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またそういう話

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いいいトリップをするためには体調を整えることはもちろん、ポジティブな精神を保つためにいくつかの約束事がある。まず親しい相棒を用意すること。相棒に親しみを込めて話すこと。そして歩くか、電車かなんかに乗って見慣れない、新しい場所へ行くこと。その新鮮な場所でファインダーを覗き、写真を撮ること、それはただの俺の癖であります。
親しい相棒とトリップをする訳は、なんとなればもちろん安心だからであり、また相棒に親しみを込めて話し、言葉として吐き出すことでことで自分のぐらぐらした感覚が再確認でき、それも結局これ安心に繋がるからである。ネガティブになってはいけないが、一人きりではそうなることも多い。そのわけは、☒☒☒が聴覚を過敏にするためか知らんが身の回りの音が必要以上に研ぎ澄まされて聴こえ、結果的に黙りこくった自分が情けなく、不安な存在であると感じやすいからである。多分。ネガティブになってはいけないが、ネガティブな感情を悪いものと捉えすぎてもいけない。そこから逃げようとしたり、ポジティブになろうと必死になりすぎるのは実際、すでにネガティブな行為だからである。必要なのは無、とか言ってこれ、それで仏教やっぱおもしれえと思ってるんですけど僧侶に叩き殺されるかもしれんな。
良いトリップにするために見慣れない場所に行くのは、☒☒☒がかき立てる好奇心をより増幅させるためである。見慣れない場所でないとしても、あてもなく歩いたり、電車に乗るという行為がそもそも良い。仕事に向かうために電車を使うように、退屈な生活と電車が結びついている人にとっては別かもしれないが、電車は……なんであんなにキマるんでしょうか。なんかこう、ドアの締め切られた狭い空間っていうのは人をキマらせたがる節でもあるんでしょうか。あと多分、電車がトリップに合うのは───なかなかそういう使い方をすることも少ないが───旅の象徴だからかもしれない。旅=トリップだから、ていう言葉の意味だけではないんだけど、これは想像でしかありませんが、旅の象徴と言えばこれ真昼間に空港とかに行って、キマったまま人のまばらな隅のスペースでベンチに腰掛け、次々と飛び立っていく飛行機をぼーっと眺めてたらこれは最高でしょうね。乗客に乗り移ってシンガポールまで行っちゃうかもしれませんね。ほんとに。

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6/30 二夜連続のトリップ
夜も更けて12錠にさらに12錠を追加する。昨晩のトリップは体調か、コミュニケーション不足か、バイト漬けで頭がほぐれきらなかったかでくそつまらなかったので省略。コミュニケーションは何にしても大切で、どちらかが最高に楽しめていれば会話することでそれは共有できるものだ。ほんとは日常生活でもそうだろうがトリップしている間は尚更大切だ。もちろん互いに盛り下がることもあるが、相棒とキメてるのに会話もしないで楽しくなれることはまずない。だから楽しくなくても会話はしなくてはならない。話の途中でしたね。終電も間近の23時過ぎに例に倣って電車に乗り、好奇心を高めるべく東京駅に向かった。上野駅から東京駅までの7分間は際限もなく長くて、それが心地よかった。電車が着かないまま、全然走り続けることを願った。ともかく目的地に向けて走り続けるうちは、将来や、恋人や、その他いろんな自分の問題も保留にし続けてくれるような気がしたからだ。電車が走り続けるうちは夜は明けないだろうし、もし時間が永遠でないとしても、自分には言い訳ができる時間だったからだ。
が、で、まあ実際普通に東京駅にやってきて、私と背案は行き交う人人人を見下し、見下され、醜態をさらした。背案はここへ来るのが初めてで、東京駅つうことは東京の中心てことで、へーここが東京か、としきりに呟いていた。こっちはこっちで俺は東京を目指して東京駅までやってきたが、じっさい東京とはどこなんだろうと考えた。北極点のように指をさして、"ここがまさしく東京です"と言えるような場所はあるだろうかと考えた。いや 無いんですけど、もしもあるとするならそれは案外、知らないまま通り過ぎてしまうような白い床の上なのかもしれない。いや 無いんですけど、例えばそこに政治家のでっかい銅像が据えてあるよりはよっぽどこう、詩的やん?と、思ったのであります。読んでて感じるでしょうがそういう詩的感情吹かすモードに入っていたのであります。

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東京駅から上野に戻ると、その足で昨晩も回った上野公園をまた一回りした。さすがに疲れたと家に戻ると枕元に小さな鏡が置いてあった。鏡に映る自分の顔は、きっと素面でもそうだろうが───ていうか素面でそんな不気味なことする人はいないだろうが───眺めていればいるほど見知らぬ顔になってくるものだ。私はその顔を長いこと見ているうちに、それが今ここにいる主観の自分を監視する、客観する自分の顔なのだという妄想に取り憑かれ、自分と同じ顔のそいつが恐ろしくなった。なぜなら彼とは以前のバッドトリップで何度かモロに対面させられているが、こいつは主観の自分にムチばっかりで全然アメをくれようとしないのだ。まさに真面目すぎて狂気がにじみ出るような、俺の父親みたいな存在なのかもしれない。(父親の話)父親を突き放そうとする自分が、どうしたって受け継いでしまった父親の性質をすっかり分けようとしているのかもしれない。しかもよく見るとこいつ、顔まで俺の父親にそっくりじゃないかというところで、父親の子なんだから当たり前のことなんだけど、それが妙に腑に落ちてしまった。みたいな感じで鏡を見る行為自体はポジティブなトリップとか何とかにするためにいいことなのかは分からんけど、ちょっと考え甲斐がありそうなのでまたやろうと思う。メモ。

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日が変わり、朝が来ても☒☒☒はまだ全然残っており、相変らず2人で散歩を続けた。こんなに文字通りの散歩をしてる人間ってそういないんじゃないかと思った。薬が体から抜けていくまではあてもなくひたすら歩き、煙草を吸い、考えるまでもないことを考えてはノートに書きつけた。
昼を過ぎて、大通りを西に向けて歩いていると突然背案が前のめりによろけた。あっあっ、声もなく死ぬ感じ?と思ったが、よく見ると彼のサンダルの緒が切れてしまったのだった。そういやどんだけ歩いてるんだ俺たち、と笑いながら万歩計を見たら、切れて当然の結果だった。
6/29......11,298歩 6.7km
6/30......18,757歩 11.2km
7/1......21,636歩 12km
7/2......12,856歩 7.3km………計37km
───37kmがどれくらいの距離かというと、例えば東京駅から直線で結ぶと神奈川県中部の座間市まで行っちゃうくらいの距離であった───
この大通りでガリガリの男2人が、サンダルの緒を切らして苦笑している様はこの街の人間の目にどう映っただろう。背案は緒の切れたサンダルを脱ぐのを躊躇しているようだった。俺は、歩けないなら裸足の方がましだろうと声をかけたが、背案は苦笑いのままうつむき、なおもサンダルを履いたまま歩き始めようとした。履く、というよりはほとんど踏みつけて引きずっているようなものだ。案の定、数歩歩いて背案はまたよろめいた、それでもサンダルを頑なに履き続けようとしてやめなかった。俺はもし、それが自分だったらどうしているだろうと考えた。それはプライドなんだろうか。何度となく躓き、そのたびに力のない苦笑いを見せる背案と歩きながら、俺は交差点の横断歩道に差し掛かった。渡りながら何人もの通行人とすれ違う時、俺は背案と歩調を合わせて、他人のふりをしないよう努めるのに必死だった。疑心暗鬼か、それとも本当にそうだったのか、通行人の眼差しが刺々しかった。俺は初めて、強気に見返す気力もない、明確なみじめさを感じた。背案は商店街で安くて新しいサンダルを買い換えるまでの数百メートルを、最後までずるずる引きずって歩いた。


翌日、東京駅で書きつけた手記を読み返していて、あの場所は素面で行ったらどんな場所だっただろうと考え、夕方に再び2人で東京駅へ訪れた。実際私は帰省するバスの発着駅として何度も利用しているのだが、この時は昨晩の答え合わせのつもりで行ったものの、じっさいどう見てもそこは見知った東京駅であった。昨晩たしかに通った改札や、たしかに見上げた不思議な軒先も、なんの感情も思い起こさせなかった。ただ、昨日のお前がヤバかっただけだという当たり前のことを思い知らされるばかりであった。なんかそれで変にムキになった私は、いや、夜の東京駅は昼とはまるで違うのだ、俺にとって違うものだと捉えるなら、それはもう違う場所なのだ、でよくないすか?それは俺しだいの問題であって、"俺が"☒☒☒から醒めた時、あの東京駅は形を変えないまま消えて無くなったのだ。ていうことにしました。でもこういうこと言ってるってことはまだ詩的感情吹かしがちな☒☒☒がちょっと残ってたと思われ。

4
東京駅から帰ってきてようやく……ようやく少し眠ることができ、22時半に目を覚ました。背案はまだすっかり眠っていた。薬が覚めて生理的な欲求が戻ってきているようで、ひどく腹が減っていたので日高屋に行こうと家を出た。暗い道を歩いていて、自分の思った以上にさっきの夕方、横断歩道で感じたみじめさがまだ尾を引いていた。今までと服装や髪型は全く変わらないのに、なんてみじめな格好をしてるんだろうと思った。そういう目線を持つことが自分にとって良いことなのかも分からなかった。腹が減ってたまらず家を飛び出した自分が滑稽だった。日高屋の手前の横断歩道で青信号を待っていると、しばらくしてそばにいた交通整理のおっさんに「おい、青だよ」と教えられた。顔を上げると……いや顔は最初から上げていたのだが……対面の通行人が……もう渡り終えようとしているところだった。まだ自分がぼんやりしていることに初めて気がづいた。
日高屋に入って席につき、ともかく煙草に火を点けた。道を歩いている間から感じていた、自分の役に立たないプライドとそこからくる羞恥心は、店に入ってすっかり晒されてしまったようだった。野良犬のような自分の臭いと、黒くて薄っぺらい上着でごまかした体の輪郭が、店の照明の下ですっかり見晒されているのを感じた。斜向かいの席ではガリガリのじいさんが舟を漕いでいた。うたた寝をしているのに目が閉じきっていなかった。しばらく見ていると目を覚まし、店員を呼びに立ち上がったが歩き方もおぼつかず、背骨がきしみまくって頼りなかった。酔っているのか老衰なのか、キマってるのか分からないような挙動だった。そのじいさんを通して、お前もこのままではこうなるのだと先祖が俺に教えていると感じた。

俺もうなんかこんな話ばっか書いてんの自分でもムカついてるんですよ。ただそれ以外に書こうと思えるネタが思いつかんのですよふだんろくなこと考えてないから。☒☒☒をやることそのものよりも、写真にしろ文にしろ、表現する上で☒☒☒に頼りまくってる自分はやっぱり卑怯なのかと思うっすね。思うっすね

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