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にゃんこパクツイ考

※この文章は去年夏、コイソ(@sortiee)氏の冊子に寄せた原稿に加筆したものです

当方、好青年という男は三白眼というド凶相の持ち主でありながら意外にも/なんともまあ/自他共に認める猫好きである。実家ではちゅうた、ちな、マロンという3匹の猫を飼っており、というのが去年夏の原稿で、それから秋には更にゆーくんというチビっ子が新たに加わった。母と姉の人間2人に対し猫4匹であるからもう実家はほとんどにゃんこの家である。早速にゃんこという言葉を使ってしまったが、ここではあえて堂々とにゃんこと呼ばせてもらいます。ちょっとネット上にあふれるにゃんこと、にゃんこに対する人間の行いについて思うところがあるのであります。

当方、動物kawaii系の動画(なお9割5分にゃんこ)にめっぽう弱く、タイムラインに流れてきたにゃんこを見てはにやにやするのが日課となっている。あるとき相変わらずにゃんこ写真のツイートに見惚れ、そういやTwitterのうす汚れた皆さんはどんな反応をしてらっしゃるのだろうとコメントを見てみると、さっそく何人かのTwittererさんの指摘が目に入った。指摘によると、そのにゃんこの写真は無断で転載されたものらしかった。「パクツイです、無断転載はやめた方がいいすよ」であった。まあ正論である。これを見て実際、自分もちょっとショックではあった。なんだパクツイかよ、無断転載なんかしやがってと思い いやしかし、何をショックになることがあるかと思い直した。それではにゃんこの尊さが人間の所有物みたいじゃないか、それがパクツイだろうがそうでなかろうがにゃんこの愛らしさは少しも変わらないはずで、その尊さが人間の所有欲や、俗りまくった判断基準の下にあるはずがないのだ。指摘によればそのにゃんこをダシに、あろうことか無関係の他人が不当に注目を得ようとしやがってけしからん、という話だと思うのだが、それがけしからんのは飼い主であれ同じことである。実際は注目を浴び名声を得ているのはにゃんこ自身でしかないのだが、飼い主も、見る側も、私もそこんとこ錯覚しまくりがちである。しかし/そのうえ/当のにゃんこは、自分のことでいちいち争ってる人間のことなんか少しも気に留めていないことを、あんなにも態度で示しているじゃありませんか。

猫はその人間をダメにしかねん可愛さのために、得てして無断転載されやすいものであることは理解している。猫が嫌いな方、興味のない方にはすいませんがなにしろ猫は可愛くて崇高である、というのは肉はうまい、と言ってるのと同じくらい当たり前のことである。肉が好きでなければ、じゃあ夏は暑くて冬は寒いのだ。かえって可愛さが先にあり、可愛いから猫なんだとも言えるかもしれない。えっ?可愛い、を説明するのに猫なくして成り立ったことがあるだろうか。日本語を知らない外国人にkawaiiの定義を問われたとして、「それはcatです」と答えたところで間違いとは言えますまい。猫のいない可愛さなどは絵に描いた餅、床のない家、顔のない美女、冷えてないビール、針のないコンパス、それからえー玉のない埼玉、桃のない桃太郎、フサフサの住職、傾いてないピサの斜塔、など。のようなものだ。そうでしょうか。いや、実際、やはり自分の飼い猫の写真を無断転載されればムカつくだろうとは思う。

しかし、私は(実家にだが)4匹の猫を飼っている身の上で言わせてもらいますけども猫のスタンスを見ていて思いませんか、猫はあなたが飼っているからって、あなたのものではないんですよ。それは猫にその気がもう全然ないから。あなたの所有物ではないと言えば猫じゃなくたって犬でも、サルでもキジでもそうだろうが、猫は(……分かるでしょう……)、気まぐれに人間に甘え、気まぐれに頼り、まったく気まぐれに去っていくものだ。そこには人間への依存や、未練など微塵も感じられない。甘えちゃ撫でろと寝っ転がり、寝たかと思えば急に目を覚まして駆け回り、喧嘩を始めたかと思えばいきなり毛繕いを思い出し、あるいは障子を破り破り破り、おいおいおい勘弁してくれ、でも可愛いから許しちゃう。ていう、その可愛さの暴力、そしてその自覚のなさ(ここ大事)、自由奔放で媚びることを知らない気質こそが何よりの魅力なんじゃないですか。ですからもしあなたの投稿しなすった猫写真が誰かに無断転載されたのであれば怒るのではなく───(これは理想であって私が本当にそう思える自信は全然ありませんけど)───この子の素晴らしさがより世界に広まってくれて嬉しい、と考えるのがいいんじゃないでしょうか。とかく「私の」子だというその所有欲を捨てることです。それは猫に対する冒涜です。猫に限らずですけど。

数ヶ月に一度実家に帰る時、私は母より姉より猫に会いに行くつもりでいる。なにしろ猫を撫でるという行為は中毒性を伴うからである。だから数ヶ月分をまとめて撫でまくりたいのだが調子に乗るとたちまちしつこいぞとばかりに強めに噛まれるので4匹を均等に撫でるように心がけている。私はそんな猫との関係性が心地良く、お互いの適切な距離というものを猫から教えられているような気がするのだ。人間ともこんな感じでいられたらいいんだけどなあと思う。

◎私は仏陀でさえ盲信しないが猫だけは盲信している
◎猫を見れば諸行無常に通じる
◎猫のDNAには予め「無の境地」とも言うべき佇まいが刻み込まれている
◎「自灯明 法灯明」の次に「猫灯明」を付け足してみてはどうか
◎般若心経の最も大切なのは文字に起こせない部分なのだという僧の言葉があるが、その言葉に出せない部分こそ猫そのものだと思う

↑ほんの2日前の自分が加筆でこういう断片を書き残していたみたいですがだいぶ無理してるし怖いし長くなってしんどいのでもう結構です

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