「怒」という感情

近年「怒」という感情が嫌まれる。
大企業では部下に対して、パワハラ行為にあたるから「怒」という感情を表すことが禁止されている。スティーヴ・ジョブズも英雄視されているが、すぐに怒鳴りちらしていたという彼も一歩間違えればパワハラ親父として認定され、今ほどの名声もなかったかもしれない。

またこの「怒」という感情をうまく表せなかったり、そもそも怒ることが出来ない人も多くなっているのではないだろうか。そして「怒」という感情に対しての免疫もなくなってきているのではないだろうか。自分自身プライベートではこの「怒」という感情を示すことが滅多にない。そして表すのが上手くないと思っている。「怒」とは決してキレるという感情ではなく、自分の意思の表現のひとつである。自然と溢れるものだし、コントロールもしなくてはいけない。

しかし、建築の設計の仕事をしていると「怒」という感情を表さなければいけないことが多々ある。
本気で良い物が作りたいから現場の人とぶつからなくてはならない。
設計側は細かいディテールなど、こだわってデザインしているのだが、それを実現してくれるこだわりのある職人や現場監督が減ってきている。
現場が職人的こだわりがないと、すぐに耐久性がないからダメだとか言って、施工が楽な方に逃げられてしまう。デザインの仕事は細かいところの積み重ねで、完成するものが大きく変わってくるので簡単に妥協は出来ない。
しかし「怒」を露にしてぶつかっていくと、自分も回りもどんどん疲弊していってしまう。「怒」の感情も伝染するので、「怒」のループに陥ることもある。だからこそコントロールして向き合っていくことが必要だ。

そして怒ることによって、記憶として残していくことも大事である。
きちんとした「怒」の感情でないと、すぐに忘れてしまう。アベノマスク、原発、集団的自衛権のデモ。多くの国民が怒ったと思ったが、すぐに忘れているので大した怒りでもなかったのだろうか。グレタ・トゥーンベリが環境問題で怒りを露にしたスピーチは、多くの人の記憶に残るものとなったが、同時に嫌悪感を持った人も多くいた。

そして建築物としてもこの「怒」という感情を伝えていくものは今後作っていけるのだろうか。日本から怨霊はどんどんいなくなり、建築物としての「怒」は首塚だけが残る。慰霊の施設は「慰める」ものであり、「怒り」を沈めさせるものではない。太平洋戦争で亡くなったひとやその家族も、国への怒りはない。原発事故で地域を追い出された人々の怒りは残していけるのだろうか。

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