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改良できる余地しかないのであればそれは幸せなことなのかもしれない。

行動経済学やら心理学やらの本なんかを読んだり、そもそももっと過去からきいてある格言なんかで、

「なんでもないことが幸せだった」

なんて言葉があるけれども、どうやらヒトは幸せな状態をキープできない上に、抜け出せないと思い込んでいる閉塞感により不幸を感じるようで。それが山積みの問題を抱えていようとも自分の力でどうにか良い方へ持っていけるのであればそれを不幸と感じることはなく、ただただ八方塞がりな状況で打つ手なしとなるととんでもなく不幸に感じるらしい。

大前研一の有名な言葉で

人間が変わる方法は三つしかない。一つは時間配分を変える、二番目は住む場所を変える、三番目は付き合う人を変える、この三つの要素でしか人間は変わらない。もっとも無意味なのは、「決意を新たにする」ことだ。かつて決意して何か変わっただろうか。行動を具体的に変えない限り、決意だけでは何も変わらない。(大前 研一|時間とムダの科学)

なんてものがあるけれど、時間配分を変えることは一番すぐにできるけれど、住むことをかえることや付き合う人を変えることはちょっと思い切りが必要かもしれない。

ただ、「付き合う人を変える」これの見方を変えると、付き合いで変わるのも周りの人なので、強制的に人間関係を変えるための手段でしかないと気づくわけで、結局のところ人が変えるものというのは、自分の「計画」と「行動」の他には「人間関係」と言ったところなのだと思う。そして八方塞がりな状況というのはお金の問題も、お金が介在するのはどこまでいってもヒトとの関係なのである種の人間関係ではあるけれども、それ以外には周りの人との関係なのだと思う。

それがどういうことかというと、ヒトが生きるための最低限はおそらく衣食住の物理的要素だけなのだけれども、人生をみたときに「他人」の要素を廃することがしづらい人は、そこで八方塞がりな状況に陥って不幸を感じてしまうことが多いのかもしれない。衣食住が足りているのであれば、基本的にはそんなの「気のせい」だから本当は捨ててしまえばいいんだけれども。なかなかそうもいかないということもあるんだろうなと思いつつ。

さて、気にすべき人間関係も最低限なので、臆することなく住むところを変えたワタクシでございますが。

完成されたものの中にずっといると、不幸ではないはずなのになんとなく幸福を感じづらく、そういうときは思い切って別の未完成なところへ飛び込んでみるのもいいかもしれないよね。

そういえば昔、フランス人エンジニアの友達が、家のなかで気にかかることがあるならばすぐに直さなければ、毎日そこが気にかかって脳内CPUを食って時間の無駄だからすぐに直した方がいいと言っていた。

この家に越して来てから2週間弱本当にその通りだと思っていて、それが達成されるまでの間

毎日「呼び鈴交換しなきゃ」とか、「カーテンレールつけなきゃ」「トイレのスリッパとペーパーホルダーカバー買って置かなきゃ」とか、現在進行形でまだ手もつけてない「使えないってほどじゃないから後回しになってたけどよくわかんない状態になってる蛇口交換の手配しなきゃ」「階段塗装しなきゃ」とか思いつづけないといけないわけで。

ただ、それらが本当に不幸かというと、やれば・買ったものが届けば、とりあえずは改善される「プチアンハッピー」で何かしら毎日ちょっとづつは改良されている今って、同時に「プチハッピー」の連続だから案外ハッピーなのではないのか。

なんていうことをね、

問題山積みの家で、薄汚れたスイッチプレートを前の家で使っていたちょっとおしゃれなものに交換しつつ考えたのでした。
正直に、引っ越して来てから物理的に問題ばっかりあるけれど、現在不幸かと聞かれてたらそうでもないなぁと。

改良の余地しかなさすぎて希望に溢れてる(白目を剥きながら)



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