山口智美・斉藤正美『宗教右派とフェミニズム』(追記あり=キャンセルカルチャー論・埼玉県条例改正案について)


山口智美・斉藤正美『宗教右派とフェミニズム』。宗教右派が独立に蠢いている訳ではないので、現在継続中のバックラッシュを理解する上でも必読、必携。70年代頃からの動向も的確にまとめられており、2000年代も今も突発的にバックラッシュが起こったのではないこともよくわかるはずだ。

1990年代からの右派の動きの核の一つが「慰安婦」問題など歴史修正主義そして歴史戦。性暴力被害者への攻撃で「慰安婦」が重ねられるのは暇空もそうだが、彼らの常套手段だ。ところが、本書でも指摘の通り、杉田水脈議員について報じられ論じられる時ですら「慰安婦」「歴史戦」は触れられない。

「慰安婦」問題や元「慰安婦」の証言の扱われ方はフェミズム/ジェンダー論にとって重要な問題であるし、特定の時期の問題と到底片付けられないものだ。ところが、ソフトなナショナリズム・愛国心にすら訴求されること、何より朝日新聞などへの攻撃の激しさがあり、あえて触れない態度が目につく。

むしろ、右派・ネトウヨやアンチフェミが「慰安婦」問題を歪曲した形で執拗に攻撃材料とし、マスコミはもちろん、フェミニストを含む研究者も一部の人を除いて極力表立っては触れないという非対称な状況がますます「慰安婦」問題を語りづらくさせ、むしろ反韓などを煽る道具にせしめている。

さて、宗教右派らのコアにあるのは家族/家庭イデオロギーであり、幻想・フィクション。それが想像の共同体たる国民国家の基礎、根幹に位置している。家族/家庭は幻想・フィクションというだけでなく、国家のための装置・道具として現実化、具現化させられるというのが厄介なところ。

宗教右派・道徳的保守の家族/家庭観や禁欲的・禁圧的なセクシュアリティ観と相容れない部分が多いはずの「表現規制反対」の者たちが特に2010年代以降、共闘・連動するようになっている。「共通の敵たるフェミニスト/女性」ということで都合よくそれぞれの立場を解釈したり目を瞑ったりしている。

家族/家庭については各々のイメージで「良いもの」「大事にすべきもの」とする以上の共通点はないが、フェミニストやリベラルの批判への反動という面が強かろう。性表現や性風俗等については「フェミニストが道徳的保守と結託」がクリシェだが、その道徳的保守と結んでいるのはむしろという状況だ。

否「表現規制反対」のような立場の者が宗教右派・道徳的保守と組む、同調するということからは、前者のセクシュアリティ観がいかに男性や強者に都合のいいものでしかないかや、後者のセクシュアリティ観がいかに二重基準や言行不一致を孕んでいるかを露わにしている。

宗教右派・道徳的保守が狡猾に思えるのは、2010年代以降「表現規制反対派」の右傾化あるいはネトウヨとの重複・合流という状況の下で、性表現やセクシュアリティに関わる議論を使い分けているように見えることだ。目につく場では禁欲的・禁圧的あるいは規制的な主張は抑えているように見える。

ただ、完全には隠しきれずにAV女優やセックスワーカーなどに対する蔑視が思わず表現されるようなことは珍しくない(それは「表現規制反対」を主張しているような者も同様だが)。嘲りとして「売春婦」という言葉が使われやすいのも特徴的だろう。

宗教右派・道徳的保守の狡猾さはここ数年同性婚反対よりもトランスジェンダーへの攻撃を前に出すようになり、特に元総理秘書官の差別発言をきっかけにLGBT立法への機運が再燃して以降、発言が主に同性愛者・同性婚に係るものだったにも拘らず、トランス女性を焦点化したことにも現れている。

話が少し逸れるが、宗教右派・道徳的保守がトランス女性を焦点化したことで、本来鋭く対立していたはずの一部フェミニストや一部左派を取り込み、包括的性教育への反対すら調達できているということには暗澹たる思いだ。

結局、宗教右派・道徳的保守にせよ「表現規制反対派」にせよ、自分たちに都合のいい、心地よい秩序・規範を「保守」したい、回復させたいということだ。「ポリコレ」「キャンセルカルチャー」「言葉狩り」等と揶揄し非難するのは、差別的な既得権益を守りたいのを隠蔽するレトリックに過ぎない。

追記①:キャンセルカルチャー論について

うーん、「キャンセル」という言葉を強調して用いているところでスタンスを明らかにされてしまったと感じるのと、依頼取消理由の牟田さんによる要約がミスリードなんだよね。

牟田さんのnote
依頼取消文書

案の定の展開。本体の最後に書いたことにつながる。

平裕介やアンチフェミの常套手段で、気に食わない主張・批判にはすぐ「お気持ち」というラベルを貼って切り捨てるのだが、彼らは「法と感情」の議論、研究には接していないのだろう。そもそも、そのラベル貼りは、守りたい秩序・規範への批判、異議に対する感情的反発を理性の立場を僭称して隠すもの。

何言ってんだか。2000年代バックラッシュでも、否その前から、そして「慰安婦」「歴史戦」絡み等々散々、「講師にするな」「原稿載せるな」「図書館から書籍撤去しろ」…と標的になってきたのだが。それに、表現規制反対派こそ気に食わない記事が出ると電話、ファックスを掲載社に浴びせてきた。

私自身も昔、ある新聞での連載に対して猛クレームが寄せられ、担当者と協議の上でプランを調整せざるを得なくなったことがあった。しばらく精神的にこたえたし、修論執筆に影響した。

「キャンセル(カルチャー)」というフレームに乗せてしまったから、違う立場の者から利用されてしまうし、論点をすり替えた攻撃も受けてしまう。フェミニストの牟田さんが「キャンセル(カルチャー)」というフレームを採用してしまったことはかなり深刻なことだと思う。

自分に都合のいい秩序・規範を守りたいという感情に根差した思考を「リーガルマインド」と称する欺瞞。その秩序・規範を自明視しているため「自分に都合のいい」ものだということも、それらは恣意的・歴史的構築物であるということも認識、意識できない。

男性、異性愛を標準とし仕様とする社会を、その秩序、規範、慣行を変えようという主張、批判、異議を感情的に排除、抑圧してきたのは誰か。その感情の負荷がかかった思考・論理に理性という名を付与し、感情と対立させ、かつ前者を男性に、後者を女性に割り当ててきた。その歴史にまだ雁字搦め。

古典的と言っていいこんな議論をまだしなければならないのが現地点だし、そんな議論をしなくて済むずっと手前でバックラッシュが起こっているということ。

しかも、2000年代バックラッシュや「歴史戦」に抗してきたフェミニストの一部が現下のバックラッシュに棹差す状況があるのが…。

安倍政権下でナショナリズムと新自由主義の結託が鮮明になり、それとも絡みつつのバックラッシュ。暇空問題もその現れの一つに過ぎない状況で、相変わらず対抗側はバラバラどころか敵対もある。バックラッシュ側は融通無碍につながり、重なる。『宗教右派とフェミニズム』の「あとがき」が重たい。

暇空も平裕介もどれだけ認知が歪んでるの?って例。彼らにかかると、そう指摘、批判するのも「お気持ち」。そもそも記事は無料部分を読む限り、萌え絵と性犯罪の因果関係を単純に肯定していないし、タイトルの通り「萌え絵がカジュアルに消費される」社会に目を向けている。

萌え絵は直接扱ってないが論点は重なる。

キャンセルカルチャー論の欺瞞はこれまで女性の方が又は女性に関わる問題についての方が発言を封じられてきたことを無視していること。マスコミでは特に「慰安婦」や性表現の問題等ではデスクに記事を止められる、フェミニストの原稿や談話が使われないといったことはよくあったし、まだある。

デスクなど上が理解していない、周りの男性記者もわかっていないということもあるが、激しい抗議や「炎上」を恐れて腰が引ける、必要以上に根拠や表現上の配慮を求めるといったことはよく聞く話だ。このSNS時代でもネットで盛り上がるジェンダーの話題へのマスコミの反応が鈍いのもよく見られる。

電話・ファックス、街宣、メール、SNSと圧力をかける手段やその比重は変わってきたが、女性が声を上げる、発言をする場を得るということこそが非対称的に抑制されてきた。マスコミに限らず、行政も議員も研究者も論争的な、というより敵対者の声が大きいジェンダー問題には腰が引けがちだ。

今の暇空問題もそうだし、去年のAV出演被害防止・救済法もそうだし、いわゆる「萌え絵」の問題もそうだし、もちろん「慰安婦」問題もそうだし、あえて発言をしない人、あまり前に出ないようにする人は少なくない。目立ってしまうと攻撃を浴びて様々支障をきたすからだ。

ネット、SNSの普及で、マスコミ経由でなくても名がなくても問題提起や告発ができるようになったが、それをすることにも加わることにも「覚悟」を必要とする状況がまだまだあるし、まさにバックラッシュでハードルが上がっている面もある。ちょっと目立つと晒され攻撃が集まってしまう。

SNS時代はもちろん、それ以前でも、激しい攻撃や圧力のために、表に出ることをやめた女性、精神的なバランスを崩したりうつ病等になったりした女性、活動自体をやめた女性…。可視的な「キャンセル」というよりも、目に見えにくいところで場を奪われ、失ってきた女性たち(と一部男性たちも)。

この社会の秩序・規範・慣行にも当然法とその運用、実践にも性差別、ジェンダー非対称性が組み込まれている。そのことへの女性の抗議、異議は昔も今もしばしば揶揄され、からかわれ、あるいは感情的とされ、まともにとりあわれてこなかった、というよりそう扱う狡猾さ、陰湿さが発揮されてきた。

女性が声を上げると浴びせられる「キャンセルカルチャー」「お気持ち」等々の揶揄はまさにその延長線上のものでしかないし、そこで発動されているのはいくら論理を衒っても実は男の感情だ。根拠なき既得権益、自明過ぎて既得権益と自覚すらされていないものを「奪われる」という感情的反発。

追記②:埼玉県条例改正案について

埼玉県の子どもだけでの留守番、外出等を禁止する条例改正案。罰則はないが「規範」化される訳で、広報はじめ施策の根拠となり締め付けが誘導されるし、「虐待では」と児相に通報する者も出てこよう。家事・民事の裁判等で「違反」が不利な事情として扱われ得る。

罰則なしの禁止故に厄介なところもあり、趣旨を都合よく解釈して「家庭」重視に利用する者が出てくるだろうし、それこそが条例案の意図かもしれない。「守られていない」とより強力な施策を求める布石になるかもしれない。条例改正がされたら主として母親を拘束するものとなるし子どもの自由も制約される。

こんな条例ができたらDV加害者の別居親が利用して通報しまくるだろうし、親権、面会交流、養育費あらゆることについて条例「違反」を自らに有利な事情として主張するだろうし、「置き去りにしてないか?」と同居親への監視やモラハラを強めるだろう。容易に想像できて寒気がするどころではない。

この条例改正案が「虐待防止」になるかと言えば逆で、こんなことが一々「虐待では」「虐待のサインでは」と捉えられ通報されたら、本当の虐待のサインが見落とされたり精査されにくくなったりするだろう。「みんなで見守る」どころか虐待のサインに気づく想像力を鈍麻させる。

2000年代バックラッシュも地方の動きからだったということは思い起こしておくべき。既にいくつも指摘があるけど、埼玉県が舞台であるということには大きな意味があると思う。だから『宗教右派とフェミニズム』とつながる問題としてここに追記した。

家庭・家族があの手この手で標的になる状況は注視し続けなければならないし、マイルドな、良い顔をふりをした施策も言説もたくさんある。今回はわかりやすく批判されたが、「家族っていいもの」「家族なら当たり前」というところに忍び込み「自然化」「自明化」されることこそ。

問題意識は正しく内容に瑕疵はない、説明不足で理解が得られない…。問題の所在が認識できておらずその意味での反省はない。「家庭教育支援条例」や「親学」などの流れでのことだったのか、直結しないものの彼らの意識・無意識で自明視、当然視されていることの問題か。


埼玉県条例案で直接的にどの辺りが動いたのかは不明だが、流れ又は背景として家庭教育支援条例、親学、共同親権は関わりがあるのだろう。興味深いのは右からも条例案を腐す声が、陰謀論含め結構あること。リベラルやフェミニストからの反対が強かった中で逆張りするということも珍しく目立たない。

だから、今回のことで柴山議員が焦ったのは、出し方・見せ方を間違うと立ち行かないし、騒がれたら案外孤立するかもということもあるんだろうな。

面白かったのは夕刊フジですらこんな記事を出していること。「家庭重視」のメッセージは受け取らなかったかのように、むしろ条例案はリベラル的発想と印象誘導する書き込みを拾っている。

仮に条例案が「子どもを守ろう」という「善意」だけで進められたのだとしたら、思い起こすのは安倍総理の全国一斉休校。ワーキングマザーはじめ母親のケア負担を前提にしたというかあまりに自明で視野にも入っていなかった。既に母親の無償ケアが組み込まれているという意味で「家庭重視」の当然視。

条例案の意図にあったのであれ、効果として生じるのであれ、帰結するのは母親を縛る規範の強化とその違反への制裁。前にも書いたが、離婚に際してのまた離婚後の親権、監護、面会交流、養育費等を巡る争いにおいて「違反」は母親(同居親)に不利な事情として使われたであろう。

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