220225

この悲しい事件を通して、私が普段、どれだけこうした理不尽な暴力や死に対して鈍感でいること(無視すること)に慣れているかを痛感したように思う。
昨晩、私はこのニュースを観ながら家族でうな丼かなんかを食べていた。今日はウクライナで40人以上が死んだらしい。明日も何十人か、何百人か死ぬだろう。もしかするとこうしてうな丼を頬張っている間、今この瞬間にも爆撃で人々が(国の都合で個人が)死んでいるかもしれない。考えていると気分が悪くなってきたが、しばらくするとそう考えることさえ偽善なのではないかと思えてきた。なにしろ、今は「ホットな話題」だからこそウクライナで起きている暴虐に対してSNSで様々な議論が交わされているものの、それでなくてもシリアや、アフリカや、ウイグル自治区その他話題にも上らない多くの地ではさらに何百倍、何千倍もの死傷者が刻一刻と生まれているのだ。そして私(や母や姉)はその事実を知っていながら、神妙な顔で判で押したように「怖いね」「仕方がないね」と言いながら食卓に戻るのだ。
しかし残念なことに、自分も含めてそうした振る舞いもまた当然であるように思う。自分の生活を滞りなく進めるためには、海の向こうの阿鼻叫喚よりも、毎日の仕事の愚痴や、学校での娘の振る舞いの方がよっぽど切実な問題なのだ。もしもそうでなくて、理不尽な暴力に晒される彼らのことを本当に想うのなら、すぐにでもどこかの紛争地に飛んで救護活動のボランティアでも何でもするだろう。しかし実際にはそうしない(し、したとこでどれだけの効果を生むだろうか)。#戦争反対 には同意するが、で、何をすればいいのか?20円の募金で「私は良いことをした」と安心してしまって良いのだろうか。しないよりはアレだけど
特別、ウクライナ人は美人が多いから辛いのだろうか。まぬけな問いのようだが、人間にはそういう主っ観的な部分があると思う。アフリカだったらどうでもいいのかと言えばとんでもないことだと怒ってみせたところで共通しているのは、私個人がそれらの暴虐に対してまるでなんにもしていないということだ。

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