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私は病的な記録魔である

私は病的な記録魔である。見たもの、聞いたもの、考えたことをそれぞれ写真、音声、文章として何かと収集したがる傾向にある。ことに文章においては毎日の起きた時間、一日の行動、日々感じたこと、興味を持って調べた事柄、印象に残った映画や音楽、友人や恋人との会話の内容に至るまで詳細に記してある。自分でも病気だと感じるのはこの文章を用いた記録であり、その手記は記録を始めてから5年間分、1冊も捨てずに自室に残してある。

手記を使い始めたのは高校1年生の時である。半年通った美術専攻の高校に苦痛を感じて不登校になり、と同時に不眠症も発症し、まだ睡眠薬も手にしておらず毎日が退屈でどうしようもなかった時である。
毎朝、朝かどうかも分からないまま起き、部屋で何をするでもなく過ごし、つって例によって己のナニをアレする気力さえもはや無く、夜かどうかも分からないままなんとなく夢を見るような毎日はまさしく空洞で、ソフトに死んでいる状態だった。それは寝ても覚めてもまるで変化のない日々だった。しかしそれではあまりに虚しいので───と思えるだけの気力はまだ辛うじてあったので───それを必死で否定するために、毎日の自分の行動を詳細に書き記そうとしたのである。書き始めたこの頃の手記は、今に至るまでの記録の中でどれよりも詳細である。というのはそらそうで、もともとこの頃は何もしていないのだから詳細に書かなければ日々の違いが見えてこないからであり、かつまた日々の違いが見えるまで書かなくては、なんて自分は平坦で、つまらない人間なんだといよいよ絶望するしかなかったからである。毎日何時に起き、天気はどうで、自分は何を食べ、何時に誰が帰ってきて自分にどんな言葉をかけたかまで、この頃は毎日記録してある。もちろん、それは今見返してみたところでなんの価値もない情報でしかないんですけど、それは当時の自分にとっては何よりも大切な、自分を安心させるための手段だったのである。
またもちろん、それはそのまま私の表現へと繋がってはいる。写真や音声においては、少なからず形にして人に見せようという気を持って収集している。が、文章はまったく自分一人のための記録であり、それを読む他人のことを考える余地など1ミリもない。そうでなければ自分の、本当の、生ぐさい、腹の底の気持ちに気づくことはできないからである。だから手記を勝手に覗かれることは例えば自慰行為を覗かれることより恥ずかしく、何よりも許せず、ていうか手記、それはまず自慰行為そのものなのである。

で さて、じゃあ今、5年間続けている私にとって手記はどんな意味を持っているだろうか?私は、自分にとって手記が今、その重みを必要以上に持っている気がする。まず生活の事実があり、記録することで自分の生活を支えていたはずの手記が、こんどは生活そのものになろうとしているように感じるのだ。自分自身が、自分の体験以上にその記録の方に───それは実際コピーでしかないのに───執着を始めているのだ。これは想像以上に虚しいもんである。
よく聞く例えの一つに、2人の観光客の話がある。
一人はカメラを持ち歩く癖がなく、行き歩く観光地を自分の目で見、自分の耳で聞いて回った。対してもう一方の観光客は写真撮影が趣味で、カメラであちこちを撮って回った。観光が終わると、彼の手元には撮影した写真が残った。あちこち撮って回ったのだから、その景色のコピーが手に入ったのは当然だ。しかし、身体全体で受け止めた一人目の観光客に比べて、レンズ越しの風景に夢中だった彼に大した思い出は残っていないのだ。何を得るために旅に出たんですか、こいつは?、
に、なっているのだ、私が。記録という意味で、写真も手記も同じことだ。私はまさしく、カメラを首にぶら下げたこの観光客そのもので……自分の生活の全てを、紙の上で済まそうとしているのだ。自分の考えを書きつけ、形に残すことはお前を安心させるが、やがて言葉がリアリティを失っていくことに気づく。行動を伴わない言葉には意味が無いことにようやく気づいても、「行動しろ」と書くことで安心してしまうのだ。記録すること自体に、自分の生活が囚われているのだ。行動を捨てて言葉に頼りまくった結果、言葉はただの記号に成り下がってしまうのだ。かえって、外出先でカメラを忘れたことに気づいた瞬間の妙な開放感、と同時に急にやる気が無くなるあの感じ、それはつまり記録できなきゃ体験する意味がないと思ってる、のって結構おかしな状態だと思うんですけどどう思います?

という話を、映画「ファイト・クラブ」のタイラーに思い起こされました。「行動しろ」、「やるなら今しかない」、「今より若い時はない」……岡本太郎も三島由紀夫も、向井秀徳も言っていることは皆同じなのに、それでも言葉が繰り返されるのは、それだけ行動に移すことがしんどく、面倒でしょうがないことだからだと思う。「理論なき行動は死、行動なき理論は無」とはマクルーゼの言葉だが、私はこれを曲中で引用していた向井秀徳を通して知り、胸ぐらを掴んで揺さぶられたような衝撃を受けた。行動しないで理論をこね回す人間は呆れるほどいても、理論をすっ飛ばして行動に移しちゃう人間がどれだけいるだろうか。そして、そんな無謀な行動の結果が野垂れ死にだったとしても、素晴らしいと感じ、感じられるのはどちらだろうか。
狂った愚か者と書いて「狂愚」という言葉がある。これは秀でた才能や、豊富な知識を持った者を意味する「才良」に対応する言葉で、簡単に言えば脳の足りない病気野郎という意味である。幕末の志士、吉田松陰は自らを「狂愚」と呼び、「狂愚まことに愛すべし、才良まことに虞るべし」という言葉を遺した。吉田自身だって頭は相当良かったはずだが、あくまで行動することがどれだけ大切かを言い聞かせるためにもここまで強調したのだろうと思う。「書を捨てよ町へ出よう」という、映画ですか、今調べたんで観たことはないですけど、私は勝手にこれを「狂愚」と結びつけて捉えている。そして吉田は猛烈な行動の末に捕まり、30の若さで首を切られて死んだ。しかし憧れます。

さらにしかし猫はそんなことさえも煩悩であることを見抜き、まるで気に留めちゃいないから敵わねえな、という話です。あれはやっぱり仏の域なんだなあと思います(下げ)

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