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何も語っていない『トータル・リコール』について

(文・絵 牛島弟)

 マッチングアプリでマッチングして、いい感じになったけど、ある日を境にLINEの返事が来なくなった。あれ?どうしたんだろう?と催促したら、いい人が見つかったのでごめんなさいと、お断りの返事が。もうこれで何度目なんだろう。3度目、4度目?マッチングした回数を見るともう48回。つまり48戦48敗ということなんだな。うん。もう潮時だね。

 きっとシュワちゃんなら今度もなんとかしてくれるだろう。いつだってシュワちゃんはなんとかしてくれたのだから。この映画『トータル・リコール』もそんなシュワちゃんが何とかしてくれる映画のうちの一つである。『イレイザー』も『トゥルーライズ』も、『コマンドー』もそして『プレデター』もみんなそうだ。

 アーノルド・アロイス・シュワルツェネッガー。1947年生まれ。父親は元ナチ党員だったそうだが、金髪碧眼で筋骨隆々・質実剛健なアーノルドはもしヒトラーユーゲントに入団していたら、きっと模範的なアーリア人として表彰されていたのかもしれない。ボディビルダーとして渡米後は、大学で経営学を専攻したマッチョなインテリでもある。

 ポール・バーホーベン。1938年、オランダに生まれ、第二次世界大戦では故郷が戦火に見舞われ、そこらじゅうに死体が転がっている地獄のような光景を目の当たりにしている。バーホーベンの執拗な暴力表現や即物的なエロ描写も、間違いなくこの体験が大きい。その後、なんでかハリウッドに迎えられ?、エログロ精神はそのままに90年代前半まではヒット作を量産する。

 もしもこのままナチスが降伏することなく、戦争がずっと続くようだったら、この二人も相対時するようなことにもなったのかもしれない。(いや、それはないか)

 そしてシャロン・ストーン。いつも頼りにしてるwiki情報だと、IQ150以上の頭脳を持ち、モデルもこなす才色兼備な俳優だが、シャーリーズ・セロンと同様に「セクシーなブロンド」役ばかり求められて、結果的に役柄が固定化されてしまった。この映画の後に再度、バーハーベンとタッグを組み、あの『氷の微笑』での「脚の組み替え」(でも個人的には「刺し殺されるぞ!アイスピック」のシーンが怖かった)で90年代のセックスシンボルとなったが、本人はあまり快くは思っていなかったようである。例の脚のシーンを初めて見た時は、監督にビンタしたとかしないとか。

 去年の冬、30年ぶりに4kバージョンで復活したこの映画を実に10数年ぶりに鑑賞してみた。なんでこのタイミングでとは思ったし、「SF映画史に残る…」みたいな宣伝文句がネット上でアップされているのを見ると、申し訳ないけど、そんな大それた映画でないことは、これを観てきた30代以降のおっさん世代にはわかってくれるでしょう。フィリップ・K・ディックの原作からインスパイアされ、今いるこの現実は夢なのかホンモノなのかという仮想現実を扱ったサイバーパンク的な衣装を纏ってはいるけど、そんな小難しい内容ではない。断言できる。いつものバーホーベン節が炸裂した映画だし、作りも設定も何もかも雑。火星の表面に投げ出され、目玉がポンッと飛び出てくるあの馬鹿馬鹿しさこそが、この映画の全てである。

 そんなことよりも今見ると、90年代初頭の日本だとバブル期末期の、ふわふわしたシャロン・ストーンのソバージュヘアや、見ていて不思議と懐かしくも、穏やかな気持ちにさせてくれるのである。


 みんな誰しも特定の時代に思い入れやノスタルジーを感じることがあると思う。僕は、N.W.A.の『ストレイト・アウタ・コンプトン』のミュージックビデオに現れる、カリフォルニアの陽気な気候とは対照的な、寂れた道路や壁の無機質さ、何もないくすんだ街角を見ていると、どうしようもない郷愁に駆られてくる時がある。僕が生まれ故郷である千葉は市原の、シャッターが閉まった店が並ぶ商店街の、何の特色もない地方都市を思い浮かぶ時に、出てくるのはなぜかあの映像だ。

 それと同じくらいの懐かしさがこの映画からは滲み出ていて、特に火星に降り立ったシュワちゃん=ダグラス・クエイドがもう一人の自分?であるハウザーの指示通りに売春酒場(「最後の楽園!!)での場面が、個人的には最悪で最高なのである。

 酒場の美術が全体的に雑すぎて、ペラペラな感じもチープさも(窓とかアクリル板なんじゃないか?)「これでいいんだ!」と言わんばかりに、バーホーベンイズムに溢れている。美術スタッフさんもバーホーベンに共鳴したのかもしれない。こんなもんでいいや!という感じに80年代末期のペラペラさ加減をフューチャリスティックに仕上げた、この文字通りの「最後の楽園」は、見た目のケバケバしい派手さとは裏腹に、一抹の寂しさを感じて、個人的にはこの映画におけるハイライトだと思っている。その後の治安部隊と反乱分子との銃撃シーンも、見ていて悲しくも微笑ましい気分にさせてくれるので、おすすめだ。

 でも本当いうと、鑑賞中は何にも感じていなかった。マッチングアプリでダメなら、もうどうすりゃいいんだよ・・・とかそんなことしか考えられなかった。この悲しさを胸にこれからも生きていくしかない。鑑賞後、ホームアローンに似た郷愁を感じるとともに、制作会社のカロルコ・ピクチャーズ(ランボー、ターミネーター2で一山当てるが、その後すぐに倒産)の栄枯盛衰に思いを馳せて、映画館を後にした。


(文・牛島兄)

 『トータル・リコール』は当時VHSで観た。テレビで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を観て、洋画に目覚めたばかりのころだったはずだ。同じタイミングで我が家の居間にもVHSデッキが設置された。あんな映画を家族みんなで居間で観ていたなんて、信じられない。弟の文にも登場する「最後の楽園」のシーンだと思うが、乳房が3つある女性が登場する。当時はまだいやらしいものに対しては嫌悪感があるころだったが、いやらしさよりも奇天烈な感が勝っていて、家族みんなで「なんじゃこりゃ!」という風になっていた。あれは強烈なインパクトで、近所の年上の友達であるマコちゃんとも朝の通学中、その話で盛り上がった(同じ登校班だった)。あれが映像で初めて観た女性の乳房だったかもしれない(うち一つはニセモノだが)。道を踏み外さずに?成長できて良かった。

 あとやはりこの映画といえば、シュワちゃんが変装しているときの変なオバさんのスーツだ。何のためだったのかまったく、意味がわからない。あの挙動不審なオバさんの顔が割れて中からシュワちゃんが登場するシーンは当時TVスポットでもガンガンかかってて、「何かわからないがすごい映画みたいだぞ」、と小学生ながらわくわくした。「トータル・リコール」なんて言われても、小学生には意味わからないし。というか、この文章を書いている今もまったくわからない。こういうの、今あまりないですよね。

 それにしても、幼少の自分に一番衝撃を与えたのはこの映画に写る人の死があまりにも軽く描かれていることであった。シュワちゃんがどこか混雑した駅の構内を逃げまわり、警官隊みたいなのがなりふり構わずガンガン発砲するが、シュワちゃんは無表情で周囲の人たちを盾にする。撃たれた人体には赤い穴があき、人がおもちゃのように死んでいく。そして何事もなかったかのように物語は進む。それまでに見てきた日本のTVヒーローは間違ってもそんなことはしなかった。これがアメリカなのかな、アメリカって冷たいな、怖いな。と思った。やはり同時期にVHSで見ている『ロボコップ』も、クライマックスで悪役が産業廃液みたいなのに突っ込んでドロドロに溶けるシーンが執拗なまでに長く映って、「なんなんだ、この映画は?アメリカは?」と思っていた。観た後もずっとなにかひんやり冷たいものが心に残った。不安な気持ちになった。幼少の自分はその2本の映画が同じ監督、ポール・バーホーベンであることなど知る由もない。

 映画が発表されてから30年が経過し、僕も弟もおっさんになってきた。上の文章を読む限り、弟はあまり元気がないみたいだ(こういう状況なので、最近まったく会えていない)。僕もよくわからない大人になってしまって色々不安だ。バーホーベン監督も最近はぜんぜんニュースを聞かない気がする。シュワちゃんはトランプでむちゃくちゃになった現実のアメリカを嘆いてる。いくらシュワちゃんといえど、どうにもいかないものもあるのだ。

 バーホーベンの映画を今見ても、子供のころのように不安な気持ちになることはもちろんないだろう。そんなことでいちいち不安になれる幼少時代というのは、つくづく幸せであった。

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