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結界

 汗がやたらとべたつく早朝。高架下の茂みの中で、ハルオは目を覚ました。
 うるさいと思ったら、近くで鳥たちが盛り上がっていた。何か噂話でもしているようだった。昨晩も暑さでよく寝られなかったため、はじめは起こされてイラついたが、彼らの話す内容を聞いているうち、それどころではないことに彼は気づいた。
「なんだとっ! そんなことがっ!」ついにただ聞いていられなくなり、ハルオは叫びながら跳ね起きた。
 驚いた鳥たちはあっという間に、濁った空へ散っていった。

 その日の昼、ハルオは炊き出しに参加した。
 ぶっかけ飯を受け取ったあと、ハルオはいつもの仲間たちと並んで、石段に腰かけた。飯をかきこみながら、彼は今朝耳にしたばかりの話を、彼らにも聞かせた。
「本当なんだって!」ご飯粒が口から無数に前方に飛んだ。「おれは聞いたんだ! あのチビどもが気付いたんだよ!」
「でも、トウキョウの一部に結界を張るなんて、そんなことが可能なのかね……?」
「いくら極悪非道とはいえ、役所の奴ら、そこまでするか……?」
「いやそもそも、そんなことできるのか……?」
「でも、もしそれが本当だったら、つじつまが合うじゃねえか! ほら、いつかの公園の件に!」
 彼らの話している公園とは、昨年まで確かにシブヤにあり、多くの路上生活者たちが活動の拠点としていた場所のことだった。今年の初め。その公園は一晩にして、忽然と街から消え失せたのだった。
 その前夜。街は奇妙な静けさに包まれていた。そして夜が明けると、昨日まで公園があったはずのところには、見知らぬおしゃれな商業施設が建っていた。昨夜までそこにいたはずの仲間たちの姿も消えていた。代わりに、綺麗な服を着て、明るい笑顔を浮かべた家族連れや若者たちがそこを歩いていた。
 道を間違えたのだろうか。はじめに彼らはそう思った。目の前の現実を否認したのだ。だが時間とともに、現実が彼らを押しつぶしていった。ほとんどパニックになりながら、彼らは見知らぬ商業施設の周りをうろうろとした。だがそこに公園があったという痕跡は、どこにも見当たらなかった。ただ警備員たちに、「ここはお前たちが来るようなところじゃない」と追い払われただけだった。
「鳥たちが話すには、」ハルオは続けた。「どうも地上からだと、そこに張られた結界には気付かないようになってるらしいんだ。彼らの仲間たちの内の一羽が、偶然その近くを飛んでいたとき、結界が少し弱くなる瞬間を目撃したらしい」
「でもどうやって……」
「知るかよ! おれがそんなの! でもそうなんだってよ!」
「そういうことだったのか……」
「あいつら、きたねえ真似しやがる……」
「だろ! 本当にきたねえよ! こんなインチキみたいなやり方まで使って、街から俺らを追い出しにかかるなんて……!」

 その日の太陽が沈む頃には、街にいる路上生活者のほとんどが、誰かからその話を聞いていた。彼らの反応は様々だった。疑う者、ハルオのように憤る者、興味を示さない者、あるいはすでに何もかもを諦めている者。色々な者がいた。
 そして彼らのうちの何人かは考えた。このままになどしておけるかと。彼らは十人ほどのグループを作った。そこにはハルオも含まれていた。彼らはもううんざりしていた。自分たちを排除する世間や社会に。だからこそ、彼らはついに決めたのだった。立ち上がることを。奴らと戦い、公園に張られた結界を破らんと。
 街に光る監視の目をかいくぐり、彼らは何度も集まった。川原で。公園の片隅で。ビルの屋上で。彼らは対抗策を話し合った。
 それから、彼らは結論を出した。彼らはある人物に会うことにした。

 その女性は、同じ路上生活者たちの群れに加わらず、いつも一人で行動していた。彼女は神出鬼没だった。街を歩いていると、気付けばそこに彼女がいるような気がしたし、あるいはどこにもいないように感じた。彼女が普段どこで何をしているのかも、どこで眠っているのかも、同じ路上生活者たちでさえ誰も知らなかった。
 季節に関わらず、彼女は汚れたローブを幾重にもまとっていた。腰を大きく曲げ、左足を引きずって歩いた。黒ずんだその姿は、巨大なカラスのようだった。見た目には年齢も分からなかった。まだ五十代だと言われたら、そういう風にも見えたし、すでに二百歳を超えていると聞かされても、どこか納得してしまう雰囲気があった。
 そして路上生活家たちの間で、彼女は「魔女」と呼ばれていた。理由は誰も知らなかった。ただ単に、見た目からそう呼ばれていただけかもしれない。だが彼女がそう呼ばれるようになった理由として、あまりにも多くの噂が流れていた。彼女が魔術を使い、鉄を精製したり、子どもを消したりするのを実際に見たという噂が。
 だからこそ、結界などといったふざけたものが実在することを知った今、彼らが頼る先は、彼女ぐらいしか考えつかなかったのだ。

 街に住む路上生活者たち同士のネットワークを駆使して、彼らは彼女を探した。街のあらゆる箇所に彼女を追い求めた。だが彼女は、なかなか見つからなかった。それでも、ついに探し始めてから二週間後、彼らは彼女の影をつかまえた。
「………………」
 周囲を取り囲んだ男たちに、彼女は無言で、鋭い視線を振りまいた。その眼は古い牛乳のように濁っていて、どうしてか微かに震えていた。
「聞いてほしい話があるんだ」彼らは頭を下げた。
 彼らの長い説明を、彼女は無言のまま聞いていた。そして説明が終わっても、まだ何も言わなかった。沈黙の塊として、彼女は周囲の男たちを睨んでいた。
「何か知りませんか」しびれを切らして、ハルオは言った。
 それでもまだ、彼女は黙り込んだままだった。そのまま五分ほどが経った。ついに諦めて、彼らは帰ることにした。噂は噂だったのだ。彼らはそう思った。
 その時だった。彼らがその声を聞いたのは。「おい」
 彼らは驚いて振り返った。それが彼らが初めて聞いた彼女の声だった。
 呆気に取られている彼らの前で、彼女は続けた。
「いろいろ考えられるけど」その声はかすれていて、焦げた紙が崩れる音のようだった。「霊符による結界の可能性が高いと思う」
「霊符?」
「お札のようなものだね」
「じゃ、それを剥がせばいいのか?」
「簡単にはいかない。そもそも霊符を破るためには、結界の中に入らなければいけない。だけど、お前たちにそれはできないだろ?」
「じゃ、どうすれば……」
 頭を抱える彼らを、彼女はしばらく無言で見ていた。それから再び口を開いた。
「わたしに考えがある」

「すべての準備が完了した」ハルオは彼女に確認した。「これで大丈夫なんだな?」
 彼女は静かに頷いた。
 彼らは今、都内のある別の公園にいた。寂れた雰囲気が全体に漂い、彼女と彼ら以外の姿はなかった。そして公園の四隅には、彼女が用意した霊符が貼られていた。
 初めて彼らが彼女と話してから、すでに三日が経っていた。
 その間、彼らは彼女の指示に従って、色々なものを集めた。必要とされたのは、特になんて事のないものばかりだった。壊れた腕時計や、三十センチほどの木の棒など、ごみとしか思えないようなものだった。こんなもので大丈夫なのかと彼らは首をひねったが、誰一人彼女が何をするか知らないので、どうしようもなかった。
 その後、彼女に指示された公園にこうして彼らは集まったのだった。

 これが最後の仕上げだと言って、彼女は公園中央の地面に棒で円を書いた。書き終わると、その中に入るように彼らに言った。
 相変わらず状況を理解できないまま、彼らは円に足を踏み入れた。円は彼ら全員が入るには少し小さかった。はみだしちゃいけないのかと彼らは聞いた。だめだよ。彼女は答えた。全員がちゃんと円の中に入ってもらわないと、結界を破ることはできない。
「これでいいのか」互いに詰め合いながら、代表してハルオは尋ねた。
 彼女は例の濁った眼で、まっすぐに彼らを見つめていた。
「この公園と例の公園は地理的に鏡対称の位置にある」彼女はやけに早口で話した。「この公園に結界をかければ、鏡位置にある例の公園には逆結界がかかって、奴らが作った結界は解けるはずだ」
「そうか。よし。じゃ、これからどうするんだ?」
「全員で祈りを唱えてもらう。『我ら罪を償う。浄化の光よ、我らを清めたまえ』と繰り返し言えばいい。円から外に出てはいけない」
「よーし、みんな。唱えるぞ。せーのっ!」
 それから彼らは唱えはじめた。

 しばらくの間、何も起こらなかった。
 だが呪文を繰り返すうち、地中深くから鈍い音が聞こえ始めた。砂が舞い上がり、風が激しくざわめいた。彼らは怖くなった。だがむしろ言葉にすがりつくように、彼らは呪文を唱え続けた。やがて地面まで震えだした。
 それから突然、それは起こった。黒く透き通った幕が円を包んだのだ。それは円の線上から、はるか天空まで立ち昇った。
 そして彼らは円の中に囚われ、最早出ることは叶わなくなった。
 あまりに驚いたせいで、彼らは唱えるのをやめてしまった。円の中は途端に静かになった。だが地面はまだ震えていたし、風もしきりにざわめいていた。呆然とした表情で、彼らは目の前の黒い幕を見つめていた。好奇心に負けて、一人がそれに手を伸ばした。途端、彼は悲鳴を上げた。彼の手のひらは酷いやけどになっていた。
「おい、どうなってる!」初めにハルオが叫んだ。「失敗したのか!」
 彼女だけがまだ唱え続けていた。正しい呪文を。彼らに教えた嘘ではない、本当の呪文の方を。詠唱はまだ済んでいなかった。彼女の濁った眼の中には今、ついに憎しみの炎が揺らめいていた。
 それを見た彼らは、さらに叫んだ。だが彼らが気付いたのは遅かった。少しして、詠唱は終わった。その途端、中の空気がなくなったかのように、黒い幕は一瞬にして縮んだ。悲鳴があがる時間もなかった。
 静かに戻った公園の中には、彼女一人の姿しかなかった。
 
 全てが終わったあとの公園で、彼女はしばらくただ立ちつくしていた。彼女の息は荒くなっていた。複雑で強力な呪文を唱えたからだ。いくら彼女ほどの魔女であっても、久しぶりに大きな呪文を使うと、やはり身体に堪えるのである。
 風でローブがはためいて、彼女の震える肩を隠した。そしてようやく息が整ったあとで、彼女は動きだした。公園に残っている円を足で消した。それからすぐにその場を離れた。
 動くたびに、全身につけられた痣たちがまた痛んだ。彼らにつけられた痣だ。だが今日の痛みは、いつもより少しマシに感じた。心も軽かった。自分では気づいていなかったが、公園を出ていく彼女の口元には、かすかな微笑みが浮かんでいた。何十年ぶりか、あるいは何百年ぶりかも分からない笑顔が。
 男たちを閉じ込めた封印をそのままにして、彼女は公園を後にした。

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