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読書感想文#1 吉村萬壱『死者にこそふさわしいその場所』

・・・他人を避ける場所はここ以外にありません、孤独という誰にも共通した考えが、何かに心を奪われたこれらの人々のひとりびとりを、あらがいようもなく、ここに引寄せます。わたくしたちも、程なく、死者にこそふさわしいその場所へ出かけるわけです。そこは、荒れはてた昔の植物園なのですよ。

ポール・ヴァレリー『テスト氏』

『死者にこそふさわしいその場所』は、ポール・ヴァレリー『テスト氏』の題句からはじまる。
『テスト氏』は疎か、ヴァレリーの作品を一つも読んだことがない。しかしながら、『死者にこそふさわしいその場所』を読み終えてみると、この一文から、町の外れにある朽ち果てた植物園を極めて立体的に、鮮明にイメージできる。

『死者にこそふさわしいその場所』は「苦悩プレイ」「美しい二人」「堆肥男」「絶起女と精神病苑エッキス」「カカリュードの泥溜り」「死者にこそふさわしいその場所」の6つの短編から成る連作短編集である。

この作品は折口山町という架空の町が舞台になっている。折口山町では「捨て身祭り」の異名を持つ秋祭りが有名で、迫力あるだんじりの曳き廻しが見ものだ。曲がり角を直角に曲がる際に、だんじりが横転したことで死者を出したこともある。この祭りは二百五十年に亘って受け継がれてきており、熱狂的な祭り狂いが多く住んでいる町のようだ。

この作品を読み終え、Googleで「折口山」と検索するまでは実際に日本に存在する地域だと思っていた。それほど作品の描写から在り在りと町の骨格及びその肉付を想起することができた。1つ作品を読み終えるごとに、スケッチブックに町の輪郭、地塗り、質感が描き足されていくように。

「苦悩プレイ」から「カカリュードの泥溜り」の5作品に共通する点は、一見どこにでもありそうな日常の中に浮かぶ、少し変わった人たちだ。歪んだ性癖を持つ男、若かりし頃に見た光明に取り憑かれ裸踊りをする老夫婦、アパートのドアを開け放して生活する男、世界の速さに取り残される女、精神病患者を演じる会員制倶楽部、カカリュードに溺れる宗教家、程度の差はあれど、全員がしっかりと、確実に狂っている。

世界の速さに取り残される女(絶起女)については、少しだけ(そう、本当に少しだけ)共感できた。彼女は朝に弱く、遅刻の常習犯であり、月の半ばであるにも拘らず4度目の遅刻をしようとしていた。しかし実際には4度目の遅刻はなく、その日は会社からの電話を完全に無視して、ただ日が暮れるのを家で待っていた。
彼女は分かっていた、世界は毎日同じ速度でやってくることを、「普通」に生活するには世界の進む速度に合わせるしかないことを。そして、自分がその速度に追い着けないことも。

自分も大学時代によく似た経験をした。1限に何とか遅れずにすむ時間に起床し、目を閉じながら、今から起きて着替えて歯を磨いて家を出るまでに10分、自転車で大学の北門まで5分、そこから講義棟まで歩いて2分、これで講義開始3分前に到着できる、と頭の中で計算した。ふと目を開けて時計を見ると、1限は疎か、2限にも間に合わない時間になっていた。「3限に間に合えばいいか」と思いゆっくりと瞬きすると、窓の外は既に夕暮れの赤に染まっていた。自分にとってはほんの一瞬のことだったが、世界は確実に進んでいた。
同じようなことは一度ではなく、大学時代に恐らく数十回は経験したと思う。中でも1限に間に合わないと分かった途端、2限は疎か一日を諦めてしまう、負の完璧主義的性質が強い時期があった。1つでも傷がついてしまった時に、全てが駄目になったように感じてしまう、そして負の方向に引き寄せられ、能動的に、駄目な自分を演じてしまう。絶起女は負の完璧主義の典型例であった。彼女は4度目の寝坊により世界の速度に縋りつくことを諦めてしまう。減点方式で生きている人間は、どこかに取り返しのつかない限界ラインが存在し、ひとたびそれを超えてしまうと全てを諦めざるを得なくなる。自分と絶起女との違いは、限界線の有無か、或いは限界線の設定位置、たったそれだけだろう。

少しでも生活を良くしたいという気持があるので、最近では負の完璧主義に能動的に抗っている。例えば、折角の休日に17時まで寝てしまっても、そこから一つでも正のポイントを追加しようと抗い、少し歩いてスターバックスコーヒーに行ってみたり、近所の川沿いを散歩してみたり、積んでいた本を読んでみたりしている。こうした加点方式でやっていく気持が、負の完璧主義に引き摺られて取り返しのつかない場所まで行ってしまわないための秘訣だと思う。

話が脱線してしまった。それにしても、この物語を通して「普通」の人間(敢えて普通と書かせてもらう)など誰ひとり存在しないように思える。そもそも「普通」とは何か、という話だが、日本国語大辞典によると「ごくありふれていること。通常であること。また、そのさま。」と説いている。では、その「通常」とは誰が何をもとに決めているのだろうか。例えば仕事をする時は、会社のオフィスに行くことが「普通」の人もいれば、このご時世テレワークを選択することが「普通」の人もいる。仕事一つとっても、その人の置かれた環境によって「普通」は異なる。
アインシュタインの言葉に「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションである」というものがある。結局「普通」とは、自分が当たり前だと思っている考えの集合体であり、それは傍から見ると全くもって狂気に満ちたさまだったりするのだ。逆に言えば、我々が滑稽で奇妙だと感じる人間やその振る舞いも、当の本人からすれば「普通」の日常だったりするかもしれない。折口山の住人たちも、彼らにとっては「普通」の日常が、我々のフィルターを通して見ると狂った物語に映るのだろう。

私たちは皆、自分の「普通」が通用しない生きものと共に生きている。毎朝通勤電車で同じ車両に乗るくたびれたスーツを着た中年の男性や、毎日18時頃になるとオフィスを掃除しに来る清掃員のおばさん、家から徒歩2分のところにあるセブンイレブンの若い男性店員、マンションの隣の部屋に住んでいる30代くらいの赤髪の女性、一見すると「普通」の人に思えるが、その誰しもが狂気的一面を持ち合わせているかもしれない。そして自分ですら、他人から見ると狂った人間であり得ることを、実に気づかせてくれる作品であった。

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