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私に見えない世界が見えるその目が羨ましいと思っていた

「全然わかんないけどこれはヤベエ」

それが、私が初めて現代美術を観た時に抱いた正直な感想。

清澄白河駅に初めて降り立ち、東京都現代美術館を訪れた。大学生だったと思う。
その時に観た展示を、今改めて調べてみることにした。幸運にもその時は写真撮影が許可されていたので、館内で撮った展示の写真がスマホのカメラロールに残っている。その日付をもとにぐぐる。

あった。
「うさぎスマッシュ展 世界に触れる方法(デザイン)」という展覧会だったらしい。
当時これを読んだか読んでないかさっぱり覚えていないが、展示の概要が素敵だったのでここに引用しておく。

世界の捉え方が変わってしまうような驚きの体験は、うさぎを追いかけているうちに別世界に足を踏み入れてしまった不思議の国のアリスに例えることができるでしょう。うさぎは私たちをワンダーランドへ誘い、常識的な見方や固定観念に一打(スマッシュ)を与える者の象徴です。展覧会タイトル「うさぎスマッシュ」は、そのような世界に対する別の入口への誘いを意味しています。
(公式HPより)


大学で講義を取っていた一人の教授の言葉を、卒業して数年経つ今もおぼろげながら覚えている。
「本を読む、映画を見る、舞台を観る、美術館に行く、博物館に行く、旅行に行く、友人と遊ぶ、そういう体験には惜しみなくお金を使ってください。そういう経験にこそ、お金を使いなさい」
この言葉を盾にして、時に矛にして、大学生後半はそれはもう散財に次ぐ散財。見たいもの、したいこと、行きたいとこ、惜しみなくお金を費やした。

話を戻すが、この「うさぎスマッシュ展」を観た当時の記憶はもうほとんど残っていない。私は人よりちょっと忘れっぽいところがある。
ただ、写真を撮っていたおかげか、唯一鮮明に覚えている作品がある。

広い部屋の中。真っ白な壁。足を組んで丸太に座るうさぎ。

うさぎだ。
それも、ちんまりとしたあのサイズではなく、まるで中に人が入っているかのようなうさぎ。ホラー映画に出てきてもおかしくないうさぎ。
どうでもいいけど右上に私の指が写り込んでいる。

これを見て思ったわけだ。
「全然わかんないけどこれはヤベエ」と。

これに限らず、当時ほとんどの展示の意味がわからなかったと思う。
現代美術に触れたことがある人ならわかると思うが、ただ棒が立ってるとか、ただ椅子が置いてあるとか、ただ水が流れてるとか、そんなこと言い出したら美術館の部屋に何か置いといたらアートやん、みたいな作品がわりとある。
私にはそれが面白かった。衝撃的な出会いだった。
は?全然わからん、なんだこれ???
が心底面白い。でもどう面白いかは説明できない。もはやなんで面白がっているのか私も不思議だ。

何を思って描いたのか、何を思って置いたのか、何を思って作ったのか、それを自分勝手に想像するのが面白いのかもしれない。
わからないなりに、考えたり、面白がったりしていく中で、突然ひとつだけどうしようもなく興味を引く素敵な絵に出会えたりする。うわこれ好きだ、と自分の中の理屈ではなく心が惹かれる感覚がある。それを知ってしまうともうやみつきだ。

「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」

この本を読んで、初めて現代美術を見て「面白い」と感じたあの瞬間を振り返るきっかけになった。同時に、ありのまま生きることについて、どっしりと腰を据えて考えるきっかけにもなった。

あ、その話をする前に一つ言っておかなければならないが、この本とっても面白い。私は1週間で2周した。
昔からハードカバーの本を買う時にジャケ買いする癖があるのだが、装丁もとても素敵だ。勿論、裏表紙の仕掛けも最高。(是非お手に取って確かめてほしい)

本の内容としては、タイトル通り、著者である川内有緒氏が、友人であるマイティ氏の紹介により、盲人の白鳥さんとアートを見にいくお話だ。それは時に絵画であり、仏像であり、夢であるが、「見る」のは全てアート作品であり、「見る」ことで同じ時間を共有していく。
今すぐ美術館に誰かと一緒に行きたくなるような、しばらく会えていない友人に会いたくなるような、好きなものの話をしたくなるような一冊になっている。


大学生になって美術館や博物館、写真展や展示会なんかを見に行くようになって、帰り道を辿りながら「芸術家の『目』っていいなあ」と私は繰り返し羨んでいた。憧れていた。
私が見ている世界と、この人たちの見ている世界はこんなにも違うのか。表現者の手にかかれば、ありふれた日常が全て芸術になるのかと、自分の果てしない平凡さに打ちのめされた。

だけど、今は少しその考え方にも変化がうまれている。
作中、「そのひとがそのひとのままで作品を見たり、作ったりすることが尊いと思うんだ」とマイティ氏は話している。
私も年齢を重ねて、色々なものに触れて、経験して、考えて、同じように感じるようになった。

誰かの才能を羨むことはない。
私には見ることができない世界を見ることができる「目」を羨むことはない。
私だって他の誰とも違う世界を見ているはずだ。私にしかできない表現があるはずなのだから。
視覚情報としてだけではなく、心で、頭で、肌で、私にとって、私にだけ、私だから、見えているものがある。

白鳥さんは凄くユニークだ。
美術館が好きな人。酔っ払うと迷子になってしまったりする人。能動的な人。クレバーでたくましい人。
そして、全盲の美術鑑賞者。
なんて素敵な紹介文だろうと思う。

白鳥さんが感じる面白さ、楽しさ、不便さ、それらも全て白鳥さんにしかわからない。
同じ盲人であってもわからないだろうし、当然私にもわからないし、あなたにもわからない。
だけどそれは障害のあるなしにかかわらず、目が見える見えないということにかかわらず、人のことなんてわかるはずないからだ。

「僕らはほかの誰にもなれない」

そう。なれないのだ。
どんなに努力しようと、寄り添おうと、近づこうと、私は私でしかないし、あなたはあなたでしかない。
だから、私たちは他者と関わる時に苦労する。コミュ障という言葉が当たり前のように使われる昨今、人と人が円滑なコミュニケーションを取ることはなかなか難しい。
話さなきゃわからない、話したってわからない、空気読んでみたり、察してよって言われたり、そんなこと言われたってわかんないよ!って時もあるよね、あるある。そんなことばっかりで嫌になる。
でも私たちはその人の立場に立ってみようとする。考えてみる。察してみる。気遣ってみる。

結局全部はわからないけれど、わからなくていいのだ。
わからなくていいから、わからないものを排除しない、否定しない、壊さない。
ともに生きて、なんとなくちょうどいい距離を保って、それぞれ笑っていようよ、そのほうがいいじゃん、って私は思う。

異質な物、自分とは違う物、自分にはないもの、自分にはわからないもの、それをそれとして大事にするほうが絶対にいい。

「そのひとがそのひとのままで作品を見たり、作ったりすることが尊いと思うんだ」は、アートに限ったことではない。

そのひとがそのひとのままで生きていたり、生きていこうとすることが尊いと私は思う。

他者の目を羨む必要なんてないのだ。

わたしはわたしのまま、常識的な見方や固定観念にスマッシュを与えられるうさぎでありたい。

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