「保守」と「リベラル」とNPOと

「保守(派)」と「保守主義」のズレ、「リベラル」と「リベラリズム」のズレ。保守派が守ろうとする「伝統」と保守主義が重視する「伝統」とが違っていて、保守主義にとって重要であるはずの共同体が保守派では想像の共同体たる国家と虚構の共同体としての家庭/家族の重視に置き換わる。

リベラリズムのコアにある「個人」と「自由」を重視する人は多いがそれをリベラリズムとして自覚的に保持する人は決して多くなく、その意味での「リベラル」ではなく、「保守派」やナショナリズム、差別主義等と対抗、対立するものとして「リベラル」が自称、他称されることが多く、他称が目立つ。

「市場」との間合いは保守派、リベラルともに分裂的、両義的だ。保守派は国際面では保護主義的、自国優先主義的態度を取りがちであるが、国内的にはむしろ新自由主義との結託も目立つ。ただし、選択的であって彼らが言うところの「伝統」に関わることなどでは反市場的、反新自由主義的な態度に傾く。

リベラルは反新自由主義的な態度は目立つが、例えばリーンイン、フェムテック、あるいは「多様性」に係るものなどにおける新自由主義的な動きに対して無警戒に称揚する者も少なくない。もちろん、警戒・批判する者も少なくないし、同一人でも分野によって受容と警戒が分かれることもある。

また、人権・差別問題やナショナリズムとの関係では明白にリベラルで自称もするが、経済的には新自由主義という者も少なくなく、この辺りも「リベラル」の姿をややこしくしている一因かもしれない。新自由主義は人権の基盤を掘り崩すので「リベラル」と矛盾すると言えるのだが。

税・財政や社会保障との関係ではさらにややこしい。日本では租税抵抗が保守、リベラル問わず強く、北欧的な意味での「大きな政府」への志向は弱い。ただ、「土建国家」とも言われたように公共事業、ある種の「ケインズ主義」的な意味では「大きな政府」だが、再分配・社会保障的にはそうではない。

「日本型福祉社会」論に顕著なように、企業福祉と家族、特に女性を当てにした社会保障・福祉が特徴的であり、「リベラル」ですらそのことの問題化は長らく十分ではなく、再分配・税・社会保障全体の再設計よりも個別分野の要求の方が強調されがちだったと言える。

増税への忌避感はリベラルの方が強いとすら言え、今に至るまで負担と受益の議論が事実上切り離され、負担増には徹底的に抵抗する傾向が目立つ。ただ、リベラルは個別の給付の拡充への要求も強い一方で、総論としての歳出削減を主張する者も少なくない。

一方、保守派は「大きな政府」志向とは違った意味で歳出削減に抵抗する向きと(「国土強靭化」は典型例)、新自由主義的な色合いでの「財政再建」、歳出削減を主張する向きに分かれるが、社会保障・福祉では家族、特に女性の負担を前提とした思考が強いことは共通する。

いずれにせよ、税・財政や社会保障に関する保守派のスタンスもリベラルのスタンスも、なかなか保守主義またはリベラリズムで説明することが難しいと言える。「大きな物語」とは違った意味での骨太の構想は保守、リベラル両者からとも出てきにくいし、ことに政治の場にはなかなか出て来ない。

新自由主義は既存の権力や富等の非対称を放置、維持しつつ個人を市場と向き合わせる、晒させるが(ただ政府介入についての基準が恣意的なのも同時に特徴としてある)、保守派はそこにナショナリズムと家族主義を以って対抗し、また地域共同体やボランティアを緩衝材、セーフティネットと見る。

他方、リベラルは地域やボランティアも重視はするが、無償性・奉仕に委ねるよりもNPOなどの中間団体の役割により重きを置き、家族を含む自助に押し付けるのではなく公助を重視し、NPO等も行政の下請けではなく、自立・自律し資金面も含め行政と連携するアクターと位置付ける。

この辺りは保守派とリベラルで比較的考え方が分かれるところだと思うが、「保守主義」の立場を考えると、伝統的な地域共同体は大きく緩み、家族のあり方も産業構造・就労構造の変化という点からも多様化している中で、「保守派」の目指す姿は採り得ないのではないだろうか。

その意味で、「保守主義」的な立場でもNPOの役割を重視する考え、取り組みは強まっており、「リベラリズム」的な立場との違いは、より行政の下請け、道具的に捉えるか(従来の行政機能の延長)、より自立的・自律的に捉えるか(行政とのパートナー的関係、開拓的な展開)なのかもしれない。

話戻って、「保守」と「リベラル」ではなく、「保守主義」と「リベラリズム」を考えると、復古や「作られた」伝統が争点なのではなく、現にある社会規範や意識を「どう」変えていくか、制度的に「どう」対応するかなのではないか。

その視点は、保守派が言う意味での「伝統」で個人を縛るか/従属させるかではなく、社会的安定性に重きを置くのか(当然「安定性」の意味も問われる)、個人の自立性と自由に重きを置くのか(当然「自立性」「自由」の意味も問われる)、対応する制度変化はどうあるべきかではないだろうか。

そして、そこに市場との関係、税・財政・社会保障のあり方、NPOなどの中間団体の位置づけ・役割といった構想が伴う。ごちゃごちゃっと「保守(派)」「リベラル」の話をするのではなく、改めて「保守主義」「リベラリズム」を考えるべき時であるように思う。

というのが。宇野重規『日本の保守とリベラル』を読んでつらつらと考えたこと。全然本の紹介にはなってないけど、現実が何となく「保守対リベラル」みたいに動いている中で立ち返って考えさせてくれる本。

さて、社会運動やNPOについてさらに述べたい。声を上げられる人、動き出せる人から動けばいいし、その人の持っているつながりから広げればいい。その結果としてコア又はハブができて運動が広がることもあれば、そこに同時的に動いた人たちが合流することもあれば、不発に終わることもある。そこでできたつながりが別の運動に生きることもある。

市民運動、NPOの裾野は広がったとは言えアクティブな人、時間を割ける人はまだまだ限られるし、ネット・SNSが個人発の運動や個人の参加のハードルを下げたとは言っても、どこかに顔の見える関係や信用・信頼のある人・団体が介在しないと広がりにくいのも現実。

だから、問題意識が重なることで一緒に動きだしたり、声がかかる、頼りにされるといったことだったりして顔ぶれが似る、重なるというのは自然なことだし、標的になりやすいから前に出られる人が限られるというのも現実。でも実は見なれない顔がいたり、5年前10年前にいなかった顔が結構いたりもする。

いくら市民運動、NPOの裾野が広がったとは言え、分野ごと、その下位分野ごとに見ればどこも決して人材豊富な訳ではないし、ノウハウ・経験が豊富な人となるとさらに限られる。どこでも頼りにされるからいろんな分野で前に出る人もいる。

市民運動、市民団体あるいは運動の主役でもあった労組は今でも根強いが男中心で、運動内・団体内の性差別が厳として存在してきた。教員等女性が相対的に多くついていた職場・組合発の運動、リブ、「主婦」主体の消費者・市民運動などの歴史の上に、北京女性会議など90年代の展開があった。

そして、2000年代バックラッシュを挟みながら10年代以降の女性の運動やフェミニズムの広がりがある。大まかなことを言うと10年代に運動やフェミニズムに関心を持った層とそれ以前から関わってきた層があって、それ以前から関わってきた人は90年代又はそれ以前からという人が多い印象がある。

北京会議や男女共同参画社会基本法で画期づけられる90年代にあっても、女性運動に関わり続けることは大変だったし(それは阪神大震災の「ボランティア元年」、NPO法があったとは言え市民運動・団体全般がそうだった)、2000年代にはバックラッシュの影響があった。

そういった意味で、長年歯を食いしばって頑張ってきた層と10年代以降に女性の運動に加わった層(その中には元々他の分野では運動や仕事をしていた人、フェミニズム研究者で運動では前に出ていなかった人も含まれる)とがハイブリッドになっているのが今の運動空間だと思う。

こうやって立体的に見れば、また歴史を知っていれば、「同じような」顔ぶれが並んで見えるのは当たり前というかやむを得ないというかだ。むしろ、攻撃に晒されたりしたことで運動から退いてしまった人、表には出なくなった人も少なくないし、そのほかの事情で退いていく人も当然いる。

女性運動に限らず、3.11以後の脱原発運動や安保法制反対運動でもよく言われたのが、若い世代とシニア層が目立つということだった。まさに私も属する今の40代、50代は90年代頃から団体スタッフ・ボランティア等として運動に関わり続けてきた人以外は厚みがない感覚は確かにあった。

90年代2000年代に市民団体・NPOで飯を食うのはさらに大変だったし家族がいればなおさらだった。いったん離れてしまうと、なかなか仕事や生活と両立して運動に加わることは難しい。10年代の秘書時代に接した運動関係者に同世代は少なく、より若い人たちか90年代から知っている年長世代が多かった。

まあ、陰謀論的な見立てで名前ばかり拾っていく者たちには理解できないことだろうが(とは言え、虚心に情報を見る目があればネット上の情報だけでも十分理解できるはずなのだが)、一応の体感と土地勘を持つ者としては何を一々騒いでいるんだということばかりなんだよね。

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