アテンションエコノミー、陰謀論、ミソジニー/バックラッシュ、排外主義、分断・対立の深化——トランプ、松本人志、百田尚樹、セックスワーク論、暇空問題、共同親権推進派、表自、ネトウヨの交錯

どの問題も発信することで加害側を変えられるとは毛頭思っていないし、急に何かを変えられるとも当然思わない。でも、問題意識、危機意識を少しでも共有できて有効な動きに少しでもつながるならと願っている。もちろん自分も仲間たちと動き続ける。

たちもいるのだが、誇大な正義感を抱き、歪んだ「正しさ」を信じ、それがフィルターバブル、エコチェンで強化され我が身を振り返れない者がどの問題でも暴走をしている。そしてその現実社会・政治への影響力が加速度的に強まっているのが現況だと思う。

当然それぞれの身の安全やメンタルヘルスが優先されるべきだが、集合的、社会的には見ないふりをしたり目を背けたりして黙殺、放置をしておくことはとうにできなくなっている。殊に政治、行政、マスコミは態度、姿勢を改めて欲しい。


トランプ勝利

トランプの勢いを自分たちの正当性の証と思ってはしゃいでいる奴らが多過ぎる。トランプ勝利はもちろん、アメリカ社会の分断・対立の深刻化、過激言論の正当性獲得ということの影響は計り知れない…

トランプは「怒り」を票に変えたと言えるのだけど格差・不平等を解消しようとする訳ではない(むしろ、格差・不平等に取り組もうとする者たちこそが「敵」にされる)。その「元凶」(例えば、移民、中国)を名指し叩くことで「怒り」を動員する。もちろんそれで多くの人の状況は改善しないが、そうすると別のストーリーや標的を持ってくる。それまで言っていたこととの矛盾も気にしない。自覚的ではないのだろうが、社会の荒廃がトランプ支持の源泉になる。怒り、不満を助長し、解決策ではなくその矛先を提供する。

人種差別、性差別、LGBTQ+差別、強欲資本主義……そうした社会を蝕む問題を批判し対抗する側が「加害者」位置に置かれる。典型的には民主党(左派)、リベラルであり、フェミニストであり、LGBTQ+活動家であり、「ウォーク」な経営者であり……。トランプも支持者も「被害者」位置から語り、怒り・不満を持つ人たちを動員してきた。

それは長年伏在し、時期によって顕在化していた流れが、ブッシュ対ゴア(既にこの時に「二つの国」「内戦」と言われていた)、9.11を経て、そしてアテンションエコノミー化が加速することによってメインストリームになだれ込んできたということなのだろう。そして、民主党も(トランプ以前の)共和党主流派も受け皿になれなかった。

遠因として「第三の道」、新自由主義路線を取ったクリントン政権、敵・味方を分け対テロ戦争に突き進んだブッシュ政権ということも言えるんだろうなと思う。

トランプ新政権の人事を見ていて希望が全くない。第1次政権では前評判と違う役回りも果たしたマティス国防長官などの例もあるにはあったが。そして、国際的にも極右や権威主義の政府・首脳が存在感を増す状況があり、もちろんイスラエルやロシアにも追い風となり、不穏という形容では済まない。かつ、日本もそうだが、極右や陰謀論者、特にミソジニストや排外主義者が勢いづくことが各社会にもたらす影響は恐らく第1次政権時の比ではないのではないだろうか。

松本人志

松本側に当日の事実関係を説明させることは被害女性たちに対するさらなる加害になる恐れがあるが、少なくとも、松本らが女性を「性的対象」「性的モノ」としてのみ眼差し、扱ったと捉えられることについて、相手女性の言動がどうであったのかとは切り離して、松本らの意識としてどうであったのかということは自らの口で語られるべき。 どういう目的、期待で飲み会を設定したのか。仲間内でどういう想定を持っていたのか。当時、女性という存在をどう見ていたのか、今はどうなのか。バラエティなどでは数々あからさまに語っているが、笑い抜きで真摯に説明すべき。

百田尚樹

百田尚樹のこともそう。喩え話だろうがSFだろうが、わざわざそれを持ち出したのはなぜか、喩え・SFを用いるにしてもなぜそれだったのか。それを言う前に念押ししたとか、そういう性格、キャラだという話にすり替えるのではなく、たしなめたとか切り取られたとかいうことではない。

百田や有本が女性という存在をどう捉えているのか、女性差別、ミソジニーとはどういうものであると認識しているのか、喩えも笑いも抜きで真摯に語るべき。結局彼らは差別言動をした後はいつも、批判する側を攻撃したりふざけたりして居直ってきたし、被害者ポジションを取って見せることもしばしばだった訳で。

このツリーを見てもらえば、有本と百田の言ってることがまるで頓珍漢であることは一目瞭然。女性差別、外国人差別だけ。

百田、有本など「保守派」・ネトウヨにとっては少子化が「日本人の血」というフィクションと結びつくわけだよ。だからグロテスクな話になるし、女性を子産みの道具視することに問題を感じない。家族制度・規範へのこだわりもこの制度・規範が生殖管理のためであることを考えれば当たり前なんだよね。だからこそ、個人の尊重を掲げる憲法は敵視される。

そして、「万世一系」「男系」という天皇制のフィクションも「血」の問題。結局、「日本」「日本人」であることに自我の支えを求め、その日本・日本人の支えは天皇に求められる。その絶望的な希求、欲望がフィクションを再生産していく。皇統も天皇陵も正統性を見せるための後付けの産物だからね。

与野党問わず政治が「少子化対策」を叫び続け、「少子化は国難」とまで煽り出した罪は本当に重いと思う。マスコミもそう。

反同性婚も反トランスジェンダーも生殖管理が根底にあるし(だから同性婚が結婚制度を強化する効果を持つ点には敏感であるべきなのだが)、そもそも性別が特権的な差異になるのも生殖管理のため。

百田らの「過激な」発言は非難しても、ふんわりしたあるいはロマンティックなナショナリズム言説にはリベラル含め積極的に乗ってしまうし、フェムテックのような両義的な(というかリブ的な意味はもはやすっかりかき消された感もあるが…)「女性のため」「女性視点の」ということへの警戒感もほとんどない。

そもそも、今回の発端でもある「少子化対策」という問題設定を与野党問わず、左右問わず共有しているというのが…。もう一つ、ナショナリズムとネオリベは結託する。そこでますます女性は道具化、資源化される。いろんなことがつながっている。

宗教右派の政治への浸透の問題は選挙・集票に矮小化して考えると間違うんだよね。だから、すぐ「壺」とか揶揄したり相関図みたいのを持ち出して「支配されてる」的な話にしたりするのも本質を外していて。

赤旗の石川優実さん記事への攻撃

赤旗の「性搾取を問う」の石川優実さんのインタビュー記事について、石川さんが被害を語っている文脈をきれいに外して別の主張に仕立てて、それによって石川さんや赤旗、共産党を叩いているセックスワーク論者やアンフェのポストが次から次から。信用を貶めよう、黙らせようという常套手段。

そもそもセックスワーク論においても、石川さんが遭ったような被害があることは認めているし、そういう被害を防ぐためにも「ワーク」とすべきという主張だったはず。議論の筋道は違えど、客や業者に対して従事者の権利が守られかつ実質的に行使できるべきという点は同じであるはず。ところが、そういう被害の話が出ると「そんな例ばかりではない。偏っている」という攻撃になる。誰が語っているかで話がまるで変わる。

意に沿わない、気に食わない当事者を話のすり替え、印象操作で黙らせようということを繰り返してきて「当事者を分断するな」ってあまりにご都合主義。あえて分断し、対立構図に仕立て上げているのは(特定の)セックスワーク論者たちの側。誰のためのセックスワーク論?誰が誰を差別している?

客や業者に対して当事者の権利を守る、主張・行使できるようにするという点でセックスワーク論は重要な論点を示している。社会からの偏見、差別が当事者を客、業者に対して脆弱な立場に追いやっているという点も大事な指摘。

しかし、被害がある、強制があると訴える当事者を黙らせるために振り回されるセックスワーク論は客と業者の自由を守り、セックスワークに従事することを納得したい当事者に動機の語彙とストーリーを提示し誘導するものでしかない。被害を被害と認識させない、あからさまな強制がなくても「自発的に」従わせるという効果をセックスワーク論が持ち得ることへの敏感さが欠如している。

AV・ポルノも性風俗、売春も「自由意思対強制」の二項対立の図式で捉えることはできない。この図式で当事者に焦点化し、「セックスワーク」が成立する構造を透明化することで、客、業者は免責され当事者の「自己責任」の問題にすり替えられてしまう。セックスワーク論にはその傾きがあるが、運動的にはその面がさらにせり出す。それは当事者に対する暴力、加害だ。

なんか変な混ぜっ返しがいくつかあるのだが、赤旗を批判する形を取りながらその内容、効果は石川優実さんや他の被害当事者の信用を貶め黙らせようというものだし、暇空問題、共同親権問題、表自問題などとも共通するけど、こうやって攻撃がされることで当事者以外の人を含め声を上げにくくしているんだよ。政治家もマスコミもそれで腰が引けているのだし。

それと、セックスワーク論者とアンフェは同調したり連動したりする場面が繰り返されているし、セックスワーク論者がアンフェに正当化の材料、それどころか煽る材料を与えることとなってきたのも明白なこと(暇空問題にも加担した場面があった)。当然セックスワーク論者はそのことに自覚的なはずだが、有効な回避策を取ることもしない。

バックラッシュ、ミソジニー

「表現規制」問題も、共同親権問題も、暇空問題も、《表現の自由》、《子どもの権利》、《住民の権利》などの問題ではなく、ミソジニー、家父長制の問題なんだよね。だから、このバックラッシュ状況の中でそれぞれ重なり合うし、右派・ネトウヨと大きく重なる。 問題はこれらに対して声を上げづらい言論空間の状況があると同時に、トランスジェンダーに関する主張の違いやポスト・フェミニズム状況などのために、対抗すべき側が分断されてしまっていること。

表自の問題も暇空問題、共同親権問題等々も独立した問題ではなくバックラッシュという共通の文脈、土壌があっての現れ。何でも反射的に「表現規制」「ポリコレ」「キャンセルカルチャー」「燃やした」「男性差別」等々言うのはまさにそう。本人たちも否認している根深い性差別・ミソジニーが根底にある。

暇空問題も共同親権推進派問題も物凄い被害、犠牲が生じているし、彼らのやり方は民主主義の基盤を毀損していくもの。表自やネトウヨとも重なり合っていて、バックラッシュという意味でも、アテンションエコノミー下での対立・分断の激化、民主主義の危機という意味でも全く限局化された問題ではない。

そして、それぞれコアな者たちはとうに議論、対話、コミュニケーションが成り立たず、法的強制力でとにかく止めるしかない状態。その危機意識で対処しなければならない。

ほんとね、共同親権運動はバックラッシュなんだよ。彼らは権力(パワー)を手放したくない。相手と状況を支配、コントロールしていたい。 相手が情報、知識を得ること、弁護士や支援者が付くことは相手が力を得ること=エンパワーメントだから、彼らにとって脅威になるし、それだけで自分が「奪われた」と感じる。

自分の加害者性を否認して相手や弁護士、支援者に投影する。そうしてできる物語が相手側を「加害者」「犯罪者」にする「実子誘拐」「教唆、指南」なんだよ。 でもそんな物語は現実と乖離していて現実は動かない。その思い通りにならない現実に対して、自省に向かわず他責に向かいますます過激化する。

暇空問題も、何かと「男性差別」「逆差別」と言い募る者たちもそう。自分が持っていて当然と思っていた権力(パワー)、他者や状況に対する支配・コントロール権が「なくなった」あるいは「脅かされている」という不安、恐怖からのバックラッシュ(反動)。

この「自分が持っていて当然」という自明性は元々意識すらされていない。歴史的な構築物であるジェンダー秩序・規範の結果に過ぎず、根拠、合理性はない。でも、慣れ親しみ、無自覚に利益を得ていた、故なき既得権益。だからこそ、剥奪感、被害者意識を生じさせる。

兵庫県知事選のことなどポストで取り上げられていないものを含めいろいろな問題が全部つながっているのが辛いよな。絶望感、無力感を覚えそうになるわ。

「安全な空間ではなくなった」はまさにその通り。と同時に、この空間から現実の社会、政治への有害な影響力も急速に強まっている。対抗するためにはとどまるしかない、少なくともチェックはしないとならないという厄介なジレンマもある。

Xの外で安全な空間を作っていくことが長期的には対抗力になるはずだが、その前に現実の社会、政治がぶっ壊れてしまうかもしれない。米大統領選を挟んでの総選挙と今兵庫県知事選で起こっていることから強く思う。もちろん、暇空問題、共同親権推進派問題、表自・セックスワーク論者の問題等々も、LGBTQ+差別や排外主義の激化もそう。

DV加害者は相手と状況を支配、コントロールしたい。だから、相手が情報、知識を得、支えを得、力を持つ=エンパワーされることが許せない(そのことに大抵は無自覚)。だから、それをもたらす弁護士、支援者、行政等は許せないし、女性向け「離婚講座」、講演会、法律相談は敵対的なものでしかない。それで顛倒して、「利権」だ「教唆、指南」だ「男性差別」だと非難されるべき理由を求める。

元々性差別的、家父長制的意識を持っていたのであれ、相手への憎悪が女性、シングルマザーに投影されるのであれ、彼らの言にも態度にも支配・コントロールへの、状況の定義権への欲望が滲み出ている。でもその自覚はなく、自分では「正しく」振舞い、「正しい」ことを言っていると思っている。被害者はそういう言動に恐怖し、フラッシュバックのトリガーにもなる。ここにも非対称性がある。

問題は、加害者、差別者はそう名指されること、自分の姿を突き付けられることを極端に嫌がり、過敏になっているということ。だから、フェミニスト/フェミニズムは嫌われ叩かれるし、何でもフェミニストの所業にされ歪んだフェミニスト像が仕立て上げられる。

それは共同親権運動だけでなく、暇空・暇アノン、表自、ネトウヨ、排外主義者、トランスヘイター等々に共通することで、その名指し、突き付けが被害者意識を生み、相手側を「加害者」「差別者」「悪」「敵」などとして造形する。その場合の仮想敵は「フェミニスト」であったり「リベラル」「左翼」「極左」であったりして名付けが先立ち、定義的な妥当性は二の次になる。

だから、対策、対抗には難しい課題があって、男性相談、自助グループ・居場所、アウトリーチなど含め、「ソフトな」、「遠回りの」アプローチも必要になるし、強制的、強権的な手法はしばしば余計にこじらせることになってしまう(もちろん先鋭化した層には刑事その他の強制力を以て対処する他ない)。

同時に、アテンションエコノミー下では、またジェンダー秩序・規範の力がまだまだ根強い中では、加害・差別言説の磁場に知らず知らず吸い寄せられないようにするための空間づくりや、被害者・弱者が安心して声を上げられ語り合える空間づくりがとても大事になる。

これらをこの喧騒の中で並行してやらなければならないというのが厄介なことで、しかも10年代以降状況、環境が急速に悪化してしまった、その累積的な圧力がある中でやらねばならない。

全体状況を分析してしまうと絶望的な気分にもなってしまうけど、効果的に対抗するためには分析的な視点は欠かせないし、とにかくやってくしかないのよね。そして、とにもかくにもこの辺は止めていかないとどうにもならない。立花孝志も当然そうだが、野放しで対処されないということの負の効果、負のメッセージは深刻なんだよ。もちろん被害回復も一向に進まない、緒につきすらしない。

(ジェンダー)バックラッシュ/ミソジニー、ヘイト、誹謗中傷、ポピュリズム、アテンションエコノミー……全部通底しててさ。それで次々と被害者が出て、なかなか救われず、正義が果たされずあるいは遅れ、声が封じられ……そして、加害側と被害側には権力関係はもちろん、発信の量、スピードでも圧倒的な非対称性がある。理があっても不利というこの状況でどう闘っていくかなんだよ。その時に必要な冷静さとかバランスとかの使い方を間違えないで欲しいんだよ。

被害者側、マイノリティ側もアテンションエコノミー的に反応、行動してしまうことの問題、それが効果的な対抗にならないばかりか有害なことになり得ることは私も何度も書いていて、一般論の部分は共有できるのだが、こと今回の「逆転無罪」判決への批判、抗議について、また(これは藤田さんの著書やポストでも違和感があるのだが)ジェンダーイシューについては、その一般論を先に立てて直結させ、議論の水準を混同させてしまっているように思う。

自覚的でなくとも、男=理性/女=感情の二分法を密輸入していないか、ジェンダー秩序の強力さ・執拗さ、抵抗・攪乱の難しさという問題を軽視していないか。性暴力被害への感度も高めてもらえたらとも思う。

ここはアテンションエコノミー下ではますます見極めがたく、それ故に厄介な問題にもなり得るのだが、性暴力、セクハラ、性表現などに関わる怒りの表明、抗議は表層的には直観的、感情的にも見えてしまうのだが、キャロル・ギリガンの言う「もう一つの声」、もっと言えば「もう一つの論理」だと考えられるべき。

累積した個人的、集合的な実体験に根差したものであるし、男性的に構築され反復、強化されてきた「論理」に対して、関係的なケアの倫理に基づくオルターナティブな論理をもって抵抗、対抗するもの。

もちろん、感情の動員が暴走や論点のズレを喚起し得ることも確かで厄介な問題をはらむが、声を上げることを抑圧するようなことになっては本末転倒。暇空問題などについて繰り返し指摘しているが、元々圧倒的な非対称性があり、アテンションエコノミー下で量的、速度的にさらに不利な状況が作られてしまっている中での、声を上げること、対抗することの困難さという問題。ここにはジェンダーの視点が欠かせない。


全体構造と対抗の仕方を巡って

量的な奔流に対抗するためには、多大な時間と労力を要するし、何をどう言うかには慎重な判断が求められるし、そもそも声を上げたくても上げられない人も多いしという圧倒的な非対称性ね。

テクストの読み、解釈、分析の道具立てには、自分が使っているものを物凄く大括りに挙げてみても、法学的、行政学的、政治学的、哲学的、現象学的、社会学的、フェミニズム的、精神分析的、心理学的、精神病理学的…等々いろいろあって、テクストに応じて適切に道具を選びあるいは組み合わせることが不可欠だし、自分のポジショナリティ、感情等に自覚的であることが欠かせない。

自分の願望に合わせて、予め保持している都合のいいストーリーを解釈枠組みにして読むというのは的外れだし有害。それをずっとやってるのが暇空たちだし、共同親権推進派、「保守派」・ネトウヨもそうだし、表自や目立ったセックスワーク論者もそう。だからコミュニケーション不可能な並行世界が出来上がってしまう。

暇空たちは特権を持つマジョリティの側にいると思いたい。でも思い通りにならず不遇感、剥奪感を募らせている。その被害者意識、ルサンチマンから、自覚的でないにせよ社会を破壊したいという衝動がある。思い通りにならないなら社会の破壊が自己破壊になっても構わない。自覚的には自分は生き残れる側だと思っているにせよ。

何度も指摘しているが、暇空たちには何らかの「傷」や逆境体験があるのだろう。それが適切なケアを受けられないまま、根源的な安心感や帰属感が奪われてきたのだろう。皮肉なことに、でもある意味当然のこととして、暇空たちの攻撃は「ケア」に向けられている。

暇空たちが一様に異様な誇大感、万能感を見せているのはそうでないと自分を保てないから。誇大妄想の対として「敵」「悪」はますます大きく仮想され、被害妄想・迫害妄想が膨らむ。それでは現実とのギャップはますます広がるばかりで、現実はますます思い通りにならない。だからますます憎悪を募らせるしギャップを埋める妄想が膨らむ。

こうやって分析し了解することはできる。問題は暇空らエコチェンの中にいる者たちに言葉が通じずコミュニケーションが不可能なこと。その状態で彼らの空間から物凄い量と速度で虚偽や歪みが現実社会に流れ出してくるし、現実の社会や政治にますます強く作用している。

彼らの書き換える「現実」が彼らの中、彼らの妄想世界の中に止まらず、社会、政治において間主観的に成立している現実を呑み込んでいく。兵庫県知事選で起こっているのもそういうこと。

「現実」の見え方は立場性により異なる。しかし、それが摩擦、衝突を孕みながらも間主観的な現実として共有される。「社会」はそうやって可能になる。それが可能なのは、それぞれの「現実」が何らかリアルの基礎づけを持つからであるし、一定の論理、規則、「文法」が共有されているからだ(当然そこから差別、排除も生じる)。

でもエコチェンから持ち込まれる「現実」にはそのような意味での基礎づけがなく、独自の論理、規則、「文法」に支配されている。もちろん、このことはエコチェンに固有の新しい事態ではないのだが、その規模、速度、強度、「感染力」は従前の狂信集団等とは位相を異にすると思う。

アテンションエコノミー、フィルターバブル、エコーチェンバーで増幅されるパラノイア的、依存症的狂気・狂信によってどれだけの被害が生じているか、どれだけの無用な負担が生じているか、剥奪感、被害者意識に駆られ加害者性を否認する当人たちには想像できないし、自分と向き合えないから止まれない。再帰的な妄想世界に固着している者たちはとにかくネットから切り離し、拘束・隔離しないことにはどうにもならない。とうにそこまで来ている。

ゲーム的な、自覚なき悪意が人を傷つけ、追い込み、生命を奪いすらする。また、ケア、セーフティネットを毀損し社会の機能を低下させる。これらは現実に起こってきたことだし、起こっていること。エコチェンに支えられる加害者はそれが想像できないし否認する。現実を見たいように見、妄想で上書きする。言葉が通じず、コミュニケーションが成立し得ない。

彼らは彼らで何らかの傷や逆境体験を抱えているのだろうし、それも否認・抑圧しているのかもしれない。適切なタイミングで適切なケアを受けられず、根源的安心感や居場所を奪われたまま、承認、自己肯定感、自己効力感を希求し続けているのだろう。相手や状況に対するコントロール欲と誇大感の強さに現れている。

もちろんだからと言って加害責任は免れない。無力を認めコントロールを手放さない限り、彼らの「回復」はないし、そもそも自覚的に責任を引き受けることもできない。それは自発的に、自然に訪れるものではない。だから、まずは法的強制力で加害を止めるしかない。

彼らの加害言動を無効化、無力化できる空間の広がりと厚みがあればここまでのことにはなっていなかったし、これからの最重要の課題の一つだ。でもそれにはまだ時間がかかるし、そのような問題意識、危機意識を醸成することに対してすら現状が障害となっている。その間も被害、犠牲は発生し続けるし、抵抗力、対抗力が不可逆的に削がれてしまったらどうにもならない。

アテンションエコノミー、ポピュリズム、フェミニスト叩き、NPO叩き、ナショナリズム・排外主義…こういったことが全部重なり合い、相互作用し、相当程度合流してるんだよね。他方で左派的なアテンションエコノミー、ポピュリズムは対抗というよりも加担する効果を持ってしまっている。

そして、こうしたことは新自由主義のロジックに乗っていたり新自由主義への傾きを後押しすることになったりしている。その殺伐さがこれらの現象の吸引力をさらに強める。

それぞれがどうにもならない現実を上書きして生き延びようとしているが(ただしそう言ったことの自覚はない/否認している)、それが暴力性、加害性を纏い現実に暴力、加害となっているし、実は自傷的で自分自身を蝕んでいる。パラノイア的で依存症的。

反射的に対抗(カウンター)しようとせず、こうした構造を捉えて切れ目を入れていかないと、むしろ加速させてしまう。

暇空らの認知の歪み、論理性のなさ(論理の誤用、因果関係・相関関係の誤認、存在論的ゲリマンダリング等々)は酷いものだし悪化の一途なのだが、門田隆将のような「保守派」の論客、インフルエンサーたちも基本的に同タイプなんだよね。その彼らが長く「活躍」できているのは、フジ・産経やHanada、WiLLなどの保守系メディアの責任が大きいと思うよ。あまり拾っていないが、連日目を疑うポストが並んでいる。

杉田水脈、百田尚樹などもそうだし、自民党の保守派議員もそうだけど、10年代の民主党政権・リベラル叩きから安倍長期政権へという10年代を通じて、従前はトンデモ扱いで、保守派・宗教右派界隈では重宝されているものの一般的には「知る人ぞ知る」でしかなかった論者が言論空間、政治空間で大手を振って発言、発信できるようになった。

ヘイトスピーチという言葉がメジャーになり、やっと法律もできたけど、むしろヘイト言説は増大、拡散し、批判の方が「炎上」するような事態も繰り返されている。そして、そういう言説がますます影響力を持ってしまっていることが可視化されたのが総選挙、兵庫県知事選だったし、暇空・暇アノンや共同親権運動の支えとなっている環境でもある。

10年代に「表現規制反対派」とネトウヨが合流、融合したという私の見立てもここに関わるし、やはりSNSの普及、アテンションエコノミーの浸透という条件が大きい。

社会的に差別への感度は高まってきたが、逆に差別批判への反発がエネルギーになりながら、従前なら陰で、クローズドな場で、あるいは「居酒屋」でしか言えなかったような差別言説が、しばしば差別の自覚すらなく表で堂々と発せられる。フィルターバブルとエコチェンが発話の許容度を大きく緩和してしまっている。

対話・議論しろとか両方に意見聞けとか言われることはしばしば疑似論点で、例えば「共同親権賛成か反対か」「「連れ去り」か否か」、「表現規制に反対か賛成か」、「セックスワーカー差別反対か肯定か」、「減税に賛成か反対か」も大声で騒がれるもの(それぞれ前者)は大抵、一方的に定義・前提・文脈が設定されていたり誤った二項対立にされていたりする。

減税については少し趣が違うが、共同親権、「連れ去り」、セックスワーク、表現規制については自らの加害性、暴力性や差別性を否認・否定し、外部に投影し、都合のいいように「敵」の幻像を造形して叩くことを批判、意見と称している。減税についても都合よく造形された「増税派」「財務省」が仮想敵になっている。

そしてその土俵に乗ったら乗ったで、乗らなかったら乗らなかったで都合よく読解・理解され歪曲したストーリーにされてしまう。それをしている側は基本的に自らの誤解、誤認、論理的誤謬に気付いておらず、強固な認識枠組みの歪みにも気づいていない。

それ故に反射性も高いからアテンションエコノミー、フィルターバブル、エコーチェンバーとも相性がよく、量、スピードでは圧倒的に優位を占める。だから厄介だし、対抗に困難が伴う。

そして、彼らは(自覚なく)事実、現実を書き換えていきそれを前提化してしまう。それは「立場性によって事実、現実の見え方が異なる」という当たり前のこととは違う水準でのことだ。間主観的に立ち上がる事実、現実否「世界」というものが彼らとの間では立ち上がらない。有意味なコミュニケーションが不可能あるいは困難なのだ。

その説得、ケアを対抗する側に求めることは酷なことであるし、そのこと自体が非対称性の現われとなる。ここで第三者が両者の対等性を仮定したり「どっちもどっち」論にしたりすることは、既に一方への加担であり、他方への暴力となる。

兵庫県知事選からの示唆

都知事選、自民党総裁選、総選挙、米大統領選、兵庫県知事選というこの半年間で、政治的、社会的に民主主義の危機と言える状況が一気に加速してしまったように思える。個別の事象のように捉えられてしまってきたものが重なり合い、増幅し合ってきたことはやはり大きい。暇空問題もそうだし、暇空問題自体も様々な流れ、動きが重なり合ってきた土壌で起こったもの。

デマ、誹謗中傷の類を黙殺して、あるいは粛々と対応してということでは収まらないということは在特会の件で政治、行政もマスコミもよくわかったはずだし、その前の性教育バッシング等2000年代バックラッシュの教訓もあった。なおさら10年代を経た今の環境では受動的な構えは全く有効ではない。「思想の自由市場」も機能できないことも明白。危機意識があまりに足りない。

その前からそうだったが、特に米大統領選結果も兵庫県知事選結果も都合のいいストーリーにして了解して勢いづく。こういう増幅サイクルが回り始めたと思える。

都知事選でも兵庫県知事選でもそうだけどやっぱり日常的にこういう空間の厚みを作っていかないとならないんだよな。「負け組」レッテルを貼られているマスコミの役割としてもここは考えるべきだと思う。

と同時に、行政も政治も認識、姿勢を変えないと。

そして、フィルターバブル、エコチェンに引き込まれる前に、はまり込んでしまう前にという取り組みがますます重要になる。当然、様々な主体の多重的な取り組みが必要なのだが、以下はその切り口として。

さっきも書いたが、黙殺、スルーでは事態が悪化するだけということははっきりしている。同時に、デマ、誹謗中傷、陰謀論の類の発信・拡散・同調者を見下し、揶揄し、攻撃しという方法も利かないし、むしろ歪んだ認知・信念を強化させてしまっている。アテンションエコノミーのロジックに乗って対抗/攻撃しても効果がないし逆効果にすらなるということは兵庫県知事選でも見えたのではないか。

権力者・強者に対する従来型の示威的・騒擾的な闘い方は、フィルターバブル、エコチェン、ポストトゥルース/オルタナファクトの勢力には無効なのではないか。彼らに権力者性、強者性があるにしてもだ。むしろ彼らによるイメージ操作に使われて人を遠ざける効果も生じさせてしまうケースが多くなってきたように思える。

《オールドメディア対SNS、ネットメディア》とか《組織対無党派》みたいな図式化は外形的には妥当する面はあるのだが、イコール前者が誤り、虚偽で、後者が正しい、真実ということには論理的にも実態的にもならない。

問題はアングラ的、サブカル的戯言のような扱いだった「マスゴミ」「ネットで真実」のようなことが説得力を持ちつつある、主流化しつつある、あるいは単にSNSを通じて抵抗なく受け入れられるようになってきていること。

これを反知性主義だリテラシーの低さだ新聞・本を読まないだといったことで片付けず、ましてや見下さず、アテンションエコノミーのロジックにそのまま乗る形でなくアテンションを獲得できるか、別の情報回路・誘導路をSNSに組み込んでいけるか。

また、米欧でも顕著だが、エスタブリッシュメントやエリートと名指されるもの、そう受け取られるものへの不満あるいは敵意が醸成、動員されていることを看過してはならない。

新自由主義的政治・経済・社会の生成物でもあるこの不満、敵意がさらに新自由主義的な要求に向かうという決定的な矛盾があるのだが、新自由主義による荒廃、自助・自己責任押し付けは不満の捌け口を必要とする。それがナショナリズムであるし、敵意の矛先が女性、外国人、LGBTQ+、生活保護受給者など、さらに最近顕著なこととして支援を行うNPO(非営利団体)に向かう。

それはもちろん妄想だし差別であるのだが、その背景にある被害者意識、剥奪感をもたらした構造的原因を問題化し可視化していかなければ、エスタブリッシュメント等と名指された側がそこに真剣に取り組んでいかなければ、ギャップは埋まらない(これは米民主党がまさに求められていることだ)。

権力者・強者に対して正当な怒りを表出する、強い批判、抗議を向けるということは全く否定していない。これはここの文脈から外れる話だが、当然控える必要もない。

その上で《フィルターバブル、エコチェン、ポストトゥルース/オルタナファクトの勢力》と闘う上で《示威的・騒擾的》戦術が有効なのかを問うている。もっと言えば、「Rシール」や今回の「反さいとう元彦デモ」のような戦術は逆効果ではないのかということ(いずれも候補者陣営がやったことではないのは前提事実として言っている一方で、それぞれアンチ蓮舫の勢力、さいとう推しの陰謀論勢力が実質的に闘う相手になったことを捉えて言っている)。

対一般社会で「過激な方法で注意を引く」「違和感を生じさせる」戦術はもちろん有効な場面もあるが万能ではない。殊にリアルでの出来事がすぐにSNSで歪めて使われてしまう状況においては。

「真実」「善」「正義」「普遍」といったものは絶対的に一つに決まっているものではない。間主観的に定まり共有されていくものであるし更新されていく。何より、その定義権を巡るヘゲモニー争いが繰り返される。

それが穏やかな対話であれ闘争的な議論であれ共約可能性を追求するものであればよいのだが、相手を否定し尽くそう、排除しようという衝動に駆動され、分断・対立の構図の下で排他的、相反的に「現実」「事実」が争われるのであれば、政治も社会も成り立たないし、民主主義は不可能になる。

自分(たち)の絶対的な「正しさ」を英雄的に、自己陶酔的に振りかざす運動は抵抗、対抗としてもどうなのだろうかが、敵対者からの揶揄とは違った意味で問われるべきだと思う。「真実」「正義」といった言葉を戦略的な言辞、修辞として用いることはもちろん否定しない。しかし、それが自らの絶対的属性とみなされてしまうことは危うい。

もちろん、ポストトゥルース/オルタナファクトの世界にはまり込み、再帰的に陰謀論を膨らませているような、コミュニケーションが成立し得ない勢力にどう対抗するかということがある。その時には彼らに「現実」「事実」を定義するヘゲモニーを渡さないこと、彼らのストーリーを無効化、無力化していくことが必要になる。

そのためには「こちら側」により多くの人を包摂していくしかない。その時、排除性、排他性が自分に向かってこないという一定の安心感や信頼感がなければ近づきがたいし、却って「向こう側」に追いやってしまうことすらあるだろう。もちろんそれは表層的な激しさや柔らかさ等の問題だけではない。言葉、振る舞い、構え等々からどういうメッセージが伝わるか、受け取られるか。

どう闘うか非常に難しい状況にあることは確かなのだが、だからこそ「この闘い方しかない」と凝り固まったり「あれかこれか」の両極端で考えてしまったりしてはうまくいかないのだろうと懸念している。

立花とか浜田とかは選挙であったり国会活動であったりという公的、公共的なプロセスに乗せてデマ、陰謀論、誹謗中傷を振り撒き、それが確実に誘導、動員につながり、被害、影響を生じさせといった効果を発揮してしまっている。こういう存在を黙殺するのも面白がるのも論外で、リアルタイムに対処していかないと加速度的に民主主義の破壊が進んでしまう。

暇空もそうだし、N党、参政党、保守党などもそうだが、言論や政治的意見あるいは市民的・政治的権利というものの領域あるいは境界線を破壊的に攪乱してしまっている。従来の延長線上の建前論、形式論で介入・制止を躊躇してきた結果が今目にしている惨状。

兵庫県知事選で騒ぎ始めるのは遅いし、白々しくてさ。暇空問題とかN党問題とか放置してきたからこうなってる。政治、行政、マスコミの責任は重いんだよ。公選法も大事だけど都知事選受けての議論がそこばかりになり、あとは「石丸現象」の話題で「既成政党が」とか「選挙の戦い方が」みたいな方に行っちゃったし。

兵庫県知事選後の展開もアテンションエコノミーのロジックに乗っている面が多分にあって、そのロジックの力は増幅されることになりそうな懸念。都知事選後も結局そういうことで、自民党総裁選、総選挙、そして米大統領選を挟んで、兵庫県知事選と進展してきたという流れはあるように思う。

暇空の妄想地図を描ける者も妄想物語を記述できる者も現実的に一人もいないし、原理的に不可能だよね。いくつものロジックの異なる並行世界を重ね合わせて一望するってことになる訳だから…。問題はその暇空がまだ自由だってこと、そのために被害が終わらないってこと。

違う方向から見れば、暇空が多重化しているということだよね。我々はその時その時で違う「暇空」を目にしている。こう言ったからといって、訳の分からなさは変わらないのだが。

ただ、二重過程理論の「システム1」が常に作動して、感情とアテンションに支配された状態では多重化が起こると言えるのだろうし、「システム1」を常に作動させるように働く何かが背後にというか、内面に潜んでいるということが言えるのだろう。もちろん再帰性もここには働いているのだが、それだけではないだろう。

結局同じ話になるのだが、こうなってしまう前にということが本当に大事で、それは規制で解決することではないし、リテラシー云々だけでどうにかなる部分でもない。ましてや上から目線で説くようなことに意味はない。

マスコミ含め、「システム1」が働く現場に、ただアテンションを取りに行く形ではなくどう入り込んでいけるか、何をどうビルトインしていけるかだと思う。今飛び交っている議論ではここが決定的に足りない。

同時に暇空たちとか、それこそ立花孝志とかのようなところまで進行してしまった者たちについては法的強制力で迅速に切り離すということをしないと、対抗がますます難しくなってしまう。

ここにAIのさらなる進化、さらなる実装ということがある訳だよ。このことと同時に考えていかないと、あっという間だと懸念している。

兵庫県知事選挙を受けて出てきたSNS規制の主張(それはそれで反射的、安易なものが見られるのだが)に対して、斉藤知事を推した側、特にデマ、陰謀論、印象操作に励んでいたような者たちが反発しているのだが、もはやSNS、ことにXは「言論の自由市場」論が当てはまるような空間ではなく言論を封殺しようという者たちが跋扈している極めて非対称な空間であるということを無視、否認している。


表現規制、ヘイトスピーチ規制の議論でもそうだが、議論の階層をすり替えて言論・表現の自由の一般論を唱えてみせるのが本当に卑劣だし、リベラルなどもその一般論の水準に乗っかった雑な議論はしない方がいい。

言論空間がどう出来上がっているか、そこにおける力関係はどうなっているか等を丁寧に捉えて、規制か自由かの二分法ではなく、法規制やインセンティブ、プラットフォーマーの自主規制・取組、第三者の取り組みなど様々な水準での対応を考えたい。でも迅速に。

一方でこういうことも出てくる訳だよ。もちろん、技術が犯罪者に有利な環境を作っている現状があり技術進歩・実装が状況を悪化させ得ることは確かで、伝統的な通信の秘密等の議論だけで肯定、否定の二分法にはできないのだが、高市氏のような側は「国益」「公序」を盾に拡張的に網を掛けようとしてくる。

と同時に、それがために議論が二分法に陥って必要な対策すら検討できなくなったり、二項対立の結果として過度な案がそのまま成立してしまったりといった恐れもある。

選挙に関してSNSの「規制」というのは抽象的で、反射的な主張の域を出ていないものが多いと思うが、鳥海不二夫さん、山本龍彦さんが「デジタルダイエット宣言」(p.16)などで提言している「選挙モード」「災害モード」のアルゴリズム、ユーザーインターフェース、ユーザーエクスペリエンスは真剣に、かつ早急に検討すべきだと思う。プラットフォーマーのイニシアティブ、あるいはプラットフォーマーとメディアの共同イニシアティブとして。

韓国の「非常厳戒」で緊急事態条項に言及する人が結構いるけど、兵庫県知事選も含め今起きていることは、緊急事態条項がなくても支配、抑圧、排除ができてしまう政治・社会を招き得るということなんだよ。法的に権限・権力を持つ者がそれを濫用せずとも。

例えば、緊急事態条項を含む改憲発議ができる状況に至った時点で、緊急事態条項が発動されたに等しい状態になっているかもしれない。尹大統領が「内乱」だ「反国家的行為」だ言ったことは、立花孝志や浜田聡、暇空らとか日本保守党関係者とかが垂れ流してきたことと同質な訳だよ。あるいは、アメリカでトランプ大統領を生み、再選をさせたものは何だったかを考えてみればいい。

排外主義、優生思想、ミソジニー、異性愛主義…が混然一体となり、気に食わないもの、意に沿わないものはすぐに「反日」だ「外患誘致」だと言われ、特に中国、韓国、北朝鮮と何らか関わるものは問答無用でレッテルを貼られる。

既にSNSに溢れるこうした状況が現実の政治・社会に急激に影響を与えているし、既に10年代を通して強まってきていた(その土壌があってこその立花・N国であり暇空だということ)。このままでは抵抗力、対抗力がバサッと削がれるポイントがどこかで来てしまう。

既に多くの人が傷つけられ、黙らせられあるいは声を奪われ、命が断たれすらしている訳だよ。でもそれらは個別のこと、局所的なことと片付けられてきた。あるいは、相手にしなければいい、放っておけと言われてきた。それでどうなっているかということ。

「SNS規制の是非」という疑似論点

都知事選、総選挙、兵庫県知事選などを受けて「SNS規制は是か非か」という議論の構図にしてしまうことがまさにアテンションエコノミー的、ポピュリズム的であって、論点がすり替わり、対立、分断があおられることにもなる。政治もメディアも単純化の誘惑に抗して論点設定ができるかが問われている。

関連して言えば、元々はリベラルの側から「表現規制」という疑似論点設定をして単純化した構図を作ってしまったことが前史としてある。「メディア規制三法」とフレームを作ったことも結果的には功罪の罪は大きかったかもしれない。例えば、国内人権機関の議論、検討が進まないまま今に至ってしまった。

そして、10年代を通じて「表現規制反対派」とネトウヨ、保守が合流、融合し、元々リベラルの「表現規制反対派」の中にあったミソジニー、あるいはジェンダー視点・感覚の欠如がより前景化している。

同時に、SNS規制・通信監視のような単純化した論点設定に一部リベラル・左派も乗って、定型化した権力批判・警察批判のレトリックを召喚してしまうことも引き続き問題だし、そこにはやはりマッチョさが見え隠れする。

だから、保守対リベラル、権力対反権力という構図に単純化することは誤りで、ジェンダーの視点が不可欠だし、同時に、新自由主義やリバタリアンという視点、マイノリティや差別・人権侵害といった視点を入れないと、疑似的な論点設定のまま乱暴に議論が進んでしまう。

運動におけるマスキュリニティ、「有害な男性性」

運動の中の、運動を駆動する「有害な男性性」(toxic masculinity)にいい加減向き合った方がいいと思うんだよね。担い手のジェンダーに関わらず、攻撃性、英雄性、独善性、自己陶酔性…といったこと。別に怒りとか強い主張とかを抑えろという意味では全くないし、当然状況による。上に挙げたような要素の組み合わさり方、自己反省性のなさの問題。

リベラル・左派がアテンションエコノミーのロジックに丸々乗った過激さで闘うことに勝算は見出せないし、そういった闘い方に見え隠れするマッチョさは自覚がないだけに余計に厄介。

アメリカなど海外でも国内でも揶揄含め指摘されるリベラルの「エリート意識」「エリート臭」というのは、表面上は肩書や経歴に引っ張られているけど実は「有害な男性性」の発露がそう受け止められている部分が結構あるような気がしてきた。

有害な男性性は「仲間」であると強固に結び付けるけど、「敵」であると強烈な反発を招くものだし、中間にいる層には違和感、忌避感を抱かれやすい(だから、タイミング次第でどっちに行ってもおかしくない人たちがいる)。左右で過激な言動をする者同士は鏡像のようで、口調・トーン、文体、身振り・態度といった部分では見分けがつかないことがある。

エスタブリッシュメント/既得権益、エリートに対するカウンターだ、これこそ民主主義だという物語が吸引力を持ってしまう状況に対して、「知る者」の位置から上から目線でバカにしたり嘆いてみせたりすることの無意味さ、有害性についていい加減気付き、向き合うべき。

特に日本の文脈では、内面化された男性性の問題がかなり大きいように思う。男性的な既得権益、「知っていて、教え、導く」立場が脅かされている、覆されようとしていることへの恐れが無自覚に働いているようにも見える。それは右派も同じなのだが、だからこそ鏡像的だし、男性的な「嫉妬」(何であいつの言うことが信じられるのだ、もてはやされるのだ)も働いているように思える。

リベラル・左派の代表格のように扱われてしまっている人たち(一部のリベラル・左派が持ち上げ、担ぎ出し、それを右派・ネトウヨが印象操作し攻撃し、だからますますリベラル・左派が持ち上げという循環の効果であって、別に代表性はないのだが)の言動が遠心力を生じさせてしまっていることは否めない。

そして、彼らを批判したがために、本来立場が近いはずの人たちから叩かれ、同質性/ホモソーシャリティ、排除性に直面し、傷つき、離れるということもよく起きている。そこにミソジニー/性差別意識が無自覚に現れていることも多い。

リベラル・左派の運動圏で「和を乱すな」「敵を利するな」として特に女性の声が封じられてきたというのはリブにつながったように昔からのことであるのだが、SNSで異論、批判もすぐに届いて反応が来るという状況の中で、かえって強まってしまっているようにすら思える。

その中で特にXは、その意味でも(つまり、ダイレクトにミソジニーの攻撃に晒されたり目にしてしまったりということに加えてという意味で)女性にとって安全な空間でますますなくなってきていて、撤退したり、残っても政治的・社会的発信は控えたり、あるいは傷つきながら発信を続けたりということになっているように見える。

リブもそうだし、私がついた清水澄子さんのような人たちもそうだし、先人たちが闘い、切り拓き、獲得してきたものが、一見フェミニズムが広く受け入れられジェンダー課題への取り組みが進んでいるように見える状況の下で、逆に薄められ毀損されていくという事態が運動圏でも言論空間でもあるように思えてならない。

また、インターセクショナリティの強調がこれまで聞かれなかった声を聞かれるようにし問題が可視化されるように働いている一方で、その選択的な強調がフェミニズムの多様性、豊饒さの促進ではなく分断をもたらしそれがミソジニー/性差別を支えるという事態も起きている。

権利・自由の抽象論、建前論がもたらすもの

酷い。これ自体、勇気を振り絞って参考人を務めたDV被害者への名誉毀損だし、DV被害者一般の信用性を貶め、口を封じようとするもの。かつ、参考人を慎重かつ適正な手続きを経て選任した、推薦会派・議員、衆院委員部、法務委員長・理事の名誉・信用を毀損するもの。これを請願しようとし公開する森めぐみも、それを引き受ける浜田聡、同事務所も責任は重大。

なぜ仮名で遮蔽とボイスチェンジャーを通じて発言せざるを得ないかを含めて、圧倒的なリアリティを伝えてくれたのがあの参考人質疑だった。それを「自分は知らない」というだけで虚偽だ、名誉毀損だと公言する。それを請願というプロセスに乗せる。それを国会議員が引き受ける。DV被害者への攻撃を煽り、DV加害者の加害言動を助長してきた者たちがそれをやっているということのおぞましさ。

改めて、森めぐみが出そうとしており、浜田聡が紹介議員として引き受けるという請願を見て欲しい。赤線部は何ら根拠がなく森の主観、妄想に過ぎず、政治的意見ですらない。ただ自分の意に沿わない、気に食わないというだけ。

赤線部は端的に誤り・虚偽であるし、森の「認識した事実」だと広く解釈するとしても(文脈上、激甘の解釈だが)、その認識を正当化する合理的な根拠がない。このレベルの虚偽や「不確かな情報」が兵庫県知事選でも大量に垂れ流され結果に大きく影響したというより決定づけたと推定される。当然暇空問題もそういうものであって、これを早期に収束できていればという反実仮想はあまりに重いと考える。

これも暇空らが主観的にケチ付けしていることと同じ。参考人の選任は慎重な手続きによって適正に行われているし、仮名、遮蔽、ボイスチェンジャーも法務委理事会で慎重に協議し適正に認めたもの。その合理性を「自分が気に食わないから、自分が教えてもらえないから」というだけでは当然否定できないし、合理的な疑いの水準にすら到底及ばない。

N党の浜田聡、齊藤健一郎、秘書陣に対しては他党も参議院も黙殺という名の野放しだが、兵庫県知事選がショックとなって姿勢、対応が変わることを期待したい。国会活動・政治活動ということでは到底正当性を認められない言動によって広範に被害がもたらされている事実を国会として放置すべきでない。

院内発言でも国賠に問われ得るというのが判例(ハードルは高いが)。そして、院の自律権はそれとはまた違う水準のこと。これも従来の建前論で介入を控えるということでは自壊的なことに至り得る。その危機意識も持って欲しい。

暇空らの開示請求、住民監査請求、住民訴訟でも問題となることだが、請願権、国民の権利だということで何でも正当化されるのかということは厳しく問われなければならない。これは特に東京15区補選以降、この兵庫県知事選まで一連の選挙で喫緊の論点となったことでもあるし、これらすべてと密接に絡む、SNS、YouTube等における「言論」「表現」の問題で問われていることだ。権利・自由の濫用、権利・自由間の調整原理たる公共の福祉について抽象論、建前論ではなく、実態と実際に生じている効果に即して議論、検討されるべき。

権利・自由を巡る抽象論、建前論で加害者が守られ、被害者が危険にさらされ、現実に深刻な被害が生じている。SNS時代以前の議論(その多くはネット時代以前の議論)が未だアップデートされていない。「現実社会で許されないことはネットでも許されない」というクリシェは全く意味をなしていない。

そして、まだまだリベラル・左派の中にもこういう議論に及び腰な傾きが見られるし、右派・ネトウヨはそこに付け込むかのようにwhataboutismを乱発しながら自らの言動を正当化する。「思想の自由市場」の幻想、建前にしがみついていては。権利・自由の侵害は防止も救済もされないし、自由な言論・表現がますます抑圧、封殺され、むしろ「自発的に」放棄されさえしていく。未来の話ではなく今起こっていること。

これは翻って、《情報摂取の自由》が侵害されていく、その基盤が掘り崩されていくということ。それは個人レベルでは「見えない」「気付きにくい」侵害であり、それを通じて個人の様々な権利・自由の前提条件を毀損し、それらの行使を制約、誘導するものとなる。引いては民主主義を危機に陥れる。リバタリアン的な権利・自由の言説が実質的に権利・自由の享受、行使を不可能にしていくというジレンマ。

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