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何も語っていない『夢』について

 絵・文 牛島弟

 本当は『どですかでん』について書こうと思った。あれは素晴らしい作品だし、クロサワ映画の中で一番好きかもしれないのだが、バーっと考えてみても何も浮かんでこなかったので、晩年の『夢』について語ってみよう。
 この映画は1990年に公開されたが、前作『乱』の莫大な製作費とそれに比すると僅小な興行収入で、スポンサーからそっぽを向けられた黒澤が、ハリウッドの王様であったスティーブン・スピルバーグがヘルプに回ること(ワーナーブラ!)で、どうにか製作にこぎつけた、黒澤晩年の映画である。

 黒澤をこよなく敬愛するスピルバーグとスコセッシ(スコセッシは出演)が製作に協力し、スピルバーグ経由なのか、ILM(ご存知インダスルトリアル・ライト&マジック)も関わることになった。そのためかこの映画にはしばしば特殊効果を使った場面が出てきており、1990年という映像革新がなされるまさに一歩手前の、絶妙な趣きが味わえる一品である。

 CG前夜のまだVFXとも呼ばれた、あの合成の不整合さ不自然さが、一種のフェティッシュなものとして、僕に視覚的な楽しさを与えてくれる。例えば、あの「赤富士」での富士山が噴火して原発が爆発してしまう、タイトル通りに真っ赤に染まった富士山のシーン。これはクロサワ的に言えばゴッホのあの唸るような情念の糸杉的表現なのかもしれないが、自分には『吸血鬼ゴケミドロ』の冒頭の真っ赤に染まるあの夕日のように、真っ赤というより真っ赤っ赤っ赤っ赤、過剰な赤であり、なんとも赤赤しすぎて、おや?これは本当は赤じゃないんじゃないか?と錯視のように見えてくる赤なのである。それが噴火で脈々と波打つ富士(ここは特撮なのかな?)と、背後で爆発するこれまたかなり過剰な火炎(なんとなく『ブレードランナー』のあの煙突から排出される炎のよう)、そして逃げ惑う人々が重なり合うと、どこか歪だが、魔術のように魅惑的な表現になる。

 それはゴッホの絵の中にいつの間にか入っていき、スコセッシ演ずるゴッホ本人と出会う第5話の「鴉」でもイイ感じに発揮している。30年前の今の目で見てみても遜色ないし、何よりこれ以上やると稚拙になるかならないかギリギリのところを攻めていて、使い方が上手い。そして最後には、あの有名な「カラスのいる小麦畑」がゴッホが麦畑を通る中、ばっと一面にカラスが飛び交うのだが、何故だかそこは一昔前のような合成処理?がされていて、無数に飛び交うカラスたちは、ヒッチコックの『鳥』を思い出さずにはいられない感じになっている(『鳥』も素晴らしい合成処理の場面がたくさんあるが、大量のカラスがそこら中に充満している中、車で脱出するラストシーンは、合成処理により?粗くなった映像を含め、不穏さはなりを潜め、不思議と穏やかな気持ちにさせてくれる)。

 でも考えてみると画家を描いた映画というのは、申し訳ないけどそんなに面白いものはない。だいたいが史実通りというか、大衆が望むその画家像通りに描かれていて、それに創作や恋人との苦悩や葛藤がおまけのようについて、はいおしまいみたいな作品ばかりである。もっとこう、ドカーンと弾けて欲しいものだ。この「鴉」にしたって、狂気に満ちた天才で、誰からも相手にされなずに笑い者にされている、孤高の人「ゴッホ」のイメージはそのままなので、せっかくスコセッシがやっているんだから、懐に拳銃を隠しながら、早口で「へへへ、今からあの娼婦をぶっ殺してやるんだ!(byタクシードライバー!!)」みたいな台詞があっても良かったのかもしれない(いや、でもこれはたいして面白くもなんともない)。あるいは絵が全く売れない現状に嫌気が差したゴッホが、もともと志していた聖職者にカムバックして、清貧?のまま老いた後に、同じくタヒチから打ちひしがれて戻ってきたゴーギャンと再会。だけどやっぱり喧嘩してしまい、「いい加減、大人になれ!俺は貧しいのに変わりはないが、こうして社会の一員としてなんとかやってるぞ」ととくとくと説教するとかもいいかもしれない。

 あの合成の感じ、なんとも言えない不可思議さはなんだろう。『ネバーエンディングストーリー』、『ロボコップ』、『トータルリコール』、『ターミネーター』。このあたりもあげたらキリがないくらいその例が出てくるが、例えば『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』で、ラスト近くにインディがキリストの聖杯にたどり着くための、3つの試練が最後に現れる。そこでインディが誤って危うく谷底に落ちそうになるのだが、あの谷底のなんとも言えないのっぺりとした感じというか、どうにも薄っぺらい感じが、子供の頃から僕に視覚が及ぼす多種多様な面白さを教えてくれた。当時の映像技術の限界や粗さが逆に魅力的に感じるこの現象は、僕の中での映像における最も的確な「シュルレアリスム」的表現といっていいのかもしれない。その点CGは、この不釣り合いさ不自然さを、なるべく「自然」にさせる作業なので、逆に面白さがなくなってしまうように感じる(でももしかしたら、遠い将来に、2000年代のCG全盛の映像群が埃をかぶって古臭くなった時に、自分と同じように考えられなかった新しい見方が出てくるのかもしれない)。

 ちなみによく語られる?本当におじいちゃんの年齢になった笠智衆が出演する「水車の村」は、説教臭くてあまり好きなじゃなかった。つい最近やっとのことで鑑賞した『夢』の次作である『8月の狂詩曲』も同様の抹香臭さが感じられるのだが、不思議とそんなに嫌な気持ちにはならなかった。むしろラストシーンでのこれぞ黒澤明!といいたくなるほどの雨嵐のなかお婆ちゃんが駆け抜けていき、それを家族が追う、あの怒涛のアクションシーン?は、カッコよくて思わず涙が出てきてしまった。

 『夢』を見ていると、自分の夢も映画化したくなるものだが、もし自分だったら間違いなくあの夢だろう。それは最初にかなり刺激が強い青い空がでてくる。あの赤富士の強烈な赤のように、真っ青で、個人的にはなんだか広島の原爆が炸裂した後の、まだキノコ雲が空を覆って、放射能の雨が降る前の空がこんな感じだったのではないかと思うくらいに、あの空は青すぎて怖くなってくるのだ。夜に見る海が段々と吸い込まれていくような感覚で怖くなるように、あの夢の中の空はいつ見ても背筋が薄ら寒くなってきてしまう。背景にはうろこ雲がまばらに浮かんでいるだけで、ひたすら(体感的にも数時間くらい)その空を見続けるのたが、しばらく経った時に突然空からぽつりと雫が垂れてくるのである。それは昔のはごろもフーズのCMのように、巨大な空の塊が重すぎて、重力に屈するように、ぷらーんと美味しそうに滴ってくるのだ。そこで突然プツッと夢が終わる。いや、実際には終わっていないのかもしれないが、それ以降の記憶が定かではなく、ここまでしかいつも憶えていない。もしかしたらこの夢がずっと際限なく続いているのかもしれない。たったそれだけなのだが、あの人工的に着色したケミカルな空だけは、いつか再現したいと夢から醒めた時にいつも思う。

 牛島兄の『夢』の思い出

 シンガポールの日本人中学校に通っていた時のこと、ある朝、一番の親友イガラシ君が教室で会うなりこう言った。
 
 「昨日、テレビで観た映画むっちゃ怖かった!!」

 あんまり聞きたくないなあ・・・というこちらの思いをよそに、イガラシ君は朝礼がはじまる直前までその映画のことを特に怖がった様子もなくハイテンションで矢継ぎ早に語りまくった。曰く、「雪山で遭難して、鬼女みたいなのがテントにやってくる」「トンネルに青白い顔の日本兵の亡霊がたくさんいる」「富士山が噴火して、孤島みたいな場所に取り残された人々が放射能でじわじわ死んでいく」と・・・・・。

 「(そんな映画ある??悪い夢でも見たんだろ・・・。)」

 心の中でそう思いながら、彼の語る映画の内容は本当に怖いなと思った。とくに富士山の話はほんとに怖かった。そんな映画本当にあるのかな?と、イガラシ君の言った内容はずっと心に残り続け、「イガラシ映画」として日本に帰ってからもたまに思い出していた。今思えば彼は肝心なことを言っていなかったのだ、それはいわゆる「オムニバス映画」だってことを。

 年月が経ってそんなことも忘れていたある日、とつぜんその映画に出会う。見ながら「これイガラシ映画じゃん!!」と口に出してしまった。イガラシ映画がまさか日本で一番有名な映画監督の作品だとは思わなかった。それがわたしと黒澤「夢」の出会いでした。たしかシンガポールでもNHKは観れたので、イガラシ君はそれで放送されたのを観たのだろう。

 この映画は5つの独立したエピソードに分かれ、すべて黒澤が見た夢を映像化している。各エピソードの前に「こんな夢を見た」という題字が登場する。いくら世界の巨匠とはいえ自分の夢日記を多額の費用をかけて映画化、なんて他に似たような例があまり思い浮かばない。

 このケースとはちょっとちがうけど、子供のころにテレビで断片だけ見て記憶に残っていたり、中高生のとき深夜のテレビ映画をぼんやり見ていてなんとなく覚えていた、タイトルも皆目わからないような映画やドラマなんかに後年ぐうぜんどこかで再会するようなことがごく稀にある。あれは自分でも忘れていた自分の一部に再会するような、不思議な感覚を覚える。
 それは学生のときにバイト先にいた名前も思い出せない社員の人なんかが、脈絡なく夢に出てきて一緒に高校の文化祭でバンドのステージに立って演奏している夢をみたときの感覚に似ているかもしれない。目が覚めているのに夢を見ているようで、自分はもしかしたら起きてても寝ててもずっと夢を見ているのではないか?という気がしてきて、おかしな気持ちになる。
 

 人が夢を見るのは記憶の整理、みたいな説をみたことがあるが、言ってみれば作家性の強い映画作家の作る映画なんて、すべてその人の夢日記みたいなものなのかもしれない。

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