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わたしであってわたしでないチカラ

今日から12月、久しぶりの投稿

あっという間にすぎた11月
でもひとつひとつがとても濃密で忘れられないひと月になった。

本当にNYに行ったんだ
本当にクラファンが成功したんだ


でも実感はない

自分でやったという感覚は一切ない

自分の力で成し遂げたという感覚は一切ない

本当に今までのすべてが力になってくれて
自分が持っている以上の何かが発揮された感覚

だから正直、がんばった感覚ってあんまりない。

あ、渦中はすんごいしんどかったけど
どこかで「大丈夫」ってなっていたし

不安はあんまりなかったかもしれない

今までどうしてあんなに恐れていたんだろう…と思うくらい

なにを恐れていたのか?
それすら思い出せない

しいて頑張ったこととするなら
自分がしようとしていることを形になる前に人に話したこと

どうなるか分からない
どうしたらいいかもはっきりしていないことを

つまり結論が出ていないことを人に話したこと

人の時間を奪うことに対してとても罪悪があった
結局何が言いたいの?って思わせてはいけないって

自分でやらなきゃいけない
自分のことは自分で分かっていないとって

ずっと自分の中に押し込めて考えて
できそうなことだけを出して
許されそうなことだけ出して

認められそうな形にしてから出していた

でもそれもこれも全部、否定されないための防御だった

傷つかないことを恐れてうまいことやってきた

でも大事なことは、やりたいことができるのではなくて
やりたいことを抑えることなく、やりたいんだって出すことだった

「わたしはこれを求めている」って思えること自体が実はとても幸せなことで
それをなかったことだったり、形を変えることはとても悲しいこと

否定されることは確かに悲しい
だけど、それはわたし自身を否定されることではないから

それが真に理解できたのはすべて
アクションに変えたから

自分の中だけで押し込めない
勝手に解釈しない
勝手になかったことにしない

どんなことでも自分の中から湧き上がったものを
外に出してあげること

そこからようやく始まる

心を開くってそういうことなんだと思う

そして、やはり今までの人生の中に無駄はなかった
いまでなければ成し遂げられなかったことがあまりにも多すぎる

あのときの後悔すらもすべて今に繋がっている

だとするならば

いつだってわたしは許されていて
いつだってわたしはわたしを生きることができていた

だから、なにが正解かと生きるよりも

もっと純粋なオモイのまま生きることが
よりわたしをわたしらしく形成してくれるのだと思う

なにかを排除することに躍起になって
なにかから防御し続け

自分を押し込めることも
ひとつの道かもしれないけれど

きっとそれは杞憂なんだといつか気づくときが来る

そして、いまこの瞬間もそうなんだと
どこかで知っているはず

その感覚を採用するかどうか
それもすべて自分自身にある

いつだって中心は自分

それはエゴでもなんでもない
自分自身が生きる世界を創造する源

それは、わたしであるのだけど
宇宙そのものである

その感覚を体感できたのは
とても幸せなことだ

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