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巨人の剪定(完全版)

 巨人のコリーの剪定について、根室は妻から聞かされて初めてそれを知った。遅い夕食を二人、自宅のリビングで取っていたときだった。妻はコリーの名前を全然覚えていなかったので、「あのう、ほら。あの人よ。こっちじゃなくて、二子玉のほうの河原に、一人でぽつんと立ってる人。橋渡ってすぐのところに……。なんかちょっとほら、いつも眠そうな顔してる……」と要領を得ない説明をずっとしていたが(彼女は何につけても説明があまり上手ではない人だった)、根室にはそれがコリーのことだとすぐに分かった。「ああ、そうそう。コリー」妻は頷いた。「そんな名前だったわ。よく覚えてるね」
「コリーが」箸を止めたまま、根室は続けて聞いた。「剪定? 本当に?」
「なんかそうみたいよ。さっき帰ってきたとき、電車下りてから、駅の近くで、そんな貼り紙貼ってあったの見たもん」
 その後。妻の話題はすぐに、彼女が勤めるオフィスの近くにいるという、別の巨人のことに移った。あの人ももうだいぶ大きくてさあ。口をもぐもぐさせながら妻は話した。何だっけ、こっちの人の名前。もう一回。ああ、コリーね。そうそう。どうでもいいけどなんか犬みたいな名前だよね、コリーって。まあそれはよくて。でね。その人、コリーより絶対! 大きいのよ。だから、コリーが剪定なら、あの人もフツーに剪定だと思うんだよね。基準とかどうなってんだろう。本当にちゃんとしてんのかなあ。
 妻の話に、根室はいつも通り相槌を打っていた(少なくとも自分ではそうしていたつもりだった)が、心の内では大きなショックを受けていた。コリーが剪定になる。あのコリーが……。様々なイメージが頭の中で渦巻いていた。巨大な鋸を首に入れられ、徐々に身体から離されていく頭部。次々と切られ、地面に落とされていく腕たち。荷台を覆ったビニールが、ぱんぱんに膨らんだトラック。そしてそれが走り去った後、河原に残される、数時間前までコリーだった物体。日が沈み、真っ暗な河の畔にぼんやりと伸びている、ごく単純な形の細長い影……。
 夕食後、シャワーを浴びている間もずっと、その影が根室の網膜の裏にずっと焼きついていた。ベッドの上で妻の「おやすみ」を聞いたときも、同じ影が天井に映っているように見えた。金縛りにあったように仰向けのまま、長い夜を根室はその頭上の影と向き合って過ごした。それでもいつの間にか眠りに落ちていた。目を覚ますと、部屋は明るくなっていた。そして起きたとき、彼はコリーのことについて忘れていた。内容を思い出せない悪夢を見た後のような、嫌な倦怠感だけが体に残っていた。寝ている妻を起こさないようにベッドを出た後、リビングでストレッチをし、シリアルを食べた。いつも通りの静かな朝だった。だが遅れて起きてきた妻は、彼の顔を一目見るなり、「大丈夫?」と眉を顰めた。「なんかすごい顔してるけど」 何でもないって顔じゃなかったじゃん絶対、と顔をさらに険しくする妻を残し、家を出た。そして駅に向かって歩きだしたとき、昨晩の動揺とその理由を、彼はようやく思い出した。 

巨人の剪定

 駅に向かう彼の足取りは、どうしても軽くならなかった。昨晩の影が足元から伸びていて、それを引きずりながら歩くようだった。駅の近くまで来たとき、彼は昨晩の妻の話を思い出した。コリーについて書かれているという貼り紙を、歩きながら目で探してみた。だが見つけられなかった。かといって、こんなことで妻が嘘を言うはずもなかった。彼の見えないところで、知らないところで、想像もつかないほど多くのものたちが、いつの間にか決定され、音もなく進行されていく。エスカレーターに運ばれながら、そんなことを彼は漠然と考えた。ホームに上がるとたくさんの人がいた。何が起きようと変わりそうにない、硬化した秩序が列をなしていた。根室は彼らに加わった。数分後、時間通りに電車は来た。流れとともに彼は電車に乗りこむと、後ろから押されながら吊革を掴んだ。数秒後、空気が抜けるような音とともに電車のドアが閉まった。それから電車は、多摩川に架かる高架の上を、急加速しながら渡っていった。速度の中で、根室は窓の外に視線を向けていた。見ないこともできた。でもそうしなかった。あっという間に電車は川の中間点を過ぎ、また減速を始めた。そして二子玉川駅の巨大なホームへと滑り込んでいく電車の車窓から、根室はその姿を見た。
 石や雑草のほか何もない、荒漠と広がる川原に一人、巨人のコリーは今日も立っていた。昨日までと少しも変わらない場所に、昨日までと少しも変わらない様子で。だらんとした姿勢でそこに立ち、ぼんやりと空を見上げていた。ぽかんと口を半開きにした顔は、朝日の方に向けられ、両目が眩しそうに細められていた。胴の周りに伸びた無数の長い腕たちが、風にたわみながら、魚群のように揺れていた。

 通勤電車の車内から、根室はこんな風に時々、コリーの姿を目にしていた。電車が近くを通過していく間の、一瞬より少し長い景色の中に。だが今朝まで、彼はその姿を、日常風景の中における、単なる一要素としか認識していなかった。カフェの看板や、美容室外のポスター、自動販売機横の落書きと同じような類。視界に入ったそばから、意識の表面にも留まらず、互いを補完し合う虚像の坩堝へ、自分の中の色のない領域へと流れ落ちていくものたち……。根室にとって、コリーの姿とはそういったものでしかなかった。少なくとも昨日の晩まで。妻の話を聞くまでは。
 今朝、根室は改めて、電車の窓から実際のコリーの姿をよく見てみた。そして驚いた。確かに、コリーは大きくなっていた。以前よりもはるかに。こんなに大きな変化に気付かないなんて、人は本当にわずかごとの変化に気付けないのだと、そう思わざるを得なかった。初めて見たときは八メートルほどしかなかった(と思う)背丈は、今では川の堤防を超えるほどまで(倍ぐらいに?)伸びていた。身体の他の部分と比べて、頭部がいやに発達してきていた。植物の種子のようなその頭は、ぶよぶよと巨大に膨らみ、首の上で不安定に揺れていた。全体にその体は(そう言われてみれば確かに)、自らの巨大さに耐えかねて、今にも倒れてしまいそうだった。剪定。頭の中でフリック入力を繰り返すように、根室は色々な考えを巡らせてみた。予防措置。安全対策。近隣住民の不安を取り除くため……。その時。沈み込むようにまた電車が速度を落とし、揺れの中で彼は物思いから覚めた。次の瞬間、窓の外の景色が切り替わった。川原は見えなくなり、代わりにそこに、ホームで電車を待つ人々の真っ黒な壁が現れた。慌てて根室は窓の外から視線を外した。そして速度がゼロになった。
 でもどうして。ドアが開き、車内になだれこんでくる流れにまた耐えながら、根室は思った。どうして自分は、コリーの剪定にこんなにも動揺しているのだろう。コリーなんて、これといって他と異なる特徴があるわけでもない、全国に何十万といる巨人のうちの、ただ一体にしかすぎないのに。そもそも。根室はさらに思う。自分は別に巨人が好きなわけですらないのに。日本のどこで、どの巨人が剪定になろうと、どうでもいいというふうにしか思っていなかったはずなのに。

巨人の剪定

 巨人は、基本的には周囲に害をなすことのない存在であり……その生態については多くの部分が未だ未解明のままではあるものの……植物に近いとされ……個体は過去確認されておらず……成長につれ……などの危険性が高まり……実際にそういった事故が過去全国で何件も起こって……本『巨人剪定診断マニュアル』は……根室さん……リスクのある巨人を早期発見するための……根室さーん……診断の基準は以下の通り……おーい、根室さーん……地面から頭の先まで……根室さん!
「根室さんってば」突然、デスクに手が置かれた。「聞こえてないんですか? さっきからずっと呼んでるのに……。何してるんですか。そんな怖い顔して」
 スクリーンから根室が顔を上げると、すぐ隣に同僚の藤森が立っていた。「何見てるんですか、これ」不審そうな彼の顔を見て、根室は急に今朝の妻の顔を思い出してしまった。「えっ。何笑ってんですか。怖っ」本気で気味悪がっている声。「何でもないよ」「いやいや。怖っ。普通に」「何でもないってば」
「ま、いいんですけど……」肩をすくめてから、藤森は左手を上げた。手の中に提げた弁当を軽く振りつつ、彼は続けた。「食いましょうよ、昼飯。もうみんな食いに行っちゃいましたよ」

 藤森は根室が社内で最も親しくしている同僚だった。およそ五年前、彼が以前の営業部から、根室の所属する企画部に転属してきた際に知り合い、それから職場で色々話すうちに仲良くなった。年がそれほど離れていない(根室が三つ上)こともあり、とにかく色々な点で感覚が近く、話が合った。今では二人だけでよく飲みにも行ったし、休日に男二人でボルダリングに行ったりもした。昼休みもよく今日のように、デスクの周りでそれぞれ弁当をつつきながら、色々な話をしていた。
「へえ、『巨人剪定診断マニュアル』……」スクリーンに向かって目を細め、藤森は言った。「そんなのあるんですね。全然知らなかった」
「いや、俺も今日初めて見たよ」根室は正直に答えた。
「そうなんすね」少しの間、弁当箱に顔を落とし、卵焼きを口に入れた後、藤森はまた顔を上げた。「なんで、そんなの見てるんですか。急に」
「別に」コリーのことは話していなかった。「なんとなくだよ」
「ふうん」何か言いたげだったが、藤森はそれ以上何も言わなかった。
 会話はそこで途切れ、二人は静かに食事を続けた。その時藤森がふと、近くにある窓に視線を向けた。根室もつられてそちらを見た。七階にある彼らのオフィスの窓の外は眩しさで歪んだ空気で充ちていた。そんな空気の奥に大小のビルが立ち並んでいる。東京の景色は腐った海のように表情がない。それぞれのビルの壁面が濃い青色に染まっていた。遮光ガラスの一枚一枚が、凪いだ海面を覆う波たちのようだ。ひたすら全てを呑み込み、内部で圧し潰すものとしての海。

「一年半ぐらい前」突然、藤森がまた口を開いた。「この近くでもやってたじゃないですか、剪定。巨人の。根室さん、覚えてますか」
「ああ」根室は思わず大きな声を上げた。「あったな、そんなこと」
「あの日」呟くような声。「平日でみんな普通に出勤してて、剪定も朝からずっとやってて。そしたら昼休み、確か菊内さんだったと思うんですけど、誰かが『みんなで見物に行こう』って言い出したんですよ。覚えてますか」「覚えてる」根室は苦笑した。「お祭りにでも行くみたいな感じだったよな」
「本当に」藤森は笑わなかった。「そんな感じでしたよね」
 藤森の様子がいつもと違うことに根室が気付いたのは、このタイミングだった。彼の方に視線を戻すと、彼は食べかけの弁当箱をデスクに置き、椅子の上で小さく前屈みになっていた。その姿はまるで、何かにずっと追いかけ回された末、ようやくここに逃げ込んできた後のように疲れ果てて見えた。すらりと長い手足を、身体の近くに丸め込んでいた。両肩が上下にゆっくりと動いていた。
「そういう流れになってから、みんな異常なぐらい盛り上がってて、見に行こう見に行こうって」その姿勢のまま藤森は続けた。「根室さんも声かけられてましたけど」小さな咳払い。「でも断ってましたよね。『興味ない』とか、そんな感じで」
「そうだったっけ? まあ確かに、見に行った記憶はないけど……」
「いや、おれは覚えてますよ。根室さんが断ってたの」
「そうか。まあやっぱり、昼はちゃんと休みたいしなあ。今も多分……」自分でもよく分からない理由で、根室は少し言葉が詰まった。「……今誘われても、多分同じ風に答えると思うよ。弁当食わなきゃいけないし……」
「そうっすね。根室さんは。そうですよね」
 再びデスクの周りは沈黙に包まれた。気まずい感じだった。根室は藤森と知り合って長かったが、二人が話していてこんな雰囲気になったのは、覚えている限りこれが初めてだった。思わず根室は重たい空気から視線をそらした。すると、藤森の背後の壁から天井にかけて、大きな影が広がっていた。根室は小さく息を呑んだ。壁に広がる巨大な影は、昨晩彼が見たものと同じものであるように見えた。同時に違うようにも見えた。だがそもそも、ある巨大さを他の巨大さと区別することが、私たちにどうやったらできるのだろう。とにかく今その影は、藤森に後方から覆いかぶさるようにしていた。まるで彼のことを見守るように。あるいは彼を見張るかのように。
「藤森はあの時、どうしたんだっけ?」根室は聞いた。「見に行ったんだっけ?」
「いや」また静かな答え。「オレも、行かなかったです」
「ふうん」
 それから昼休憩が終わるまで、二人はもうその話題に触れなかった。やがて食事を終え、それぞれの仕事に戻った。午後はほとんど話さなかった。二人とも忙しく、何度か業務について短い言葉を交わしたものの、それだけだった。終業後、根室が残った仕事を片付けていると、藤森に声をかけられた。「お先に失礼します」彼は笑顔を浮かべていた。だがやはりその声はいつもより少し暗いように感じた。
 そして次の日も、また次の日も、彼のそんな様子は続いた。意識していつも通り振舞ってはいるが、何か抱えているものがあるという様子。例えば一緒に昼食をとっているとき、同じミーティングに参加しているとき、ふと藤森の方を見てみると、彼は見たことのないような思いつめた表情で、何事か考え込んでいるのだった。「おい、藤森」ミーティングで彼は上司に注意されていた。「聞いてんのか」ハッとした顔。「あ、すみません。聞いてます」こちらからの視線に気が付き、バツの悪そうな表情を浮かべる彼に対し、根室はただ曖昧に眉を顰めてみせることしかできなかった。
 それでもやがて、一週間、二週間……とさらに時間が経つにつれ、根室も藤森もあの昼休みから遠ざかっていった。あれ以来、藤森の表面に断続的に浮かび上がってきていた例の暗さも、彼の内側奥底へまた沈んでいったようだった。少なくとも根室にはそう見えた。日々が過ぎていった。「実は昨日、マッチングアプリで……」とある休憩時、嬉しそうに藤森に切り出されたりした。オフィスで大きな声がして振り返ると、同僚たち数人が何やら盛り上がっていて、その中に藤森の姿もあったりした。「山火事って」移動中の電車内、隣で吊革を握っていた藤森が変なことを言い出すこともあった。「なんでそもそも『森火事』じゃなくて『山火事』になったんですかね」「知るかよ」藤森の様子が元に戻り、当然のように日常は続いた。一日一日が瞬く間に終わっていった。その間もずっと、根室は通勤電車の窓からほとんど毎日、コリーの姿を目にしていた。剪定の日は確実に近づいてきているはずだった。ただ妙なことに、剪定作業をするなら必要なはずの足場の準備などはいつまでもずっとされないままだった。毎日毎日、今日こそはと多少覚悟をして見てみても、コリーはただ前日までと同じように、川辺に裸で(?)ぼうっと立っていた。やはり剪定などしないのではないかと思うこともあったが、改めて考えてみたところで、こんなことで妻が嘘を言うはずなかった。でも、もし勘違いなら……? あるいは、もし……。「どうしたんですか根室さん」気がつくと、また藤森に覗き込まれていた。「また何か考え込んで」
「なんか最近」根室は苦笑した。「疲れが溜まってる感じでさ……」
「ああ、根室さんもですか……? いや俺もっすよ……」藤森は大袈裟に肩を落とした。「先週今週とキツかったですもんね……」一拍おいて。「根室さん、よかったら……」
「ん?」
「今週の金曜日、久しぶりに、いっしょに飲みに行きませんか。オレ空いてるんですよ。金曜日。根室さんはどうですか」

巨人の剪定

 その週の金曜日は、朝からずっと雨が少し降っていた。仕事を終えた後、二人はよく行く駅近くの個室居酒屋に向かった。店はいつものように混み合っていて、ほとんどの個室は扉が閉ざされていた。それでも店内は賑やかではなかった。個室に入ると、遠くの席から若者の笑い声が時々聞こえるだけで、他にはほとんど何も聞こえなくなった。席についた後、根室は何となく窓に目を向けた。ぴしぴしと一定の間隔でガラスに走る透明な線が、外に設置されている淡い光を、縦に切り裂き続けていた。ぼんやりと雨を眺めていたら、そのうちにビールが運ばれてきた。
「お疲れ様です」「お疲れ」二人は軽くグラスを合わせた。
 酒の席で二人はあまり真面目な仕事の話をしなかったが、この日もそれは同様だった。二人は最近の同僚の噂について話し、今度結婚する経理の田澤さんについて話した。それから、藤森がアプリを通して会った子について進展を聞き、その女性の趣味がサーフィンだということで泳ぎの練習法について話し合った。そんな風に何事もなく夜は進んでいった。その間に外の雨がどんどん強くなっていった。風も吹いてきたようだった。音につられて、話を中断した二人が再び窓に目をやると、先程まで独立した一本一本の線だった雨は、今や打ち寄せる波の面になっていた。
「参ったな……」根室はこぼした。「こんなになるって言ってたっけ?」
「いや、天気予報見なかったですね……」藤森も困った声をしていた。「しかしすごいですね、これ。台風みたいですね」
「確かに……」
 雨は一向に収まる気配もなく、窓に打ちつけ続けていた。二人はしばらく黙りこくったまま、外の様子を眺めていた。
「この間」藤森は言った。「根室さん、職場で見てたじゃないですか、『巨人剪定診断マニュアル』。あの後、俺も見ました。読みました。家で」
 根室は前に向き直った。藤森は頬杖をついて、まだ外を見ていた。悲し気な表情で、彼は窓の外を睨みつけるようにしていた。まるで彼の許すことのできない何者かが、雨の奥に見えているかのようだった。
「あんなの」藤森は吐き捨てた。「認められるべきじゃないんですよ。最初から」
「剪定が?」根室は聞き返した。
「はい」藤森は頷いた。「『剪定によって、巨人たちに何か悪い影響が及ぶということはなく……』とか何とか書いてありましたけど、あんなの大嘘ですよ。巨人たちは痛みを感じてるんです。間違いなく。手を切られるときだって、どのくらい痛いのかは分かんないけど、もしかしたら俺らと同じぐらい痛いのかもしれない。彼らが痛みを覚えているのを俺らが知らないのは、それは国の役人とかそういう人たちがそのことを隠してるからです。あのマニュアルを作ったような奴らが」
 何を言えばいいかも分からず、根室は黙りこんでいた。数秒後口を開いた。「なんで」彼は言った。「根室はなんで、巨人たちが痛がってると思うんだ?」
「思うんじゃないんです。俺は知ってるんです」
「どうして? というか、何を?」
「巨人たちの痛みを、です」そこまで話した後、藤森は言葉に詰まったようだった。窓の外を見つめる目の奥で、逡巡の光がかすかに揺れた。それから、意を決したように彼は続けた。「俺は巨人の腕を切り落としたことがあるんです。学生のとき、友達たちといっしょに。だから、知ってるんです」
 言葉を失い、根室は黙り込んだ。藤森はそっと恥じるように目を伏せた。外で雨脚がさらに強くなるのが聞こえた。びたびたと大きな音で雨が、ここを開けろとでも言うかのように、窓ガラスを外から叩き続けていた。

巨人の剪定

 雨。雨だ。雨が降り続けている。ずっと。一時も止むことなく。雨の音しか聞こえない。雨が降るとき、すべての音は雨の音になってしまう。かすかな話し声も、硬いものがぶつかり合う金属音も、衣擦れの音も遠くのクラクションも。雨はあらゆる音を従属させ、ただひとつの音とする。雨は全ての上に平等に降り注ぐからだ。いや、それは正確ではない。平等になどといった表現は。平等とは、違いがあることを前提にした言い方だ。だがそもそも、雨の下でこの世界に、初めからあらゆる違いは存在しない。自他の区別も、形や性質による差異も、意思や命の有無でさえ、雨の下では何の意味も持たない。あるいは時間の流れすら。雨はただ露わにするだけだ。折り重なった無数の可能性が、ひとつの取りうる形を取っている、その様態を。
 あの日も、と藤森は話した。朝雨が降っていたんです。午前中ずっと降ってて、午後になったら止んだんです。あの日について俺が覚えていることはきっと、色々置き換わってたり、間違ってたりするんですけど、それだけは覚えてるんです。だってあの日、雨が止まなかったら、俺たちはあんなことしなかったんですから。
 雨はさらに勢いを増す。窓の外は最早、ガラス一枚隔てたすぐ外で、海が荒れ狂っているかのようだ。その時、硬く鋭い音がする。何かが軋む音も。次の瞬間、水圧や風圧に押され、窓ガラスが剥がれて、内側にひしゃげる。ギシギシ、ぴしぴしと大きな音を立てながら、上部からゆっくり透明な壁が倒れてくる。まるで巨大な波のように。そして訪れる、一瞬の静寂。不完全な静止。その後、轟音とともに波は崩れ落ちる。二人が座っていた席もまた、あえなくその波に呑み込まれる……。
 波。圧倒的なその力。全てをその現在の地点から引き剥がすほどの力。あらゆる物を呑み込み、波は進み続ける。そして再びはち切れんばかりに高く膨らむと、また力つきて倒れ、崩れ去る。その繰り返し。その末にやがて、崩れた波たちはゆっくりと、さらに巨大な流れの中へ回収されていく。渦を巻くような回転の中へ。回転。有機的でもあり、無機的でもある運動の形。最終的に、全てはこの回転の中で起こり続ける。あるいはそもそも初めから、回転だけがずっとここにあったのだ。計算不能なほど不規則な軌道を描きながら、無数の回転がただそこで続く。止まることのない流転。雨は降り続け、波が荒れ、そして回転はひたすら続いていく……。 

 するすると回る車輪。ペダルをこぐ足。三台の自転車が、線路沿いの車道をふらふら走っていた。少し前に日が沈んでいて、辺りは薄暗かった。畑が広がるこの辺りは、この時間帯になると、まるで人影がなかった。車もたまにしか通らないので、自転車たちはライトも点けず、車道の真ん中を悠々と、蛇行しながら進んでいた。
 三本の影のように、薄闇を行く自転車。そこに乗っているのは五人の若者たちだった。二人乗りが二組ともう一人。若者五人―A、F、S、K、Yはそれぞれ、高校の友人同士だった。ぐだぐだくだらない話をしつつ、彼らは目的地に向かっていた。
「つーかさ、切った腕、小山のロッカーに入れとくとかはどう?」とK。
「それはwwwヤバすぎるwww」爆笑しながらA。「あいつ腰抜かしそうwww」
「あいつのロッカーだと、汚すぎて、中に腕が入らないとかいう可能性まであるくないww?」Sも笑いながら言った。
「確かにwww」とK。「じゃあ、やっぱり原口のかばんかー」
「いや、女子はやばいだろー」とF。「嫌われたくないしww、オレ」
「うわ! 出たよー、Fのそういうとこ」
「そもそもバレるわけねえだろwww、オレらがやったって」
「そうそう、分かんない分かんないwww」
「なんか知らんけど、バレるんだよ!ww、大概こういうのは!」Fが反論した。
 右へ左へ、自転車たちはそれぞれ道路上に大小の波形を描いていた。その動きに従って、三本の影は不定的なパターンで近づいたり、離れたりしていた。
「そういや、オレ明日朝練だわ。だりー、マジだりいんだけど」
「あれ? お前先月部活辞めたって言ってなかったっけ? 来月辞めるんだっけ?」
「そのふたつには巨大な違いがあるだろwww」
「なんかさ、オレが将来結婚するとかありえないと思うんだよな……」
「未来について何の根拠もない確信が下りてくること、たまにあるよな」
「そういえばこの間、Twitterで見たんだけどさ、なんかさ、値段だけ同じで、ポテトチップスの量とかが少なくなってることってあるじゃん? あれ、名前あるんだってさ。『シュリンクハレハレハレーション』っていうんだって」
「どうでもよくねwww? 名前なんかww」
「お前、何もかもどうでもいいと思ってる節があるよな」
「本気なんだよ、ある意味で。分かる?」
「いやいや、意味分からんwwwウケるwww」
「あーあ。9×9=81がずっとマックスのままだったらよかったのにな。思わん?」
「そう? オレ、割と好きだけどな、11の段。オシャレじゃね?」

 巨人の腕を切りに行かないか、と言い出したのはKだった。休日、彼らがそろってボウリングに行ったときのことだった。三ゲーム目の途中、Yが投じた七フレーム目の第二投は、スプリットした二本のピンの間、そのちょうど真ん中を、静かに奥の闇へと吸い込まれていった。三ゲーム目なので、特に野次も何も起こらなかった。何もかもどうせこんなもん、といったような顔をして、Yも席に戻ってきた。まさにそのタイミングで、「そういえばさあ……」と、Kがその話を切り出したのだった。
「上奈知のほうに、廃工場あるじゃんか」Kは言った。「あの近くに、巨人が一体立ってるの、知ってた?」
「あ、そうなんだ。知らんかったわ。いたっけ、あんなとこに」とS。
「オレも知らなかった。印象ないわ」Fも答える。
「いや、いるらしいんよ、小さいのが。オレも最近兄貴から聞いたんだけど」Kは続けた。「兄貴が言うには、兄貴の友だちが最近、その巨人の腕を切ったらしい」
「マー?」
「やばー」
「巨人の腕って、そんな簡単に切れんの?」
 休日のボウリング場はそれなりに混みあっていた。五人以外の客は当然ゲームを続けていた。すぐ隣のレーンでも、大学生らしき男女連れが遊んでいた。それぞれの投げるボールに対し、彼らは一球一球律儀に拍手を送っていた。とても退屈そうだった。だがその上で、その退屈さを完全に受け入れている様子だった。
「いや、マジで簡単らしい」Kは周囲の客に話を聞かれることを気にしておらず、声も全然落とそうとしなかった。「なんかやっぱり普通の巨人だと、腕がめっちゃ高いところに生えてるから、それこそ足場とか組んだり、電線の作業で使ってるような車でも使わない限り、腕なんか切れないじゃん。でもその廃工場の巨人は、足がダメになってるんだってさ。人間でいう、膝の下的な部分? その部分が全部腐ってて、なくなってるらしい。だから、普通の長いハサミ? 何て言うのかわかんねえけど、ああいうのさえあれば、普通にちょっと背伸びすれば、腕に届くんだってよ」
「へえ……」他に何を言ったらいいかFには分からなかった。「やば」
「だろ? ヤバいだろ?」Kは座ったまま、他の四人の方にぐっと顔を寄せた。「どう?」Kは続けた。「俺らも今度行ってみない? そこ。巨人見に」
「腕切るってこと?」Yは眉をひそめていた。
「まあ、そういうこと」Kは頷いた。「まあ、マジで切るかどうかは行ってから決めたらいいじゃん。ヤバそうだったら、止めて帰りゃいいだけだし」
 誰も何も答えなかった。
「なあー、行こうぜー」Kは笑顔だった。「面白そうじゃん! 行ってみるだけ! な?」
「まあ……」「別に…… 」「行くだけなら……」「暇だし……」
 そんなことを言いながら、五人はそれぞれ顔を見合わせた。

巨人の剪定

 目的地近くに着いたときには、全てが真っ暗になっていた。
 道の脇に五人は自転車を止めた。そこからは歩いて行こうと決めていた。暗闇にスマホのライトをかざし、それらしき方へ彼らは進んでいった。辺りはとても静かだった。自分たちが草を踏みしめるがさがさという音と、虫の声なのか何なのかよく分からない、細く長い音がどこか周りから時々聞こえてくるだけだった。しばらくそうやって歩いていった。すると、ほどなくしてライトの中に、廃棄された無数の建物たちの姿が浮かびあがってきた。ぼんやりと大きな建物がいくつもそこら中にあった。背の高い草たちが建物の周りを囲んでいた。壁という壁が変色し腐蝕し、あちこちに剥げが見えた。「おお……」「やば……」と少し立ち止まった後、彼らは歩みを再開した。流石に夜の工場跡にはそれなりの雰囲気があった。五人の間にも緊張感が漂っていた。互いを励ますように、あるいは互いに対して強がるように、彼らは馬鹿な話をしながら歩き続けた。彼らを拒むでもなく、受け入れるでもなく、ただ闇が周囲に広がっていた。
「いた」突然、Aが立ち止まった。「あれだ」
 全員が一斉に、Aがライトを向けた方を見た。そして思わず息を呑んだ。
 一体の巨人が暗闇の奥に立っていた。光を向けられてもなお、微動だにすらしないまま。「彼」は、恐らくかつてこの施設内において、主管工場的なものであったと思われる、一際大きな建物のすぐ外に生えていた。光景の全てが荒れ果てていた。割れた窓、崩れたブロック、ツタが這った壁……。そして今まさに現在進行形で、その建物を破壊しつくさんとしている力が、情け容赦なく巨人をも蝕んでいた。そう。その巨人は単純に老いていた。明らかに、見るからにして。Kが巨人について話したことは正しくなかった。巨人は別に足が腐り落ちてなどいなかった。老いた巨人はただ、自重を支えられなくなり、真っすぐ立つことができなくなっていた。複雑に折れ曲がったその身体は、近くの建物に寄りかかるようにして、何とか立っていた。ただ力なく垂れ下がった腕たちは確かに、背伸びすれば届きそうな高さで揺れていた。
「よし」Kが背負っていたリュックを地面に下ろしたと思うと、次の瞬間、その両手の中に高枝バサミが握られていた。「誰が腕を切るか、決めるぞ」「は? お前が切るんじゃないのかよ」とA。
「言い出しっぺだろ! お前が」とF。
「ハサミ持ってきたのだってお前だろうが!」とY。
「俺はパス! マジで無理!」とS。
 一分にも満たない、声を潜めた言い争いの後、決定が五人の間でなされた。じゃんけん。負けたやつが切る。やり直しはなし。一発勝負。
「最初は、グー…!」Kが音頭を取った。「じゃんけん……!」
 四人がグー。Fだけチョキ。

「早く行け、早く行け!」「さっさと切って、戻ってこい!」「危なくなんかないから!」「ちゃんと切った腕は拾って来いよ!」高枝バサミを胸の前に抱え、ゆっくりと巨人に近づいていくFに、背後から心無い声が浴びせかけられた。
 四人が後ろからライトで照らしてくれていたので、前が見えないということはなかった。歩きながら、自分の息の音が大きく聞こえた。草をかき分けながら前に進んでいき、気が付くと、もう巨人の足元にいた。すぐ目の前に巨人の身体があった。Fにとって、こんな距離で巨人を見ること自体、初めてだった。近くで見ると、その肌は乾き切っていて、細かくひび割れていた。何となしにFは見上げた。
 真っ直ぐ頭上に巨人の顔があった。巨人はうつむいていたので、Fは思いがけず、その顔と正面から向き合うことになった。老いた巨人はその両目を閉じていた。口が曲がり、わずかに開いていた。鼻も痛々しく折れていた。顔全体がまるで悪夢でも見ているかのように歪んでいた。その表情はあまりにも人間的だった。そのことがFを動揺させた。慌てて彼は視線を落とした。
「ほら、早く……!」と、後ろからまた声をかけられた。
「分かってるよ……! うるせえな……!」と、振り向いて声を殺しながら叫んだ後、Fは巨人の方に向き直った。二、三度、長く息を吐いた。それから高枝バサミを両手でしっかり持ち直した。そして一番近くに垂れていた腕のほうに手を伸ばし、ゆっくりとその切っ先を腕に近づけていった。
 切る直前、一瞬溜めを作った。それから一気に力を込め、その腕に刃を入れた。あまりにもあっけなく刃は入った。ストローでも切ったかのようだった。一瞬後、切り落とした腕が地面に落ちた。ぽすんと軽い音がした。
 次の瞬間、それは起こった。

巨人の剪定

 始め、Fには何が起こったのか分からなかった。次に地震だと思った。とてつもなく大きな地震が起こったのだと。地面が丸ごと反転してしまいそうなほど揺れていた。後ろで他の四人が言葉にならない声、叫びを上げているのが聞こえた。そしてFはようやく気づいた。何か巨大なものが自分のすぐ近くで、動いているという確かな気配に。がさがさがさという大きな音に。夜全体がけたたましく震えていることに。
 再びFは上を向いた。そして見た。巨人が目を開いていた。その両目は茶色く濁り、中には全然光がなかった。顔全体に先程より深い陰影が刻まれて見えた。そして巨人は、奇妙に折れ曲がり、建物に体重を預けたその姿勢のまま、何かを訴えるように、体全体を大きく揺らしていた。その動きによって地響きが起きていた。振り回された無数の腕たちが、夜をかき乱し、音を立てていた。Fはその場に立ちすくんだまま、暴れる巨人をただ見ていた。その時、巨人が口を開いた。ばかりと、唐突に。顎が外れたかのように。それから何かを吸い込むような長い音が聞こえ始めた。音は巨人の口内から発せられていた。次第にそれは叫びに変わった。獣が咆える声のような、深く重たい叫び声に。叫びが夜に響き渡った。Fはただ呆然とその場に突っ立っていた。その時、後ろから腕を摑まれた。
「おい!」振り向くと、KとYがいた。二人とも見たことのない表情をしていた。「何してんだよ! 早く逃げるぞ!」
 そう言うなり駆けていった二人の後を、一拍遅れて、Fも追った。Fは走った。前方に漠然と広がる闇の奥に、他の四人が手に持ったスマホの放つ明かりがチラチラ見えた。ひたすらその光を追いかけていった。草に足を取られ、何度も転びかけた。巨人が体を揺する音、叫び声が、後ろからずっと聞こえていた。地響きも感じた。とにかく彼は走り続けた。光景、残像、混乱、後悔、そういった全てから逃れようと。彼は走った。躓き、もつれ、それでも足を止めず、ただ走り、走り、足を回転させ続け、回転、その先で……。

 水門の横を過ぎたところで、根室は走るのを止めた。速度を落とし、息を整えるためにそのままゆっくり歩いた。河原をジョギングするとき、根室はいつもここがゴールになるように同じ距離を走っていた。日曜日の午後、暖かな光が多摩川の河原に満ちていた。川沿いの道には彼以外にも多くのランナーや散歩者の姿があった。道の脇では、クラブに入った子供たちが野球やサッカーをしていて、彼らの発するにぎやかな声が河原の音調となっていた。何でもない、いつもの日曜日の河原の景色。その中を根室はゆっくり呼吸しながら歩いていった。
 歩き続けるうちに息は落ち着いた。そこで根室は川の向こうへと目を向けた。遠くにその姿が見えた。コリー。剪定が決まった巨人の姿が。二週間前、ついに彼の周りに足場が組まれ始めた。今ではすっかり、コリーの身体は足場に囲まれていた。その姿は極小の檻に囚われたようになっていた。
 最近いつもそうしているように、根室は道の脇で立ち止まった。それから、川の向こうの姿を真っ直ぐに見つめた。
 無数の鉄の棒で拘束されても尚、コリーの様子は以前と変わらなかった。ただぼんやり光を見上げ、目を細め、口をぽかんと開けたまま、だらりとした体勢でそこに立っていた。不自由さなど何も感じていなさそうだった。実際そうなのだろうと根室は思っていた。物質的な拘束は、対象がそう意識しない限り、誰からも自由を奪えやしない。どんなに弱い(とされる)存在からでさえ。その意味で、コリーはかつてと全く同じ自由さをまだその身に宿していた。ある意味で、何よりも自由な存在としてコリーはそこにいた。だがコリーには時間がなかった。彼にとっては、時間もまた無意味なものであろうにも関わらず、時間という概念ともっとくだらないものとが、コリーを痛めつけようと刃を研いでいた。比喩ではなく、文字通りの意味で。コリーは知らなかったが、根室はそれを知っていた。そのことを考えると根室の心はやはり乱れた。
 事ここに至っても、どうしてコリーの剪定の決定に自分が深く動揺したのか、根室は分かっていなかった。ずっと分からないままであるような気がしていた。その決定を聞いた瞬間からずっと、コリーの剪定は根室にとって受け入れ難いことだった。はっきりとした理由など何もなくとも。それは藤森の話を聞く前から同じだったが、彼の話はさらに、根室の中でコリーの剪定のイメージを立体的なものにしてしまった。すべて済んだあと、自分がかつてコリーだったそれを直視できないであろうことを根室は確信していた。自分は未来永劫、それから目を逸らし続けるだろう。電車の中にいても、河原にいても、世界のどこにいたとしても。
 しばらくそこでコリーの姿を見ていた後、根室は帰路についた。 

巨人の剪定

 家に帰ると、妻がキッチンのテーブルでパソコンと睨み合いをしていた。「あ、おかえり」ブルーライトカットの眼鏡を外しながら、妻は言った。「シャワー、浴びるでしょ?」
「うん、浴びるよ」根室は答えた。「晩ごはんどうする?」
「どうしようか」画面に顔を戻しながら妻は言った。「何か食べたいものある?」
「特に……。じゃあ、シャワー出てから、何かオレが作るよ。冷蔵庫の中見て考える」
「分かった。お願い。ごめんね」
「全然大丈夫」
「……あ!」思い出したように、妻は再び顔を上げた。「なんか、やたら大きな荷物届いてたよ。玄関に置いといたけど。見た? というか、何? あれ……」
 シャワーから出て、部屋着に着替え、ドライヤーで髪を乾かした後、妻が話していた荷物を玄関に取りに行った。確かに、大きな段ボールが自分宛に届いていた。首を傾げながら、宛名を確認した。藤森からの荷物だった。何だろう、と根室は思った。特に何かを話した記憶はなかった。自室に戻り、荷物を開けてみることにした。カッターでテープに刃を入れたタイミングで、胸の内が奇妙にざわついた。一瞬躊躇ったが、思い切って箱を開いた。中身を見て、動悸が激しくなるのを自分で感じた。
 中に入っていたのは、古い一本の高枝バサミだった。全体にとても汚れていた。そしてその刃の表面で、何かべとべととした液体が、まるでついさっき付着したばかりであるかのようにぬらぬらと妖しく光っていた。
「何だった? 中身」と、後ろで妻の声がした。心臓が飛び上がりそうになった。根室は本気で慌てて、「いや、違う。これは……!」と振り返った。
 開いたドアの先に巨大な影が立っていた。腕や頭などがついていないように見える、ごく単純な形の影が。ゆっくりと影は部屋の中に入ってきた。だんだんさらに大きくなりながら。何か言いたいことがあるかのように、あるいはこちらに何かを言わせようとするかのように、影は真っすぐ根室のことを見つめていた。

巨人の剪定

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