政、文化・伝統としてなど、象徴が日本にもたらす役割は大きい。

建築の形態としての象徴性は、根源的にはコスモロジーという未知なるものへの畏怖から守るためのメタファーであった。そこでは主に装飾という部分に宿ったり、自然に倣った建物の配置によって表された。そして宗教建築は神に近づける宗教の威厳を示すための形態と体験としての空間が備えられ、形態と空間に象徴性が見出される。ゴシック建築はその最たる例である。近代に向かうにつれ、教会の威厳が落ちてきたことによるネオクラシズム建築によって復興を目指した。そして、国家権力の象徴としてナチスのシューペアに至るまで権力側によって利用されてきた。
日本では竪穴式住居から始まり、高床式倉庫、古墳、仏教建築、寝殿造、書院造、そして戦前に帝冠様式が生まれた。城建築に象徴性を感じ始めたのが近代以降なのは、権力の象徴としてではなく、軍事施設としての役割がおおきいからであると考えられる。建築の部分において象徴的なものとしてイメージしやすいのは大黒柱であろう。これは説明するまでもない。また篠原一男氏が指摘したように、日本建築では床にも象徴性が宿る。たたみ、土間、月見台など古来の建築には床によって、様々なイメージを呼び起こし、そこに象徴性が宿っていた。

象徴性は戦前の権威主義的なイメージが強く、第二次世界大戦後に廃れていった。70年台に権威ではなく家型としての象徴性など一時的な復権が見られたが、結局は消費社会の中での所有対象のモノとしてのイメージに吸収された。また都市の高層建築化により、数と大きさによって形態としての象徴性は失われていく。空間における象徴性は内部空間に持ち続けることで建築家は抵抗してきた。
その後にポストモダン建築において、消費社会の表象的な欲望の記号となり、バブル経済の崩壊とともに崩壊した。高騰する地価によって都市から象徴的な空間ではなく、人を出来る限り収容できる大きく単純な箱だけが求められた。
以上の流れを簡潔にまとめると象徴性は、コスモロジー→宗教→権威→国家→消費の流れで、大きな物語と結びついてきた。象徴を求めるということは集合的無意識であったが、
90年代以降、経済力を失っていった日本の建築は、ジェネリック化、ジャンクスペース化が加速化し、すべてが代替可能なものとなり、象徴性という交換不可能なものは忘れ去られたものとなる。

小さな物語を作る象徴性

ポストモダンの時代までは大きな物語としての象徴性が求められてきたが、大きな物語なき現代として我々は何にすがって生きているのだろうか。高度経済成長期以降、形態と空間の象徴性が都市や地域から消えていき、住宅の内部からも徐々に消えていった。個人は消費という大きな物語の中で、モノによってそれを代替してきたが、バブル崩壊とともにモノ消費の限界を迎えた。
そこにあったのは大きな物語のない終わりなき日常であった。
終わりなき日常を生きる中に1995年にオウム真理教や阪神淡路大震災などの非日常的な出来事が起こったが、すぐに日常の中に吸収された。
「終わりなき日常」は2,011年の東日本大震災によって、「いつかは終わるかもしれない日常」と意識され始めてきたが、結局はまた日常に吸収される。日常を変えようと原発デモ、安保法案反対デモなどによって、抵抗する人々もいたが、何も変えることもできず、今ではその活動はほとんど忘れ去られている。逆に日常を変えないために大きなシステムの中に自ら流れ込んでいく人々も多くなる。
そんな中で、サブカルチャーの世界ではセカイ系という小さな個人の物語が世界を変えるというファンタジーを生み出した。多くの共感が得られたが、勿論、結局は何も変えられないどころか、小さな世界の中に閉じこもることを肯定してしまった。
しかし、東日本大震災はたくさんの小さな物語を生み出した。
その小さな物語が人とつながることによって、何かを少しだけ変えることが出来ることがわかってきた。相互扶助、地域回帰、郷土愛など、金銭を超えた繋がりを多く生み出した。
そして現在、クラウドファンディングは個人の物語が、その物語に共感できる少数の人の助けによって、共有される小さな物語を多く生み出すことを可能にしてくれた。また観光客としてのゆるいつながりは共同体と他者の接点を生み出す重要な動きであることがわかってきた。そして、地域の共同体に帰り、関係人口としての都市圏との多拠点生活も今後は重要な動きとなるはずだ。
地域で作られる小さな物語が地域から都市へ繋がっていく。そのことで大きな物語ではなく、たくさんの小さな物語の共有は確かに社会の小さな何かを良い方向に変えてくれる。

建築にある象徴は小さな物語を作ることが出来る。
屋根裏、階段下の隙間、押し入れの中、無駄な余白のスペース、木々に掘られた装飾など、すこし昔の建築なら至る所から小さな物語を作り出すことが出来た。しかし合理性やコスト、安全性を追求する現代の建築においてはどんどん小さな物語は消えていっている。
柱はかつて子供の身長を刻まれ、そこに家族の物語を作り出した。町のランドマークはそこにあった物語を思い出させる。形態によって知覚的された象徴性は容易に共有されてきた。逆に内部空間で生まれる小さな物語をいかに共有しうる建築を作っていくことが重要となっている。

身体としての象徴性

古来から象徴性と身体感覚は強く結びついてきた。
象徴性を示すのにピラミッドや古墳のように人体の身体感覚とは離れた圧倒的なスケール感が重要であった。それは自然という大きな存在に近づくための手段だったのかもしれない。そして、ゴシック建築に見られる高さのある空間は天に昇っていくような身体的な感覚を与えてくれる。
もう一つ重要なのは、入れ墨であった。部族に見られる所属、身分や物語を示す入れ墨は身体に痛みを伴うことで共有されてきた。
スケールは、資本主義によって巨大な建物が立ち並び無効化し、入れ墨は日本においては、明治政府により見せることを禁じられ、近年は暴力団を示唆することが多く、忌み嫌われてきた。西洋ではファッションとしての装飾が戻ってきたが、そこにはもう共有される物語がなく、象徴性が見られない。よって象徴性と身体性の相関が一般的には忘れ去られてしまった。
そして、2000年以降はSNSの発展は、虚構の中の別人格を形成し、身体と心が結びつかない自我をもたらした。SNSは我々の感情を消費し続けるが、身体的な苦痛を忘れさせてくれる。さらに携帯電話は、快適に暮らせる必要な空間を極端に縮小化した。今後はVRやプロジェクションマッピングによって更に空間は意識されないものとなっていくかもしれない。

そもそも我々は身体感覚なしに人間でいられるのだろうか。
人間が言葉を発し、コミュニケーション技術を高めた要因のひとつに身体の安全保障が考えられている。人間が道具を作ることによって、体の大きさが集団内での地位を表すことはなくなった。体の小さいものが、体の大きなものを倒すことが出来るようになり、暴力の平等化が起こり、暴力を使うまでの過程が重要となる。そこで言葉を発することによって感情的留飲を下げたり、交渉するなどのコミュニケーションが暴力を未然に防ぐ効果となる。
だからこそ身体の安全性を感じなくなる、痛みに対して鈍感になることは非常に危険な兆候だ。SNSによる匿名での攻撃性はこの最たる例となる。そして他者の痛みに鈍感であることは、全体主義に結びついたこともあった。

現代の一般的な建築は安心・安全で合理的に作られることが多くなり、形態としての特徴はなく、空間はフラット化した。そのことで身体性を感じることが少なくなった。
かつて建築は内部にいるとき身体の危険を忘れさせてくれるものだったが、都市空間も安心・安全で埋められているため、外と内との身体への差異すらなくなってきた。靴を脱ぐことと自然災害だけが差異を思い出させてくれる。
かつての民家にある土間の床の三和土は独特な硬さと温かさを持っていた。そして土間と居間には大きな段差があり、やすらぎの場と活動の場を明確に分けてくれた。畳は皮膚で井草を感じることで、安らぎを与えてくれ、床に座るという行動は身体に多様な動きをもたらす。
フローリングだけのフラットな床は床の象徴性を消し去った。
柱はその建物を力強く支えているという安心感を与えてくれる。身体が安全であると感じられることはもっとも建築にとって根源的なことであろう。しかし、その存在はいつの間にか邪魔な存在として壁の中に隠され、家を守る柱の神はどこにいってしまったのだろうか。
現代の建築には安心・安全は必ず求められており、それらを排除して建築を作ることなど不可能である。それを感じながら、如何に身体性を取り戻すのか。建築における身体性を喚起する象徴性は、もはや自然発生しえないので、造り手によって意識的に「作ること」で付加され、「住まう」ことによって「考えられる」という原点に帰らなくてはならない。


結び

以上、小さな物語と身体から現代の建築の中に象徴性の復興が必要であるということについて述べてきた。
象徴性を作り出すことは本来なら難しいことではない。建築の形態やテクトニックなものだけではなく、くぼみや出っ張りなどの小さな部分や場所の余分な何かであったり、建築家の内発性から作られた不合理なものであっても良い。理性や合理性だけで考えられた建築からは象徴性は生まれない。象徴は個人や共同体の想像であり、身体の延長としての存在であるから。
そして新しく創り出される象徴性は以前のものよりも決して力強くはない。
いや、力強い必要はない。
なぜなら感情を和らげと身体を繋げておいてくれる宿り木として求められているものである。

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