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猫島オーシャンブルー

第一章・たとえばそれは、僕らの不幸。

 幸福と不幸は計量スプーンでは測れない。
たとえば今日、七月二十一日は、明日から夏休みが始まるとても縁起がいい日だ。その放課後に、風早亜子(かざはやあこ)に声をかけられたのもいいことだろう。
 彼女は我が五年三組で一番かわいい女の子といわれているし、その場に居合わせた雅夫(まさお)は妬ましそうな顔で、けれどにやにやと僕をつついた。
「告白だよ。絶対告白。終業式の日に呼び出されて、待ち合わせ場所が体育館裏だぜ?」
「さあ、どうかな」
「どうかなって……。逆に聞くけどさぁ、それ以外に何があるわけ?」
「告白の中継かも知れない」
 その表現が、野球少年の雅夫にはツボに入ったらしい。笑いをこらえながら、
「それいいな。透(とおる)。絶対、おれに回してくれ」
「サッカーじゃないし、相手は選べないって」
「そうだな。きっとバックホームだ」
 楽しそうに雅夫がからからと笑う。よく意味が分からなかったけれど、意味が分からないことが面白くて一緒に笑った。
 僕達はまた夏休みに遊ぶことを約束して、手を振って別れた。

   ○

 そして、風早亜子の前に僕はいる。
「で、どうなのかな?」
 彼女が、僕の答えをせかしてくる。たった数十分前のやりとりを頭から振り払って、目の前の現実に集中した。
 天気は曇りだ。これから夏休みが始まるというのに、からっとした空は早朝だけだった。彼女も朝の快晴に騙されたのだろう、白く細い肩をむき出しにしたノースリーブのワンピースを身にまとい、かすかに鳥肌がたっていた。
「そうだね……。客観的に見て、悪くないと思う」
「なにそれ」
 大きな瞳をますます大きくして呟いた。艶やかなショートカットの黒髪と、不思議そうな表情が良く似合う。
 僕は少し言葉を考えてから、なるたけ淡々とならないように、明るい声を意識して、
「うーん。たとえば、母さんはにこにこ笑顔になったし、お義父さんはおれに優しくしてくれる。チュッパチャップスを買ってきてくれたり」
「ふーん……。ねぇ、じゃあ悪い所は?」
 これまた少し言葉を考えて、
「母さんが料理を作るようになった」
「なにそれ」
 彼女は、怪訝そうな顔でまたそういった。「なにそれ」が口癖なのかもしれない。それから、
「それは良いことでしょ」
「あるいは」
 彼女が当たり前でしょ? っという態度でそういうので、中途半端な賛同をしておく。それが気にくわなかったらしく、亜子は眉根をひそめる。
「だめ。全然参考にならない」
「参考にしなくていいと思う。どうせ、おれらに決定権はないんだし」
「おれらって?」
「子供」
 僕がそういい切ると、ふいに彼女は寂しそうな顔をみせた。泣きだす瞬間の……けれど、決して涙を流しはしないような、そんな表情。
「……そんなこと、ないと思う。ママ、わたしの話を聞いてくれるよ」
「尊重。そんなの、口ばっかりだよ」
「尊重って、何?」
「辞書をおひきなさい」
 『じ』にアクセントを加えて、語尾をきどらせる。国語の時間だけ僕らの教室にやってくるヤマンバ先生のものまねだった。亜子はふきだして笑い始める。
 それでいいと僕は思った。
こんなことでぐずぐず悩んだってしょうがないんだ。どうせ、僕らに決定権はないんだから。無駄なのだから。
 僕は空を睨みつけ、その曇り空を確認してから言葉を吐く。
「雨が降りそうだし、そろそろ帰るよ。もういいよね?」
「あ、うん。ありがとーね。また新学期に」
「じゃあね」
 亜子と別れ校門を出て、しばらく歩き続ける。ふいに、僕はあの儀式がやりたくなった。
 空中に、まっすぐ腕を伸ばす。
開いた手のひらを握りしめ、何かをつかむ仕草をした。
 けれど、瞳に映るのはどんよりと重たい夏の雲だけ。
 手元に引きよせ開いたこぶしは、からっぽだった。

   ○

 通学路を歩く。前には、朝顔の鉢を両手で抱えた女の子が歩いていた。ぎっしり詰まったランドセルからは、リコーダーが飛び出している。
 僕は、ほんの何冊か教科書が入っただけの薄いランドセルを得意げに思い、すたすたと彼女を追いこした。
 少しだけ、胸のもやもやがすうっと晴れていく。
 と。
 そのタイミングで、鼻先に水滴が当たった。
 あっと思ったときには、雨が一気に降り始め、僕のTシャツを薄らと濡らし始める。あわてて辺りを見回し、シャッターが下りた商店へ駆け出した。
 その軒先に身を隠す。ほっと胸をなで下ろしていると、さっき見かけた女の子がカサを器用に肩で支えて歩いていた。
 勝ち誇った自分が恥ずかしくなる。彼女のほうが、一枚上手だ。
「……どうするかなぁ」
 地べたに腰とランドセルを降ろして、僕はあぐらをかいた。
 濡れてしまったTシャツは、身体を急速に冷やしていく。明日から夏休みが始まるというのにラジオ体操を欠席してしまっては、なんというか、ひょうしぬけだ。
 しばらくそのまま時間を過ごした。
地面にはいくつかの水たまりが出来ていく。ぼんやりと降り続く雨を眺めながら、家に電話をかけようかと僕は思い始めていた。残念ながら、携帯電話をもっていない僕は、誰かに借りなければならないのだけれど。
 そんな思考をしているときに、ふいにはずむような水音が聞こえた。
 水をはじき、楽しそうに軽快に、ステップを踏むような音。
 顔を上げると、奇妙な女の人が視界に入った。年は若く、十代の終わりから二十代の初めに見える。髪の毛は薄い茶色で、背中まで届くロングヘアーだった。
 おまけに、飛びぬけた美人。
 ドラマの主演を張ったって、彼女なら華になるだろう。
 しかし、いくら雨の日とはいえ服装がおかしい。赤いカサに、黄色い雨合羽に、青い長靴。まるで信号機みたいな色合いだった。
 彼女は、この雨の中スキップをしながら歩いている。そして、辺りを楽しそうにきょろきょろと見まわしていた。
だから、気づかれてしまった。
 僕の前でたち止まり、首をかしげながらたずねてくる。
「あれれー? 君、壊れちゃったの?」
 無言で、彼女の顔をじっとみかえした。彼女は大きな茶色の瞳をぱちくりと瞬かせ、僕の顔を同じくじっと見ながらいう。
「ガン無視? ガン無視なのかな? こらこら、小学生がガン無視なんて良くないぞー」
 その、まるで幼稚園生を相手にするような口調にかちんと来た。
 僕は声音をひそめ、
「…………見知らぬ人とはお話しするなっていわれていますから」
「あ、それ、あたしも教わったなー。くふふ。ご覧のとおり、守ってないけどねー。でもさでもさ、道に迷っている人とか、声かけないってこと?」
「そうじゃないですけど」
「むー。子供っぽくない言葉使いだなぁ。あたしが君くらいのときは、もっと天才バカボンみたいな生き方をしたものだけど」
「天才バカボン?」
「え。知らないの? 『これでいいのだ~』」
 急におどけた声でそういった。意味が分からず、少しだけ小首をかしげてしまう。彼女はそんな僕の様子に、唇を尖らせて、「むぅー。これだから最近の若いやつは」とやけにしみじみとおじさん臭い言葉を放った。
 僕はもういい加減、会話を切り上げたくなっていた。
「まいや、で、君。私の聡明な洞察力によると、君はカサがなくって家に帰れないんじゃないの?」
 けれどその次に放たれたのは、明確な疑問の言葉だった。このタイミングで切り上げるわけにもいかず、僕は素直にうなずく。
「そうですけど」
「じゃはい」
 彼女は左手で雨合羽のフードをかぶってから、僕にカサをズイと差しだした。
 僕は慌てて首をふった。
 軒先からははみ出している彼女に、雨が直接ざあざあとあたっていく。レインコートはちゃちな作りのもので、だからもうあちこちが張りつき始めていた。
「いいよ。親に怒られるし」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。怒られる。それに、あなたはどうするんですか?」
「この通り、レインコートがあるからねー。平気のへの字だよ。それに、カサは必要なかったから。どちらかというと邪魔だし。コートさえあればいいもの」
「……なぜですか?」
 たずねると、彼女は嬉しそうに意気揚々と返してくれた。
「私ね、殺人鬼なの。これから人を殺しに行くのよ。返り血を浴びない様に、こうしてレインコートを着ているわけ」
 ぎょっとした。
 けれど、すぐに心の中で首をふり、まっすぐに彼女を見つめていった。
「嘘です、絶対」
「うん。嘘だよ」
 指摘すると、彼女はいとも簡単に認めた。そして、「きゃはは」と笑い、
「本当はね、殺猫鬼(さつびょうき)の殺犬鬼(さつけんき)なの。猫と犬を殺して回ってるんだー」
「……それは、笑えない冗談ですね」
「冗談じゃないよ。本当だよ。この辺りにいるでしょ? 本当に」
「でも、嘘だよ」
「それも絶対?」
「絶対」
 僕がいい切ると、彼女は「きゃははははははっ」と、お腹を抱えて笑いだした。
 少し、かちんと来た。
「さてと」
 笑いを止めて、彼女がいう。
「私、園山美空(そのやまみそら)さん。君に、カサの貸しひとつだよ?」
「え――?」
 赤いカサが、僕に押しつけられた。
顔面に殴りつけるかのようにズイとカサの柄を差しだされて、受け取らざるを得なかったのだ。
「じゃあねーっ」
 彼女が手を振る。そして、バシャバシャと水たまりをかき分けながら、走り去ってしまった。
「……なんなんだ、あいつ」
 僕は赤いカサを片手に、ぽつりと呟いた。

   ○

「ただいま」
「おかえり、透(とおる)。雨、大丈夫だった?」
 母さんがキッチンから顔を出していう。僕は自然と、母さんの額を見つめてしまった。あの日の傷が、まだ残っている。
 そっと視線をふせ、母さんの言葉に答えた。
「なんとかね」
「あらま、びしょ濡れじゃない。早くお風呂に入りなさい。もう湧いているか……あれ?」
 母さんの視線がふと赤いカサにとまる。
 いやだなぁと僕は思った。
 けれど、説明しないわけにもいかない。
「あんた、そのカサどうしたの」
「貸してもらった」
「誰に?」
「園山美空」
 下手にクラスメイトの名前をだせば、母さんはお礼の電話をかけて嘘がばれてしまう。そこで僕は仕方なく、正直に答えることにした。
 きっと母さんは怒るだろう。知らない人にカサを借りてくるなんて、と。
 僕は嵐にそなえ下唇をかんだ。
「園山……美空?」
 しかし、母さんの口をついたのは、どこか驚いたような呟きだった。
「知ってる人なの?」
「うーん。良く知らないんだけどね……。なんだか、とっても変わった子だって風早さん……亜子ちゃんのお母さんに聞いたから」
「確かに、変だった」
「そう。良く分からないけど、あまり近づいちゃダメよ」
 実に気真面目にうなずいた。おかしな人間に進んで近づきたいとは誰だって思わない。
 いや、少し興味はあるけれど。
「でも母さん、カサはどうしようか」
 たたんだ赤いカサを持ち上げながらいうと、母さんは困った顔をして、
「返した方が良いよねえ」
「だろうね」
「……わかった。母さんが返しに行っておくから、とりあえずそこにかけておいて。もう、知らない人にカサを借りちゃダメよ。そうじゃなくても、最近この辺、ものすごく物騒なんだから」
「押しつけられたんだ」
「いい訳しない」
「はぁい」
 わざと気の抜けた返事をした。存外に、僕はほんとに悪くないんだぞと伝えたつもりだ。伝わったかどうかはわからないけども。
 いわれた通りにカサを立てかけて、僕はそれから風呂場に向かった。
服を脱いで洗濯機に放りこみ、かけ湯をしてから湯船につかる。
 とても気持ちが良い。
 冷たかった身体が端っこからどんどん暖かくなっていく。頬が上気する頃には、僕の頭はすっかり軽くなっていた。
 何も悩むことはない。
 母さんは、今日も元気だ。
 そんな能天気で楽観的な思いが、自然と浮かんでくる。
僕は髪の毛と身体を洗って、もう一度湯船につかって二十数えてから風呂場を出た。
 身体をていねいにふいて、用意されていたパジャマに袖を通す。なんとなく鏡に目を向けると、相変わらず平凡な顔をした僕が映っていた。
 黒髪の短髪に、ちょっと大きめの耳。それに、少しだけ吊り上った目。
 もしも僕がカッコいい男だったら、風早亜子に告白されただろうか。
 そしてあんな相談を受けて、もやもやした気分になることもなかっただろうか。
 僕はそれを考えながら、脱衣所をでた。
 リビングにいくと母さんが、受話器を片手に、「うん、うん、わかった」と話していた。音を立てて彼女は受話器を置く。
 それから、僕の方を見て、丁度良かったとばかりににんまりと笑った。
嫌な予感がする。
「透、ちょっとパパを迎えに行ってよ」
 そして、それは見事に的中した。
「え」
「いいでしょ? ママは晩御飯を作らなきゃいけないんだから、お願いよ。それとも透が作ってくれるの?」
「いや……」
 僕は頭の中に天秤を用意した。それぞれに、メリットとデメリットを重ねていく。
 メリット。
 料理が作れる、お義父さんと二人きりにならずにすむ、寒い中外に出なくて済む。
 デメリット。
 お義父さんに僕がつくった料理を食べられてしまう。
 天秤はぐらぐらとそれぞれの皿を交互に上げ下げする。そしてそれは、わずかに傾いた。
「……わかった。迎えに行ってくるよ」
「ありがとー。助かるわ。パパ、駅のマックにいるって」
 僕は頷いて、リビングをでて自分の部屋に上がった。Tシャツの上に薄手のパーカーを重ねて、ズボンはお気に入りのカーゴパンツを合わせる。
 そのまま外に出ようとして、ふと気づき、ドライヤーで髪の毛を乾かした。風邪をひかないように、念を入れておく。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 忘れていった、愛用の青いカサと、大人用の紺色のカサを手に、僕は玄関を押し開き、雨の中ふたたび外にでた。

   ○

 駅前に向かって歩く。
 途中で、見覚えのある小さな女の子を見かけた。
 あれ? っと思って目を凝らすと、やっぱり塩田原夏帆(しおたはらかほ)だった。僕はちょっとだけ身を隠す。
 隠しながらも、彼女は一体何をやっているのだろうと首を伸ばした。
 夏帆は、ひまわりの模様が入ったオレンジのカサを手に、路地に身体を向けてしゃがみこんでいる。
 目を凝らすと、彼女が段ボールの中から顔をだす、猫を相手に遊んでいるということがわかった。路地には店の屋根がかかり、雨が当たってはいないようだ。
 見つからないように、そっと歩き始めた。
 青いカサが、雨をはじく音だけが聞こえる。あたりはしんと静かで、まるで海底にいるようだと僕は思った。
「なに、やっているんですか?」
 園山美空とふたたび出会ったのは、そんな時だった。
 彼女は、僕が雨宿りをしていた軒先から、ほんの数メートルだけ離れた屋根つきバス停のベンチにいた。
 例の黄色い雨合羽姿で、ごろんと横になっている。身体は明らかに冷えていて、微かに震えていた。
 彼女は眼をつぶっていたが、ゆっくりと眼を開いて僕を見た。そして、のんきそうに「にゃあ」という。
「ええと……。さっきの子だよね」
「はい」
「やっていることは……うーん。待ち伏せ?」
「物騒ですね」
「じゃあ待ち合わせ。嘘だけど」
「人を殺しに行くんじゃなかったんですか」
「うん。共犯者を待ってる」
「どっちも嘘じゃ……」
「そうだね。まあいいじゃん。そうそう、君、名前は?」
 園山美空はようやく体を起こしながらいった。その段階になってようやく、僕は母さんのいいつけを思い出した。けれど、まあいい。いいつけは破るためにある。それでも、少しは守っておこうと思った。
「香坂(こうさか)透」
「ふーん。そうなんだ。あたしは園山美空さんだよー?」
「知ってますけど……」
「なの? ぜんぜん名前を呼んでくれないから、忘れているんだと思って」
 僕が「じゃあ園山さん」というと、彼女は頬を膨らませて、
「美空が良い」
「美空さん」
「さんも要らない」
 僕は戸惑った。
「でも、年上でしょう。それも、だいぶ」
「別にー。美空、八歳だもん」
 足をばたばたとさせながらいう。大人に似合わない、至極子供っぽい動作と言動だった。
 僕はため息をつきながら、「本当は?」と聞こうとして、女性に年を聞くのはマナー違反だという話を思い出し、疑問を飲みこんだ。
「美空は何をしてるんですか」
 結局彼女の要求をのんで、訊ねたかったことを聞いた。
 僕が思わず彼女に声をかけてしまったのは、とても気になったからだ。彼女の身体は雨にぬれている。
 僕にカサを貸してくれた後、ずっとこの場所にいたのだろうか。
 どうして? 
 冷えた身体でベンチに寝転がっていたら、風邪を引くに決まっているのに。
「君は何をしているの?」
「おれは、お義父さんを迎えに」
「じゃあ、あたしもそうしようかな。そっちのカサ、ちょっとだけ貸して」
 僕はびっくりした。
「いやですよ」
「なんで?」
「だ、だって……」
 しどろもどろしていると、美空は立ち上がって、僕を見下ろし笑顔でいった。
「君には、カサの貸しがひとつあったよね?」

   ○

 紺のカサをくるくると回しながら、美空は僕の隣を歩く。飛んできた水滴が僕の頬に張りついたので、パーカーの袖で拭った。
 貸しは好きじゃない。
 だから、美空とお義父さんを迎えに行くことにした。ちょっとずるい考えもあった。
 また、天秤だ。
 メリット。
 お義父さんと二人きりにならずに済む。
 デメリット。
 変なお姉さんがもれなくついてくる。
「はっくしゅん」
 美空がクシャミをした。見上げると、出てきた鼻水をずるずると戻すところだった。妙なところを見てしまった。見たくなかった。
「……大丈夫ですか?」
「ふなー」
「……フナ?」
 訊ねても、美空は答えてはくれなかった。変わらずカサをくるくる回しながら、辺りをきょろきょろと見まわしている。
「コー君」
「え? おれです?」
「うん、そだよ。香坂だから、コー君」
 僕はそのあまりに単純な、しかし、今となってはもう誰もつけてはくれないだろうあだ名を、少しだけ嬉しく思った。
 カサで顔を隠し、そっぽを向く。
「で、何」
「えっとね、コー君。これ、どこまで行くの?」
「駅内のマック」
「マックかー。そいえば最近行ってないなー。そうだ、あたしね、ドナルドと握手したことあるよ」
「嘘」
「これはホント」
 僕達は雨の中を歩き続ける。通りをすれ違う人は少ないが、美空に意識を向ける人も何人かいた。
 彼女が派手なレインコート姿で、とびきりの美人だからだろうか。
「ねえ、握手してあげようか?」
 唐突に美空がいった。
「え?」
「間接ドナルド握手だよ。ホラ」
 腰をちょっとだけかがめて、いきなり美空は僕の左手をつかんだ。ひんやりとした温度が伝わり、僕は思わず肩を縮める。
 美空の手は、固かった。
 それに、あちこちに豆のような後があって、ざわりと感触が悪く、これで女の人の手だろうかと思ってしまった。
「はい握手完了」
 ぎゅっと手を一度握りしめて、美空はパッと手を離す。今の行動に、何かの意味はあったのだろうか。
 おそらく、何もないだろう。
 わずかな時間しか一緒にいないけれど、美空は多分、そういう女だ。

   ○

 駅について、建物の中に二歩踏み入れてからカサをたたんだ。
 地面に先をつけ、左右に振り回し水滴を落とす。美空と少し離れた位置でそれをやったのだけれど、彼女は僕に近づいてきて嫌がらせのように激しく振り回したので、水滴がたくさん飛んできた。
 僕はついにやり返した。
 水滴が飛ばなくなって、しばらくするまで僕らはそんな事をしていた。
「さ、行こう行こう」
 美空がマックに向けて歩き出す。僕は慌てて後を追った。
「ねえ、本当に来る気?」
「うん。だって暇なんだもん」
「……」
 視線を泳がせた。お義父さんと二人きりにならないために彼女を連れてきたつもりだったけれど、いよいよその時が近づいて、いまさらながらに僕は後悔を始めていた。
 そもそも、この状況は絶対におかしい。
「……美空のこと、なんて紹介すればいいだろう」
「あたし達結婚します! お父さん、息子さんをあたしに下さい!」
 ふきだした。
 けらけらと笑う僕と、大きな声を出した美空を、駅にいる人達がぎょっとした目で見た。スピードを速めて、マックにたどりつき、逃げ込むように自動ドアをくぐった。
 店員さんが、一瞬だけ険しい表情でこちらを睨んで、すぐに笑顔になる。何事だろうと視線を辿ると、まだ衣服が乾かない湿った美空が映った。たしかに、この恰好で店内をうろつかれては、たまったものではないのだろう。
「美空、ちょっと外で待っていて」
「はふっ?」
「……いや、雨で濡れているからさ」
「はふはふ」
 美空はくるりと踵を返して、自動ドアを再びくぐって外にでた。窓ガラス越しに、僕の事をじぃーと見つめている。
 忠犬ごっこ。
 僕は呆れてしまった。呆れてから、いつの間にか美空に対して敬語を使っていない自分に気がついた。
 犬は僕だ。
 いつの間にか、美空のランクは随分と下がってしまったらしい。
「透! 迎えに来てくれたのか?」
 聞き覚えのある、お義父さんの声が届く。
 僕は声がした方向に視線を向けて、すぐに彼を発見した。
 柔和そうな顔に、やぼったい銀縁の丸眼鏡。出会った人が百パーセントの確率で、「優しそう」と判断するような、その雰囲気。
 それから、安っぽい、灰色の冴えないスーツ。
「まあね」
「そうか。ありがとう。透は偉いなぁ」
 にこやかに笑うお義父さんを視界から外して、すぐに出入り口に向かった。お義父さんが慌てて立ち上がる音がした。待たずに、自動ドアをくぐる。美空が「おかえり」と小首をかしげた。
 お義父さんがまだ来ない。
 店内の様子を伺うと、ゴミ箱に紙コップを放りこむのが見えた。
「……え? えーと」
 外にでて僕の近くによると、お義父さんはぱちぱちとたれ目がちな大きな目を瞬かせ、美空を見つめた。
 美空はニコニコと、
「コー君のお友達です」
「コー君?」
「香坂の、コー君」
 お義父さんは瞳を伏せた。僕はまた目を逸らした。
「はい、どうぞ。ちょっと借りていました」
 美空は、紺色のカサをお義父さんに差し出した。けれど、お義父さんは戸惑う表情を浮かべるだけで、受け取ろうとはしない。
「君、濡れているじゃないか。カサは?」
「大丈夫だよー! レインコートがあるし。これから人殺しに行くから、これだけで大丈夫なのー」
 お義父さんの笑顔がひきつる。それでも、さすが大人だ。面白い冗談だね、と乾いた笑顔と共にいい切った。
「君、家はどこ?」
「ニュージーランドです」
「……留学中?」
「じゃあ、火星です」
 美空はやっぱりニコニコしながら答えた。困り果てた表情で、お義父さんが僕を見下ろす。けれど、とてもじゃないが力にはなれない。
 美空は嘘つきだ。
 それも、意味のない嘘をとんでもなく愛しているタイプの。
「行こう」
 だから、僕は勝手に歩き出した。美空はそのうち、自分の家に帰るだろう。
「え? カサはどうするんだい?」
 お義父さんがいう。
 カサは二本。人は三人。僕は間髪入れずに答えた。
「美空、一緒に入ろう」
「わーい。相合傘だねぇー」
 僕が何も言わないうちに、美空はカサを僕から奪い取って、広げた。身長差がありすぎるのだから、確かに彼女が持つのがベストだろう。そして、まだ閉じたままのカサを改めてお義父さんに差し出す。
 彼は、僕をちょっとだけ見てから、それを受け取り、
「なあ透。今日の晩御飯はなんだろうな?」
「知らない」

   ○

 美空とお義父さんと三人で、という奇妙な帰り道。道中は、美空がずっと意味の分からない、というかおそらくないことを話していた。
 いわく、自分は二十七歳で私立探偵をしていて、この街にいる連続犬猫怪死事件を追っているだとか、それは全て嘘で現役女子高生プロゴルファーをしているだとか、まあそんな話だった。
 お義父さんはその話に、いちいち頷いたり、驚いたり、困ったような表情を浮かべたりする。僕はただ黙って歩き続けていた。
 途中、美空は三回くしゃみをした。お義父さんはそのたびに「大丈夫かい」と声をかける。そんな風にして、僕らは目的地に辿りついた。
 横幅の狭い、縦長のクローンハウス住宅のひとつが、僕の今のウチだ。
 美空がまじまじと家を観察しているので、やけに居心地が悪い。彼女は表札をとくにまじまじと見て、小首をかしげていた。
「えっと、美空ちゃん。ご飯でも食べていくかい? 良かったらお風呂も貸すけれど」
「はふっ。はふっ」
 美空はそういいながら力いっぱい首を振った。突然犬になった美空を、お義父さんはぎょっとした顔で見つめた。
「じゃあね、コー君」
 美空が、僕に向かって手を振る。フードを被りながら青いカサを差し出してきた。僕はそれを受け取ったあと、ああそういえばと気が回った。
「美空、ちょっと待ってって」
 カサを片手に玄関を開けて、赤いカサをつかむ。振り返ると、お義父さんが斜めに差しているカサの下に、美空がいた。
「これ、ありがとう」
「ふなー。どいたしまして」
 赤いカサを受け取った美空はそれをすぐに広げ、くるくると回した。若干の水滴が、お義父さんの灰色のスーツに飛びついた。顔をしかめながらも、彼は何も言わない。
「じゃ、今度こそバイバイ!」
 駆け出す。
 美空の姿は、あっという間に角に消えて見えなくなった。
「……なんというか、変わったお友達だね」
 お義父さんが苦笑いのような表情でいう。
 友達じゃないさという言葉を飲み込んで、聞こえなかったふりをし、家に上がった。
 その後。
 ぼちぼちの成果をあげた成績表を母さんに渡し、家族そろって食事をとり、ダラダラと一人でテレビを見て、軽く小説を読んでからベッドに入った。
 眠りは、すぐに訪れた。

   ○

 七月二十二日。
 記念すべき夏休み初日は、昨日の雨模様が嘘のような晴天だった。僕は早くにすうっと目が覚めて、その眩しい太陽に光を一身にあびた。
 平日ほど寝坊をし、休みとなると妙に早く覚めてしまうのが僕の癖だ。
「いってきまーす」
 午前七時四十五分。
 お義父さんは既に会社に向かい、朝早く弁当を作った母さんは二度寝し、妹はまだ起きてもいなかったけれど、昨日のうちに明日はラジオ体操に出かけると言ってある。
 半袖と七分丈のズボンに着替えて、僕は早朝の街に繰り出した。少しだけ、寒い。もうすでに日は昇りきっているが、まだまだ低い位置にあるためだろう。
 けれど気にすることはない。そのうち、温かくなるはずだ。
「あ。おはよう」
「おはよう」
 ラジオ体操開催場所の、小さな会館の前には、すでに風早亜子がいた。昨日は「また新学期に」というようなことをいってしまったが、考えてみれば彼女は同じ町内だ。これから、毎日のように顔をあわせる。どちらかが、あるいはどちらともが、あの長ったらしいラジオ体操第二をさぼらなければだけれども。
「はやいね」
「まあね。約束の十五分前には必ずその場所にいなさいって、言われてるし」
「厳守だね」
「なにそれ」
 『辞書をお引きなさい』と、アクセントをつけまたいおうかと思ったけれど、一度受けたからと言って二度目をやるのも単純だ。僕は、「時間を必ず守る事」と簡単に意味を説明した。亜子は「そんなの習った?」とつまらなそうに返事をした。
 会話が楽しいわけじゃなく、狭い広間に二人しかいないという状況だから、無理にでも話を続けたいのだろう。
 僕たちは適当な会話をした。ところどころで幾度か、亜子は口ごもる場面があった。話題が切り替わるタイミングだ。
 けれど、いいにくそうにもごもごと口を動かした後について出るのは、至極どうでもいい話題ばかりだった。日曜日のアニメが楽しみだとか、そんな話。
 そのうちぽつりぽつりと人が集まり始めた。
 大人が三人ほどまずやって来て、早いねと僕たちをほめてくれたり、亜子と仲の良い女の子がやってきたりした。
 僕は亜子から自然と離れて、一人で木陰に寄りかかっていた。
「あ、あ……あ、の!」
 塩田原夏帆が僕に声をかけてきたのは、そんな時だ。彼女は、半そでのネルシャツとジーンズ生地のロングスカートを合わせていた。
「……何」
「え、え、と」
「はっきり言えって」
 夏帆は泣き始めた。わーわーと大声を出す泣き方ではなくて、瞳に涙をためるグズグズとした泣き方だ。僕は頭を抱えた。心の中で。
「おい、泣くなよ」
「ぅ、ぅ」
「……うざいなぁ」
「うぇぇぇぇぇぇん!」
 ぽつりと、聞き取れないようにいったつもりだった。しかし、夏帆は耳ざとく言葉を拾ってしまったらしい。ついに、大声で泣きわめいた。
ざわざわと僕の周りに人が集まってくる。「泣かせた」「かわいそう」
 僕はすっかり居心地が悪くなって、「おい、泣くなよ」と夏帆をせっついた。夏帆も泣きたいわけではないのだろう。ぎゅっと唇を噛んで、必死に泣き声をこらえた。ラジオ体操を主催する大人もやって来て、夏帆の頭をぽんぽんと叩いた。
 それで心が落ち着いてきたのだろう。ラジオ体操開始の時間になるころには、涙はすっかり乾いていた。
 僕たちは何列かに並べられ、僕の隣はたまたま亜子になった。
「夏帆ちゃん、大事にしなよ」
 亜子が僕を横目でみながら、忠告のような口調でいう。事実、それは忠告なのだろう。僕は返事をしたくなくて、聞こえないふうを装い黙る。
 そんなことをしているうちにラジオ体操の、のんきでのどかな音楽が流れ始めた。
 全身をゆすり、腕と脚を曲げ伸ばし、腕を開き前と後ろに回して、胸をそらし、身体を横に曲げ、身体をねじり、片足とびと駆け足あしふみ、最後に深呼吸をして、ラジオ体操は終了した。
「ふぅ」
 すべて終わるころに、僕はうっすらと汗をかいていた。肩で汗をぬぐう。Tシャツが一部分だけ湿った。
「では、ラジオ体操カードを配りまーす! 名前順に並んでるから、取りにきてねー。はい、飯田くん。…………加川さん」
 前のほうで、係りの大人が声を出す。
「塩田原さん」
 夏帆がちらりと僕の方を見た。首でうながすと、彼女はとてとてと慌ててカードを取りに行った。
「次。塩田原……塩田原透くん」
 僕はカードを取りに行った。受け取ったカードには『塩田原透』というそわそわする名前が書かれており、七月二十二日の欄にピカチュウのスタンプが押してあった。

   ○

 夏帆と並んで歩きたくなかったから、ラジオカードを受け取ると同時に広場をでた。後ろを振り返ったが、きっと夏帆と同じ小学二年生なのであろう、女子児童達と会話をしていた。
 僕は受け取ったばかりのカードをぼんやり眺めながら、明るくなり始めた街を歩く。
「お、透! 丁度良い所に」
 野球帽をかぶった、半袖短パン姿の雅夫と出会ったのは、そんなときだ。バットケースとグローブを持っている。
「これから野球?」
「おう。といっても、少年野球じゃなくてさ、遊びの野球のほうなんだ。透も来るだろ?」
「どうしようかな」
「いこうぜ。第二小の奴らと対戦なんだ。透、グローブと、それからバット持っていただろ。あれ持って来いよ」
「……。あれ、へっこんじゃったからなぁ」
「ちょっとぐらいなら平気だって。九時に第一小の校庭集合だから。遅れるなよっ」
「あ、ちょ」
 僕はまだ行くとすら言っていないのに、雅夫は駆け出してしまった。後に残された僕に、決定権はあまりない。急いで家に帰った。
「ただいま」
「おかえり。夏帆は?」
「友達と喋ってた」
 階段を駆け上がり自分の部屋にいき、クローゼットの奥をあさって黒いバットケースを取り出した。中から新聞紙に包まれたバットを取り出す。包を外すと、黒に赤い模様が入った、安っぽい金属バットが姿を現した。
「……やっぱ、どう見ても無理」
 僕はバットを元通りに仕舞って、ひっくり返したクローゼットの中身をでたらめに詰め直した。
 それから、グローブが仕舞ってある宝箱を開けた。宝箱とは名ばかりの、ちゃちな作りの木箱だけれども。
「あれ?」
 しかし、宝箱の中にグローブは見当たらなかった。中身を全て取り出して探してみたけれど、見つからない。
さてどこに仕舞ったかと思考をめぐらす。思い出せなかったので、階下に降りた。
「おかーさん。おれのグローブ知らない?」
「なに、あんたなくしたの?」
「そういうわけじゃないけど。知らないならいいや」
「あ、ちょっと待って。思い出したかも」
 母さんは唐突に、お義父さんの部屋へ入って行った。しばらくして、膨らんだグローブ袋と一緒に戻ってくる。
「はい。なんかね、透が使いやすいようにって、パパ、グローブの型を整えたいっていうから、渡してたのよ」
「――っ」
「いつか、透とキャッチボールしたいって言ってたわよ。お義父さん、ああ見えて昔は野球少年だったんですって。八番ライトらしいんだけどね」
「……そう」
 僕はグローブ袋を持ったまま、おぼつかない足取りで家を出た。母さんが「いってらっしゃい」と、少し不思議そうなトーンで見送ってくれた。別れ際にまた、額の傷を見つめてしまった。
 外にでる。
 先ほどまでと何も変わらない、晴天の空。
 なのに、小さく積み重なった言葉に上手く出来ないアレコレが、どんよりと僕にのしかかっていた。
 いつまでもこんな所にいるわけには行かない。
 僕は重い足取りで小学校を目指し始めた。途中で、前方に夏帆が現れた。カードを片手に、ちよちよと細かな足取りだった。僕に気づくと顔を上げ、夏帆は手をふった。
「あ、あの、……」
「なんだよ」
「ひっ」
「あーもう、泣くなって! お前に怒ってないよっ」
「……ホント?」
「本当。本当」
 夏帆はもじもじと「野球に行くの?」と僕に訊ねた。ああしまったと僕は思った。夏帆は、野球が好きだ。お義父さんは、よくプロ野球を見てよわっちぃチームを応援している。それを横で見ていた夏帆も、いつの間にかハマってしまったらしい。
「違うよ。野球じゃない」
「ぇ、ぇ。……じゃあ、何しに行くの?」
「殺人鬼のねーちゃんに会いに行く」
 いい捨てて、僕は再び歩き出した。すれ違いざま、夏帆はきょとんとしていた。ようやく一人になって、ため息を吐いた。
 僕の口をついたのは、もちろん嘘だ。殺人鬼のねーちゃんなんて知り合いにいないし、それを名乗る女もどこにいるかなど分からない。
「……なんだかなぁ」
 呟きながら、僕はグローブ袋を蹴とばした。振り子のように戻ってきたそれをまた蹴とばした。この袋で、そんなことをするのは初めてだ。それを繰り返し繰り返し、野球の道具でサッカーの練習をしながら僕は歩いた。そして、ようやく第一小に辿りついた。
「お。透、来たな。遅いぞーっ」
「ごめん」
「あれ? バットは?」
「……やっぱ無理だった。凹みすぎ。あれは反則だよ。打ったボールがどっか行く」
 グランドには雅夫を始め、顔見知りの友達が何人かいた。知らない顔も数人いた。僕らはお互いの名前を教え合って、次の瞬間には呼び捨て合っていた。
「第二小はさぁ、ピッチャーがすげぇんだ」
 雅夫が神妙な顔でいうので、即興ナインはピッチャーについての考察を重ねた。
「変化球とか?」
「いや、それは聞かないけど。とにかく、球が凄く速いんだよ。一四〇出てるって」
「まさかー。んなわけないよ」
「でもさ、そんな噂がある事自体、すげぇな」
 そんな話をしている時に、ぞろぞろ少年たちがやって来た。雅夫が気づいて、駆け寄っていく。どうやら、第二小の連中らしい。
 相手と何事か話し終え戻ってきた雅夫は、即興ナインの面々をみていった。
「十三人集まったか。交代制で良いよな。余ったやつは審判をやってて」
 ぞろぞろしていて知らなかったが、ナインではなかったらしい。僕は辺りを見回し、目で人数を数えてみた。雅夫のいうとおり、全部で十三人もいる。
「とりあえず、キャッチボールをやっておこう」
 誰かがいいだして、みな各々にグローブを取り出し始めた。
 僕は、ここまで蹴り飛ばしてきたグローブの袋を見つめていた。
「何してんだよ透。組もうぜ」
 雅夫がせっつく。
 恐る恐るグローブを取り出すと、嗅ぎなれない臭いがした。僕は思わず取り落す。
「あ、グローブ磨いたんだ」
 なぜか雅夫が歌うようにいった。地面に落としてしまったグローブを見下ろすと、ツヤヤと見慣れぬ光沢を放っていた。
 ない。
 あの汚れが、あの臭いが、あのくすんだ色合いが、ない。
 ふいに、涙が零れた。
「お、おい? どうしたんだよ透」
「……ごめん、おれ帰る」
 グローブ袋を放り投げて、駆け出した。「ちょ!? 待てよ、透!」背後で声がする。雅夫のものだけじゃない。他のメンバーの声もした。
 それでも、止まれなかった。
 泣き顔なんて見せたくなかった。しかも、僕の気持ちなんて誰も分かりはしないだろう。僕にだって分からなかった。

   ○

 しばらく走り続けると、涙は自然に流れを止めた。
 ただ、胸のうちに気持ちの悪いものを抱えて、僕は一人で歩いていた。途中で、腕をまっすぐに伸ばし、空中で拳をにぎった。開いた手のひらはやはり空っぽ。けれども、僕はこの儀式を止められそうになかった。
 これを教えてくれたのは、父さんだ。
 今いる塩田原のお義父さんじゃなくて、僕の本当の父さん。
『こーやってみるとさ、なんとなく、何かが掴めるような気がするんだよなー。夢とか希望とか、目に見えないものをさ』
 グローブは、僕達がかろうじて家族だった頃の、父さんからのクリスマスプレゼントだった。
「……くそっ」
 本当は、分かっている。
 僕はちっとも不幸なんかじゃないってこと。どころか、あの頃よりもずっとずっと幸せだということ。
 けれど、幸福と不幸は計量スプーンじゃ測れない。
 客観的になんて、見ることが出来ない。僕は僕の主観でしか今をとらえられない。
 十人がいたらきっと十人、本当の父さんがいたころの生活より、今の方が幸せだね、良かったねと僕にいうだろう。それは分かる。理解できる。
 けれど、僕の心はそれじゃあ納得しないのだ。
 たまに、夏帆になりたいと思う。
 彼女ぐらいの歳だったなら、きっと、彼女のように上手に今を受け入れられると思うから。実の父さんも、出来たばかりのお義母さんも、そしてつっけんどんな兄――僕でさえ、彼女は家族として受け入れようとしている。
 夏帆は泣き虫で、うじうじしていて、僕は嫌いだった。けれど、そんな彼女は僕より強い。腹立たしいことに、強い。
「強くならなきゃなぁ」
 呟くと、また涙が出てきた。こんな所が似なくても、と、僕は夏帆の泣き顔を思い出した。

   ○

「ただいま」
「おかえりなさい。早いわね」
 家に帰り、僕は手洗いうがいをして、小説の続きを読み始めた。けれど、同じ文章を何度も何度も目で追ってしまい、進まない。しかたなく本を閉じて、 僕は夏休みの宿題を机に広げた。
 最終日に慌ててやるなんて、愚の骨頂。
 初日からきちんと予定を立てて、計画的にやるのが僕のスタンスだ。とりあえず、今日は一日予定を立てる予定にして、作業をした。計算ドリルなどを、一日あたりに換算してノルマ数を決めていく。
 それらが全て終わったあとに、僕は一言日記という冊子を開いた。絵日記が出なかった分だけましだが、日記をつけるのはやはり面倒臭い。僕は何か丁度良い文面がないかと考えて、昨日だったら美空のことが書けたのに、と思った。
 園山美空。
 僕は、今まで出会ったどんな大人も、子供も、彼女ほど自由に生きてはいないだろうと感じていた。好きなように笑って、好きなように動いて、好きなように嘘をつく、少女のような大人の女性。
 あんな風に生きられたら、きっと幸せなんだろうな。
 自分が美空を眩しく感じていることに気がつき、少しだけ頬が赤くなった。
「ああ、そうだ」
 僕は鉛筆をにぎりしめ、日記にそれを走らせた。

『7月22日 天気・晴れ
   今日は夏休みの目標を書きます。僕の夏休みの目標は、自由に生きることです』

 第二章・東京

 七月二十五日、土曜日。ゆとり教育の恩恵にあやかってか、週末二日は、ラジオ体操も休みだった。けれど、僕はあいかわらず朝早くに目が覚めてしまい、暇を持て余すこととなり、ぼんやりとリビングでテレビを見ていたが、やがて『散歩に行ってきます』と書置きを残して外にでた。
 ここ最近、毎日が退屈だ。
 一学期の授業中、あんなに楽しみだった夏休みが、始まった今となってはひたすらに息苦しい。あれから、雅夫にも会っていない。電話が来て、グローブを預かっていると言われたが、取りに行くことすらしていなかった。
 緩やかな日差しがふりかかる。
 と、その眩しい光の合間に、地面にかがんで何かをしている人物が映った。
「……美空?」
 それは、何日かぶりに見る園山美空の姿だった。服装は、あまり偏差値のよろしくないとされる、地元高校の制服だ。
 それだけ言えば、いつかの服装より幾分もマシに感じるが、奇妙なことに冬服のそれで、茶色いブレザージャケットと、厚い生地で出来た灰色のスカートが暑苦しい。しかも、スカートから伸びたスラリと長い足は、タイツをまとっていた。
 僕は美空に近づいて行った。
「おはよう」
「あー。コー君だー」
 声をかけると、美空は首を思いきり上げてそらし、逆さまお化けのような体制でそういった。
「何してんの?」
「ん。調査だよ、調査」
 美空は首を元に戻して何かを持ち上げ、しゃがんだ姿勢のまま僕を振り返った。正面を向いた美空は、一匹の猫を抱きかかえている。白い毛並みの、ふわふわと可愛らしい猫だった。
「……ひょっとして、殺猫事件の調査?」
「違うよー。宇宙人の調査」
「は?」
「最近ね、猫に寄生する宇宙人がいるの。あいつは宇宙のー、猫型寄生人―っ」
 突然美空は、誰もが知ってる国民的某アニメの主題歌を、替え歌で歌いだした。歌声は安定せず、拍子のつき方が下手だった。
「……ようするに、暇なの?」
「そうともいうかもなのかもだけども」
「だけども?」
「はふっ」
 唐突に、美空は猫を僕に押しつけてきた。思わず僕が抱きかかえる。すると、抱き方が下手なのであろう、猫は暴れ出し、あっという間に手元を離れ路地の向こうへと消えて行った。
「あー、あー、行っちゃった」
「……猫、好きなの?」
「コー君の方が好きだよ」
 どきっとした。美空はニコニコと笑顔で、僕を見上げていた。その表情にいっさいの照れはなく、ああ嘘だと気がついた。
 心臓に悪い、嫌な嘘だ。
「さーてと、これで暇になっちゃった。予定がぱーだ」
「予定?」
「猫のノミとり。だからコー君、東京に行こうよ」
「え?」
 美空は立ち上がって、大きく伸びをした。
 ああ、また嘘だ。
 そう思っていたのに、美空は駅の方へと歩き始め、「切符代、二人分あるよね」などと呟いて、スカートのポケットから財布を取り出している。
 僕が戸惑い立ち尽くしていると、美空はロングヘアーをなびかせながら振り向いていった。
「行こうよ、コー君」

   ○

 僕達の地元の駅は単線で、かろうじて二つの自動改札口がある田舎の駅だった。ここから三つ離れた場所には無人駅もある。だから、まだ大分マシな方だと思うのだけれども。
「コー君は半額でいいなぁ」
 そういいながら、美空が切符を買って僕に一枚手渡してくれた。金額は、思った以上に安い。乗換をするのだろうか。
「……いまさらだけどさ、ほんとにいいのかな」
「良いに決まってんじゃん。コー君は真面目だねー」
 そのいい草にむっとして、僕は切符を勢いよく改札口にいれた。駅の構内に入る。美空も続いた。これで、この切符代は帰ってこない。
 階段を上がりながら、
「コー君、そういえば切符は両思いだった? あたしはだめー」
 と美空がいった。ああそういえば、誰かに聞いたことがある。切符の端っこにある何桁かの整理番号。その端っこが同じ数字なら間の数字が二人の両思いの確率なのだという。ちらりと確認してみた。両思い切符ではなかった。
 電車を待つ間、僕と美空は東京の話をしていた。どうやら美空は、東京の渋谷に向かうつもりらしい。有名なハチ公前が見られるなと僕は思った。
 電車が来て、僕は美空と一緒に乗り込んだ。丁度良く二人分の座席が空いていたので、そこに座る。美空は足をふらふらとさせていた。また、地元を抜けると、座席に膝たちになって彼女は窓の外を眺めはじめる。
 僕はその横で、行儀よく座っていた。隣にいるおっきな小さい子は、まったく全然知り合いじゃありませんよとばかりに。
 けれど彼女は物珍しいモノを見つけるたびに(大きなタワーだとか、聞いたこともないデパートだ)、僕をつついて「コー君、すごいよ!」と言ってくるので、あまり効果は期待できそうにない。
 電車はわりと込み合っていて、美空はとにかく目立った。険しい目つきや好奇の視線。美空を気にしなかったのは、眠っていたり、イヤフォンをしながらゲームをしたり、そういった人達だけだった。
「ついったー!」
 それから乗換を二回して、僕達は渋谷駅に降り立った。移動時間、二時間弱。東京とは、案外近い場所だったんだ、と不思議な感慨を抱く。思えば、両親以外と電車に乗ったのも初めてだ。
「美空、今ようやく考えたけど」
「ふなー?」
「これは誘拐かも知れない」
 僕が気真面目な顔でそういうと、美空は例の「きゃははは」笑いでお腹を抱えて笑い出した。渋谷駅のたくさんの人達が、僕らを見て、けれどすぐに視線をそらす。
「でも、変じゃない?」
「なにが?」
「んー。なんか、いろいろ」
 実のところ。
 僕はこの状況を変だと感じていはしたが、この判断を変だと感じていはしなかった。もしもまた選択がやり直せるとして、僕はきっと美空と一緒に東京に来ただろうと思うのだ。根拠は、ないのだけれども。
「まあいいやん。とりあえず、どこいこかー?」
「ハチ公」
 美空が関西人になったことはスル―して、僕は単語で答えた。たぶんこっちな気がする、と至極怪しげなことをいって美空が歩き出したので、僕はノコノコついていった。
 けれど、とにかく人が多い。
 小学生の僕を飲み込んで、人々は足早に動き、動く。かわしきれなくなった僕は、雑踏にうずまりかけていた。誰かの足にぶつかって、ぷーんとキツイ香水の匂いが鼻をつく。
 そして。
「あ、あれ?」
 僕は、美空を見失ってしまった。
左右のどこを見回しても、後ろに目を凝らしても、どこにもいない。
「み、美空ぁ!!」
 声を張り上げる。しかし、返事はない。
溢れるほどいる通行人たちも、せかせかと歩き続けるばかりで誰も僕のことなど気にしてくれはしない。
 不安が忍び寄ってきた。
 このまま、僕は一人でこの見知らぬ東京に飲み込まれてしまうのではないか。母さんが待つあの家に、二度と帰れないのではないだろうか。
 自分の頭の弱さが恨めしい。
 どうして美空に着いてきてしまったのだろう。出会って間もない美空に、なんの信頼があっただろう。東京は、美空に金を払ってもらってまで、行きたいところだったのだろうか。
 心細さで泣き出そうかというときに――
「コー君!」
「美空?」
 顔を上げると、美空が右手を伸ばしていた。僕はその手を掴んだ。固い、女の子とは思えない手。けれどどんな手よりも温かく感じた。
「つないでよう、はぐれちゃうから」
「そうだね」
 僕達は手を繋いで、美空に斜め上から引っ張られるようにして、ようやく渋谷駅を抜けた。駅の構内も、外も、とにかく人が多い。まるでお祭りのようなありさまだったか、これが東京の日常なのだろう。歩く人々は退屈そうに、欠伸混じりな人が多い。人混みをかき分けハチ公前に着くころには、僕らはくたくたにくたびれていた。
「ハチ公って、案外ちいさいねー」
 と、美空がいう。
「もっと、三メートルぐらいあるのかと思ってた」
「さすがにそれは大きすぎだよ」
「そうかなぁ? 背中に子供が乗せられるから、きっと便利だよ。人気者だよ」
「うーん。とりあえず、待ち合わせスポットから公園にジョブチェンジ出来るかも」
 僕達はハチ公の近くのベンチに腰をおろし、しばし休んだ。けれど、ハチ公の銅像と待ち合わせの人々しか見るものがないこの場所は、ものの五分で飽きが来た。
「美空、行きたいとことかないの?」
「ふな?」
「渋谷109とか」
「ふなー」
 美空はそんな適当な返事をしたあと、ふいに真剣な表情で眉間にしわを寄せた。
「そだ、コー君、何か買ってあげようか?」
 ぱっと笑顔になりしわがなくなった途端、彼女の口をついたのはそんな言葉だった。
「今日の記念に、何か買ってあげるよ。何が良い?」
「いいよ。いらない」
「そーいわずに」
「もらう理由がないし」
「実は美空は、サンタクロースなのだーっ」
「今夏だし」
「じゃあ、オーストラリアのサンタクロース。サーフボードにのってやる」
 両手をひろげて、美空はベンチに座ったまま波に乗った。なんどか指先が髪にかする。けれど、大した被害にはならなかった。
 美空はそのまま、ベンチから立ち上がり歩いて行ってしまう。慌てて追いかけた。
 疑似サーフボードに乗った、迷惑女。正直隣を歩きたくないが、また一人になるのは嫌だった。
「美空、それ止めなよ」
 近づいていうと、美空はぴたりと動きを止めて、今度は軍隊の行進のようにきびきび手足を動かし始めた。さっきのよりはましだ。
 僕は続けて、
「美空、プレゼントとか、ほんとにいいから」
「んー。コー君、欲しいモノとかないの?」
「…………」
 僕は視線を泳がせた。それで、美空には一発でばれてしまったらしい。
「あんまり高いモノだったら無理だしさ、いうだけいってみてよ」
「……中華鍋」
 ぽつりと僕がいうと、僕を見下ろす美空は笑顔になった。
「すごい! コー君、お料理とかできるの?」
「ま、まあちょっとは」
「うおー。カッコいいなァ。もてるよきっと」
 視線を逸らした。
 そんな風に言われたのは、初めてのことだった。男が料理なんて、っと馬鹿にされるのが関の山だ。
「よし、買ってあげよう!」
「え。いやだから駄目だって」
「いいじゃん。それでそれで、美空おねーさんにご飯を作ってよ」
「……」
「あたしねー、いつもテキトーなもの食べてるんだー。コンビニ弁当とかー、カップラーメンとか! 手料理食べるの、久しぶりー」
 美空があまりにも楽しそうにいうので、僕はそれも悪くないかもしれないなと思い始めていた。美空のために、ご飯をつくる。
「うん、いいよ」
「やた! じゃあ決まりねー」
 美空はなぜかくるりと一回転し、ちらりと舌を出してから、
「まずはデパートに行かないと」

   ○

 苦労してたどりついた東京のデパートは、地元のそれと比べるのもおこがましいくらい、広く、綺麗で、高かった。
 建物も、値段も。
「むむむむむむむむむー」
 美空はようやく見つけたキッチン用品の、中華鍋スペースにうずくまって唸り声を上げる。
「美空、やっぱりいいって」
「むーむーむー」
 一万円近い値札を手に取り、彼女はじっとソレを睨みつけていた。僕とて、そんなにも高い中華鍋を買ってもらいたいとは思いはない。せいぜい千数百円だろうという目論みの上で、美空の申し入れを了承したのだから。
「買う!!」
 唐突に、美空は鍋を持って立ち上がった。片手で持つタイプの中華鍋を、まるで勇者の剣のように天井にむけ突き立てる。台座から伝説の剣を引き抜いた、みたいな。
「美空!? ホントにいらないから!」
「買うったら買う! かーうーの!」
 なぜプレゼントする方が、駄々をこねているのだろう。美空は走り出した。僕はそれを追いかけるが、追いつけない。
 大人の歩幅と、子供の歩幅。
 その圧倒的な年月の差が、僕に敗北をもたらす。
 彼女のもとに辿りついたとき、すでにレジの前にいた。黒猫の財布を手に持ち、僕をみながら、「もう買っちゃいましたー」と勝ち誇った顔でいう。
 レジの定員さんがカウンターからこちら側にやってきて、美空にフライパンが入っているのだろう紙袋を手渡す。僕はもう、何もいう事が出来なかった。
「重いだろうから、あたし持ってるね」
「ありがとう」
「ふな。コンビニ弁当は高いからねー。コー君、毎日ごはんを作ってよ」
「……毎日は無理かも」
「毎朝、あたしの為におみそ汁を作ってください」
「あ。それなら、たくさん作っておくから温め直して食べてよ」
「うーっ」
 苦虫をかみつぶしたような顔をして、美空は顔をゆがめた。僕は首をひねった。
 僕達はデパートの陳列棚を流し見ながら、また外にでた。夏の日差しがそそぐ。そういえば、美空は熱くないのだろうか。
 見上げると、彼女は額にうっすらと汗をかいているだけで、他は涼しい顔をしていた。あまり、熱を感じない質なのかもしれない。
「あのー、ちょっといいですか?」
 見知らぬスーツ姿の男が声をかけてきたのは、そんなときだった。
スーツ、といっても最近はやりのクールビズ方式で、半袖ワイシャツに水玉模様の青色のネクタイが涼しげだった。
「はふっ?」
「なんですか?」
 僕と美空は同時に声をだした。男はやはり、美空の第一声に面喰ったのであろう、驚きが顔に現れた。
 しかし次の瞬間、彼の瞳は眩いばかりに輝き、身を乗り出してきた。
「あの、わたくし、こういうものなんですけどっ!」
 男は内ポケットから名刺入れを取り出すと、それを美空と僕に丁寧に手渡した。そこには聞いたこともない、けれど芸能事務所という肩書と、笹垣新(ささがきあらた)という名前が書かれていた。
「芸能事務所……」
 僕は男を見上げる。彼は、白い歯が特徴的な実にさわやかな笑顔で笑いながら、
「あの、芸能界に興味はありませんか?」

   ○

「園山美空さんですか。実に良い名前ですね」
 男に誘われるまま、僕達は喫茶店で腰かけていた。何でも好きなものを注文してという笹垣さんの言葉で、美空はチーズケーキとオレンジジュースを、僕は紅茶とパウンドケーキを注文していた。
 見ず知らずの人にごちそうになるのは気が引けるが、考えてみれば朝から何も食べておらず、ひどくお腹が空いていたのだ。
「失礼ですが、お歳は?」
「数えで二歳になりました」
「……それ、中学か高校の制服では?」
「いえ、これはコスプレです」
 美空は相変わらずニコニコしながら嘘を吐く。チーズケーキを手づかみで食べて、オレンジジュースのストローに口をつけ息を吹きかけてもいた。
 そんな常識外れの言動や行動に、笹垣さんは怒らない。どころか興味深そうに美空を見つめていた。正直いって、スカウト詐欺じゃないだろうかと疑う気持ちも多くある。けれどそんな様子を見てると、あまり嘘とは思えない。
「えっと、こちらは弟さんですか? お姉ちゃんとお買いものかな? 仲が良いね」
 と、笹塚さんが少しだけ身を屈めて、僕に話しかけてきた。
「姉弟じゃないです」
「そうなんだよっ。あたし達、姉弟でお買いものなんだー」
 僕と美空がほとんど同時に声をだす。
「本当に姉弟じゃないですよ」
「コー君はあたしと違って賢い弟で、いつも助かってるの」
 笹塚さんは苦笑した。もう、何が本当で何が嘘なのかさっぱり分からないのではないだろうか。
「ええと、それで美空ちゃん、芸能人になりたいとかそんな風に思ったことないかな?」
「火星人になりたいと思ったことならあります」
「……君ならきっと、二年以内にトップタレントになれるよ。演技や歌の実力しだいで、たくさんの幅だってあると思うな」
「われわれの星は水という資源がことのほか豊富ですが、どうやら彼らの星はそうではないようなのです」
 かみ合わない会話をしばらく続けた。たくさんの時間が失われ、笹垣はちらちらと時計を気にしていた。でも、美空は喋りつづける。
「笹垣さん、お時間大丈夫ですか?」
 僕はたまらず声をかけた。彼は助かったといわんばかりに満面の笑みで僕をみる。
「すいません、約束がそろそろ」
「あ、うん。あらたんバイバーイ」
 笹垣さんは苦笑しながら、
「親御さんとも相談してみて、興味があれば是非電話してください」
 丁寧に頭を下げ、伝票をもって立ち上がって行ってしまった。
「親御さん」
 美空は、ぽつりと、心中に油を一滴落としたような奇妙な不和を感じる声をだした。
「美空?」
「コー君。あたし、行きたいところ思い出したかも」
 残ったチーズケーキとオレンジジュースをパッパと口に含み、美空は立ち上がった。
 僕の紅茶はもう空で、パウンドケーキも食べ終えていた。視線がどこかに向かう。それを辿ると、店内の掛け時計で、もう一二時近い時間だった。
「どこに行くの?」
「レストラン」

   ○

 美空はブレザー制服のポケットから、プリントアウトした一枚の紙をとりだした。
 それを見ながら、彼女は歩く。僕とはまた手をつないでいた。時間も正午となると、渋谷の人通りは洒落にならないくらいたくさんの人であふれている。
「んーと、えーと」
「美空、大丈夫?」
「た、たぶん……」
 結局なんどか道行く人に場所をたずねて、僕達は美空の目的地であるレストランに到着した。さすが東京といった感じの、お洒落で落ち着いた様子の外観だったが、ラフな格好の人達が出入りしている。
 手軽に食べられる高級風のお店、というコンセプトなのかもしれなかった。
「コー君、入ろう」
「……美空、お金大丈夫?」
「へーきへーき。いざとなったらお水だけ飲んで帰ろうよ」
 美空ならそれも出来るだろう。僕は正直そんな恥ずかしい真似はしたくなかったが、美空に良くしてもらった身で、だから入りたくないなどとはいえない。
 扉を開き店内に入ると、実に丁寧に「いらっしゃいませ、二名様でしょうか」と、折り目正しい制服姿の店員さんが頭を下げた。
「……美空?」
 店員さんの問いに、美空は答えない。辺りをきょろきょろと見まわしている。そして、ある一か所に目を止めると、勝手に歩いて行ってしまう。
「ちょっと美空?」
 美空についていく。彼女は一体何がしたいのだろう。
「あれ? 透くん?」
 聞き覚えのある声がふいに耳に届いた。
 振り返ると、風早亜子がそこにいた。
 足の長い椅子に腰かけて、余所行き用だと思われる、上品な赤いドレス風のワンピースを身にまとっていた。彼女の横には母さんがいうところの亜子ちゃんのママであろう人物が座っていて、こちらもじつに品の良い服装をしている。
 なるほど、これが彼女のママかと至極納得できるぐらい、似た雰囲気のある美人さんだった。
「あらお友達?」
「あ、うん。塩田原透くん」
「まあ。塩田原さん家の子? 夏帆ちゃんのお兄ちゃんね」
 亜子のママは、にっこりと実に優しそうな笑みで僕を見た。
「塩田原さんも来ているのかしら? ごあいさつしたいわ」
 僕はふるふると首を振った。それから、あまり瞳を動かさないようにして美空を探した。けれど、どこにも見当たらない。
「え。まさか、一人?」
「ち、違います」
「そうよね、一人のわけないものね」
 心臓が高鳴る。
 まさか、こんなところで知り合いに会ってしまうなんて。
 もしもこの人から、お母さんに話が伝わってしまったら……。絶対にお母さんには言わないでくださいなどと頼むことは、愚の骨頂だ。だから、ここはなるたけ自然に……。僕のことなど、記憶から消えてしまうぐらい自然に……。
「あれ? その子は誰だい?」
 ふいに声がした。顔を上げると、ハンカチで手を拭きながらこちらの席に向かってくる男と目があった。ハンカチを拭う右の手には、銀の指輪が光っている。
 ハンサムな顔立ちの、三十代中頃に見える、背の高い男だ。目鼻立ちがはっきりしており、涼しげな眼もとが印象的だった。
「ああ、茂(しげる)さん。あのね、亜子のお友達らしいの」
「へえ、亜子ちゃんの。よろしく」
 男は微笑んだ。僕はぺこりと頭を下げた。
「どうだい、亜子ちゃんって、学校ではどんな感じなのかな?」
「茂さん、やめてよ」
 亜子が照れ隠しのような声をだす。
「いいじゃないか、気になるし」
「え、ええと。……人気者ですよ」
「人気者」
 男は口笛を吹くように、こちらの言葉を繰り返した。表情は笑顔だった。けれど、なんだか嫌味な感じがする。あまり好きになれそうな感じではなかった。
「やっぱり、可愛いもんね」
「し、茂さんってば。も、もう、ママも何かいってよー」
「ふふ。いいじゃない」
 亜子のママは実に楽しそうに笑う。笑い方が、亜子にそっくりだった。
 僕は、一歩後退した。ここが好機だ。
「あの、僕はそろそろ失礼しますね」
「あ、うん。気を付けてね。塩田原さんによろしく」
「透くん、ばいばい」
「さようなら」
 三人から別れの言葉を受け取り、僕は歩き出した。店内に美空の姿を探す。迷っていると先ほど挨拶をしてくれた店員さんがよってきて、「お連れの方なら先ほど外に出て行かれましたよ」と嫌味のない笑顔で伝えてくれた。
御礼をいって、僕は外に出る。
 美空は左足に体重をかけて立っており、僕を見つけると手を振った。
「美空、どうしたんだよ?」
「あ、うん。メニューをみたらね、もうびっくりするほど高いの! ごめんねコー君」
 ニコニコしながら美空がいう。
 けれど、どこかに違和感を覚える。
 それが何なのかはっきりとは分からないが、けれど確かに違和感であると、そう感じることができるぶよぶよとした何か。そんな気持ちの悪い膜を、美空はうっすらと身にまとっていた。
「……そろそろ帰ろうか」
 美空がいう。今の時間から帰れば、三時のおやつまでには我が家に行きつくことが出来るだろう。
「そうだね、帰ろうか」
 僕は頷いた。この場ではそういうことだけが、唯一美空にとっての救いであるような、そんな気がした。

   ○

 電車のなか、美空は眠っていた。僕の隣に腰かけて、僕の肩に頭をのせて眠っていた。
 正直、重い。
 けれど美空を揺り起こす気にもなれなかった僕は、ひたすらに耳を集中させて、電車に乗るまえ美空に聞いた駅名を、聞き逃すまいと張り詰めていた。
 美空の髪からは、安っぽいシャンプーの臭いがした。女の人ってそういえば、香水なんかをつけるんじゃないだろうか、なんて僕は考えた。思えば美空には、化粧をしているそぶりすら見えない。嫌いなのだろうか。
「美空、美空」
「ん。んー」
 乗換だ。僕は美空を揺り起こした。美空はゆっくりと起きあがると、大きく伸びをする。
 電車を降りるとき、彼女は網棚に置いた中華鍋を忘れそうになった。
 僕が指摘して、ことなきを得た。
 次に乗る電車を待つ間、僕らはしりとりをしていた。ただのしりとりじゃつまらないので、動物の名前限定だ。
「ねこ」
 美空がいう。僕は「こあら」と返した。そんなやり取りがしばらく続いて、電車がやってきた。次の乗換でも同じようなことをして、僕達はようやく、もとの街へと帰ってきた。
「……コー君、あたし、アイドルになってみようかなぁ」
 美空がぽつりとそんなことをいったのは、見慣れたシャッター商店街の通りを歩いているときだった。丁度、僕が雨宿りをして、美空と出会った場所が見える。
「やりたいの?」
「んー。なんていうか、楽しそうじゃん。それに、すごくない? アイドルだよ、アイドル」
「確かに、すごいかもしれない」
「だよねっ。ふなー。美味しい料理も、食べられるかも」
「太ったらクビだよ」
「むちー」
 美空がアイドル。想像は、うまく出来た。不思議系だ。絶対。
「ん? ん? ん? あれ、チカチカ?」
「え」
 急に、美空が妙な言葉を口走った。その視線を辿ると、眩しいぐらい足を露出した、若い女の人がいた。二十代前半ぐらいの歳に見える。
「わぁ、チカチカだー! ひさしぶりー! ねえ、元気だった? 元気だった?」
 女の人が、顔を上げて美空と目を合わす。表情に、明らかな戸惑いの色が映った。
「ま、まあね。その……美空(みそら)はどうだった?」
「あたし? あたしはちょー最悪だったよ!」
「…………」
 チカチカ、と呼ばれた女の人は、駆け寄ってきた美空をまるで避けるように少し身体を動かした。それから僕のほうを見て、
「あれ? 弟なんていたっけ?」
「あ、その子ね、誘拐ちゅーなの。内緒にしてね?」
「……そ、そうなんだ」
「違いますよ」
「あ、ねえねえチカチカ、今から一緒に遊ばない?」
「えっと、ごめんね美空、私そろそろ行かなくちゃ。これからバイトの面接なんだ」
「あ、うんそっか。じゃあ、また今度遊ぼうよ! 電話していい?」
「…………う、うん。じゃあね」
 チカチカさんは、気まずそうな顔で頷くと、足早に去って行った。バイトの面接、といっていたがどこかに遊びに行くような服装にしか見えない。
 美空は相変わらずニコニコしながら、
「懐かしい友達なんだー。嬉しいなー……」
 と笑っている。でもどこか、寂しそうな気がした。
 僕は彼女達がほんとうに親しい間柄であるとはとても思えず、なんだかいたたまれない気持ちで隣を歩き続けていた。
「……そうだ、コー君、今からウチに来ない?」
「え?」
「あ、予定がある?」
「そんなことはないけど」
 僕は迷った。
 朝からずっと姿が見えないとなれば、やはり多少の心配はするだろうか。『散歩に行ってきます』と書置きは確かに残してある。しかしその紙の効力が残っているのは、果たして何時ごろまでなのだろう。
 ふと、美空の横顔を覗く。彼女は相変わらず笑顔だった。しかし、瞳の奥が笑っていない。先ほどの陰りを残して、寂しそうに光っている。
 僕の心の中の天秤は、それで一気に傾いてしまった。
「行くよ。考えてみれば、お昼も食べ損ねてるしね。ご飯をつくるよ」
「ほんとに!」
 美空は、一瞬で笑顔になった。いままでも笑顔だったけれど、それとは質が違うとでも言えばいいのだろうか、とにかく、曇りのない透明な笑顔だった。

   ○

 美空の家を一言でいうなら、ちょっと高そうなアパートだった。出来て間もないのであろう、綺麗なレンガ風の壁が特徴的だ。
「えーと」
 美空は自分の家なのであろう、一階の一番右端の扉に立って、ひょいとその近くに置いてあった植木鉢を持ち上げた。鍵が置いてあった。
 不用心だ。不用心すぎる。
 僕は美空の家のセキュリティに驚愕しつつ、「どうぞ」と彼女が開いてくれた玄関扉をくぐる。彼女はまた、鍵を植木鉢のしたに戻していた。
「おじゃまします」
 靴を脱いで部屋に上がる。手洗いうがいをした後、美空がすぐにキッチンに案内してくれたが、冷蔵庫の扉を開けると食材がほとんど入っていなかった。
けれど、食品を買い足すのも申し訳がない。
「何が出来るかな? 何が出来るかな?」
 某有名お昼番組の節をつけながら美空がいう。
「パスタ」
 と僕は答えた。実際、それぐらいならなんとかなりそうだ。
僕は美空に大方の調理道具の場所を教えてもらって、調理を開始した。足元は背が届かなかったため、椅子を借りて踏み台にする。
 まずは、お鍋(パスタ鍋ではなく、普通の鍋だ。これでも十分にこと足りる)に水を入れて、火にかけた。沸騰するまでの間に僕は、冷蔵庫に残っていた白菜とウインナーを切り、それからフライパンにバターを入れて溶かし始める。
 ホワイトソース作りだ。
 溶けたバターに、小麦粉を大さじで適当に量りいれて、焦げないように木べらで炒める。良い頃合いになってから、牛乳を加えて、さいばしでぐるぐるとかき混ぜた。
 その間にお湯が沸騰したので、ひとつまみの塩を入れた後、二人分のパスタ(僕は少な目だ)を鍋に入れた。
 キッチンタイマーはないというので、壁時計で時間をはかる。
 見逃さないようにしなければならない。
 僕は肝に銘じながら、白菜とウインナーをホワイトソースの中にいれた。煮込む。途中で、コンソメと塩コショウで味つけをした。
 壁時計で大まかに九分をはかり終え、僕は美空を呼び寄せた。
「美空、パスタをざるに移してくれる?」
「りょーけー」
 べこ、べこっと、流し台がへこむ音がする。美空はパスタをざるに移し終えると、勝手に水切りならぬお湯切りを始めた。
僕が止めに入る前に案の定、美空はパスタを数本零した。
 美空を厨房から追い出して、僕はゆで上がったパスタをホワイトソースのフライパンにこれまたつっこんだ。かき混ぜる。数分たって、ありものでつくったクリームスパゲッティが完成した。
「わ、わ。すごーい!」
 中央にあったガラス製の灰皿を脇に寄せ食卓に運ぶと、美空は眼を輝かせて手を合わせた。そして、いただきますもいわずにお皿の上に乗せて運んだフォークをつかんで、口に運んだ。
「おいしー! うわ、おいしーよ、コー君」
 僕は眼をそらした。
「よ、よかったね」
「うん!」
 ずるずると、まるで蕎麦をすするように美空はパスタを食べる。僕も手をつけた。久しぶりに、自分で作ったご飯。
 正直、少し味付けがおかしかった。使い慣れた調味料ではないので、感覚が狂ったのかもしれない。しかし、それを差し引いても実に美味しい食事だった。なによりも、美空の本当に嬉しそうな顔が、心にじわじわと広がっていた。
 誰かにご飯を食べてもらう、というか、母さんにご飯を食べてもらうことは好きだった。けれど、母さん以外に作ったことはこれまでない。なぜだろう。お義父さんや夏帆に料理をふるまうことに、ためらいを覚えてしまうのは。
 そして、なぜだろう。美空にご飯を作ろうと思えたのは。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
 ご飯を食べ終えて、美空は立ち上がって洗い物を始めた。
「手伝おうか?」
「いいよ。コー君は遊んでいて」
 そういわれても困る。
 他人の家を勝手に捜索する趣味はなかった。
「……そういえば美空は、ここに一人で住んでいるの?」
「うん。一人。だけど猫をかってるよ」
 そんな気配はまるでなかった。というか、確か……
「玄関に、男ものの靴があったと思うんだけど」
「あれはあたしのだよ。たまには、靴で気分を変えないとね」
「この灰皿は?」
「あたしが吸ってるよ。本当は二十六歳だから」
 美空になにかを聞いても無駄だろう。僕はごろんと横になった。なんだか、とても不思議な気分だった。
 今日は一日、そんな感じだ。
 すごく特別なことが起こったような気がする。美空とたまたま出会って、東京にいって、迷子になりかけて、ハチ公を見て、中華鍋を――
「あ」
「? どうしたの?」
「中華鍋、わすれてた」
「え?」
「いや、よく考えたら、家には置いておけないよなって……。お母さんにいい訳できない」
 僕は自分の考えのなさに呆れてしまった。
 しかし、美空はこともなげに、
「じゃあうちに置いておけばいいよ」
「大丈夫なの?」
「ここに置いて、必要ならもっていってもいいし、また、料理つくってよ!」
「う、うんっ」
 僕は思わず笑顔で言葉を返していた。
 それから美空とぽつぽつテレビを見ながら話しをして、過ごした。五時近くになり、僕は帰ることにした。
「コー君、また来てね」
「うん。ばいばい」
 僕は美空に手をふって、外にでた。まだまだ、太陽は明るかった。

   ○

 家に帰る途中に、僕は一人でいろいろなことを考えていた。お母さんにどういい訳をしようか、なんていうつまらない後ろ向きなことも、それから、次は美空に何を作ろうか、なんていう計画も。
「ただいま」
 家に帰る。どきどきしながら開いた玄関は、しかし誰も顔を出しはしなかった。
「にゃぁ」
 一匹の、猫以外は。
「……なんだこれ」
 僕は猫を見下ろす。突如家の中から玄関に現れたソイツは、黒と白の模様が入ったブチ猫だった。美空が触っていた猫とは、似ても似つかない。
「……」
 僕は不思議に思いながらも、家に上がった。リビングからかすかな話声が聞こえた気がして、近づいていった。そっと開いていた扉から、お母さんと、それからお義父さんの姿が見えた。
 猫のことを聞こう。
 そう思い扉に手をかけた瞬間――
「透には、ほんとにまいったわね。ぜんぜん帰ってこないわ」
 お母さんの呆れたトーンが聞こえてきた。
「あなたもそう思うでしょ?」
「そういうなよ。環境が変わって、いろいろ思うところもあるんだろう」
「そうかもしれないけど……。でも、夏帆ちゃんはずっとお利口だわ」
「あいつは、転校になれていたし、環境が変わることに耐性があるんだよ」
「でも、透だって、離婚したときに環境が変わったわよ。そのときは、料理も進んで作ってくれたりしたのに」
「そうだな……。おれの何がいけないんだろう」
「あなたは悪くないわよ。透がいけないの」
 めまいがした。
 ふらりとよろけた身体を、僕は壁で支える。リビングから離れて、キッチンのほうへ向かった。とにかく、なにか冷たいものでも飲みたかった。
「あ」
 なのに、夏帆と会ってしまった。いつものように、ぐずぐずと、もじもじとしながら、
「あのね、ね、猫。猫をね、お母さんにいってね、飼ってもいいよって」
「…………あそう」
「おに、……一緒に、世話しよ?」
「やだよ」
「ひっ」
 思った以上に怖い声がでた。夏帆は喉をつまらせ、ぶるぶるとまた泣く直前の様子になった。ああ、なにか弁明の言葉を吐かなければ。いつものように、少しでも優しく聞こえる言葉を。
 なのに。
 気がついたら、僕の右手は夏帆の頭を叩いていた。ぱぁんと、いっそ清々しいくらいの音が鳴り響く。
 夏帆は声をあげて泣き始めた。うわぁぁぁぁぁんと、見ているこちらが気の毒になるくらいの泣きっぷりだ。
 僕はそれを見て、ああうるさいなと思い、また手を振り上げていた。
「透! なにやってるの!」
 母さんの声がして、僕の右手が掴まれたのは、そんなときだ。振り向くと、血相をかえた母さんが立っていて、僕をきつい目つきで睨んでいた。
「夏帆に謝りなさい」
 母さんのいうとおりだ。どう考えても僕が悪い。明らかに。なのに全然謝りたくなくて、むしろ謝ってたまるもんかという理不尽な気持ちが芽生えていた。僕はそうして、母さんの手を振り払った。母さんは一瞬面喰ったような表情をして、次の瞬間には僕を叩いていた。
 涙がでそうになる。
 けれど堪えて、僕は自分の部屋へと駆け上がった。
「透! 透!」
 僕の部屋に、鍵はない。必死に内側から扉を引っ張った。けれどずるずると扉が開いていき、ついにはノブから手が離れてしまった。
 母さんの怖い顔が現れる。僕を冷めた目で見つめていた。
「何があったかしらないけど、こんな時間に帰ってきて、夏帆を泣かせて……っ。とにかく、謝りなさい」
「……ごめんなさい」
 ここまで追い詰められてしまって、僕にそれ以外の言葉があっただろうか。頭をさげてそういうと、顔を上げたとき、母さんはもう笑顔だった。
 作られた笑顔。
そのまま、母さんは続ける。
「私にいうだけじゃないでしょ?」
 僕は刑事さんに連行される容疑者よろしく、階下に連れて行かれた。そして、まだ泣きやまぬ、けれど大分静かな泣き方になった夏帆の前に立たされた。
「ごめんなさい」
 夏帆は一瞬きょとんとしたあと、けれどすぐに小さく微笑んだ。
僕達は全員でリビングに行った。お義父さんが、「喧嘩するほど仲が良い」云々と言葉を発し、お母さんがそれに笑って見せた。
 しばらくして、夕食が始まる。話題は主に猫のことだった。
 さっき玄関で見かけた猫は、どうやら『よもぎ』という名前がついて我が家の猫になったらしい。夏帆が拾って来たのだという。これから、トイレのしつけをしなければならないだとか、カンヅメを買って来たから後であげようだとか、妊娠させないために手術をしなければいけないだとか、そんなことを話していた。
 僕はその間中、大人しくしていて、ときたま頷いたり、適当なあいづちをうったりした。ご飯を口に含む。今日の晩飯は、肉じゃがとおみそ汁とご飯とほうれん草の添え物だった。けれど、味をほとんど感じない。空気を噛んでいるようだった。
「ごちそうさま」
「あら、もう食べないの?」
「うん。ちょっと、具合が悪い気がする」
「じゃあ、今日は薬を飲んで早く寝なさい」
「薬はいいよ。そこまでじゃないから。でも、早く寝るね」
「気をつけろよ透。風邪はひき始めが肝心だからな」
「だ、だよ」
「わかった」
 僕は立ち上がって、歯を磨いてから自室に入り、横になった。そういえば、一言日記をまだ書いていない。僕は文面を考える。
『美空と東京に行きました。記念に中華鍋を買ってもらって、嬉しかったです。帰った後美空の家によって僕がご飯を作って二人で食べました。とても、とても美味しかったです』
 一行では足りないであろう、けれど僕が書きたいことがすらすらと出てきた。
 けれど、それを差し引いたところで、この話題を日記に書くわけには行かない。内緒なのだ、この出来事は。僕の心のなかだけにそっとしまって、ふたをしておくべきことなのだ。
 あれだけ楽しかったのに。
 あれだけ嬉しかったのに。
 僕は起き上がって、日記帳をとりだした。走らせたのは、至極どうでもいい話題。

『 7月25日 天気・晴れ
   今日、我が家に猫がやって来ました。妹が拾ってきて、名前はよもぎといいます。 』

 第三章・ひとごろし

 七月二十六日の目覚めは、最悪だった。
 人を殺す夢を僕は見ていた。微かに輪郭だけが見える暗闇の中、僕はまず相手にまたがり首をしめにかかる。けれど相手はもがくだけで死ななくって、またがったまま手を伸ばし僕はバットを手に取った。
 それで、殴る。
 ぐにゃりと気味の悪い感覚がして、けれど僕は再び相手を殴る。
 そんな夢だ。
 目が覚めたとき、それが夢であることにほっとして、僕は息をついた。寝汗をびっしょりと掻いていて、とにかく気持ちが悪かった。
「……シャワーをあびようかな」
 ぼおっとしたままそんな思考に辿りつき、着替えを選んで僕は階段を下りた。母さんが廊下にいたので、「おはよう」と僕はいった。
「透、殺しだって!」
 しかし帰ってきたのは穏やかな朝の挨拶ではなく、物騒な言葉だった。しかも、思わずどきりとする言葉。ひとごろしの映像が脳裏をよぎった。
「良く分からないけどね、大変みたい。物騒になったわね」
「猫?」
「ううん、それもいたらしいんだけど、人間」
 息がつまった。自然と、「え」と声がもれる。人間。
「殺されたといっても、まだ分からないらしいんだけど。死体は見つかってないらしいし。血液が致死量とかで……って、こんな話、透にすることじゃないわね。とにかく、気をつけて」
「う、うん。わかった」
 正直、詳しく聞きたい気持ちもあったが、僕はこくこくと頷いた。
母さんは、まるでこの大事件を私が解決しなければいけない、とでもいうような妙な迫力で、「ご近所さんにも知らせてくるね」と家を飛び出していく。
それにしても、母さんはどこから情報を仕入れたのだろう。僕が不思議に思っていると、お義父さんがやってきた。
「透、おはよう。聞いたか?」
「あ、うん」
「さっき、刑事さんが来たんだよ。聞き込みとかで」
「え。こんな早い時間から?」
「早いって……。もう十時だぞ」
 僕はその言葉に、弾かれたようにリビングに向かった。リモコンを操作し、ニュース番組がついていたテレビを切り替える。すると、毎週かかさず見ていたアニメの、聞きなれたエンディングテーマが流れていた。時刻は、九時五十四分。僕はがっくりと肩を落とした。
 まさか、休みの日にこんなにも寝過ごしてしまうなんて。昨日、美空とはしゃぎすぎて疲れがたまっていたのだろうか。それとも……。
「ああ、アニメ、見逃しちゃったな」
「うん」
 僕はお義父さんにそれだけ返して、リビングから出た。
丁度リビングに入ろうとしたのであろう、夏帆と顔を合わせる。僕は思わず身じろいだ。バクバクと、心臓が嫌な音を立てる。
「あ、あの」
「見てない」
 僕は走り出した。「ちょっと雅夫のところに行ってくる!」と大声で言って、外に飛び出す。飛び出したあと、自分がパジャマだったことに気がついた。
あわてて戻る。
 だから、また夏帆と目を合わせてしまった。
「あ、あの、ね」
 僕は風呂場に向かった。「ごめんね、ちょっと着替えるから」といって、鍵をかけた。最後に見えた夏帆の顔は、寂しそうだったけれど、泣きだしそうではなかった。
 シャワーを浴びようか。
 少しだけそう考えたが、僕は結局タオルで身体を拭くだけにとどめて、汗だらけのパジャマを洗濯機に放り込み、用意した服に着替えた。水色のシャツと、緑色のズボン。そうして着替え終わった後、ようやく出かけることにした。
 目的地は、雅夫の家。
 何故だかいまは、あのグローブを僕のそばに置いておきたかったのだ。たとえ、昔のものと違ったって、そばに。
 雅夫の家に向かう間、街はいつもより少しだけ騒々しかった。雰囲気が違う。ところどころで、『殺人』というワードが飛び出して、僕をぎょっとさせる。びくびくしながら、僕はようやく雅夫の家に着いた。
「あ、透。遊びなら今日は無理」
「い、いや、あのさ、悪いんだけどいつかのグローブ、預かってもらったままだっただろ?」
 僕が切り出すと、雅夫はしばらく遠い目をしていた。それから急に、あっと閃いた顔をして、「ちょっと待って」といい残して家の中へと消えてしまった。
 やがて、見慣れたグローブ袋とともに雅夫が戻ってくる。
「はいこれ。たく、あの時はお前どーしたんだよ、みんなびっくりしてたぞ」
「ご、ごめん」
「まあ、勝ったから良いけど。次は突然帰ったりするなよな」
「わかった。あと、今度何か奢るよ」
「まじで!? やった」
 雅夫は渋顔を一気に明るくさせた。
 単純なのは、雅夫の良いところだ。それから、雅夫と少しだけ立ち話をした。今日のアニメの話になり、僕が見逃したというと、きっと雅夫は親切のつもりなのであろう、そのあらすじを語りだした。どわーんだとか、ぐぁーんだとか、擬音が多く分かりにくかった。ただ、大きな動きのない回だったことだけは分かったので、ほっと息をつく。
「じゃあな」
「うん、ばいばい」
 雅夫と別れて、僕はグローブを抱えていた。ギュッと力を入れてそれを抱えていると、なんだか不思議と元気が湧いてくる気がした。
 また、映像がよぎる。人殺しの映像だ。
 けれど僕は、さっきよりもずっとずっと冷静にそれをとらえることが出来た。もちろん、怖くて気味が悪いのだけれど。
「……美空」
 なぜか、つぶやいてしまった。
 今から、美空の家に行ってみようか。僕は真剣にその行動を考えていた。頭の中に天秤を取り出す。
 メリット。
 美空に会える。
 デメリット。
 急にたずねたら迷惑かもしれない。
 そこまで考えて、僕は今まで美空に受けた様々な急なことを思い出した。相手が急ならば、こっちだって急でいいじゃないか。
「美空に味噌汁を作ろう」
 僕はそう決心して、昨日たどった道を思い出しながら、ときどき迷いながら、彼女のアパートに向かった。数十分して確信のもてる通りに入り、僕は美空のアパートに辿りついた。
 一階の一番右端、そのインターフォンを恐る恐る指先で触る。来客を告げる電子音がかすかに耳に届く。しかし、扉の奥からは何の物音も聞こえなかった。
「……留守か」
 僕はそれでも、しばらくその玄関の前で美空のことを待っていた。しかし彼女も、ひょっとしたら彼女と住んでいるのかもしれない男も、誰も現れはしなかった。しかたなく僕はその場を離れることにした。美空がいる場所に心当たりなどない。けれど、どうしても彼女に会いたくなってしまって、僕は街中を歩き回った。
 僕はずっと、胸に重苦しい何かを抱えていた。
 グローブじゃ、たりない。
 僕の気持ちを受け止めきれない。
 いつかの雨宿りの場所、彼女が寝転がっていたバス停、猫と遊んでいた道路、単線の地元の駅。一度でも美空と会えた場所、一緒にいた場所を、僕は順繰りに回っていった。
 なのに、園山美空の姿は見当たらない。
 夕方になっても見つからなくて、僕はグローブを胸に抱いたまま、家に帰った。
「おかえり、野球をしてきたの?」と、母さんがいう。
「物騒なんだから、もっと早く帰って来なくちゃダメよ」
「うん」
 僕は頷いた。
「あ、の」
 と、夏帆が近づいてきて、僕の服の裾をつかんだ。
「よもぎ、見なかった?」
「見てない」
「夏帆、もう諦めなさい。もともと野良猫だったんだから、きっと、お家が慣れなかったのよ」
 母さんが優しく声をかける。夏帆は少しふてくされたような顔をした。いつものように、晩ご飯が始まる。
 僕はまた、具合が悪いといって早めに食事を終えて、部屋に戻った。一行日記にアニメを見逃したことを書いて、タオルケットにくるまる。
 また、怖い夢を見るかもしれない。そう思うと脳は休むことをなかなかしようとはしなかったが、やがて、僕はいつの間にか眠っていた。

   ○

 翌日は、いつも通りに目が覚めた。今日は、ラジオ体操がある。僕は着替えてから、外に出た。待ち合わせ場所の開館前に行くと、まだ誰もいなかった。いつも僕よりさきに来ていた、風早亜子も。
 ひょっとしたら、殺人事件の影響で、ラジオ体操は中止になったのだろうか? そんな考えが頭をよぎったが、やがてぽつりぽつりと人が集まり始めた。
子供たちの中に、殺人事件や殺猫事件の話をしているものは少なく、また日曜日のアニメの話だとか、これから旅行にでかけるだとか、宿題を進めているかだとか、至極子供らしいまっとうな会話をしていた。
 その光景に、少しだけ安心する。
 そして、夏帆もそのうちにやってきて、だけど亜子が来ないまま、ラジオ体操が始まった。身体を動かしていると、それ以外のことが脳内から消えていく。僕は珍しく、かなり全力に近い動きをラジオ体操についやした。スタンプが増えたラジオ体操カードを受け取る。
 僕は家に帰った。玄関を開けると、青い顔をしながら受話器をにぎり、「うん、うん」と頷いている母さんが見えた。
 何の話をしているのだろう。
母さんはがちゃんと電話を切ると、僕を見つけて重い声でおかえりといった。
「透、驚かないで聞いて欲しいんだけど」
「なあに?」
「亜子ちゃんのお母さんね、亡くなったって……」
「え――」
 言葉がでなかった。いつか東京のレストランで見た、亜子とよく似たかわいらしい笑顔が脳裏をよぎる。
「え…………と、亡くなったって、亡くなった?」
「うん。例の殺人事件ね、亜子ちゃんのママが被害者だったのよ」
 そこからのお母さんの話をまとめると、致死量と思われる大量の血液が見つかったとき、近くに財布も落ちていた。その時点で風早眞子(まこ)という名前はあがっていたが、一般には伏せられていた。そこからの捜索によって、どうやら川に死体が上がったらしい。その死体が検死の結果、風早眞子であるという結論にいたったのだという。
「……亜子ちゃん、これから大変ね。亜子ちゃんママも、これからってときに……」
 母さんが、悲しそうな声で呟く。僕は胸の奥が締めつけられて、あたりかまわずどこかになにかをぶん投げたい気持ちになっていた。
 頭が揺れる。僕は誰かにいま抱えているものを、すべて吐露してしまいたいと思った。美空。園山美空。
僕は彼女に会いたかった。
「……お母さん」
「なあに?」
「ちょっと、外に行ってくるね」
「……気をつけて」
 こくりと頷いて、僕は外にでた。初夏の太陽がきらきらと輝く。僕は無性にその太陽さえもうとましく思った。おもりを引きづるように、重い足取りで歩いていく。途中で吐き気がしたが、ぐっとこらえて歩き続けた。
「美空ぁ!」
 名前を叫ぶ。
道行く人の何人かが、びくりとこちらを振り返って驚く。けれどそんなことを気にしていられる心境ですらなくて、僕は何度も彼女の名前を呼んだ。
 けれど、園山美空はスーパーマンじゃない。名前を呼んだからといって、現れるわけがないのだ。
「……? どうしたの僕、迷子かな?」
「ちょ、先輩。そんなことしてる暇あります?」
「ばーかッ。市民の安全を守ってこその警察官だろうが」
 二人組の男に声をかけられたのは、そんな時だった。
 警察官。
 僕は思わずたじろいでしまった。
 男たちは、いわゆる制服警官ではないが、スーツ姿で、テレビドラマで見るような刑事さんに似ている。警察官といわれれば、確かにそうかもしれないと思う服装だった。
 先輩、と呼ばれた刑事が、しゃがんで僕と目線を合わせ、ニッと笑いかける。目元の泣きぼくろが特徴的な、若い男の人だった。先輩、とよびかけたほうは恐らく後輩なのだろうが、この男より若くは見えない。お腹もでていた。
「ま、ま、迷子じゃありません」
「違うのか?」
「は、はい。た、ただのかくれんぼでして」
 僕がしどろもどろにいい訳すると、男は再びニッと笑って、僕の頭にぽんと手を置いた。そのままワシャワシャとなでられる。髪が乱れた。
「気をつけて遊ぶんだぞ僕。外で遊ぶのは良いことだが、最近は物騒だからな」
「は、はい」
「じゃ、行きましょ三鷹(みたか)先輩」
 二人組の男たちは、そしてどこかへ行ってしまった。僕はその背中を震えながら見送り、家に帰ることにした。

   ○

 僕はいつもどおりに(亜子はあれから一度もラジオ体操に来なかったが)、適当に友達と話したり、適当に家族と話したり、適当に小説を読んだりして日々を過ごした。
 殺人事件という、非日常な恐怖に支配されていた感情も、徐々に朧になっていき、何も起こってなど無かったのではという、奇妙な錯覚におそわれていた。
 それでもたまに、殺人事件の話題がぽろりと飛び出したり、夏帆がいなくなった『よもぎ』を心配する言葉をつぶやいたり、そんなことがあるたびに、僕は激しく胸中を引っ掻き回された。
 そんなとき、僕はまた美空を探しに行く。けれど、彼女とはあの東京での出来事があった日以来、一度も会えてはいなかった。
 そして、四日後。七月の終わり。
 司法解剖が終わり、亜子ちゃんのママ――風早眞子のお通夜の日がやってきた。
「透―! 準備できた?」
 お母さんは、真っ黒い半袖のワンピースを身に着け僕の部屋へとやってきた。顔色は悪く、僕の部屋で一度、額の傷をいやすように頭に手をやった。
僕は葬儀用の服というものがなく、黒いTシャツと地味な色のパンツで、それらしくまとめただけだ。少し不恰好な気がした。
お通夜に参加するのは、僕とお母さんだけだ。夏帆とお義父さんは、二人で買い物をしてから、軽いものでも食べに行くらしく、夕方から出かけている。
「大丈夫だよ」
 僕はうなずいて立ち上がった。

   ○

 お通夜に参列するのは、ひいおじいちゃんの葬式以来だった。そのときは親族だけのとりおこないで、暗い雰囲気など微塵もなく、遠方から久しぶりに集まった懐かしさからか、会話がよく弾んだ。
 頑張ったね、そんな言葉が何度もひいおじいちゃんにかけられ、悔やむ顔や悲しい顔をしているものなど皆無だった。
 いままで描いていた葬式とのギャップに、ひどく驚いたものだ。葬式、悪くないじゃん。美味しいものも食べられるし。
 しかし今回の葬式は、それとはまるで別のものだった。
僕がいままで描いていた葬式そのもので、そこら中に黒いもやや、青い吐息がのしかかっていた。
「透くん、来てくれたんだ……」
「あ、うん」
 お母さんが受付をしているとき、亜子がすぅっと僕に近寄ってきた。黒いワンピースを身にまとった、久しぶりに見る彼女の顔はやつれている。しかし、表情にはかすかな笑みを浮かべていた。
 僕はかけるべき言葉を探して、しばらく宙に視線をたぐらせる。けれど結局なにも思いつかなくて、「元気出して」と他愛もない言葉をいってしまった。
「ありがとう」
 亜子は小首をかしげながらそう返してくれた。僕は思わず息を飲む。
「透、いくよ」
 母さんの声。僕は亜子に軽く頭を下げて、ついていった。どこかの和室に連れられて、母さんが腰を下ろす。その隣に座った。もちろん、正座だ。
「透、焼香……お線香みたいなものね。それをあげるから、前の人の様子をみて覚えてね」
「うん」
 ひいおじいちゃんのときにやったけれど、記憶はおぼろげだった。たしかに母さんのいう通りにしたほうが良いだろう。
 僕は足のしびれを感じ始めていた。
 そんな中、続々と参列者が部屋に入ってきて、腰を下ろす。クラスメイトも何人かいて、僕は目礼をした。見覚えのあるいつかの刑事さん達が見えたときは、首をすくめた。
 そして。
「――え?」
 参列者の中に、僕は美空の姿を見つけた。お母さんが身にまとっているような、黒いワンピースを着ていて、手首には数珠をつけていた。
 そして、彼女の隣にはいつか見た男が歩いていた。
 亜子と、亜子のお母さんと、東京で食事をしていた男だ。
 開いた口がふさがらなかった。金槌で頭を思い切り殴られたような、衝撃。どうしてあの男が、美空と一緒に歩いている?
 と。
 ふいに美空と目が合った。美空は、一瞬大きく瞳を開いて、それから声をださずに口を動かした。
『コー君』
 そう聞こえた。僕も同じようにして、『美空』と呟いた。彼女はにっこりとほほ笑んで、何事もなかったかのように、正座した男の隣に腰を下ろした。
 しばらく待って、僧侶さんがやってきた。読経が始まる。それと同時に焼香の時間もやってきて、僕はいわれた通り、観察して作法を覚えた。
 順番になり前に出て、なにか葉っぱのようなものを指でつまみ、額まで持ち上げて軽く頭を下げ、そっと器に落とし、それを三回繰り返した。
 顔を上げ、遺影を見る。
笑顔の写真だった。やはり、亜子に良く似ていた。
 合掌。
 僧侶さんと、それから亜子のほうに一礼をして、席に戻った。途中、美空と男の横を通った。足が震え、僕は無様にも転んでしまいそうになった。美空は僕を心配そうな顔で見つめていた。男は僕に無関心だった。
 ほっと息をつき、母さんの隣に腰を下ろす。僕はもう、何を信じていいのか分からずに、ただお経に耳を傾けていた。

   ○

 刑事さん達が我が家にやって来たのは、翌日のことだった。
「すいません、ちょっとよろしいですか?」
 人あたりの良い笑顔と共に、彼らはお母さんに警察手帳をとりだした。
僕は丁度キッチンから廊下にでたところで、そっとその様子をうかがっていた。刑事はいつか見た、三鷹刑事とその後輩だ。
「あら、またですか?」
 母さんがいぶかしげな、けれど興味深そうな声をだす。
「聞き込み調査なら、この間も話した通り、何も見ていませんけど」
「いえ、今日はね、お宅の猫のことなんです」
 三鷹刑事が、内ポケットから何かを取り出す。それは、『よもぎ』の写真だった。心臓が小さな音を立てる。
「あ、これ……『よもぎ』?」
「ああ、やはりお宅の猫ちゃんでしたか。いやね、あの日、あなたの家の娘さん、夏帆ちゃんていうんですか、彼女がこの猫を連れて帰るところを見たって人がいましてね」
「は、はあ。それで、どうかしたんですか?」
「大変申し上げにくいことなんですが」
 三鷹刑事が、声をひそめていう。
「この猫、亡くなりましてね」
「え――?」
「たぶん、例の殺猫鬼っていうんですか、この辺に出没していた。あれの仕業だと思うんですけどね」
「は、はあ……」
 呆然とした声を、母さんはだした。
「でも、そうじゃないかもしれない可能性もありまして」
「え?」
「ほら、この近くで殺人事件があったじゃないですか。実はこの猫が殺されたの、それとまったく同じ日なんですよ。だから、事件と何か繋がりがあるんじゃないかって、こうして調べているわけなんです」
「そう、なんですか」
「ひょっとしたら、殺猫鬼が、殺人犯を目撃してる、なーんてこともあると思いましてねえ。こちらの線から捜査をしろって、上からのお達しなんですよ」
「ちょ、三鷹先輩。余計なこと言わないでくださいよ!」
「いいだろ別にこんぐらい」
 僕はその場にうずくまった。そして、よもぎはまだうちに来たばかりで、だとか、母さんのいい訳めいた言葉を聞いていた。
 心臓が高鳴る。いますぐに、僕は誰かに伝えたかった。

 僕がやったんだ! 僕が猫を殺したんだ!

 けれど、もう、だれもいない。
 こんな気持ちを、こんな告白を、伝えられる人なんて一人もいない。
 顔を膝にあて、僕はついに泣きだした。声が出ないように、頑張って泣いた。自分の気持ちがうまく言葉に出来ないもどかしさを、僕は常に感じているけれど、今このときはその思いだけで胸が張り裂けそうだった。
 頭を掻きむしる。頭皮がひりひりと痛くなるまで僕はそれを続けていた。やがて、刑事さん達の挨拶と、扉が閉まる音がして、母さんが顔をだした。
「あんた、なにやってんの?」
「なんでもない!」
 ぎょっとした顔をされた。僕は弾かれたように立ち上がり、駆け出した。外に出る。
 時刻はまだ、お昼にもなっていない。僕は闇雲に走りまわり、歩きまわり、あてもなく街をさまよい続けた。
歩きながら、また涙が零れていた。
 そして、気がついたとき、僕はいつの間にか美空のアパートの前にいた。
「……美空」
「はいはーい‼ なにかな、コー君?」
 背後から声がした。驚き振り向くと、僕が再来年通う中学校の冬服セーラーを身にまとった、園山美空が立っていた。長い茶色の髪の毛と、紺のセーラー服が、不思議な調和を保っている。足には、黒いタイツをまとっていた。
「……美空」
「はいはーい‼ はいはーい‼」
 伝えたいことがたくさんあった。
 話したいことがたくさんあった。
 でも、それらの言葉は音となって飛び出す前に、あの悪夢のような映像が頭をよぎって、僕の喉をしめる。
 美空を信用したいと思う。
 美空は味方だと思う。
 だけど、そんな曖昧な感覚にたよって判断をあやまることは、さすがの僕でもしたくはなかった。
「なんで中学の制服なわけ」
 結局僕の口をついたのは、文句のような言葉だった。
「んー。だって美空、一四歳だもん。中二病だもん」
「この間は高校の制服着てたのに」
「コー君。女の人の年齢は、気にしちゃいけないよ?」
 僕はいままで美空が名乗った年齢を順繰りに考えてみた。たしか八歳、二歳、二十六歳、十四歳。どれもが違うような気がする。ていうか違う。絶対、違う。とくに二歳。
「でで、コー君、あたしを探していたみたいだけど、なにかな? ひょっとしてご飯を作ってくれるとか?」
「あ……と」
 僕は言葉につまった。美空は腰をかがめて、僕を覗き込むように見てきた。大きな瞳が、ぱちくりと動く。少しドキッとした。
 桜色の唇が、そして、柔らかい言葉を放つ。
「ねえ、デートしよっか」
「え?」
「デートだよ、デート。二人でどっか遊びに行こう。丁度中学の制服だし」
「な、何が丁度いいのさ」
「歳が近く見える。……気がする」
 美空はウインクをして、にっこりと笑った。僕はデートという単語の効果があってか、またドキドキしてしまった。目線をそらし、「いいよ、どこに行こうか」とわざとぶっきらぼうに言葉を返す。
「んー。何がいいかな。映画とか? カラオケとか? 喫茶店とか? 遊園地とか? 植物園とか? 水族館とか? どこがいいかな」
「遠い所はやめておこうよ。お金もないし」
 もうこれ以上、美空にお金を使わせたくない。
「それもそうだね。じゃあどこがいいかな」
「……公園」
「おー。いいね、公園。パーキングだね!」
 無料(タダ)ということを条件に捻りだしたアイディアだったが、美空は気に入ってくれたらしい。この街には、わりと大きな公園があった。中央公園というなんのひねりもない名前だが、テニスコートが二つとランニングコースが三つ、おまけに野球場と室内プールまで入った地域の交流スポットの一つだ。
「よし、行こう。コー君」
 美空が実に自然に僕の手をとった。かぁっと頬があつくなる。どきどきと心臓が音をたてた。
 と。
「……あのね」
 美空がぽつりと、つぶやいた。僕は顔をあげ、美空を見つめる。横顔からは笑顔がきえ、ひどく真剣な顔つきをしていた。
 その表情に、戸惑う。
「なに?」
「……なんでもない」

   ○

 美空と一緒にいる時間は、いつでも地に足のついていない楽しさがあった。ちょっとだけ冒険をしているような気分。
 今日はそんな気持ちに上乗せするように、気恥ずかしさと、それから罪悪感とでもいえばいいのだろうか、気持ち悪くこびりつく何かがあった。
 いつか学校の花瓶を割ったとき、それをいい出すことが出来なかったときのような、そんな感覚。
 しかも、それだけじゃない。
 この話を美空にしていいのだろうか。疑う気持ちが、美空の隣にいるあの男を見てから芽生えていた。
「いい天気だねー」
 太陽を見上げながら美空がいう。眩しくないのだろうかと思いながら僕もそれをまねた。
 目を細め、太陽を見る。
 やはり眩しくてものの数秒で僕はそれをやめてしまった。
 美空と手を繋いで、公園に向かう。
 こんなところを誰かに見られたら恥ずかしいなと僕は思った。けれど、やめてくれと美空にいう気にもなれない。
「ねえコー君。何か話をしようよ」
 美空がいう。
「何の話? 最近あった面白いこととか?」
「んんん。これまであった人生のこととか」
 僕はぎょっとした。美空は「きゃはは」と笑った。冗談だ。そう思った僕の耳に、やはり「嘘だよ」と美空の声が届く。
「……コー君、猫と犬はどっちが好き?」
 美空がたずねる。僕は、どちらも好きではなかった。あえていうなら、猫はたくさん殺したけれど、犬を殺したのは一度だけだった。
 この街は、猫がおおい。
 それに犬は噛んできたり、吠えてきたりと強そうだ。僕が殺した一匹の犬は、片足をひきずりながらよろよろと歩く老犬だった。
「犬かな。美空は?」
「あたしも犬」
 ニコニコ笑いながらいう。美空はやはり、猫が好きらしい。……思えば、猫殺しの事件だって、美空にいえば軽蔑されるのかもしれない。
 彼女はなんだって笑って、受け止めてくれそうなのだけれど、僕の味方でいてくれそうなのだけれど、猫のことでは別なのかもしれない。
 美空に嫌われるのは嫌だ。
 僕はますます、美空に話したかったあのことを、話すわけには行かなくなってしまった。あの男が美空の横にいた時点で、話すことを諦めかけているのだけれども。
「……そういえば美空、葬式のとき、一緒にいた男の人はだれ?」
 どうせ答えてくれないのだろう。そう思いながら僕はそれでも言葉を吐いた。訊ねるのはタダだ。
「…………あの人? あの人はねー」
 美空が宙に視線をさまよわせて、
「あの人はね、あたしの守護霊なの。コー君、あの人が見えるなんてすごいね。霊感強いね。守護霊って、怖いモノじゃないんだよ? あたしのことを見守ってくれるの。支えてくれるの。すごく良くしてくれるのよ。すごく、良くして…………」
 言葉がとまる。
 僕はおやっと不思議に思い、美空を見上げた。なんの表情も浮かんでいない、戸惑うぐらい真っ白な園山美空の顔があった。
 彼女はその表情から、つぅっと一粒涙をながした。心がざわめく。
 美空がそんな表情をするなんて、美空がそんな風に泣くなんて、僕は思っていもいなかった。美空は能面のような表情のまま、涙を静かにながして震えていた。繋いだ手のひらからも、微かな振動が伝わってくる。
 僕は思わずその手を握りしめていた。美空は何もいわずに、その手を握り返してくれる。弱い力だった。
「コー君」
 美空が、僕の名前を呼ぶ。助けて、とそんな風に聞こえた。
「ほんとは、ほんとはね、あいつ、あたしのお父さんなの。父親なの」
 美空は続ける。その声も、震えていた。
「それでね、コー君」
 美空が今度は、僕の手を力強くにぎりしめた。僕も同じだけの力を返す。けれど、たぶん美空より弱い。
 しかたなく僕は、美空を見つめる瞳に力を込めた。美空の言葉を聞きとることに、心を注いだ。

「あいつ……、人殺し、かもしれない」

 美空の言葉が、じわじわと脳内に広がっていく。そしてフラッシュバックのように、またあの日の光景が浮かんできた。
「……美空」
 だから、僕はいう。
「美空は、どうしたいの?」
 僕が放った震える言葉に、美空は涙をながしたまま反応した。
首をかすかに動かし、僕と視線を交える。
 真正面から見る美空の泣き顔は、たよりない子供のようで、中学校のセーラー服姿と相まって、彼女をすごく幼くみせていた。
 まるで――僕と変わらない歳のように。
「もし、本当にそうなら、あたしは……あいつを捕まえたい」
「え」
「複雑なんだよ、いろいろ。でも、もしも本当にそうなら、望む結末はひとつだよ。悪いことをした人は、捕まらなくちゃいけない。ちょっとした悪いことなら良いけど、……本当に悪いことをした人は、捕まらなくちゃ」
 僕は顔をふせた。本当に悪いこと。猫殺し。美空が涙をながす中、僕はあの日のことを思い出す。
 七月二十六日になったばかりの、深夜。
 僕は抱えきれないもやもやを、猫で晴らさなければいけないと思った。たまに、僕はそんなことを思うのだ。
 初めて猫を殺したのは、小学四年生の秋のことで、正式に夏帆とお義父さんと家族になった日だった。
 言葉に出来ないイライラが、頭のなかで爆発しそうになる。
 自分が壊れるか、相手を壊すか。
 そんなことしか考えられない一瞬が、僕のなかにはたしかにある。気がくるっている。自分でも思う。けれどこの感覚は、どんなに願ったって自分の中から消えてくれない。
 壊せ。壊してしまえ。
 だから僕はあの日も、クローゼットの奥から金属バットをとりだした。新聞紙にくるまれた、血のこびりついたボコボコの金属バットを。
 そっと外にでたとき、『よもぎ』を見つけたのは偶然だった。
 家のどこかに猫が出て行ける隙間があったのであろう。よもぎは悠然と、我が家の近くをうろついていた。僕はさっそく猫の姿を見つけたことで、微かに唇の端をもちあげたと思う。多分、よもぎが妹の大切な猫だということも、僕の心を刺激したのだとも思う。
 猫を何度も殺していると、さすがにひねりがなくなってくる。そのひねりをつけるために、夏帆の事柄を入れるのは最良であると思われた。
 猫を殺すには、タイミングが重要だ。僕はよもぎがそそと移動する後をつけ、油断するときを待っていた。
 とある街道で、その油断が訪れる。
 よもぎは寝転がり、身体を伸ばしリラックスを始めた。僕はその背後に回る。チャンスは一撃。それを逃せば、猫は危険を察してどこまでも逃げて行ってしまう。
 バットを握る手を持ちかえて、ズボンで手汗をぬぐった。手形が残るぐらいの大量の汗が出ていた。
そして僕はバットを振う。
猫の断末魔と、コンクリートを叩いた音が耳に届き、それらの感触も腕に届いた。もう一撃。猫はもう鳴かなかった。ただ、身体がぐしゃりと潰れただけ。 その死骸を見下ろして、僕はそっと微笑む。
 いいようのない、けれど確かな快楽が僕を包む。僕は弱くない。僕は強い。自分は何者よりも偉大なのだという万能感が僕を包む。何だって出来るのだという、底ぬけの自信が僕を包む。
 猫殺し。殺猫鬼。
 その名前がまことしやかに街中のあちこちで話されるとき、それは自分なんだぞという、誇らしげな気持ちすらあった。
 帰り道、あの男を見かけるまでは。
 物音がしたとき、僕は身を隠した。ドキドキと心臓が音をたてていた。この街は、夜に出歩く習慣があまりない。しかし深夜に、コンビニにでも出かけた人がいたのだろうか。そう考えた。
 首をそっと伸ばしてあたりを伺う。現れたのは男で、何かを引きづっていた。ズルズルと重たそうに引きずるそれは、大きな黒いビニール袋で、中には……人間が入っているような、そんな輪郭が浮かび上がっていた。
 息がつまった。引き寄せられるように、目が離せない。
 そこで男の顔をしばし見つめ、いつかレストランで出会った男だと気がついた。
 男は袋を引っ張ったまま、どこかに移動していた。音を立てないようにそっとついていく。男が立ち止まったのはすぐだった。橋の上だ。地域の名前がついたありきたりな名前の川。その真上にある、丈夫で幅の広い橋。
男は、ビニール袋を持ち上げる。一度よろけたが、橋のてすりを器用につかい、斜めにビニール袋を置いていた。
「あ」
 男が、ビニール袋を突き飛ばすように川へと落とす。すぐに見えなくなり、大きな水音がなった。男が、両手をぱんぱんと叩く。「一仕事終わったな」そんな言葉がついてでそうな動作だ。
 ぞっとした。
 男に見つからないように、そっとその場を離れながら、あの袋の中身について僕はずっと考えていた。人間だろうか? その考えが真っ先に浮かび、そして振り払う。マネキンかもしれない。不法投棄だ。きっとそうだ。
 僕は、あの日みた、レストランでの男の顔を思い出す。
 カッコよくて、優しそうで、とても素敵に見えた、亜子ちゃんのママの彼氏さん。
 でも――。
 その映像を塗り消すように、先程まで見ていた男の表情が僕の頭に浮かぶ。黒いビニール袋を動かし、川に落とす。その作業をする間中、男はずっと無表情だった。ぞっとするほど冷たい目をした、無表情だった。
「ちがう……。絶対、ちがう」
 僕は呟く。
 家に帰ると、手も洗わないうちにタオルケットにくるまっていた。
 そして……眠れない。
 あの男は人殺しなのだろうか。あの男は死体を川に落としたのだろうか。
 答えのない問いが僕の頭に浮かんでは消えて、今見てしまったものが何かを考え続けていた。
 僕は気づかないうちに眠りにつく。
 どうしようもない、悪夢を見ながら――。

   ○

 八月一日の今日、天気は当然のように晴れだった。公園には割とたくさんの人がいて、プールバックをもった家族連れや、カップルが目立った。
 僕達は公園のベンチに座って、お互いにほんの少し距離を開けていた。
美空はもう泣いてはいなかった。
ただ、ぼおっと前だけを見つめていて、その視線のさきがどこにあるかは分からない。僕はといえば、そんな美空を眺めていた。
「ねえ美空」
 呼びかけてみる。彼女はこちらを向いて、少しだけ微笑んだ。
「ありがとう」
 そして、意味の分からない言葉をはく。美空は照れたように、「さっきの御礼、まだ言ってなかったから」
「御礼?」
「話を聞いてくれた御礼。こんな話、コー君ぐらいにしか出来ないから」
「――っ。ど、どうして!」
 僕はなぜか、大きな声をだしていた。まるで問い詰めるような口調で言葉が飛び出す。美空は気にした様子もなく、
「あたしね、構ってくれる人が少ないんだー。みんな、忙しいんだと思う」
「……美空」
 いつか見た、チカチカさんとのやりとりが頭に浮かんだ。美空はいつも、ああなのだろうか。親しげに近づいて、やんわりと拒絶されて。
「それはね、あいつも一緒。あたしのことなんてどうでも良いんだ。むしろ、すごく邪魔なんだと思う。どこか遠くに行っちゃえって、そう思ってるよきっと」
 あいつとは誰だろうと一瞬だけ考えて、あの男のことだと答えがでた。
「そんなこと……」
「アイドルになりたいっていってみたんだ。あいつは、すごく喜んでくれた。あんなに喜んだこと、今まで多分なかったと思う」
「それはただ、美空に夢が出来たと――」
「違うよ」
 断片的にいい切られた。
「それぐらい分かるよ。重荷だって思ってるんだよ。邪魔だって思ってるんだよ。あいつは、あたしを気にかけたときがない。家にだってほとんど帰ってこない。ご飯だってつくっちゃくれない。たまに帰って来たと思ったら、何か喚いてあたしを叩くッ」
 ここで唐突に、美空はセーラー服の裾を捲し上げた。現れた白い肌には、まがまがしい紫色のあざがあった。
 息を飲む。
 美空は無言で裾から手を離す。その紫色は見えなくなった。僕達はしばらくの間無言だった。美空は例の能面のような表情で、僕を見つめていた。僕は眼を逸らした。
 美空から、たった今聞いた話を何度も反復し、頭のなかに繰り返す。
「コー君。何かいってよ」
 美空の声。か細い声。僕は彼女と目線を合わせ、
「でも、好きなんだろ」
 ぽつりといった。美空は大きく目を見開く。息を飲む音が聞こえた。そして、声を震わせ彼女はいう。
「……どうして? どうして、わかるの?」
 その言葉には、思いがある。
 そう感じる、響きをもった言葉だった。その問いに、僕は心のなかで答える。
 わかる。わかるよ。だって、それは僕だから。
 気がついたとき、僕はながれるように言葉を放っていた。それは、ずっと胸の内につかえていた言葉。誰にも話せなかった僕の過去。
 本当の父さんは、僕にも母さんにも、平気で暴力をふるう人だった。その嵐にいつも怯えていた。気が良いときは、なんでもないのだ。どこにでもいる、普通の父さん。たまに遊んでくれたり、寝転がっていたり。けれど、一度スイッチが入るとお終いだった。
 きっかけは、ささいなこと。
 パチンコで大損しただとか、パソコンが壊れただとか、そんなこと。
 イライラがたまり、何に対してもケチをつけ、ついには僕らに手をあげる。
 そんなお父さんが僕らと決別したのは、新年の騒がしさが過ぎ去った一月後半のことだった。その日、父さんは今まで働いていた会社をリストラされた。理由は経営状態の悪化で、ようするに口べらしだった。
 父さんは、酒をたくさん飲んで我が家に帰ってきた。そして、笑いながら会社をクビになったことを母さんに告げた。母さんは戸惑い、控えめな口調で詳しい事情をうながす。
そこで、スイッチが入った。
 おれが悪いんじゃねえ、仕事はしていた、あの無能の上司が、と、口々に汚い言葉を吐きながら、叫び、父さんはまた母さんに手をあげた。僕は隅っこにいて、父さんが帰ってくるまで読んでいた小説を抱いていた。
 父さんは拳を振り下ろす。母さんはうずくまっている。いつもなら一発で終わるはずのそれが、いつまでたっても終わらなかった。
 その地獄のような時間を、僕はじっと見つめていた。
 母さんを助けたい気持ちはあった。父さんを救いたい気持ちはあった。
 けれど、僕は自分の身を案じるのが精一杯で、あの暴力のうずに巻き込まれないことばかりを考えて、その様子をただ眺めていた。
 胸が張り裂けそうだった。僕はあまりにも無力で、情けない存在で、痛めつけられる母さんが瞳に強く焼きついた。母さんの額の傷は、このときのものだ。
 まもなく、父さんと母さんは離婚が成立。
 僕は母さんの旧姓である『広口』という名字になった。母さんがパートに出るようになり、僕は料理を作るようになった。それからしばらくして、母さんが再婚。同時にパートも止めて、専業主婦になり、僕の名字は『塩田原』となった。
「……それでも、コー君も好きなんだ」
 僕の話を聞き終えた、美空が呟く。首を引くようにして、軽くだけどうなずいた。
 人って、すごく不思議だ。
 父さんの思い出は、怖いことや悔しいことがこうしてあるけれど、それだけじゃない。優しく頭を撫でてくれたこと。動物園で一緒にゾウにさわったこと。楽しくって、「ああそんなこともあったな」と優しく思い出せる記憶が、僕にはたくさんある。
 おそらく、美空にも。
「…………それで、美空」
「うん」
 そこまで話し終えて、僕はでも戸惑ってしまった。この先のこと。猫のこと。それを美空に話すこと。でも、僕はもともとその話を、美空に伝えたいと思ったのだ。あの男、美空の父親のことで、ためらいが生まれてしまったのだけれども。
 大丈夫。
 自分の直感を信じるんだ。美空はきっと、僕の話を聞いてくれる。
「僕は、猫殺しなんだ」
 美空の大きな瞳が見開かれる。心臓が早鐘をうつ。何をいわれるだろう、その不安だけが僕の頭をうめつくす。
 そして、美空の瞳が一度だけ揺れる。桜色の唇が言葉を紡ぐ。
「へぇ。そうなんだ」
 なんとも軽い響きをもった、口笛のような言葉だった。
 でも、それがいくぶんかの無理をして吐かれた言葉であることが、僕には分かった。
 いいたいこと、訊ねたいことを我慢して、僕が傷つかないように、何気ない言葉を吐いてくれる。
 それは多分、美空の優しい嘘で、僕にとって何よりも嬉しいことだった。
 だから、話してしまおうと僕は思う。
 あの日のことを。あの男のことを。
 美空にすべて、話してしまおうとそう思う。

 第四章・青空

 八月二日の天気は、前日の快晴とうってかわった曇り空だった。
 七分袖のシャツを着て、僕はラジオ体操にでかけた。
 その日、亜子を久しぶりに見ることができた。ラジオ体操が始まるぎりぎりの時間だったけれど、彼女は確かに会館の前にやってきて、小さく身体を動かしていた。体操が終わった後、みなが優しい言葉を彼女にかける。
 僕はそっとその場を離れた。
 亜子と顔をあわせれば、僕はきっと悲しくなってしまう。何もできていない無力さを感じてしまう。今はまだ、彼女にふれるべきではない。僕にはもう、やれることがある。タオルケットにくるまっているだけでは、ないのだ。
「美空、おはよう」
 待ち合わせ場所の橋のうえには、すでに園山美空がいた。
 東京に行くときに制服を着ていた、あまり偏差値のよろしくない高校のジャージ姿だった。
「おはようコー君」
 少しだけ、僕らの空気はぎくしゃくとしていた。それでも、やるべきことは変わらない。
 僕達は橋の隅っこに申し訳程度にある通路口から、そっと川の下へと降りて行った。河川敷へとおりたつ。
 この場所は、季節しだいでは釣り人が入れる。だから多分、法律違反ではないのだろうけど。
「よし、じゃあ、怪しいものを見つけたら美空おねーさんに報告すること! いい、コー君?」
「らじゃー」
 美空と手分けをして、河川敷を歩き回る。目を凝らし、腰を屈めながらの捜索は思った以上に骨がいる作業だった。僕達はやはり、あまり口を利かなかった。
 その捜索は結局、お昼近くまで続いた。お腹がすいたので一度切り上げることにして、僕達は美空の家に向かった。
男は、めったに帰ってくることがないという。
 また植木鉢の下から鍵をとりだして、美空が部屋の扉を開ける。おじゃましますと家にあがった。
「……何も見つからなかったね」
「あたしは見つかったけどね!」
「ホントに?」
「うん。草陰のところにエロ本が五冊。コー君、今度見てみなよ」
 嘘か判別できなかった。とりあえず確かめてみることにしよう。
「ていうかさコー君」
「うん」
「なんかあたし達気まずくない?」
「……まあ、そうかも」
 僕がためらいがちに、けれど正直に返事をすると、美空は僕のほうにとてとてとやってきて、思いきりほっぺたを引っ張ってきた。
「いつつつっ!」
「きゃはっ」
「何すんだ!」
「うりうり~」
「わ、わはははははははっ」
 今度はお腹をくすぐられて、もがきながら笑いまくった。そのもがいた腕の一発が、美空の鼻に見事にはいった。
「った!」
「あ、ごめん」
 くすぐり攻撃終了。美空は両手で鼻を押さえていた。
「むう。ひどいよコー君。これは横暴だよ」
「いや、さきにそっちがやって来たんだろ!」
「美空やってないよ。だって両腕ないし」
「嘘だ! 丸わかりの嘘だ!」
 僕達はわーわーいいながら、軽く殴ったり、蹴ったりとお互いに攻撃を仕掛けはじめた。僕は笑っていたし、もちろん美空も笑っていた。
 どんっと壁がいきなり音を立てて、「うるさいよ!!」っと年配女性の怒鳴り声が聞こえたとき、僕らは声をあげて笑った。
「あのね、コー君」
 ひとしきり笑い終わって、美空がやけにしみじみと声をだした。
「あたし、コー君がいるから、頑張ろうって思えるよ。東京に行こうって思ったときも、こうして、あいつを捕まえてやるって思ったときも、一人だったら絶対やらなかったと思う。出来なかったと思うよ」
 頬があつくなる。僕は視線をでたらめな方向に向けて、「僕だって」とつぶやいた。

   ○

 冷蔵庫にある残り物だけで、僕はお好み焼きをつくった。中華鍋はまた使わなかった。せっかく買ってもらったのだけれども、これを使うためには材料を買うところから始めなくてはならない。
「おーいーしーいー!」
「良かった」
 美空は僕がつくったお好み焼きに、たっぷりソースとマヨネーズをかけていた。僕は適量だ。口に含む。山芋がなかったため、外カリ中ふわとは行かないが、それでも美味しいお好み焼きだった。
「ねえねえ、中華鍋ってさ、どんな料理が作れるの?」
「火の通りが良いからね、チャーハンとかすごく美味しく出来るんだって」
「むー。チャーハンか」
「何その不満そうな顔。チャーハンを上手につくるのは難しいんだ」
「それは失礼しました、シェフ」
「……やめてよ」
「シェフー、シェフー」
 美空が僕をからかう。思わず笑ってしまう。そんなふうに、食べ物の話をしながら食べ物を食べた。
 その後、僕達は他愛もない話をして時間を過ごし、夕方になった。僕らはまた明日会う約束をして、別れた。

   ○

「ただいま」
「おかえりー。遊んでばかりだけど、宿題は進んでるの?」
「計画立てているから、大丈夫」
 僕は母さんと会話をしながら、靴を脱いだ。洗面所に向かい、手を洗いうがいをする。
 なんだか、とても頭がクリアだった。
 美空の存在がまだ僕のすぐ近くにいて、そばで笑ってくれている気がする。
「お、おかえり」
「ただいま」
 だからだろうか、僕は初めて、夏帆になんの胸のつかえもなく帰宅の言葉を返していた。ごく、あたりまえの家族のように、すごく自然に。
 よもぎのことを、彼女はもうほとんど忘れているようだった。小さい子なんてそんなもんだ。そういえば家で少しだけ猫を飼っていたなと思い出して、あの猫はどうしたんだろう、元気で過ごしているといいのだけれどと、考えるようなものだろう。
 僕はいまさらになって罪悪感を覚えていた。
 爆発しているとき、僕は本当に何も考えられない。自分じゃない何者かが自分を突き動かしているような衝動。それが終わったとき、僕はいままでもきっと罪悪を感じてはいたのだろう。だけど、今までの猫はいわば他人のようなものだ。
 今回の猫は、『よもぎ』。
 ぎゅっと胸が締めつけられた。我ながら現金なものだと思う。あの男の問題にひとまずのケリがついた今になって、猫のことを悔やむ。
 ひょっとして、これは僕の見せかけなのだろうか。自分はそこまで悪いヤツじゃないと思いたいがための、僕の偽物の優しさなのだろうか。
『コー君』
 耳の奥で、美空の声が聞こえた。僕は顔を上げて、前をみた。夏帆はもういなくなっていて、母さんの「晩御飯よ」という声が届いた。
 お義父さんはまだ帰っていない。どうやら、今夜は遅くなるらしい。三人で晩御飯を食べて、テレビを見て夜を過ごした。

   ○

 翌日も、僕はラジオ体操が終わった後、美空との待ち合わせ場所に向かった。八月三日の天気は、曇りなのか晴れなのか、判断に迷うような天気で、雲に隠れてふいに日が消えたり、またふいに光がさしたりした。
 そんな天気の下、橋を目指す。
 その途中で僕はあの男とすれ違ってしまった。
 美空の父親だ。
 細身で背の高い、恰好の良い男。レストランで来ていた服より値段は安そうだか、それでもシャレた組み合わせの服。
 その表情は何かを思いつめているかのように、きつく地面を睨みつけており、目の下には深いクマがあった。
 思わず足を止めてしまう。肩に力がこもり、下半身には微かな震えが現れた。視線を下に向ける。男の右手に、指輪がないことに気がついた。
 男が靴音を響かせながら、僕の方へと近づいてくる。今の所、こちらに気づいた様子はないが、突然立ち止まって不自然に思われているかもしれない。
 しゃがんで、靴ひもを結び直すフリをした。
「おれは悪くない……」
 ぼそりと怖い声が聞こえてきた。肩が震える。
 そんな僕の横を、男は何事もなかったかのように過ぎていく。胸をなで下ろした。それからしばらくして、グシャリと嫌な音がした。驚き振り向くと、男の靴の下に潰れた空き缶があった。
 男は次に、その空き缶を思い切り蹴とばした。子気味の良い音がなって、空き缶は遙か彼方へと飛んでいく。道路に着地して、二三度はね、カラコロと金属音をたてた。
 男の背中はどんどん小さくなっていく。僕は前に向き直り、ゆっくりと行きをひそめて歩き出した。
 心臓が早鐘をうつ。とにかく、はやく美空に会いたかった。自然と足が速くなる。曇ったり晴れたりする天気に戸惑いながら僕はようやく美空と待ち合わせたあの橋へとたどりついた。
 美空はもう、すでに橋の上にいて、男がビニール袋を傾けた手すりに身体をあずけて立っていた。その様子に、思わずどきりとしてしまう。
「美空!」
「あ、コー君」
 彼女は手すりから背中を外して、僕のほうへと駆け寄ってきた。
 僕達は河川敷におりて、昨日と同じように探し物を始めた。
「ねえ美空」
「なあに?」
「さっきね、ほら、あの人に会ったよ」
「あの人?」
「犯人」
 美空からの返事が、しばらくなかった。僕らは今お互いに背中を向けて、くさむらの中をかき分けている。
「なにかあった?」
 やがてぽつりと、美空がつぶやくようにいった。
「別になにも。空き缶つぶしてた」
「ふなー」
「あと蹴っ飛ばしてた」
「ふなふなー」
 会話が途切れる。僕はしばらく集中して、探し物をした。河川敷という場所は、意外と物が落ちていない。分類すると空き缶が一番多く、ときたまというか割と見つかるのだけれども、これはまあ予想通りのことだった。
 それ以外のものでは、昨日美空がいったようなエロ本や、壊れたカサなども落ちていた。
「んー。見つからないなー」
「あたしは見つけたよー。宝の地図とかー、四星球とかー」
「はいはい」
「む。信じてないな」
「誰か信じるか、誰か」
 僕達はぽつりぽつりと会話をしながら、手を動かし続ける。もう、大分橋の上からも離れてしまっている。
 もしかしたら何か遺留品があるかもしれないと、始めた捜索だったけれど、どうやら空振りに終わりそうだった。他にも、美空が家の中を調査してはいるが、芳しいものは見つからないらしい。
 そもそも、警察だって捜査はしているのだ。
 アドバンテージがあるとすれば、彼らがまだ遺体の正式な投下場所を掴めていないこと。
川から発見された遺体が、この橋から落とされたということを、彼らは知らないのだ。
「おーい! 君たち、なにをやっているんだーっ!」
 どこかで聞いたことがある声が、頭上から聞こえた。僕と、それから美空も顔を上げ、そして二人同時に息を飲んだ。
 橋の上には、あの三鷹刑事と後輩の男が立っていた。
三鷹刑事が口の両脇に手をそえて、橋の上から僕達に呼びかけている。後輩の男はまた、そんな彼を止めようとしているようだ。
 僕は戸惑う。
もしもあの殺人事件の犯人を追っていますなんていったら、余計なことに首を突っ込むなと起こられてしまうだろう。あるいは、親御さんに連絡をなどと言われて、あの男の耳にまでこのことが入るかもしれない。そうなったらお終いだ。
 こんなとっさにいい訳なんて――
「あたし達―! なくしものを探しているんですー!」
「そうなのか!?」
「はいー! 母の形見の指輪を、橋の上から河川敷に落としてしまってー!」
 美空が、大声で言葉を、実に自然に返していた。三鷹刑事は小さく微笑み、見つかると良いなといい残してどこかへ去って行った。
 さすがだ。だてに嘘つきはやっていない。
 僕はほっと息をついて、ぺたりとその場に座り込んだ。っと、その拍子に、尻に妙な感触があった。
「ん?」
 僕は立ち上がって、たった今自分が座ったあたりを改めて見てみた。ごつごつと石が広がっている。それを一つ一つ払い避けると、そこに銀色に光る何かがあった。半分だけ地面に埋まっていたそれを爪をつかい掘り出す。
 それは、銀の指輪のようだった。
 しかも――赤黒い血が、こびりついた。
「――っ! 美空!」
 僕はその指輪を手に、美空のもとへと駆け寄った。なにかな、と振り返った彼女の目の前に、その指輪を突きだす。
「あ」
 美空は小さくつぶやいて、目を見開く。彼女はぱちくりと何度も瞬いて指輪を見つめ、それからようやく手に取った。指輪の内側に文字でも書いてあるのだろう、美空はその部分を見ていた。
「間違いないよ……。証拠、見つけちゃった……ね」
 美空が微笑む。
 それは確かに微笑みで、嬉しい気持ちや楽しい気持ちも見えるのだけれど、それ以外に哀しみだとか、不安だとか、そんな冷たい色をした何かが交じっているような、不思議な微笑みだった。
「……」
 美空は無言で、腕を伸ばす。
 指輪を太陽の光にかざすように天に向けている。その姿勢のまま、美空はしばらく指輪を見ていた。僕も見上げていたけれど、そのうち首が痛くなってやめてしまった。
「ねえコー君」
 どれくらいの時間がたっただろうか、美空がぽつりと呟いた。そして腕をおろし、かがんで僕と目線をあわせた。
「あたし、……警察にこれを持って行くよ。それで……いいよね?」
「うん」
 僕は頷いた。美空はニコニコと笑っていた。
「……では、解散!」
 美空が大きな声で叫ぶようにいう。何かを振り払うような声の出し方に僕は戸惑い、けれどもなんとか返事を返した。
「じゃあ、また今度」
「うん、……また今度っ」
 指輪をぎゅっと握りしめ、美空は満面の笑顔だった。見ている僕まで楽しくなるような、そんな笑顔。
 僕達は河川敷から上にあがり、お互いの家に向けて歩き始めた。
一人になって歩いている間、僕はずっと、例の地に足がつかない感覚を味わっていた。
 ふわふわと、まるで現実じゃない中を、雲の上を歩くような感覚。けれどいつもの楽しさはなく、妙な気持ちの悪さがつきまとっていた。
 その感覚が何なのか、僕は分からずに足を動かし続ける。
 なんだか酷く、嫌な予感の気がする。僕は必死に、その予感の正体を考える。美空は証拠になる指輪を見つけた。それを警察に届けに行く。何の問題もない……はずだ。
「あ、透!」
「ん」
 考えごとをしながら歩いていたからだろう、気づかないうちに、いつの間にか前方に雅夫がいた。少年野球チームのエナメルバックを左肩にかけ、バットケースも手に持っている。服装もユニフォーム姿で、完璧にクラブチームの練習帰りだ。
「久しぶりだな」
「だねー」
「そうだ、今度さ、劇場版を見に行きたいんだけど、一緒に行かね?」
「劇場版?」
 雅夫は僕達がいつも話す、日曜アニメ番組の名前を上げた。そのあとニッと笑って、
「ほら、やっぱ映画って一人だと行きにくいじゃん」
「だな。おれも行きたいし行こ――」
「ん? どした?」
「ちょ、ごめん!」
「おい透!?」
 後ろを振り向き、走り出した。僕が美空に感じた違和感。彼女ならきっと、一緒に行こうというのではないだろうか。
 もしも――本当に、警察署に行くのなら。
「美空……っ」
 名前をつぶやく。少しだけ元気が出てきた。アスファルトを蹴る僕の足は、反動でどんどん疲れていく。それでも歩みを止めるわけには行かない。
 何事もなければいいけれど、と願いながら、僕は走ることをやめなかった。
 美空にもしも何かがあったら。
 きっと僕の胸はどうしようもなくなってしまう。だからそんなことはないだろうと思いつつも、確かめずにはいられない。だって、だって、美空がニコニコ笑っていたから。いつものように。嘘をつくときのように。
 腕をふり、必死に足を動かす。
 そうして、美空のアパートの前へとたどり着いた。額の汗を腕でぬぐう。
 部屋の前に立って、インターフォンを押そうと指を伸ばす。
 大きな音が響いたのは、そんな時だった。
 尋常じゃない音だ。心臓が跳ね上がる。ガタガタと、誰かが逃げるような音。そして、ガッと、何かで何かを殴る音割れる音。僕はほとんど無意識で、玄関の扉に手をかけた。押し開く。しかし、開かない。僕は植木鉢を持ち上げて、鍵を取り出しそれを使って扉を開いた。
 瞬間。
 飛び込んできた映像に、息がとまる。あの男がいた。あの男が、こちらに背を向けている。ぶらんと腕が揺れていた。
 そして、男の前には美空が。美空が、あのジャージ姿のまま這いつくばて顔をふせていた。両腕で、頭を抱えるようにまるまっている。
 彼らの足元には、砕けたガラス片があった。何が起こったのか、一目瞭然だ。男は美空に向け、ガラスで出来た置物か何かで美空をなぐった。美空はとっさに身を守った。そして男は攻撃を外し、床に破片が散らばった。そんなところだろう。
 殺される。
 美空が、殺される。
 僕は全身の血液が、一気に熱く、そしてまたそれと同時に冷たくなっていくのを感じた。
相反する奇妙な感覚は、いつもの爆発の前触れだ。そっと、玄関をしめ靴のまま家にあがる。美空はうずくまり、男は興奮して気づかない。
 音を立てないように、一歩ずつ歩く。自分の心臓の音だけが聞こえる。男は美空に近寄っていき身をかがめる。狂いそうになる頭をしめつけ、僕はキッチンに入り流し下の収納スペースから中華鍋を手に取った。
 男が美空の首に手をかける。美空はじたばたと抵抗をする。僕はゆっくり男に近づく。視界がぶれる。ホントウニイイノカ。声が聞こえる。その声が聞こえたとき、僕の熱く冷たい血は、少し冷えた。うずくまりたい。あの日のように、こんな映像は嘘なんだとくりかえし、静かにうずくまっていたい。
 指に男は力を入れる。美空の抵抗が弱まっていく。僕はついに男の真後ろに立った。やるのか。やれるのか。
『コー君』 
 僕は中華鍋をふるった。
 両手で構えたそれを、一直線に男の後頭部へと振り下ろした。ばぃーんと冗談みたいな音がして、けれど現実、男の身体はぐらりと揺れて、床に倒れた。
 壁の向こうから音がして、「さっきからうるさい!」と実に呑気な文句が届く。
 僕は中華鍋を構えたまま、息を吐いた。吸った。吐いた。吸った。どうやらいつの間にか僕は、呼吸を止めてしまっていたらしい。身体の内側が、たくさんの酸素を求めていた。
「……コー……君?」
 うずくまっていた美空がぼんやりと顔をあげ、起きあがった。瞳はうつろで、焦点がさだまっていない。
「美空……」
 名前だけを呟く。その先の言葉を紡ごうと僕はそう思うのだけれど、身体の震えがそれをさせない。
 人を殺した。人を殺してしまった。
 倒れた男は、動かない。頭から赤い血液を静かに流している。その様子を見下ろしながら、僕は血の気が引いていくのを感じていた。
 美空が息をのむ。
 じっと倒れた男をみつめていた。その表情はどんな感情も浮かんではいない。何を考えているのか分からず、僕は戸惑う。
「……コー君。中華鍋、貸して」
 武器をもっている僕が不安なのだろうか、美空が手を伸ばしながらそういった。僕は持ち手を美空に向けて差しだした。
 そして彼女はそれを受け取り、にぎりしめると、倒れた男の頭に思いきり叩きつけた。ばぃーんと、再び冗談みたいな音がした。
 僕はあぜんとそれを眺めていた。美空は自分のやったことが信じられないというような顔をして、中華鍋をにぎりしめ、殴りつけた姿勢のまま硬直していた。二粒、中華鍋から血液が落ちた。
 お互いの息遣いだけが聞こえる。
 そんな時間をしばらく過ごして、やがてぽつりと美空がいった。
「……逃げよっか」
 僕は頷いて中華鍋をその場におき、動きだした美空についていく。美空はまず洗面所に向かい、何度も何度も自分の手を洗った。僕も洗った。手の皮膚がすりきれるほど、強く僕は手を擦っていた。流すときも、いつもより何倍も時間を使って、丁寧に流した。
 美空は返り血のついたジャージを脱いで、部屋で中学校の制服に着替えた。僕は美空から無地のTシャツを受け取って、上着だけ着替えた。ズボンには幸い、あまり血がついていない。
 美空は最後に、戸棚から何枚かの御札を抜き取って、ポケットから取り出した黒猫の財布につっこんだ。
 そして、僕達は外へでる。
 見上げた空は皮肉なことに、突きぬけるような青空だった。

   ○

 僕らはどちらともなく、手を繋いで歩いていた。強い力だ。
 お互い一言も喋らない。こんなときにどんな言葉を吐けばいいのかなんて、教科書にも小説にも、どこにものってなどいなかった。
 美空の瞳は、起き上がったあのときのようにうつろだった。何も見ていないのかもしれないと、そんな風に感じてしまうぐらい、その瞳からは意識を感じない。
 ふいに僕は、美空はずっとこのままなのではないだろうかと考えた。
あの、いつでも笑っていて、嘘つきな、壊れかけの少女は、もう帰ってこない。
「美空」
「なあに、コー君」
 軽く揺さぶりながら放った問いかけに、美空はやはりうつろに答えた。僕のほうを向きもせず、ただ前に顔を向けている。
「これからどうする?」
「わかんない」
 何人かとすれ違った。
 他人とすれ違うたびに、まるでだれもかれもが僕達のやったことを知っているような気がして、頭がおかしくなりそうだった。けれどそんなことはもちろんなくて、道行く人は楽しそうに、あるいはつまらなそうに、いつものようにただ僕達をすれ違った。
「ねえコー君」
「ん?」
 美空が、僕を横目で見ながらいった。嬉しくて、少しだけ声がはずむ。
「お家に、帰りたい?」
 彼女の口から出てきたのは、そんな単純な問いかけだった。
「…………帰りたくない」
 僕は正直にいった。
こんな秘密を抱えたまま、母さんや、夏帆や、お義父さんに、普通にしゃべったり、普通にご飯を食べたり、そんなことが出来るとは思えない。
「そか」
 美空はニコっと少しだけ微笑んで、
「……いつ見つかるかな」
「……わかんない。でも、夏だからすぐ見つかるかも」
「夏? 関係あるの?」
「テレビでみた。臭いが酷いんだって」
 僕達は主語をはぶいて、そんな会話をした。ひどく非現実的な話だ。けれどあれは確かに僕らの現実で、この手に残る気持ちの悪い感覚がそれを教えてくれる。皮膚の下で、ミミズが這いつくばっているような、気持ちの悪い感覚が。
 僕は頭をふって、意識して明るめの声をだした。
「……隠しに行こうか」
「隠すって?」
「うーん……。森に埋めるとか。あ、美空、車もってる?」
「もってない。免許もない」
「……川に流す? 二番煎じだけど……」
「二番煎じ?」
「辞書をおひきなさい」
「何、それー」
 ヤマンバ先生のモノマネに、美空は少しだけくくっと笑った。こんなときでも僕らは笑いあえる。
「コー君、おなか空かない? もうすぐお昼だよ」
「……食べたくないかも。美空は?」
「あたしもかな」
「……だよね」
「……だよねぇー」
「あ、そうだ、公園にいかない?」
「んー。あまり、人がおおい所には行きたくないかも」
「……じゃあ、どこにいきたい?」
 美空は立ち止まり、僕から目をそらして空を見る。彼女はすうっと眼を細めたかと思うと、透き通るような声で「海」といった。

   ○

 僕らは駅に向かった。
 駅に着いたあと、美空は首をあげて線路図をにらみつけていた。行く場所をしばらく迷っているようだったが、やがて地名を告げた。この街から、かなり離れた場所だ。
「そこまで行かなくても、海にはいけると思うけど」
 僕が少し不満げにいうと、美空は頬を膨らませて、「せっかくいくなら綺麗な海がいいじゃない」という。
 僕はそんなもんかなと納得して、美空が買った切符を受け取った。なんとなく見てみると、両思い切符だった。両思い率、七六%――思わず小さく笑ってしまう。美空に見せるのはなんとなく恥ずかしくて、改札を通した後、そっとポケットに忍ばせた。
「……時間、まだまだあるねー。二十分ぐらい」
「単線だからね」
 時刻表を眺めながら呟く美空に言葉を返す。僕はそっと美空から離れて、窓から街を見下ろした。よく買い物をするスーパーマーケット、ときどき雅夫と遊びに行くゲームセンター、それから通いなれた小学校も遠くに見えた。
 僕は、少し目を凝らして我が家を探してみた。けれど、見つからない。
あの場所にはもう二度と戻れない。そんな予感が頭をよぎって、ふいに何かがこみ上げてきた。
 悲しみ……とまではいかない、けれど確かにその系統にある何か。
 瞳を閉じて、息を吐いた。
 美空はどんな風にこの街を見下ろすのだろう。なんとなく気になって横目でみやると、彼女はまだ時刻表を眺めていた。中学のセーラー服から伸びる足が、白くまぶしい。けれど、あざがいくつかあった。いつかみたような、紫色のあざ。
「美空、街、綺麗だよ」
 呼びかけてみた。彼女は振り向いて、僕の隣にやってきて、僕と同じように街を見下ろした。美空はしばらくそれを無言で眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「この街さー」
「うん」
「あたしが、小学生のときに引っ越してきたんだよね」
「そうだったんだ」
「そうだったのだ」
 美空は小さく息を飲んで、首のあたりをさすった。僕はその首に、赤い手のひらの跡があることに聞かついた。多分、僕以外の人にはそんなふうに見えないだろうけど、けれど確かに手のひらの跡だった。
 ざわざわと。
 心を黒い何かが横ぎった。僕は自分が重苦しい鉄の塊であって、周りの人間とは明らかに違う存在であると悟った。
周りの景色が、すごく透明に白く感じる。
ホームで電車を待つ人々の中で、僕と、それから美空だけがその鉄の塊で、他とは一線を画していて、もう交わることはないのだとさえ思う。
 ようするに。
 今この中にたくさんの人がいたとして、人殺しは、僕と美空だけだろう。
「電車来ないねー……」と、まるで何でもない声を美空はだす。「そうだね」と僕は答えて、美空の手をとりまたにぎりしめた。固い感触、けれど温かい手。お互いの体温を感じているだけで、僕は一人じゃないと確信できた。
 僕達はそのまま電車を待ち、そして乗り込んだ。
 乗換を四回も繰りかえした。途中の売店でいくつかのお菓子を買って、僕らは電車の中でそれを食べた。そして何時間もかかって、僕達はようやく目的の駅についた。時刻はもうお昼をとうに過ぎている。
「うわーっ。田舎だねぇ」
 無人の改札口をみて、美空は感嘆符をつけそういった。彼女は切符をせんべいが入っていたような銀箱の中に放り投げる。僕は捨てずに、切符を取っておくことにした。
「さてと、海に行こうか」
「そうだね」
「実はあたしね、人魚の生まれ変わりなんだよー」
「ダウト」
「ふなー……。コー君だから教えてあげたのに。泡になって消えてやる!」
 僕らはなにごともなかったかのような、いつも通りの会話をしていた。
けれど、分かる。
僕の頭の中では、あの男の背中が、あの男の笑顔が、あの男の行動が、片隅で絶えまなく流れている。きっと、美空も同じだ。いや、同じなどではない。
 僕よりももっともっと辛い思いを、彼女は抱えているだろう。
 けれど、その話はしない。したくない。
 だから僕らは、いつも通りの会話をするのだ。何も不自然ではない様に。いつもの会話の延長のように。
 こんな風に、何気なくときが過ぎ去ればいい。
 このまま、ずっとふわふわと、時が過ぎ去っていけばいいのに。

   ○

 駅にでてしばらく歩き、僕らは海についた。夏の、しかも綺麗な海にはたくさんの人がいた。みな色とりどりの水着をきて、泳いでいたり、サーフィンをやっていたり、砂浜で城を作ったりもしていた。
 美空はそんな様子を、まるでふてくされたような顔でじぃっと見ていた。
「行かないの?」
「人がたくさんいる。あたし、人混み恐怖症なの」
「渋谷では平気だったじゃん」
「じゃあ、水着恐怖症」
 僕達は結局海を遠くから眺めるだけでその場を去った。美空は「またあとで行こう」といった。僕達は自分たちの街よりずっと田舎の、しかも物珍しい海の街を眺めて歩いた。
 のんびりとした街だと思う。
 海の街で魚が豊富にとれるのだろうか、街にはよく猫がいた。三毛猫が多かった。美空は猫を見かけるたびに彼(あるいは彼女)の前に座り込み、目の前で「にゃーにゃー」とないていた。猫は大抵無関心のまま、美空が来るまでと同じ姿勢でいたが、中には返事をしたり、一目散に去っていくものもいた。
 美空はその中でも、返事をする猫ではなく、そのままの姿勢でいる猫が好きらしい。そんな猫と出会うたびに、彼女は少しだけ顔をほころばせた。
「……コー君」
「ん?」
「そろそろお腹が空いたかも」
 美空がそんなことをいい出したのは、もう日が傾いてからのことだった。斜めになった太陽から、オレンジ色の優しい光がそそがれる。
 僕達は飲食店を探した。
 田舎の街にそれはなかなか見つからず、そういえばと駅で見かけた立ち食いそばの店にまで戻った。僕はきつねそばを、美空は僕と同じものとコロッケを注文した。
 立ち食いの店、だったのだけれど、奥のテーブル席が空いていて、僕達はそこに座ることが出来た。カウンターの背は高く、美空はともかく僕は届かない。だから、気を使ってくれたのかもしれない。
「いただきます」
「いただきます」
 僕達は向かい会って手をあわせ、そばを食べ始めた。味は可もなく不可もなく、つまりは普通の味わいで、けれど『のどごし』だけは爽やかだった。めんつゆも、少し濃い味付けだけれど悪くない。
美空は、ずるずると冷たいそばを食べる合間に、ときおりコロッケを食べていた。ぼろぼろと衣がそばの上にかかる。あれは美味しいのだろうかと僕は首をひねった。
 店内には、海から街へ帰るのだろうか、観光客のような人達が幾人かいた。みなくちぐちに、楽しかった、また来ようなどと、今日を振り返っている。
 箸でそばをつかみ、音を立ててすする。
 ずずず、ずずずずと、自分がそばを食べる音以外、何も聞こえなくなった。鼻に入りかけて少しむせた。
「大丈夫? コー君!」
 美空が焦ったような声をだす。僕は片方の手を口に押えて、もう片方の手を美空に向けた。
『大丈夫』

   ○

 ご飯を食べ終え、僕達はまた外に出た。これからどうするあてもなく、僕と美空はなんとなく街を歩いていた。
お互い何も言わなかったけれど、たぶん美空も眠る場所を探していたのだと思う。高級ホテルなんて贅沢はもちろんいわないけれど、とにかく落ち着いて眠れる場所を。
 そのうち、完全に日が落ちて真っ暗になった。母さんは、きっと心配をし始めるころだろうなと僕は思った。きっと、夏帆も、お義父さんもそうなのだろう。
 それを考えると、すごく肩身がせまくなった。僕は大丈夫だと電話をしたくなった。けれど、誰も納得などしてくれないだろう。僕がいま、ここにいる理由なんて。
『――市で本日未明、園山茂さん三八歳が頭から血を流し倒れているのが発見されました』
 どこかから、キャスターの声が聞こえてきたのはそんな考えごとをしているときだった。僕も美空も足をとめ、その音源を探す。すぐに見つかった。それは、僕らのすぐわきにある個人営業の電気屋さんの、店頭テレビだった。
『園山さんは病院に運ばれ、意識不明の重体です』
 ニュースキャスターは淡々と言葉を紡いでいく。僕達は息を飲んで、じっと彼女の整った、けれどどこかキツイ顔つきを眺めていた。
『――市では先日も遺体が発見されており、今回の事件との関連を調べています。それでは、天気予報の時間です』
 ニュースでは、美空のことはまだ何も触れてはいないようだった。ただ、原因が何者かに後頭部を殴られたこと、と報道されていた。
「意識不明の、重体」
 美空がぽつりと呟く。その言葉の色は、何色だったのだろうか。僕にはよく分からなかった。とにかく、一色ではなかった。分かりやすいレッテルを張れる、単色ではない。
 僕自身、すごく不思議な気持ちだった。
 まだ死んでいないという安心と、まだ死んでいないという不安と。
 ごちゃまぜで、ぐちゃぐちゃで、吐き気がするほど嫌な感情。
 僕はもう、ほとんどどんなことも考えることが出来なくなっていた。心にたくさんの水を注がれて、もうずっと前からその水は、溢れ続けているのかもしれない。
 腕を下げたまま、僕はあの儀式をおこなった。
 手をひろげ、にぎりしめる。やはり、何かをつかめた気は微塵もしない。
「行こっか」
 美空が動きだす。僕は自然と隣に並び、また美空の手をとっていた。日はどんどんと傾いて、辺りは夕闇に包まれていく。
 けれど眠る場所は見つからなくて、僕達は小さな公園に辿りついた。
 人気はまるでなくて、ベンチと、ブランコと、ジャングルジムと、滑り台と、それから鉄棒がある少しだけ大きな公園だった。
「ここで寝ようか」
 美空が、どこか楽しげにいう。ほかにめぼしい選択肢も見つからず、僕はうなずいた。隅っこのほうに汚そうな簡易トイレと、水道もついていて、それだけでもこの場所はまだ過ごしやすいだろうとも考えた。
「はふっ」と美空は呟いて、ベンチに駆けだした。彼女はその青いベンチに腰かけると、ちょいちょいと手を動かし僕を招いた。もうすっかり夜だけれど、夏の夜風は蒸し暑い。これなら、きっと寒くて死んでしまう、なんてことは起こらないだろう。
 僕は美空にごく近い距離に腰かけた。それからどちらともなく、お互いに身を寄せ合うように座っていた。
「……美空」
「なにかな」
「僕らさ…………」
 言葉が続かない。
 数えきれないくらいたくさん、問いかけなければいけないことがある気がする。けれどそれは気がするだけで、今の僕達にとってほんの少しでも意味があることは一つだってないのかもしれない。
 そのうち、うつらうつらと僕は船を漕ぎ始めた。そして、いつの間にか眠っていた。けれど悪夢が僕を襲い、飛び起きた。
 誰かに殺される夢だった。 
 僕は暗闇のなかうずくまっていて、必死にごめんなさいごめんなさいと繰り返す。けれど僕を見下ろす男――あれは確かに男だった――は、バットを振り下ろす手をやめない。そんな、薄気味悪い夢。
 目が覚めたとき、僕は寝汗をびっしょりかいていた。
 夜はますます深くなって、民家から明かりが射すこともなく、ただ暗い闇の中、僕は小さく震えていた。
 不安になり横を見る。
 隣には美空がいて、僕の肩に寄りかかり、小さく寝息を立てていた。けれど、彼女の白い頬に涙の痕を見つけてしまい、僕は小さく息を飲んだ。
 美空は、ほんとうに僕を許しているのだろうか。
 小さな疑問が浮かぶ。
 すると腹の底からたまらない不安が駆けあがってきた。いいようのないあれこれが全身を駆け巡る。きっと僕にこれから先のことなんてないのだろう。そんな漠然とした絶望感が、静かに僕を包んでいく。
 ふいに、あの人殺しの感覚を思い出す。
 鳥肌がいっきにたち、脳みそが『なまり』になったような錯覚に落ちた。殺した。死んだ。死んでいない。まだ死んでいない。
 いつの間にか、僕の頬にも涙が流れていた。
 母さんに会いたいなぁと思い、次に父さんに会いたいなぁと思った。友達にも、夏帆にも、お義父さんにも会いたいと思った。
 みんな、悲しむだろうか。
 きっとそうだ。僕が人を殺したかもだなんて、きっとみんな悲しむ。
 もう、あの場所には帰れない。
 僕はそっと、美空の手をにぎりしめる。今の僕にとって確かなものは、園山美空だけだった。

   ○

 朝、目が覚めると隣に美空がいなかった。
 僕は慌てて立ち上がり、美空の名前を呟きながら辺りを見回した。不安だった。もしも、美空がいなくなってしまったら……。
「あ。コー君、おはよー」
 だから、美空に背後から声をかけられたとき、僕は心底ほっとした。振り返ると、美空は長い髪を手くしで整えて、それから大きく伸びをした。
「眠れないかもと思ったけど、意外と眠れたね」
「……そうだね」
 若干睡眠不足だった。けれど心配はかけたくなくて、そういう。僕と美空は公園の水道で顔を洗って、それが乾いてからコンビニにはいった。パンと、ペットボトルの紅茶、それからからあげとを買って、店の外で僕らはそれを分け合って食べる。
 コンビニの中で見上げた時計は、まだ朝の六時前だった。けれど太陽はもうとっくに昇り始めていて、辺りには優しい日差しが射している。
 朝ごはんを食べ終わって、僕と美空は申し合わせたように海に向かって歩き出した。歩きながらぽつぽつと、すごくどうでも良い話をした。好きな色や、嫌いな先生の話だ。
 僕らはそんな風に歩いて、そして海にたどりついた。
 昨日みたような騒がしい海ではなく、人ひとりいない静かな海だった。
「やた! コー君、やっぱり貸し切りだよーっ」
 美空が、僕の手をとり走り出す。砂浜におりたち、僕達はしばらく手をつないだまま走り回った。砂浜は、靴を押し返す力が弱く、奇妙な感覚がした。
「わーっ。海、やっぱきれー」
 ひとしきりはしゃぎまわって、美空は僕の手をはなし、波際へと近づいていった。
 僕も、彼女の隣に歩いていく。
 美空は、海のずっとずっと遠くを見つめているようだった。僕も真似をして、海のずっとずっと遠くを見つめた。柔らかい朝日が、海に反射してまるで星屑のように輝いている。夢のようだと僕は思った。
「どこか遠くに行きたいなぁ」
 そんな風景を前に、美空がぽつりといった。彼女を見上げて、
「遠くって?」
「そうだね、たとえば」
 美空はそこで言葉を切って、つぃと一歩踏みだした。靴のままなのに、波をかき分けてどんどん前に進んでいく。
 僕は一瞬、彼女がそのまま死んでしまうのではないかと思い、どきりとした。そのまま歩き続けて、頭まですっぽり海につかって、泡になって消えてしまうのだ。
 けれど、そうはならなかった。
 美空はただ、海のずっとずっと向こうを指さした。
「島が浮かんでいるの。とても小さくて、人間は誰もいない島。でもね、猫がたくさんいる島。そこにね、私とコー君がやって来るの。私は大好きな猫をたくさん愛でて、ごろごろ一日を過ごす。コー君はそんな私とお喋りをして、気が向いたら好きなだけ猫を殺すの。ねぇ、どうかな?」
 想像してみた。
 きっと、そこは南の島だ。
 一年中気候が良くて、雨の日なんてほんのたまにしかなくて、ここよりもっとずっと綺麗な海の南の島。
 ぽかぽかと温かい日差しのなかで、僕らはきっと一日の大半を寝て過ごす。寄り添うように木陰の下に座っている。そんなふうに――。
「殺さない」
「え?」
 美空が振りかえる。
 彼女の瞳をじっと見つめながら、けれど僕はさり気なくいった。
「その島に美空と二人でいるなら、一緒に猫を撫でるよ」
 小さく微笑む。
 美空が笑いかえしてくれる。いつものニコニコとした笑みではなく、どこか悲しくて、けれどとても優しい、柔らかい微笑みだった。

                  END

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