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蓮實重彦の『監督 小津安二郎』感想文

 蓮實重彦の『監督 小津安二郎』を調布の図書館で借り、明日、返さないといけないのだが、さっぱりわからない。たとえば「住むこと」という章に、「男はつらいよ」に寅さんの居場所らしき二階の部屋があるが、その部屋について、小津映画と比べる形で「寅さんが帰京するごとに濃密な空間になってはゆくが、それはあくまでも一階の店舗の延長としての生活空間に過ぎず、後期の小津に見られるような周到な説話論的な機能を備えてはいない」と書いているのだが、そうかなあ……。私なんか、あの寅さんの部屋かどうかわからない、でも、寅さんの部屋にちがいない何もない部屋で、恋患いににかかって寝ている寅さんを見るたび「説話論的なもの」を感じるんだけどなあ……と、思いながら、続きを読むと「周到な説話論的な機能」とは「曖昧とさえ言える細部が、不意に濃密な連携ぶりによって親しく戯れを演じてしまうことがあるからだ」とあって……う〜ん、わからん、と思っていたが「快楽と残酷さ」という最終章で、あ〜、そういうことだったのか、と、ようやくわかった。というのは、『監督 小津安二郎』の最終章は、私が『晩春』を見て「曖昧でよくわからんなあ」と思っていた、その「曖昧さ」の構造を詳しく解説してくれているからだ。
 たとえばいったん結婚を受け入れた原節子が、やっぱりお父さんのそばにいたいと告白し、それに笠智衆が「結婚こそ、新たな生活の始まりで、それには苦労もあるだろうが、二人で幸福をつくりあげていくことが大事だ」と説得し、それに原節子が従うわけだが、それは蓮見、曰く、全くの紋切り型のセリフに過ぎず、従って、結婚を受け入れた原節子は「紋切り型の犠牲者としての自分を受け入れ」たことになる。だとしたら、小津映画なんて、保守反動の塊のようなものだが、そうとは言えないのは、小津映画が、「決まって勝利する」紋切り型のあれこれに対して「残酷な曖昧さとでも言うべき態度しか示していない」からだ、と蓮見は書いている。そして、その好例として、再婚話が嘘だということがわかって、笠智衆に抱きついて接吻をする場面をあげ、「そのことがそれほど祝福されるべきことか、判断に迷う」と書いている。私はまさに「判断に迷った」ので、再婚話は、嘘ではなく、本当だったと解釈する余地が残ると書いたのだった。実際、原作では、父親は再婚して、ハッピーエンドで終わる。小津は、このハッピーエンドを悲劇に書き換えたのだ。それはラストの荒波の映像で示されている、と勝手な推測と言うか、解釈をしたのだけれど、それは蓮見先生によれば、「紋切り型の構造へと思考を招き寄せる小津的なものから、小津安二郎を救い出すための試み」の一つだったのだ。

 というわけで、蓮實重彦の『監督 小津安二郎』は、小津安二郎の全否定で終わる寸前に、アクロバティックに身を翻す、蓮實重彦らしい、終わらせ方だと思う。写真は原節子を送り出した後、思い出話をする笠智衆と原節子の親友の月丘夢路。このあと、笠智衆が「再婚話は嘘だよ」みたいなことを言い、感激した月丘夢路が抱きついてキスをする。見ていてびっくりした。

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