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僕と彼女の嘘つきゲーム


 第一章・GAME

 六月二九日。梅雨が終わり、もうすぐ、夏が始まる季節。
「暑い……。すごく暑い……」
 体中から汗を吹き出し両手をだらりと下げ、ゾンビのような足取りで、僕は町田駅へと向かっていた。久しぶりに友人に会うためだ。
 地元の高校に通い始めた僕に対し、幼馴染のあいつ――獅子川雛乃(ししかわひなの)は、他県の高校へと進学した。両親の離婚により、母親のもとへと引き取られたからだ。四月中は連絡を取り合っていたが、五月からは忙しくなったのか連絡が来ず、そわそわしていた矢先の誘いだった。
「えーっと」
 待ち合わせの改札前へとたどり着き、きょろきょろと辺りを見回した。雛乃は今時珍しい長い黒髪が特徴的な女の子だ。だから、すぐにでも見つかると思うのだけれど……。
「いないなぁ」
 つぶやき、ポケットから携帯電話を取り出した。パスワードを入力し画面を開くと、アプリにメッセージが入っている。確認すると、雛乃からだった。
『電車が遅延して遅れてる(汗)』
『あと十分ぐらい待って!』
 どうやらそういうことらしい。気のせいだか、少し気持ちが楽になった。雛乃とは幼馴染であるが、もう二ヶ月も会っていない。女の子と二人きりというのは嬉しいが、緊張する状況だ。
 気を落ち着かせる意味も込めて、街行く人を眺める。仮にも東京である町田は、それなりに人通りがある。着飾って歩く年上の女の人、休日出勤なのかスーツ姿の壮年男性、五人組で騒ぐ小学生など、いつもと何も変わらぬ駅の喧騒がここにあった。
「ん」
 そんな中、近くの地面で何かが光った。数歩歩き、軽くしゃがみこんで拾う。
 それは、鍵だった。
 光ったように感じたのは、金属の部分に反射したからのようだ。鍵には銀色の輪によって金色のプレートが付けられていた。『13番』と書いてある。
「んー……」
 目の前に鍵をぶら下げ、しばし沈黙する。この鍵、どこかで見覚えがある。数十秒思案して、気がついた。コインロッカーの鍵である。
 友人と買い物したあとに、カラオケに行こうとなった時、荷物を預けたことがあった。しかし、それにしては少しおかしな部分もある。あのコインロッカーのプレートは、果たして金色などという派手な色だったろうか?
「とりあえず、届けますか」
 つぶやき立ち上がる。雛乃が来るまでの暇つぶしに、人助けをするのも良いかもしれない。歩き出す。横目で駅内の店を眺める。旅行代理店にごちゃごちゃとした売店、おしゃれなケーキ屋。宝くじ売り場などがあった。
 そんな中、コインロッカーが目に入る。なんとなく立ち止まり、見入ってしまう。ささっている鍵を見ると、プレートの色は薄緑だった。となると、あの金色のプレートがついた鍵は、別の場所のものなのだろうか? 色以外は、まったく同じデザインのように思えるのだけれど……。
 番号を目で追ってみた。そしてその中に、あった。
『13番』のコインロッカーが、鍵のかかった状態でそこにあった。
「…………」
 有名な質問がある。絶対に開けてはいけない扉があったとき、あなたはどうしますか?
 僕の答えはこうだ。迷わず開ける。
「いやいやいや」
 ブンブンブンと首を振る。ポケットに突っ込んでいた鍵がちゃらちゃらと鳴った。
 だいたいに置いて僕は、常日頃から品性方向を心がけているのである。
「……いや、でも、ちょっとだけ……」
 ポケットから鍵を取り出す。この鍵で果たして開くのか、それを確かめたいだけだ。万が一開けてしまったら、パッと見て、パッと閉めれば問題ないだろう。そんな軽い好奇心で、僕はコインロッカーに鍵を差し込んだ。ひねる。百円玉が落ちてきて、鍵が解除された。
「おじゃましまーす……」
 扉をゆっくりと開く。中に入っていたのは、黒い携帯電話だった。いわゆるスマートフォンというタイプの形で、四角く平べったい。サイズは手のひらにギリギリ収まるサイズで、流行りのiPhoneより、二回り大きく見えた。
「んー? 携帯?」
 それは、予想外のものだった。コインロッカーを利用するにしても、携帯だけは手放さないのが普通では無いだろうか。なのにこのロッカーには、携帯電話がひとつ真ん中に置いてあるだけだ。
「まあ、別にいいけど」
 鍵の正体とロッカーの中身を知れて満足した僕は、扉を閉め――
『りりりりりりりん! りりりりりりりりりん!!!』
「え!?」
 奇妙な音が響いた。音源は明らかに、目の前の黒い携帯電話である。『りりりりりりりりん!!』
 音は止まない。
 それは効果音ではなく、奇妙な声だった。携帯に付属されている効果音を、人間が真似しているのだろうか。小さな、女の子の声のようだった。
「……なんつー着信音だよ」
 呆れつつ、扉を閉めようとコインロッカーの扉を片手で押した。携帯電話に出ると、自動的に拾った鍵を使いコインロッカーを開けたことがバレてしまうし、知らぬ顔をしてこの場をさり、鍵を駅員に届けるのが一番だと判断したためだ。
 なのに――。
「え?」
 扉が、びくとも動かない。
「んー!! んーーっ!!」
 全身を使い、体当たりのように押してみる。それでも動かない。なんだ、いったい何が起こった。僕はわけが分からず、とりあえず周囲の眼が気になって背後を振り返った。
「――なんだよ、これ――」
 唖然とした。
 ――人が、動きを止めている。
 あるものは片足を上げた状態で。あるものは転びかける寸前で。あるものは恋人と手をつないだままで。今にも動き出しそうな、けれど決して動かない蝋人形のように、彼らは動きを止めていた。『りりりりりりりん…………』異常状態の中、呼び出し音が不意に止まった。
 急に迷い込んだ異界の中で、音までも失ってしまった僕は、怖くなり携帯電話に飛びついた。ボタンを押す。画面が明るくなり、言葉が現れた。
『嘘つきゲーム』
 血のようなデザインがされたその文字の下に、悪魔をモチーフにしたイラストが書かれていた。
「嘘つき、ゲーム?」
 わけが分からずただ言葉を読み上げると、ぴろんと陽気な音がなり、画面が切り替わった。手紙のようなデザインの画面に、ゴシック体の可愛らしい文字が浮かび上がっていく。
『新規ゲーム参加、おめでとうございます~。あなたは今日から、嘘つきゲーム、通称「嘘ゲー」の参加者となって頂きます♪』
「嘘ゲー……? なんだよそれ」
『質問は受け付けておりません~。てかこれから説明しようとしてるんだから黙れクズ☆』
「!?」
 何気なくつぶやいた言葉に、画面が反応した。目を見開く。するとすぐさま『そんなに驚かないでくださいよ~。照れちゃいます~(テレテレ』と表示された。なんだか腹が立つ言い草だ。
『嘘ゲーでは、合計ポイント100を目指して、三日に一度、嘘つきゲームに参加していただきます♪ このゲームでは悪魔チームと人間チームに別れて、殺し合いの戦闘を行って頂きます(^^♪) あ、でも、すぐに生き返るのでご心配なく~』
「殺し合い……? 生き返る……?」
『悪魔チームは、悪魔さん同士で誰が悪魔さんだか分かります♪ だから協力して頑張ってね☆ 人間チームは、だれが人間か分かりません((でも、特殊な能力があるので頑張ってね♪))』
「は?」
『さてさて、とりあえず新規ゲーム参加者さん、あなたのHN(ハンドルネーム)を授けます。あなたのHNは「青鴉(あおからす)」。ゲーム登録完了です(^^ゞ
さて、今日のあなたの参加チームは――でるるるるるる~~~ 人間チーム! といっても、初参加者の方は絶対人間チームなんだけどね~。
そして、ゲームの舞台は――でるるるるるるるる~~~ 町田駅内! 町田の駅から外は戦闘範囲外だから、戦っちゃだめだよ? 出たらブザー警告がなりますので十秒以内に範囲内に戻ってくだしあ! ではではグッジョブ!』
 ぷつん、と小さな女の子の声(『りりりりりん!』と同じ声のようだ)が聞こえて、画面が落ちた。画面を再びつけようとボタンを押すと、パスワードの入力画面が出てきた。壁紙は例の、悪魔のイラストである。適当にパスワードを打ち込んでみたが、当然のように反応はない。途方にくれた僕は、再び背後を振り返った。
 相変わらず――蝋人形たちが飾られている。人が動かない町田の駅は、巨大なパノラマの中に迷い込んだようで、背筋に言いようのない悪寒が走った。
「……いったい、どうしろって……」
 僕は呆然と立ち尽くしていた。しかし、状況は変わらない。気が狂いそうなほど静かな駅に、のしかかるような重圧を与えられるだけだ。すがるような気持ちで、携帯電話を取り出した。嘘ゲーのスタートを宣言した黒い携帯電話ではない。もともとの持ち物である、青いカバーのスマートフォンだ。ボタンを押すと、どうやら正常に使えるようだった。いつもどおりにパスを入れ開くと、アプリにメッセージが入っていた。雛乃からだった。
『いま着いた! 待ち合わせ場所に行くねっ』
 そんな言葉と、くまのスタンプが一つ届いていた。
「雛乃……。町田駅にいるのか?」
 雛乃に電話をかけてみた。しかし、呼び出し音一つしない。何度かけても同じだった。試しに、家族と、それから警察にも電話をかけてみた。結果は同じだった。続けて、アプリの画面でメッセージを送ってみる。しかし、これもダメだった。アンテナの表示は四本とも立っているのに、この場所では連絡ができないらしい。雛乃からのメッセージも、町田駅がおかしくなる前に届いていたものなのだろう。
「……行ってみよう」
 僕は歩きだした。いま着いたというメッセージから、時間はあまり立っていない。待ち合わせ場所の改札付近に、雛乃がいるはずである。
「どこにいるんだ……?」
 蝋人形と化した人々の隙間を抜け、僕は雛乃を探す。これかな? と思った人物は前にまわり顔を確認した。動きを止めた女の顔は、見るたびにギクッとするほど不気味で、そして雛乃ではなかった。止まっているため、改札をくぐり抜けて入った駅の中にも、雛乃の姿はなかった。利用しているはずの線にも降りたが、いない。ちょうど到着していた電車の中も、一通り確かめた。やはり、いない。
「うーん……」
 途方にくれた僕は、ベンチに腰をかけた。止まった電車と今まさに吐き出されようとするたくさんの人間を眺めながら、これから何をすべきかを考えた。
「ひょっとしたら……ずっとこのままだったりして」
 それは、ぞっとしない想像だった。体が震えた。
「……直也?」
 声が聞こえたのは、そんな時だった。花を摘むようなちょこんとした口調は、一瞬で僕を懐かしくさせた。
「雛乃?」
 振り返ると、すぐ背後に雛乃がいた。長い黒髪を緩やかに二つに束ね、白色のシフォンワンピースをきて、頭にはリボンの髪飾りを数個つけている。背中には小さなリュックサック鞄を背負っており、手首には可愛らしいデザインのブレスレットがあった。自分に会うためにオシャレをしてきてくれたのだな、と思った。
「直也! やっぱり直也だぁ……っ!」
 ふわっと、いい匂いがした。花の匂いだ。なんの花かまでは分からないけれど、頭の奥がボーっとするような、いい匂いだ。その匂いに、僕は包まれていた。ていうか雛乃に抱きつかれた。
「ちょ、え、雛乃!?」
 わけが分からない。あたふたと両手を動かし抱擁から逃れ、僕は雛乃に体を向けた。彼女は僕に逃げられたことなど構いもせずに、二カッとどこか男前に笑っている。
「ねえ直也、直也もひょっとして初参加者?」
「え?」
「私、私ね。この駅にやってきて、なんか変な黒い携帯電話拾って、それで、それで……っ」
 雛乃が要領悪く経緯の説明をしてくれた。どうやら、僕とほぼ同じような過程をたどり、突然わけのわからない世界にやってきたらしい。
「でも、良かった直也に会えて!」
 一通りの話を終え、雛乃が弾けるような笑顔で言う。僕も、雛乃に会えてよかったよと言いたかったが、照れくさくて鼻の頭を掻いてしまう。
「そう、だね」
 結局お茶を濁すようにそう言ってから、僕は立ち上がった。その拍子にふと、雛乃へ渡そうと思っていたお土産のことを思い出した。
「あの、こんなときになんだけど」
 僕はポケットから、透明の袋に入ったクッキーを取り出した。青と白と赤のフランスカラーのリボンでラッピングされていて、見た目が可愛らしかったのが購入の理由だった。
「クッキー! クッキーだぁ。ラング・ド・シャだね。嬉しいっ」
 きらきらと、雛乃が瞳を輝かせる。やはり、好物は変わらないらしい。
「ほんとに雛乃はクッキーが好きだな」
 呟く。この異常な空間の中で、やっと一息つけた気がした。そんな僕の顔を、雛乃は覗き込むようにして見上げてきた。大きく目を見開いて、頬が微かに上気していて……。それは、魅力的な表情だった。
「……私、クッキーが好きなのもそうだけど、直也が私のために買ってくれたクッキーだから、もっと嬉しいんだよ?」
「ぇ……っ」
 かぁっと、顔が赤くなるのを感じた。対する雛乃も、明らかに赤くなっている。どう言葉を返すか戸惑っていると、照れ隠しのように早口で、
「さあ行こうか直也。いつまでもここに居てもしょうがないしね!」
「あ、待ってよ雛乃!」
 歩き出した雛乃を追いかける。彼女は振り返らないまま、鞄の中にクッキーを入れていた。

          ×××

 町田駅の様子は、相変わらず変わらない。横浜線の線路へと降り、相変わらずの異様な空間を歩きながら、僕達は話していた。
「このゲーム、何人くらいが参加しているだろうね?」
「分かんないな……。僕と雛乃と、とりあえずは二人だ」
「私たち二人だけってことは、絶対にないよね……。うーん。町田駅って、広い規模で行っているわけだから、……十人以上、とかいるかも」
「……そんな人数と、殺し合い、か」
 会話は、携帯電話の声が本当のことを伝えている、ということを前提に交わされた。この状況が超常現象であることは紛れもない真実であるし、ならばその引き金となったであろう携帯電話の話も、信じるしかないのだ。
「そういえば、直也もHNを決められた?」
「あ。ああ。『青鴉』っていったかな」
「私は『みるく』だって。……これからは、この名前で呼び合ったほうがいいのかもね」
「なんで?」
「だって、ゲームの指導者が割り振ってきた名前だよ? なんとなく、使ったほうがいいかなって……」
「……確かに、そうかも」
「だよね。改めてよろしく、青鴉くん」
 雛乃――改めみるくは、僕に向け手を差し出してきた。握手、のつもりらしい。その白い肌に触れることにちょっとだけ戸惑いつつ手を伸ばした。柔らかい女の子の手の感触が伝わってきて、一瞬でしびれが走る。
「なんやなんや、お二人さん。お熱いの~~」
 ふざけたような男の声が聞こえてきたのは、そんな時だった。雛乃は怯えるように、僕の背後へと身を隠した。ギュッと、彼女の体の感触が背中に伝わってきた。密着された体に再びとぎまぎしながら、声がした方向を見上げる。
 ホームへと登る階段。その中程に、青年が立っていた。顔立ちは整っており、かなりの男前だ。服装は、若者のファッション雑誌からそのまま取り出したような流行で今風のもの。髪の毛は何もかもが軽そうな茶髪のはねっけ。そしてその手には、巨大な盾が握られていた。
 その異様な持ち物に、数度目を瞬かせる。しかし何度みても、盾は消えない。RPGの防具屋で買えそうな、丈夫そうで多少の飾りがついた金属の盾だった。デザインは天使の羽をモチーフにしているようだ。
「あの……あなた、誰ですか? わ、私たち、えっと。初めてこのゲームに参加して――」
 僕の背中に隠れながら、雛乃が健気に声をあげる。男はそんな雛乃の様子に目を止めると――。
「な、なんやー! 自分めっさ可愛いやん!」
 そんな言葉を叫んだ。
「は、はぁ……」 
 雛乃はパチクリと大きな目を動かしていた。
「なあなあ、嬢ちゃん名前は? あ、もちろんHNでええで?」
「えっと、みるく……」
「ほうほう! HNまで可愛いのう。俺はなー、『ジミィ』ってHNな! 正直あんま気に入ってへんけど、それでよろしゅう」
「あ、はい……えっと、ジミィさん」
 雛乃は、普段はもっと勝気な女の子だ。先ほども少しおとなしかったが、今回は輪をかけて弱気な反応だった。いわば、タジタジという状況だ。明らかに年上の男性に陽気な口調で口説かれて、どう対処していいか分からないのだろう。
「あの、あなたは嘘つきゲームの参加者ですか?」
 僕は雛乃をかばうように前へと一歩踏み出した。ジミィはムッと眉毛を動かした。
「なんや自分。そんなん、あたり前田のクラッカーやろ。この止まった空間で動いている人間なんて、問答無用でゲームの参加者。それは決定事項や。問題は、誰が人間で誰が悪魔か。それだけやろ?」
 鋭い眼光を向けられた。何かを探るような、疑り深い目だ。そして彼は早口で言った。
「なあ、ところであんたら、崎永遠音って知ってるか?」
「誰だそれ?」
「誰……ですか?」
「……ふーむ。……反応がほんにウブやなぁー。初参加ってのは、嘘じゃないんかあ? あんたら、二人とも?」
「わ、私たち、駅で待ち合わせしてて、それで突然……こんなことに」
「ふーむ……」
 ジミィは顎に手をあて、考え込むような仕草をした。それから不意に、
「なあ。あんたら、俺がなんであんたらに声をかけたか分かるか?」
「い、いえ、全然」
「それはだな、今回のゲームの参加者が四人やからや」
「四人? どうしてそんなことが――」
 分かるんですか、と訊ねる前に、ジミィはポケットから黒い携帯電話をとりだした。コインロッカーに入っていて、今、僕の尻ポケットにあるものと同じように見えた。
「この携帯電話でゲームの基本情報が確認できる。どうせこのゲームが終わったら伝えられるんだろうし教えておこか。パスワードは自分の一番大切だと思う人の誕生日や」
「自分が一番大切だと思う人……」
 不意に姉の顔が浮かんだ。姿は残像となり、一瞬で消えた。
「まあ、とにかくここに載っかっているデータによると、参加者は四人、悪魔は一人。ようするに、三人は人間チームなわけやな。はい、これで俺がなんであんたらに声をかけたか、分かるやろ?」
 当たり前のようにそう訊ねられた。僕はムッとして、必死に答えを考えたが、分からない。背後を振り返ると、雛乃は思案顔をしていた。やがて、自信なさげにぽつりと、
「ひょっとして、二対一に持ち込めるから、ですか?」
「おー! 正解! みるくちゃんは可愛いだけじゃなくて頭もいいねんなー。惚れちまうやろーっ」
「……はぁ」
 なんとなく、苛立ちが伝わってくる溜息だった。
「まあたとえばそこの男……そういえば名前なんだったっけ?」
「青鴉……」
「そう、青鴉くんがやね、悪魔やったとして。俺はみるくちゃんと手を組んであんたを殺す。これでゲームクリアなわけや。このゲームは個人の能力や戦闘技術の向上はあるけど、嘘をついて騙すという性質上、一番は数の有利なんやでー」
「……なるほど」
 このジミィという男は、どうやらかなりこのゲームに精通しているらしい。少なくとも、初参加ということは絶対的になさそうである。ならば――
「あの、一つ聞かせてください」
「なんや? 彼女ならおらへんで?」
「……このゲームって、本当に殺し合いなんですか?」
 出来れば、僕は否定の言葉が欲しかった。
「せやで」
 けれど返ってきた言葉は、あまりにも軽い肯定だった。

          ×××

「さーって、あんたらを信用することにしようかなぁ」
 ジミィはそう言った。階段をコツコツと降りて、ホームに立った。
「あんたらは二人仲良く初心者みたいやし? ……二人いっぺんに初心者ってのも、ちょっと変な気もするけど。まあてことは自動的に人間チームってわけや。嘘ついてるようにはまるで見えんし、ま、確定ってことで」
「は、はあ」
「とりあえず、武器をだしてみ? 戦おうって念じればでるから」
 コツコツと、ジミィは己の盾を叩いた。彼のその武器(?)もそのようにして出しているのだという意味だろう。
 戸惑いつつも、雛乃から離れて、念じてみた。
 ブワンっと、何かの起動音のような音がした。
「うわっ」
 そして、気づいたときには僕の手元に、二本の刀が握られていた。
「ほー。日本刀、しかも二刀流か。自分、顔に似合わずかっこええ武器やないの」
 ジミィが茶化すような声を上げる。続けて彼は雛乃に向けて顎をしゃくった。
「ほい、彼女もやってみー」
「は、はい」
 雛乃が一歩踏み出す。同じくブワンと音がして、彼女の手には巨大な西洋刀が握られていた。
「あー。こりゃまたけったいな武器やなぁー」
 ジミィはしげしげと、西洋刀を眺める。鋭い両刃の剣は、まるで勇者のもつ伝説の剣のようだ。ジミィの持つ盾と合わせると、なんだかしっくりくるような気がする。
「さて、武器もそろったし、行きますか」
 ジミィが言った。
「いったい、どこへですか?」
「決まってるやろ。残り一人を探すんや。あんたらは人間。そして俺も人間。そうなったら、あとは残りの一人が悪魔。三人で協力してソイツをぶち殺してやるんや」
 ぶち殺す。
 その何気なく吐かれた言葉に、僕はかすかに身震いを覚えた。
「あの、聞きたいんですけど」
「なんや? また質問か?」
「このゲームの初めに、殺しても生き返るって、言ってましたけど……」
「あー。それな。ほんまに生き返るで。安心せえ」
 雛乃と視線を合わせる。彼女は、ほっと息をついていた。僕も同じ気持ちだった。
「さーって、鬼ごっこの始まりや。で、ここにきて俺は囮作戦を提案したいと思う!」
「囮作戦?」
「そや。俺が囮になって一人で無警戒にぶらぶら歩くから、あんたらにはそれを護衛してもらいたい。自分らは知り合いのようやし、信頼できるやろ? 俺はあんたらを完全に信じたわけやないし、お互いの安全を確保できる。な?」
「……その言葉の裏は」
 雛乃がしずしずと口を挟む。
「裏切られた時に、真っ先に死ぬのは自分じゃないから?」
「正解」
 ジミィが言った。確かに一人でいれば、雛乃や僕が悪魔だとしたら狙われ難いだろう。先ほど彼は僕達を信用すると言ったけれど、それはきっと方便だ。ジミィは考えているのだろう。誰が悪魔だった場合でも、自分が損をしない方法を。
「……で、ここまで俺の思惑が分かって……どうする? この共闘、乗るか? 降りるか?」
 雛乃と顔を見合わせた。彼女は戸惑っているようだった。それは、僕も同じだった。
「あ、ちなみにこのゲーム、時間制限もあるからなー。たしか、ワンゲーム二時間までだったかな。あんまりに何にもしてないとペナルティもつくから気をつけろ? ゲームに参加する意思なしとみなされると――消されるで?」
「……青鴉くん、どうする?」
 じっと、上目使いで雛乃が僕を見つめてきた。僕は軽く顎を引いた。
「……やってみよう」
「よっしゃ! これより、仮人間チームの結成や。がんばろなー」
 ジミィの陽気な声が、ホームに響いた。

          ×××

 ジミィと別れ、僕と雛乃は物陰に身を潜めていた。ジミィは今、非常にゆっくりとしたスピードで、町田駅内を観光のように眺めながら歩いている。
 僕の手には二本の刀。雛乃の手には西洋刀。人を殺すための道具を握りしめながら、僕達はジミィを見守っていた。
「なんだか、おかしなことに巻き込まれちゃった……ね」
 雛乃が言う。微かに震えた声は、彼女の怯えを伝えてくる。僕はポケットから携帯電話をとりだした。すべての始まり。大切な人の誕生日がパスワード。『0923』と、姉の誕生日を入力した。
「あ」
 ロックが外れた。
『残り時間 1:17  現在参加者 悪魔一人 人間三人』
 と、黒いバック画面に血のような赤い文字で書かれている。
「みて、みるく」
 彼女に画面を差し出すと――
「? 真っ黒だよ?」
 きょとんと雛乃はそう言った。
「え? いや、ここにさ――」
 書いてある内容を説明する。しかし、雛乃にはやはり画面が真っ黒に見えるのだという。もしやと思い、彼女に自分の携帯電話を確認するように言ってみた。彼女は僕から見えないようにパスワードを打ち込んだ。それから、
「あ。本当だ。言われた通りのことが、書いてあるよ」
 雛乃が携帯画面を向けてきた。その画面は、彼女のいうような真っ黒なものだった。どうやら携帯は、他人には見えないようになっているらしい。
「とりあえずこれで、ジミィさんが言っていた事の裏がひとつとれたな」
「そうだね」
 携帯を軽くいじる。他にもルールの説明画面があるようだった。
【・悪魔は人間の1.5倍の戦闘力を誇る
 ・悪魔が悪魔を殺すのは反則
 ・人間の特殊能力には制限がある。ゲーム参加者数が四名以下の場合は能力なし
 ・悪魔が人間を騙し仲間割れを起こさせた場合、ポイントにボーナスがつく
 ・全員生き残り状態で人間が悪魔を殺した場合、ポイントにボーナスがつく】
 僕はさらに続きを読み進めようとしたが、雛乃が「やばい。移動しているよ」と僕を急き立てた。しかたなく、携帯はポケットへと突っ込んだ。改めて、二本の刀を構えて移動する。ジミィは今、JR町田駅の出口付近を歩いていた。待ち合わせにも多用されるスポットで、奇妙な形をしたオブジェがある。
 この先に進むとさらに別の線へと続く改札口があるのだが、彼はこの場所でしばらく相手を待ち伏せるようで、うろうろと徘徊を始めた。僕達は手頃な影に隠れて、二人で身を潜める事にした。
 ジミィの背中に視線を注ぎつつ、ごくり、と唾を飲み込む。そんな緊張感の中、何かが僕の右手に触れた。視線を向けると細く白い手が、そっと覆いかぶさっていた。
「……みるく?」
 声をかける。彼女は硬い表情で、じっとジミィを見つめていた。
「なんだか怖いね……」
 ぽつりと彼女が呟く。
「人が止まってるの、やっぱこれ、現実……なんだよね?」
 震えていた。重ねた手のひらの微かな振動は、彼女の怯えを確かに伝えてくれる。僕は反対側の手を握りしめた。力強く拳を握り、絞り出すように言葉を吐く。
「なんかさ、思い出さない?」
「え?」
「小学校のときの、かくれんぼ」
 上手く笑えているか分からなかったけれど、笑顔を作った。
「ほら、中庭の小屋の影に二人して隠れてさ。そんで、お互い押し合ったりして。『どーして同じところに隠れるの!』『うっせぇ、ここが一番ばれなさそうだろ!』って」
「ああ……」
 くすっと、彼女の口元から笑みが零れる。懐かしい思い出で、心が少しでも軽くなればと僕は思った。少し安心して、再び警戒態勢に入る。
 と――
「あ」
 そのとき、遠目に一人の少女の姿が見えた。固まったまま動かない蝋人形たちの間をすり抜けて、ふわりとした優雅なスカートを揺らしている。まるでフランス人形のようにふうわぁとカールした、セミロングの金髪をもった少女だった。そのどこか現実離れした髪を彩るように、派手な色のカチューシャをつけている。身に着けた服も高級そうで、まるでどこかの財閥の令嬢のような印象すら受けた。しかし――その印象のすべてを覆すように、少女の手には鎖鎌が握られている。
「……あれが、もう一人の参加者か」
「そうだね」
 ごくりっと、雛乃が唾を飲む音が聞こえた。雛乃と僕は初参加者だから人間チーム。そんな僕達に親切にいろいろなことを教えてくれて、協力を仰いだジミィも人間チーム。そうなれば、あの可憐な少女こそが、悪魔。
 ジミィと彼女は、まだお互いの存在を認識してはいないようだった。彼女はあちこち、全体に注意深く視線を向けている。ジミィはどこか気が抜けたように、ぼんやりと遠くを(囮のために)眺めている。
 仕掛けるのは、僕達の役割だった。
『俺が隙をみせるさかい、残りの参加者が襲って来たなら、悪魔確定やから。よろしゅうなー』
 ジミィと僕達の距離は、ほどほどに離れている。いつでも駆けつけられるが、相手からは見つかりにくいような位置。そんなポジショニングでジミィの背中を、雛乃と二人で見守っている。
 少女が動きを止めた。ジミィの存在を認識したからだ。彼女は鎖鎌を持つ手に力を込めたようだった。一歩一歩慎重な足取りで、彼の方へと近づいていく。そして、ジミィの方も彼女に気がついた。はたと動きを止める二人。そこで、一言二言、言葉が交わされたようだった。
 そして、少女が動き出す。分銅をジミィに向かって投げつけた。
 明らかな攻撃動作に、雛乃と僕は飛び出した。日本刀を二つ抱えての疾走。不慣れな僕はふらつきながら走る。背後をちらりと振り返ると、雛乃も同じようだった。両手で重そうな西洋刀をしっかりと握り締め、引きずるような姿勢で走っている。
 そんな俺たちの存在に、少女はハッと気がついた。ふわりとした金色の髪が舞い、大きく緑の瞳が見開かれた。
「わ、わたくしは、人間ですわ!」
 少女が叫んだ。突然の襲撃者に驚き、とっさにそう叫んでしまったのだろう。
 ――しかし、その判断こそが致命傷。
 少女は盾の突進によって五メートルほど吹っ飛んだ。ジミィが横から、彼女へと突進を繰り出したのだ。
 少女は町田駅の停止した人間の一人にぶつかり、衝撃を受けうめいて、そのまま床に落ちた。
「よおっしゃああ」
 ジミィが勝利の雄叫びを上げながら、追い打ちをかけるために踏み込んだ。僕は立ち止まり、目の前でくり広げられる戦闘に唖然としていた。雛乃も僕のすぐそばに並び、同じように唖然としているようだった。
「姉ちゃん、悪く思うなよ?」
 盾を横に構えプレス機のように、ジミィはそれを少女の顔面へと振り下ろした。ぐぎゃり、と。悪夢のような響きが走った。
 真っ赤な血が。
 血が、駅の冷たいコンクリートへと広がっていく。少女の顔は潰れていた。ものの見事に潰れていた。体は無事なのが逆に歪で奇妙なその物体は、明らかに死体だった。
 口元を抑える。
 少女の翠の瞳は飛び出していた。少女の脳漿は飛び散っていた。少女の耳はひしゃげていた。
 僕はふらつきながら、とにかくここを離れようと思った。雛乃はまだぼんやりと少女を眺めているようだった。
 歩く。歩く。情けない姿を見せたくなくて、とりあえず少しでも遠くへと行きたかった。けれど、ほんの二メートルほどで立ち止まる。こらえきれない。だから、ただ背を向けて、僕は胸につまったものを吐き出した。
「う……、う、うぇぇぇ…………ッ。ウ、う、ウ、ェェ…………」
 饐えた匂いが立ち上る。
 わけが分からなかった。
 突然こんな世界に巻き込まれて、人殺しを命じられて、そして実際に、目の前で人が死んで。
 ぐらぐらと、ぐらぐらと、視界が揺れる。脳みそも揺れる。死んで、何一つ考えることができなくなり、僕は揺れている。揺れている。
 口元を拭った。
 吐き出したことで、少しは落ち着いてきたような……そんな気がする。僕は立ち上がった。いつの間にか膝をついていたらしい。
 何はともあれ、これで終わったのだ。とにかく、僕はこの異常な空間から一刻も早く逃げ去りたいのだ。振り返る。そこには、やはり唖然とした顔の雛乃と、どこか意気揚々としたジミィが立っていた――はず、だった。
「え……? 雛乃……?」
 思わず、本名で呼びかけた。彼女は、立っていた。両手で剣を握りしめて、どこか唖然とした表情で。
 そして、その剣には、べっとりと赤い血糊が張り付いていた――。
「……あ、あのね、こ、これね……っ」
 雛乃の声。
 彼女の足元には、どくどくと血を流しながら倒れる、ジミィの姿があった。
 コロシタ。
 一瞬ではじけた。
「あ、あ。あ、ア……」
 嘘つきゲーム。その言葉が脳内で点滅する。雛乃は、獅子川雛乃は、果たして本当に初参加者だったのだろうか? 同時に二人も初参加者がいるなんて。ジミィの言葉を思い出す。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。
 繰り返す僕の脳内に、姉の姿が蘇った。部屋に閉じこもる数日前に見せた、悲しげで儚そうな表情。
『わたしね……信じてたんだよ。心の底から、大好きで――。でも結局、裏切られちゃった――』
 彼女の絶望を思い出すと、僕の中でカチリとスイッチがなった。
 日本の刀を握り締める。切っ先をびしりと、雛乃に向ける。
 彼女は大きく目を見開いた。
「ち、違う! わ、私じゃない! じ、ジミィさんは、なんか急に勝手に倒れて――っ!」
 雛乃が弁明の言葉を喚く。僕の心は揺れていた。ぐらぐらと。
 しかし、この状況を見てなお、僕は雛乃を信じるほど、お人好しではない。
 僕は、姉とは違う。最後まで信じて、最悪まで傷ついたり……しない。
「う、ゥあああああああああああ!!」
 叫びながら、跳躍した。
 刀を、彼女の首筋に振り下ろす。人を切る、嫌な感触がした。無我夢中で振り下ろしたその刃は、鮮やかに彼女の首を切り裂いた。喉がぱっくり開いた切り傷から、真っ赤な血が、まるで噴水のように吹き出す。
 雛乃は、ゆっくりと地面に倒れていった。
「ハァ……はぁ……はぁぁ……っ」
 荒い呼吸を整える。僕が、殺した。殺されないために。雛乃を。
「くそ……っ! なんなんだよ! いったい、このゲームは!」
 叫んだ声に――
「始めっから言われてんだろ。これは、嘘をつくゲームだ」
 返事が、来た。それは、ひやりとした刃物を背中に突きつけられたような、鋭利で冷たい声だった。聞いたことのないような。けれど、どこかで聞いたことのある声。
 振り返る。
 そこには、ジミィが立っていた。
「……え?」
「種明かしをすると、って、あんまり馬鹿らしいからしたくねーけどよ。ほら、これな」
 懐からズルリっと、ジミィは分厚いビニール袋を取り出した。輸血パックのように、血液がタプタプと入っている。
「まあこれは予備の袋な。さっきもう一つの袋を破裂させたんだ。仲間割れをさせるとポイント倍増。あの女とお前と、どっちが生き残るかと思ったが、やはりお前が裏切ったか、青鴉。ついでにほかの部分も解説しておこうか。関西弁はてめーらに取り入るための演技だな。明るく見えていいだろう? それから、金髪カワイ子ちゃんが襲ってきたのは、『俺は悪魔だ。残りの二人は殺した』と伝えたからだ。あたりまえだよな。そうなや、一対一でも戦いに来るさ」
「あ……う、ぁ……」
 喉から嗚咽が漏れる。頭の中が真っ白になり、思考が瞬時に凍結する。
「ふんじゃ、さいならー」
 作ったような関西弁で、ジミィはそう言った。彼は、そして跳躍した。人間業とは思えないほど、高く、四メートル近く跳躍した。
 とっさに、上を見上げる。
 僕が最後にみた光景は、自らへと迫りくる大きな盾という鉄の塊だった。

 ―――GAME OVER―――
 【青鴉】 獲得ポイント   -20 
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 第二章・LYRIC

 白い光に包まれていた。
 光はだんだんと弱くなっていき、視界が色づいていく。がやがやという喧騒が耳に触れる。開けた視界に、せわしなく歩き続ける町田駅の人ごみが飛び込んできた。
「あ、あれ……?」
 僕は立っていた。振り返ると、例の『13番』のロッカーが蓋を開いて待っていた。中身は空っぽで、金のプレートが扉に差し込まれたままだった。百円玉も、置かれたままだ。手元に視線を落とす。黒い携帯電話を、僕は握りしめていた。
「……夢じゃない?」
 背筋がぞっとした。自分の命が絶たれた瞬間を思い出し、肩を震わした。がちがちと不愉快な音がした。それが僕の出す噛み合わない歯の音であると気づいたとき、再びぞっとした。
「雛乃――」
 そんな中、ひとりの少女の顔を思い出した。獅子川雛乃。僕が、あのとき――
「う、ゥゲええええええェェェ」
 しゃがみこんで嘔吐した。胃の中にあった食べ物が駅構内の床へとばらまかれる。つんと鼻をつく酸っぱい臭いに僕は再び気分が悪くなった。そんな僕を指差しているのか、声が聞こえる。
「何あの人吐いてるの?」
「きったねー」
 こんな状況だというのに、腹の中がムカムカとした。しかし嘔吐は止まらない。そんな中、ふわっと背中に暖かい感触が訪れた。
「大丈夫ですか?」
 優しい声と共に、ゆっくりと暖かさが上下する。どうやら背中をさすってくれているらしい。不覚にも、涙が浮かんできた。見ず知らずの嘔吐少年を介抱してくれるこの人は、きっと天使に違いない。
「あの……ありがとうございます」
 一通り吐き終え、首元を軽く袖で拭いながら僕は振り返った。そして、大きく目を見開いた。目の前の彼女も同様だった。
「…………」
「…………」
 言いようのない沈黙の時間が訪れる。僕の元へと舞い降りた天使は、ふわぁとカールしたセミロングの金髪をもった少女だった。頭には、派手な色のカチューシャを身につけている。そして彼女の瞳は、深い森の中を思わせる、モスグリーンだった。
 ぱちくりと。
 神秘的な色合いの瞳を彩る、長いまつげが上下する。そして彼女は――
「あああーーーっ!!」
 叫んだ。一斉に、町行く人の視線が突き刺さる。しかしそれは一瞬で、すぐに興味をなくしたように目を背ける人が大半だった。
「ちょ、あの!?」
「あああああ! あ、あの! あな、あなたは! う、うわあ……っ」
「あの、とにかく落ち着いて!」
 僕は少女の肩を慌てて抑えた。その拍子に、口元に残っていた吐瀉物が彼女の白い頬にはねた。
「う、うわああああああッ」
 少女の瞳が、ぐるぐると回る。彼女は暴れながら、僕の両手を振り払った。
「汚いですわ!」
 彼女はパチンっと、僕の右頬を平手で叩いた。言われてみれば、彼女を抑えた腕にもゲロがついているんだった。さっき袖で拭ってしまったから。
「ご、ごめん! ほんとにごめんなさい!」
 右頬の痛みを感じながら、頭を下げる。低姿勢な僕を見てか、少女はだんだんと荒い呼吸を下げていった。
「……あなた、さきほどのゲームの参加者……ですわよね?」
 落ち着きを取り戻した少女が、最初に口にした言葉はそれだった。僕は頷いた。
「あのゲームの参加者と、こうして外で合うのは初めてですわ」
「……そうなの? ねえ、君はどれくらい、あのゲームをやっているの?」
「……今日で、三回目でしたわ」
 少し考えてから、彼女はそう口にした。どこかしら、警戒心のこもった口調だった。
「僕は、あのゲームに初めて参加したんだ。ねえ、知ってることを教えてくれないかな?」
 それは、とっさに出た言葉だった。暗闇のそこに垂らされた蜘蛛の糸に、反射的に手を伸ばすようなものだ。
「…………」
「頼むよ!」
 頭を下げる。
「ごめんなさい」
 突き放す声が聞こえて、この場を足早にさる音が聞こえた。顔をあげると、ふわりとスカートを揺らしながら走る少女の後ろ姿が映った。
 唇を噛み締める。このわけの分からない状況に、いったいどう対処していいのか分からなかった。
 そのとき、ポケットで振動が起こった。同時に、メッセージアプリの着信音。
 僕はポケットから自分の携帯電話を取り出した。雛乃から、メッセージが入っていた。

『許せない』

          ×××

 駅員さんに謝って吐瀉物の報告をしたあとに、僕はフラフラと雛乃との待ち合わせ場所に向かった。すれ違う人の大半が、僕の臭いに不快感を覚えたらしく、顔をしかめた。
 それでも、改札前に立った僕は未練がましくも、その場に立ち尽くしていた。
 ――なんて都合のいい男だろう。
 自分でそう罵って、自分で落胆した。雛乃から送られてきた、『許せない』の四文字が心に突き刺さる。
 どうして、僕はあんなことをしてしまったのだろう。雛乃は僕を、裏切ってなんかなかったのに、どうして彼女を信じきれなかったのだろう。
 それは、あの特殊な環境のせいであると言い切るのは難しくないように思えた。
 しかし、その安易な逃げ道に駆け込んでしまっても構わないのだろうか? 自分で……自分が許せない気がするのは、なぜだろう。
 記憶の隅で、何かが輝いた気がした。「約束して」と雛乃の声を思い出した。あれは、たしか――。
 しかし僕は、それを思い出すことができなかった。
 出口のない思考をいつまで続けても、白いシフォンワンピースを身にまとった少女は現れない。
 仕方なく、とぼとぼと帰路につく。
 その通り道に、あの少女と雛乃と、そして僕が死んだ場所を通ったが、床が粉砕された形跡や吐瀉物の跡、血の海などは形もなく、ただいつも通りの広場とオブジェがそこにあった。
「ただいま」
「おかえ……て、直也どうしたの? 吐いたの?」
 顔をしかめながら母が言う。僕は曖昧にうなずいて、シャワーを浴びると言ってその場を離れた。二階の自室からシャツと短パンを手に取り階段を下りた。風呂場に入り、服を脱ぐ。汚れた服をバケツにいれて、洗剤を垂らして水につける。下着をとって風呂場に入った。シャワーのノズルを回す。冷水で顔を洗った。冷たい水の感覚が、少しずつ僕の熱を、霧を、晴らしてくれるようだった。
 ラフな服装に着替えたあと、僕は再び二階へと上がった。途中で立ち止まる。姉さんの部屋の前だった。『あおいのへや』とポップでカラフルな文字がプレート上で踊っている。それを数秒眺めたあと、自分の部屋へと入り、ベッドに寝転がった。
 そのタイミングで――
『りりりりりりりん! りりりりりりりりりん!!!』
「うおっ」
 携帯電話が鳴った。例の女の子の声だった。黒い携帯電話を手に取る。画面に、初めの時と同じ手紙のようなデザインの背景の上に、ゴシック体の文字が浮かび上がっていた。
『初ゲームお疲れ様でした! (_´Д`)ノ~~オツカレー
 さてここで基本ルールの開示です。この携帯電話にかかったパスワードは、あなたがもっとも大切だと思う人物の誕生日を四桁の数字で表したものです。七月九日が誕生日なら、『0709』といった要領ですよ? この携帯によってゲームの様々なルールが得られますので、これからの戦闘に役立ててね~☆
 加えて、加えて、このゲームの最重要ルールを説明!
 このゲームをクリアしたものには、あなたが望む世界がまるごと与えられマース! ぱんぱかぱーん!
 そしてそして、累計ポイントが0になったプレイヤーはこの世界から存在を消されてしまいます!(例外を除く)
 きゃー怖いよぉ(ブルブル) さあ青鴉さん、存在を消されないために頑張ってね?』
 ある一文に、釘付けになった。

 ――あなたが望む世界がまるごと与えられる。

 夢物語のような話だ。
 たくさんの可愛い女の子に好かれる世界であったり、巨万の富を持ち、際限ない贅沢をできる世界であったり、永遠に生き続けられるような世界であったり。
 そんなものまで、望めば手に入るとでも言うのだろうか。
「ばかばかしい」
 呟きつつも、その言葉とは正反対に僕の心はうずいていた。
 人が動きを止めた、町田駅の構内。念じれば手元に現れる武器。いつの間にか戻っていた、戦闘の痕跡。
 それらの行いは、そうまるで、古の神のしわざであるかのようだった。
 ならば――ひょっとしたら。この夢物語は、真実なのではないだろうか。なんて……。
「……ばかばかしい」
 そこまで思考を進めておきながら、僕はそう吐き捨てた。望む世界をまるごと全部だなんて、与えられるわけがない。
 それに、もしそれらを真実とするならば。

 ――累計ポイントが0になったプレイヤーはこの世界から存在を消されてしまう。

 この言葉もまた、同様なのであろうから。
「いっそこんなゲーム、やめたいなぁ」
 つぶやくと、黒い携帯電話に反応があった。
『あ、伝え忘れてた忘れてた。このゲームを放棄すると、とんでもないことが起こりますよ? 具体例→死亡(*´∀`)』
 ふざけた携帯電話のふざけた言い草に、僕はいっそ脱力した。こんな大規模なゲームを仕掛けてくる人間だ。それくらいのことは平気でやってのけるぐらいの狂気を、当然のように持ち合わせているのだろう。
 いったい、僕はこれからこのゲームとどう付き合っていけばいいのだろうか。
 そんな物思いにふけっていると、控えめなノックの音が聞こえた。「お兄ちゃん? 入っていい?」と、妹の声が扉越しに聞こえる。
 身体を起こし、扉を開いた。茶色がかった黒髪を高い位置で二つに結んだツインテールの少女――紅那(くな)が立っていた。
「どうしたんだ、紅那?」
「うんっ。とくに用事はないんだけどね。たまには顔を見せないとって思って」
「は――? 何言ってんだよ紅那。いつも顔合わせてるじゃないか」
「うん……。そうなんだけど……。なんかお兄ちゃん、ゲロ吐いて帰ってきたんだって?」
「あぁ……」
 片手で頭を抑えた。あのおしゃべりな母親は、あっさり妹に話したらしい。別に口止めしたわけではないが、少しは兄の名誉というものも考えて欲しいところである。
「大丈夫?」
 紅那は、けれどからかうような姿勢は見せなかった。ただ、心底心配そうに、大きな瞳で小首をかしげながら僕を見上げた。
「……大丈夫だよ。そんなに心配しなくても」
「本当に?」
「念入りだな……」
「いやぁー、お姉ちゃんが閉じこもる前にも、こんなことがあったからさっ」
 あえてだろう。やけに明るく紅那が言った。
「こんなこと?」
「え、知らないの? 吐いて帰ってきたこと。すごく顔色が悪かった」
「そんなことがあったんだ」
「うん。女の子のことだからって、お兄ちゃんには伝えなかったんだろうね」
「男女差別の母親め……」
 僕はため息をついて、紅那に心配してくれてありがとうと伝えて扉を閉めた。

          ×××

 いつものように七時頃に父さんが帰宅した。母さんが用意していた夕ご飯を並べる。今夜のメニューはサラダとから揚げ、そしてみそ汁だった。白米を口に頬張りながら、四人でテレビを眺めつつ会話をする。
 テレビ画面には、ここ一年で人気が出てきた十六歳のタレント少女が映っていた。
「かわいいねぇー。相田花蓮ちゃん! もう、キュート&プリティーで思わずペロペロしたいくらい!」
 母さんがうっとりした眼差しでそんなことを言う。父さんは少し、むっとしているようだった。
「そんなに可愛いかね、この子」
「何言ってんのよあなた! このくりくりの大きな瞳! 程よい長さのボブカット! まるでさくらんぼも入らないような小さなお口! とってもとっても可愛いじゃない!」
「……そ」
「…………あれ? なに、もしかしてすねてるの?」
「……」
「ねえ、ねえ、すねてるの?」
 母さんがつんつんと肘で父さんをつつく。父さんは顔を若干赤めつつも満更でもない雰囲気だった。
 いい年こいてなにやってんだか、と思わないこともないが、両親の仲が良好なのは悪くない。僕は無表情を意識してからあげに箸を伸ばした。
 父さんと母さんは、前はこんな感じではなかった。仲が悪かったわけではないが、ここまで熱々というのは、姉さんが部屋に引きこもって以来のことだった。仲の悪い国同士に手を取り合わせるには、共通の敵を作るのが一番という理屈は、一般家庭でも採用されるらしい。
「まあでも、花蓮ちゃん良いよねー。可愛いだけじゃなくって、性格も良いし! うちも大好きだよー」
 紅那が両親の会話へと混ざっていく。いつもなら僕も適当に参加するのだが――
「ごちそうさまでした」
「あら直也。おかわりはいいの? からあげは大好物じゃない」
「うん……今日はちょっと、食欲がなくて」
 実際、茶碗の中も半分ほどが余っている。申し訳ないと思いつつ、食べる気がしなかったのは事実だ。
「あら。夏バテにしては早いんじゃない?」
「そんなんじゃないよ」
 ただ、人の死体を見ただけだ。人を殺しただけだ。人に殺されただけだ。
 そんな言葉を思い浮かべて、喉の奥が再び気味悪くうごめいた。僕は立ち上がり食器をキッチンへと運び、家族に声をかけて自室に上がった。
 そのままベッドに倒れこみ、僕は泥のように眠った。

          ×××

 翌日。六月三十日の日曜日。
 僕の目覚めは最悪だった。
 なにせ起きた瞬間に不愉快になるほど、汗でシャツがべったりと身体に張り付いていた。それに、夢も見ていた。僕が雛乃を殺す夢だった。
 何度も、何度も、何度も、何度も。
 僕は夢の中で、雛乃に刀傷をつけた。
 首筋に振り下ろし、返す刀で腹を裂き、もう片方の手で彼女の左目に切っ先を突き刺さした。
 夢にしても――ひどく気分が悪くなる。
 自分の脳みそが、忘れるなと警告しているかのようだった。あの時、雛乃を裏切ったことを忘れるな、と。
 姉の姿が脳裏に浮かび、ありえない状況に圧迫され、思わず彼女を手にかけてしまった。あの時は、それだけが生き残る道に思えたが、あの場から離れた冷静な僕は、何か別の方法があったのではないかと後悔するばかりである。
「はぁぁ」
 ため息をつきながら天井を見上げる。こうして何もしないで寝転がっていると、思い浮かぶのは昨日のことばかりだった。
 僕は立ち上がり、シャワーを浴びることにした。そのまま外出着に着替えて、外に出る。
 天気は、腹の立つほどの晴天だった。適当に駅前に出ようと歩き出す。とにかく、気の紛れることがしたかった。カラオケに行こうかとぼんやり思いつく。
 歌うことは好きだ。うまくないとは思うけれど、そんなことは関係がない。ただ、腹の底から声をだし、頭の中のぐちゃぐちゃを外に追い出したいのである。
 カラオケ店へと向かう途中に、公園を通りかかった。そこでは幼稚園から小学生低学年とみられる男の子と女の子が、二人でブランコに乗っていた。
 僕と雛乃も昔、あんな風にブランコに乗っていた。雛乃はうまくブランコが漕げずに、勢いがつくまで僕が背中を押してやるのが常だった。あまりに強く押しすぎると、雛乃は怖いと泣き出しては、ブランコから降りたあとに僕をなじった。けれどすぐに泣き止んで、彼女はまたブランコに乗ると笑うのだ。
 幼い頃の雛乃の笑顔を思い出して、僕はキュッと切なくなった。
 と、勢いがつきすぎたブランコから、男の子が倒れ落ちた。あっと思った瞬間に、その子が泣き出す。隣の女の子が慌ててブランコから降りるが、何をしていいのか分からないのであろう、うつ伏せのまま倒れた男の子のそばでうずくまり、彼女もまた泣き出してしまった。
 僕は彼らに近づいた。そしてしゃがみこみ目線を合わせ、「大丈夫」といって女の子の頭に手を乗せた。続けて、男の子のわきをかかえて起き上がらせる。地面に座らせると、膝小僧に痛々しいカスリ傷があった。
 痛い、痛い、という男の子に、僕は鞄からハンカチを取り出した。水道場でハンカチを湿らせて、膝小僧に当てる。肩をびくりと震わせ、泣き声がひどくなったが、きちんと泥を拭わなければバイ菌が入る可能性がある。本当は消毒までしてあげたいけれど、残念ながら持っていない。このままハンカチを巻きつけて応急処置を終わりにしよう――そう思っていた僕の背後から、影がさした。
「少々、どいてくださいますか?」
「え?」
 声に聞き覚えがあった。振り返ると、派手なカチューシャをつけたセミロングの金髪少女が立っていた。
 彼女は返事も聞かずに僕を押しのけ、男の子の前にしゃがみこんだ。そして、シンプルな茶色のポシェットから消毒スプレーを取り出した。
「ちょっと染みますが、我慢してくださいですわ」
 そう言ってから、頭にぽんと優しく左手をおいて、膝小僧にスプレーを吹き付ける。男の子は辛そうだったが、乗せられた手が安心感を与えるのか、泣き声は大きくならなかった。彼女は消毒スプレーをポシェットにしまうと、続けて絆創膏をとりだした。
「はい」
 ぺたっと、彼女は男の子の膝にそれを貼り付ける。「わあかわいい……」と女の子が声をもらした。絆創膏にはなにやらふわっと手を動かした三匹のパンダと蝶々が描かれており、たしかに可愛らしい。
「よしよし」
 男の子の頭を、彼女は撫でる。「ありがとう、おねえちゃん」とまだ泣き声混じりの声で男の子はそう言った。女の子も、ありがとっと頭をさげる。なんだか、心温まる瞬間だった。
「さて」
 そんな中、彼女が僕を振り返る。モスグリーンの瞳で真っ直ぐに、僕の瞳を射抜く。
「少々、わたくしとお付き合いしてくれますか、『青鴉さん』?」

          ×××

 男の子たちと分かれ、僕たちはカラオケ店へとやってきた。なにかご予定がありましたか? と聞かれ、ひとりでカラオケに行くところだったと答えたのが原因だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 ドリンクバーから彼女がとってきてくれた、注文通りのオレンジジュースを飲む。緊張で張り付いた喉に、甘いオレンジジュースは相性が悪かった。
 緊張――。
 カラオケボックスという密室で、出会ったばかりの可愛い女の子と二人きり。しかも部屋の構成の問題で、彼女の席は僕と三十センチほど離れた右隣だった。
 期待できるような間柄でもないのに、不覚にも僕はドキドキしていた。ちらりっと、上目遣いに少女を見る。彼女は僕を見ていたらしく、ぱちりと目があった。そして彼女は口を開く。
「……わたくしの名前は分かりますか?」
「……知らない。そういえば、君はどうして僕のHNを知ってるの?」
「簡単です。ゲームの終わりに参加者の名前と顔写真の一覧が手に入りますわ」
 そう言うと、彼女はポケットから黒い携帯電話を取り出した。僕が持っているものと、全く同じデザインだった。
「ほら」
 見せてくれた画面には、確かに一覧表があった。【青鴉】【みるく】【ジミィ】と参加者のHNと顔写真が並んでいる。
 一番上に、彼女の顔写真があった。
「【都(みやこ)】?」
「はい。わたくしのHNですわ。ゲームの参加者ですから、お互いHNで呼び合いましょう? そして……本名は、名堂郁子(などういくこ)」
「名堂……郁子……?」
 記憶の端に、ちかちかと点滅するものがあった。名堂郁子。名堂。
「……あのー」
 僕はおそるおそる手を上げる。彼女の身につけている服装がやけに高価そうであることを改めて確認してから、
「ひょっとして、名堂財閥と関わり合ったりしますかー……?」
「はい。その通りですわ」
 都さんは、とくに何でもないことのようにそう言った。
「そっすか……」
「はい」
「え、ええええええええええ!!」
「ふむ。ひと呼吸おいて驚くとは、なんともベタな反応ですわ」
 にこりと上品に笑いながら都さんは首をかしげた。そんな彼女を眺めつつ、僕は驚きが止まらない。名堂財閥といえば、輸入産業で破格の富を築き上げた日本屈指の資産家である。
「え、えーと、で、都さんは……」
「分かりやすく言うなら、社長令嬢ですわ」
 ぶっと唾を吐き出した。名堂さんは少しだけ片眉をひそめたが、それだけで文句のひとつも言わなかった。礼儀正しい教育が伺える瞬間だった。
「ええと、それで青鴉さん。こういってはなんですが、お返しに、あなたも名前を教えていただけますか?」
「あ、はい。荒木直也です」
「そうですか。うん。覚えましたわ」
 こつこつと、こめかみを人差し指で叩いて都さんが言った。それから不意に瞳の輝きが変わる。モスグリーンの瞳の奥。その瞳孔が開かれ、真摯な眼差しが現れた。
「さて、青鴉さん――」
「……はい」
 唾を飲み込みながら答えた。
「わたくしと――手を組んでくださいませんか?」
 そして、彼女が放ったのはそんな言葉だった。三度瞬きを繰り返す。
「手を組む……ですか」
「はい。そうですわ」
「い、いやでも、次のゲームがどうなるか分からないわけで、っていうか、あの戦いがまたあるんですか……?」
「ゲームは三日に一度。最初、そう宣言されたはずですわ」
 したり顔でそういって、都さんはカップに手を伸ばした。彼女はドリンクバーのコーナーで、温かい紅茶を入れてきていた。六月末とは言え、カラオケボックス内はクーラーが効いている。彼女の半袖から除く白い素肌には、微かに鳥肌が立っていた。
「……手を組む、ですか」
「はい。手を組めば、勝利に近くなる。勝利に近くなれば……存在を、消されることもありませんわ」
 軽く唇を噛み締めて、都さんは斜め下に視線をそらした。声はかすかに震えていて、彼女の怯えを如実に表しているかのようだった。
「……ねえ。……やっぱり、本当に消されるの?」
「…………分かりませんわ」
 分からないから、怖いのです。
 ぽつりと都さんが続けた言葉が、耳の奥に響いた。彼女はそのまま、鳥肌がたった肩を交差させた手で抑え、自分を抱きしめる。震えていた。小刻みに振動する小さな少女の身体は、思わず抱きしめたくなるくらい、弱く見えた。
「わた、わたくし……。最初のゲームで負けてしまって……っ。次のゲームも、そして、この間のゲームも……っ。もう、後がないのです」
「!」
「なりふり構ってなどいられないのです。今日、と昨日、二度もあなたと出会って……。運命、だと思いました。ああ、どうか!」
 ふわっと、良い香りがした。なにかの花の香りのようだった。上品で、それでいて甘いその香りは、僕の脳内の刺激を確実に助長していた。
「あ、あの、都さん!?」
 彼女は、僕に寄りかかっていた。決して大きくはないが確かにある胸の感触が、心臓の音を高鳴らせる。
「お願いです。どうか、わたくしと手を組んでください……」
 右耳に甘い吐息とともに、そんな言葉が囁かれた。
「わたくしは……ただ、普通の女の子のような生活をしてみたかったのです。起きる時間も、眠る時間も、勉強も習い事も、――交際相手ですら、押し付けられるような名堂の家から解き放たれて、もっと自由に振る舞いたいと思っていただけですわ」
「……? どういうこと?」
「ああ。ご存じありませんか……。あのゲームは――こんな世界だったらと、何かを強く望む人の前にしか現れないそうです」
「望む世界――」
 僕が望むもの。
 姉さんが、傷つかなかった世界。めんどくせえなと悪態をとりながら、一緒に買い物にでも行ける世界。
「あなたが望む世界と、わたくしが望む世界――」
 ずいと顔をよせ、都さんは僕に近づいた。お互いの鼻息がかかる、唇が触れ合う寸前のような距離感。
「一緒に、叶えませんか?」
 潤んだ瞳で、彼女はそう言った。

          ×××

 結局一曲も歌わないままカラオケボックスを出た。日差しがほぼ垂直に僕の元へと降り注ぐ。都さんは、まだカラオケボックスの中にいた。どうやら一度も来たことがないらしく、部屋代をもつ代わりに残させて欲しいと言われたのだ。二人で歌う空気にはもちろんなるわけもなく、僕はすごすごと請われるままに部屋をでた。帰りがけにアドレスを交換した。女の子のアドレスが連絡帳にひとつ増えたことは嬉しかったが、それ以上に複雑な心境だった。
「あついな……」
 額をぬぐい、歩き続ける。どこに行くあてもない僕は、お腹がすいたので家に帰ることにした。帰宅の挨拶をして玄関を開けると、ちょうど妹が家を出ることころだった。手になぜか、高級菓子店の紙袋を持っている。
「あ、お兄ちゃんっ」
「紅那、どこに行くんだ?」
「うん! あのね、あのね、これから雛姉のところに行くんだよ!」
「え――?」
 驚きに目を丸くさせると、妹がさらに目を丸くさせた。「あれ? 聞いていないの?」と、小首をかしげる。
「雛姉、町田に戻って来たんだよ。結局、お父さんのところに引き取られることになったんだって」
「は……?」
「昨日、会ったんじゃないの?」
「い、いや」
 お茶をにごす。会う事は会えたが、あの異様な世界でだけの話だった。まさか、町田に戻ってきているとは、考えもしなかったことだ。
「うーん。まあいいや。ねえお兄ちゃん、一緒に行こう?」
「え」
「お母さんに挨拶してきなさいって言われたけど、なにせ久しぶりだし。お兄ちゃんと一緒なら気兼ねなく雛姉に話せるってもんなのだよー。あ、この紙袋の中、もちろんクッキーね? 高級クッキーの詰め合わせ! きっと雛姉、飛び上がって喜んでくれると思うんだーっ」
 無邪気な笑顔でにこにこと、妹はツインテールを揺らす。
「……ごめん、僕はいけない」
 ぴたりと、そんな彼女の動きが止まる。
「え? どうして?」
「うん、ちょっと……」
 再びお茶を濁す僕の手を、妹は唐突に握りしめた。そして小首をかしげつつ、真剣な眼差しでジッと僕を見つめて、
「お兄ちゃん! 喧嘩したんでしょ!」
「え?」
「あー、もう! しょうがないねっ」
片手に紙袋をもって、妹はずるずると僕を引きずっていく。
「ちょ、紅那、おまっ、待てって」
「待たない」
「離せって!」
「離さない」
 体育測定で叩きだしたという、握力四十はだてじゃない。僕の必死の抵抗をものともせず、妹はずんずん歩みを進めていく。思えば妹は、昔からこのような性格だ。他人の抱えている問題を知れば、真正面から正しに行く。自分のクラスで行われていたイジメのリーダー格を、校舎裏に呼び出し泣きながら抱きしめ説得したのは有名すぎる近所の逸話だ。
 こうしてあっという間に、僕は雛乃の実家に連れて行かれてしまった。
 躊躇なく妹は、ぴんぽんぴんぽんぴんぽーんっとインターフォンを鳴らす。簡単なやりとりのあと、玄関の扉が開いた。
「あ――」
 顔をだしたのは、雛乃だった。長い黒髪を緩やかに横に流しつつ、一つに束ねている。服装はデフォルメされた犬のイラストを描かれたTシャツとピンクのスカートで、ラフなものだった。
「雛姉、ひさしぶり!」
 僕の手をパッとはなし、紅那が雛乃に駆け寄った。細い腰に、ぎゅっと腕を回す。しかしそんな紅那には微かな反応しかしめさず、雛乃は僕を凝視していた。
 嫌な眼だった。
 一つの感情に染まりきった瞳ではない。複雑な色合いが、形が、視線が、顔全体の雰囲気が、彼女が抱いている想いが複合的なものであることを伝えている。
 しかし色濃く映っているものは、不信感のような気がした。
 そして、それも仕方がないなと、僕は瞳を逸らしてしまう。赤いキャンディーのような破片を抱えた蟻がコンクリートの地面の上を這いつくばるように歩いていた。
「……雛姉?」
 妹の不思議そうな声が聞こえた。きっと彼女の前で、小首をかしげでもしているのだろう。小さな身長ゆえ、斜め下から覗き込むようにされるその仕草は、答えたくないことまで答えずにいられなくなってしまう。案の定、雛乃にも効果抜群であったらしい。一息も置かないうちに、「あ、久しぶり」と取り繕ったような挨拶が聞こえた。
 その様子を、妹は正しく、そして間違えて受け取ったらしい。
「あー。やっぱり喧嘩か。まったく。二人とも、仲良くしてよね。雛姉はうちの将来のお姉さんになるかもしれないんだし」
 ぴきりっと、空気が固まったような気さえした。ごくり、と、喉を鳴らす。恐る恐る横目で見上げた雛乃の顔は、まるで能面のような無表情だった。
 ああ――ッ!
 唐突に、頭を抱えてうずくまりたくなった。
 自分がいかに取り返しのつかない、そして馬鹿な事をしてしまったのだろう、と。雛乃は、嘘をついてなどいなかった。ただ僕の横で同じように、異常状態へと初めて巻き込まれた被害者だった。それなのに、僕は最後の最後で、彼女をまさしく裏切った。
 嘘つきゲーム。
 嘘をつくゲーム。
 けれどそんな前提なんてめちゃくちゃに引っ括めてゴミ箱に捨てて、僕は雛乃を信じるべきだった――。
 と、その考えが、記憶の奥底をかき乱す。なぜだろう? 何かを思い出しかけたところで、
「もうお兄ちゃん、いつまでそこにいるの? 雛姉のところに行こう?」
 気が着くと、いつのまにか妹が間近にいた。小首をかしげた紅那の顔。姉さんに良く似た、澄んだ茶色の瞳。
 僕は彼女に導かれるように、ふらふらと着いて行った。そして、二人で雛乃の前に立つ。雛乃は身構えるように、腕を胸元にやり、そして片足がつま先立ちだった。
 何かの心理学書で読んだことがある。浮いたかかとは、この場から逃げ出すためのもの。ここにいたくないという、意志の表れ。
「……久しぶり」
「うん、久しぶり」
 絞り出すように挨拶を告げると、雛乃は微かに震えた声をだした。身勝手ながら、ぐさりと心に突き刺さる。僕達は、互いを探り合うように視線を交わらせ、そして沈黙した。
「も、もうー! ほら、なんかしゃべって二人とも! さ、仲直り仲直りっ」
 両手をばたつかせながら、紅那が言う。きょろきょろと僕と雛乃の顔を交互に覗き込んでは、「ほら折れて?」とばかりに懇願の瞳を向けてくる。
 けれどその願いには――どうやら、答えられそうもない。
「……」
 声を、だしたかった。
 雛乃、ごめん。あんなつもりじゃなかったんだ。僕はただ、あの時あの場の、特殊な状況に押しつぶされていたんだ。惑わされていたんだ。普段なら、絶対に、あんなことはしなかった。それから、約束する。僕はもう二度と――雛乃を、裏切らないから。
 けれど結局――思いついた言い訳の、ただの一つも僕は口になんか出したくなかった。
 嘘。
 僕が吐こうとしている言葉は、重みがない。どれだけ重ねたってきっと、雛乃の心に届かない。彼女に信じてもらえるわけがない。
 だから、逃げ出したかった。
 この場にいたくないのは、僕も同じ。左足が先ほどから、つま先立ってかかとが浮いている。
「ねえ、……なお、や?」
 そんな中、ぎこちなく雛乃が僕の名前を呼んだ。雛乃の顔色を伺うように、彼女を覗きこんだ。
 彼女の表情は――泣き出す寸前の、ようだった。
「信じていたかった」
 絞り出すように吐き出された言葉には、確かな棘(とげ)がついていた。

          ×××

 足が重い。
 鉛のような足という表現は良く聞くが、事実その通りであると感じたのは、生まれて初めての事だった。
 さきほどからチラチラと、紅那がこちらに視線を送っている。たまに僕の肩に触れようと手を伸ばし、そして引込める動作が、少しだけ心を慰めてくれる。こんな自分でも、誰かが心配してくれるから。
「ねえ、お兄ちゃん、……無理かもしれないけど、元気、だして?」
 ありがとう、と絞り出すように声をだした。
 元気をださないとな、と思いつつ、一歩力強く踏み出す。歩いていると思考が研ぎ澄まされるというが、僕のそれは鈍いままだった。
 ただぼんやりと、ゲームのルールと都さんの言葉を思い出す。

 ――このゲームに勝ったものは、望んだ世界をまるごと与えられる。
 ――あのゲームは――こんな世界だったらと、何かを強く望む人の前にしか現れないそうです。

 それならば。
 雛乃は一体、どんな世界を望んでいたのだろう。どんな世界で生きたいと思っていたのだろう。考え始めた僕の思考は、すぐにそんなことは分からないと白旗をあげる。雛乃とは――楽しい話や、嬉しい話が中心で、思えばお互いの深い部分など、話し合ったこともない。姉さんのひきこもりについてですら、彼女には何も告げていなかった。
 それは、必要以上の心配をかけたくないからであり、姉の名誉のためでもあり、そして――雛乃とは、心底腹を割って話せる中ではないという、証明……なのかもしれない。だったからこそ、僕はあのとき、彼女に――。
 ……いや、まてよ。
 僕は本当に、彼女と深い話をしたことがなかっただろうか?
「あはっ。君、暗い顔してるですの?」
 澄んだ声が聞こえてきたのは、そのときだった。振り返ると、小さな女の子が立っていた。小柄な妹と同じぐらい……いや、僅かに低くすら見える。彼女には、これ以上ない特徴があった。
――髪の毛が、澄んだ瑠璃色をしている。
透明ガラスのような透き通った濃い青色は、神秘的な雰囲気をこれでもかと撒き散らしている。その不思議な色合いがとにかく人目を惹きつけるのだろう。道行く人達が、彼女に視線をちらちらと向けていた。
「あ、今、永遠音の髪の毛のことを考えているです? これは、染めたのですの」
 僕と、それから一緒に振り返った妹の視線に気がついたのか、少女――永遠音は、ひと房髪の毛を掴むとパッと離した。髪質は良いらしく、さらりと自然に流れていく。肩より少し上ぐらいの長さのため、ひょっとしたら手入れが易いのかもしれない。
「えっと、何か用かなっ?」
 紅那がはきはきと尋ねる。瞳は期待感で満ちており、彼女は楽しそうだった。人と関わるのが元来好きで、初対面ゆえの気負いなど、彼女には無関係なのだ。
「んっと、用というほどの用はないです? しいて言えば、背後から負のオーラがどよーんっと漂っていたので、とても心配になったですの?」
「ん。そっかぁっー」
「何かあったです?」
「いやー。面目ない話なんだけど、実はお兄ちゃん、彼女と喧嘩中で」
 ちょっと前までは馴染みの軽口だったはずなのに、『彼女』という単語は思いのほか僕を傷つけた。雛乃とは小さな頃ではあるが、それこそ当たり前のように互を好きだと言ったり、手をつないだりしていた。
「わあ。本当だ。どよーんが重たくなったです」
 そんな僕の様子をみて、永遠音は大きく開いた右手を口元にやった。驚きを表現しているのだろう。彼女はそのまま、とことこと僕によってきた。そして、クッキー型のポシェットから、何かを取り出す。
「これ、どうぞです? 心が落ち着くアロマキャンドルですの」
 それは、花の形をしていた。色合いは優しい緑色で、確かに心地よさそうな雰囲気だった。
「プリンの容器で作ったのです」
 と、永遠音が胸を張る。「わあ、すごいすごい手作りなんだ!」と、妹が歓声をあげた。そのまま、「ほらお兄ちゃん受け取りなよ」と、僕の脇腹をつついてくる。僕は彼女からアロマキャンドルを受け取った。
「ありがとう」
「いえいえ、どういたしましてなのですよー? どよーんな気分をしている人が、少しでも元気になれば嬉しいのです」
 ニコニコと、邪気のない笑顔で永遠音は言う。そんな様子を見て、妹は、どうやら彼女をすごく気に入ったらしい。
「ね、ね、お名前なんていうの? 友達になろうよっ」
 永遠音は――一瞬だけ、氷の表情を見せた。
 その違和感を尋ねる前に、彼女は再び笑顔になる。まるで、取りこぼした仮面を付け直すかのように。
「永遠音なのです」
 少女は、自らの名前を紡ぐ。
「崎、永遠音なのです」
 それは、どこかで聞き覚えのある名前だった。

          ×××

 流れで僕まで自己紹介をした。名乗り終わったあと紅那は携帯電話をとりだし、永遠音にアドレス交換をせまった。一瞬不可思議そうな顔をしたが、永遠音はその求めに応じ、番号を交換した。
「友達が増えて嬉しいなっ」
 跳ねるように、紅那は前へと進んでいく。僕は彼女の崎永遠音という名前に引っかかりを覚えつつも、答えを見つけられずに、まあいいかとさじを投げた。
「ただいまーっ」
 妹が元気よく家に入ると、ポップな歌詞とメロディが聞こえてきた。どうやらオーディオ機器か何かで、相田花蓮の歌を聴いているらしい。恋する人を全力で応援する歌で、作詞は花蓮が行ったらしい。ゴースト説も流れているが、ネットの見解によるとガチの可能性が高いらしい。歌詞の内容は、確かな熱がこもっていて、好感が持てるものだった。
 ただし、女優としての活動がメインである花蓮の歌は、正直お世辞にもうまいとは言えない。それでもこのCDがオリコンのランキングに入ってしまうのだから、彼女の人気は凄まじいと言えるだろう。
 リビングに足をすすめると、鼻歌交じりに母さんが料理をしていた。そういえば、昼飯が食べたかったんだっけと思い出し、急にお腹がすいてきた。
 出てきた和風パスタを、妹と二人で食べる。話題は、相田花蓮のことだった。
「花蓮ちゃん、ほんとにすごいよね。演技はうまいっていうかもう、神がかってるし。それに可愛いよねぇ」
「そうだな」
「趣味はお菓子作りとマフラー編みだっけ」
「あー。なんか聞いたことあるな。手作りマフラーを十七個も作ったんだっけ」
「そうそうっ。あげる人がいないんです、って照れてて可愛かったなぁー」
「確かにな」
「それにね、花蓮ちゃん、成功するまでは色々と大変だったんだよー。事務所内でひどいイジメにもあってたみたいだし。そんな時はいつも、お兄さんが助けてくれてたんだって。素敵だよね!」
「それは僕に対する嫌味か」
「ソンナコトゼンゼンナイヨ」
「あるじゃん!」
「そういえば花蓮って、このあたりに住んでるんだよね?」
「そうよ。でもどこに住んでるかは公表していないのよねー。町で見かけたこともないし。あーっ、もうっ! 花蓮ちゃんに会ってみたいわー」
 大好きなタレントの話題に我慢が効かなくなったらしい、最後はお母さんが口を挟んだ。それから妹とお母さんのディープなオタク話に花が咲いたようで、にわかの僕はさっさと追い出されてしまった。
 二階の自室にあがり、ベッドに寝転がる。ポケットに入っていたアロマキャンドルと携帯を机の上に手を伸ばして置いた。ただ寝転がっているだけのつもりだったが、本格的に眠気がやってきて、いつの間にか僕は眠りについてしまった。
 まどろみの中で、遠い日の夢を見る。
 僕と雛乃が、仲良く手をつなぎ公園で遊んでいる。ブランコをこいだり、滑り台で一緒にすべったり、ほかの友達を呼んで缶けりをしたりジャングルジム鬼をしたり、とにかく楽しく遊んでいる。
 こんな日々はもう二度と訪れないのだろうなと思いながら目が覚めた。あたりはもう夕闇が落ちていて、カレーの匂いが漂ってきていた。微かに携帯が鳴っている。ああ、これで起こされたのだなと思いつつ取り出した。
『件名・名堂郁子(都)です』
 僕は起き上がり、メールを急いで開いた。
『明日、会えませんか?』
 そんな言葉と、待ち合わせの場所が書かれていた。

          ×××

 待ち合わせ場所は町田駅から少し離れた、町田二番街商店会にあるカフェだった。いかにも甘いもの好きの女の子が集まりそうなお店で、ふわふわとした空気が漂っている。入りにくいなと思いつつ時刻を確認すると、十一時まであと少しだった。
 意を決し店内に足を入れる。可愛らしい店員さんに案内を受けつつ、店の奥に彼女の姿を見つけた。都さんも僕に気づいたらしく、顔の横まで手を挙げて、優雅に手を振った。
「来てくれて、嬉しいですわ」
 席まで近づき腰を下ろすと、彼女はにこりと上品に笑ってそう言った。
「うん、まあね」
 一人でいても、うだうだと考え事をしてしまう。ならば、彼女の呼び出しに応じて何か有益な情報でも得られればと思ったのだ。
 多分――彼女は、何かを企んでいる。
 それを知っていながら飛び込むのは、何も知らないよりもマシなような気がするから。
「で、都さん話って――」
「注文をしましょう」
 にこやかな笑顔のままで、都さんはそう遮った。メニューを二人で見れるように横に広げ、ゆっくりとページをめくり出す。出鼻をくじかれた気がしたが、小腹がすいていたし、甘いものは嫌いじゃない。一緒にメニューを眺め始めた。
「わあ、これ、美味しそうですわ」
「夏らしくていいんじゃないかな」
「……マンゴーって、どんな味がするのでしょう」
「え? う、うーん。なんて言ったらいいのかなぁ……。か、変わった味? でも美味しいよ」
 水を運びに来た店員さんがやってきて、都さんはマンゴーのパフェを、僕はブルーベリーチーズケーキを注文した。飲み物は二人共紅茶だった。
 注文を待つ間、都さんはきょろきょろと店内を見回していた。アンティーク調の店内に、興味を持ったらしい。心なしか瞳が輝いて、どこか浮き足立っているようにも感じられた。そんな深い緑の瞳を覗き込んでいると、自然に、可愛いなという表現が浮かんでくる。
「都さん、それで――」
「ふふっ。楽しみですわ」
 話を促そうとした僕をさえぎって、彼女は嬉しそうにハミングする。楽しそうな雰囲気が体中から溢れていて、話を促すことに戸惑ってしまう。僕は口をつぐんで、おとなしく座っていた。
「わたくし、こういうところに来るの初めてですわ」
「こういうところって?」
「うーん。なんていうのでしょうか……あ、そう言わゆる、庶民的なお店です」
 しばらく悩んだあと、都さんはそんなことを言った。唇を軽く尖らせて、いかにも悩んでいますという表情のまま、「庶民的なお店」。この一言に、僕は軽く吹き出した。
 そんな僕の様子をじぃと眺めて、「レディを笑うなんて失礼ですわ」と彼女は再び唇を尖らせる。今度は軽い怒りの表情だった。
「お待たせしました」
 絶好のタイミングで、ウエイトレスがやってきた。テーブルの上にそれぞれの注文品を置いていく。都さんはマンゴーパフェの想像以上の大きさに驚いているようだった。僕はスプーンを二つとって、片方を彼女によこした。育ちがいいと、やはり礼儀もいいらしい。しっかりとお礼をいって、それからなんと、食事の前の礼拝を行い、そしてスプーンを手にとった。
 お祈りをする彼女にあっけにとられて、僕はしばらく動けなかったらしい。「どうかしました?」と声をかけられてから、慌てて「いただきます」をいって、スプーンを持った。
 口元にブルーベリーチーズケーキを運ぶ。わりと大きめの一口をほおばると、甘さと酸味の絶妙なコラボが口いっぱいに広がった。
「わ。本当に変わった味ですわ」
 対して都さんは、一口が小さい。少量だけスプーンですくって、決して口元を汚さずに、ほとんど広げずに、中に入れる。マンゴーパフェが何か高級な代物に見えるから、不思議だった。
「でも、おいしいです」
「そっか、良かった」
 本当に美味しそうな表情に、安心する。自分が勧めたものがダメだったら、申し訳ない気がするのだ。
 そんなか、視線に気がついた。
 じぃーっと、モスグリーンの瞳で僕の皿の上を見つめている。試しに皿をひょいと右に動かしてみたら、彼女の瞳がついてきた。若干微笑ましくなった。
「あの、食べたいんっすか?」
「ふわっ!?」
「いや、だからブルーベリーチーズケーキ……」
「た、食べたいとかそんなわけありませんわ! 人様の食べ物をいただきたいなど、卑しい考えですもの!」 
 あたふたと否定するその動作は、明らかに狼狽をしめしている。苦笑しつつ、
「分け合ったりとか、普通にすると思うけど」
「……そうなのですか?」
「うーん。そうだと思うけど」
「ふむ……」
 都さんはなぜか考え込むような仕草をした。そのあとに、
「そういうことならば、わたくし、その分け合いとやらに挑戦してみますわっ」
 そういって、彼女は胸をはった。形の良い二つの膨らみが軽く揺れる。
 僕は声を上げて笑った。都さんは怒るだろうな、と思っていたらその通りだったらしく、笑いを止めて顔を見ると、不服そうな表情だった。
「もう、どうして笑いますの?」
「ごめんごめん」
 お詫び、とばかりに僕は四分の一以上残ったブルーベリーチーズケーキを彼女の方へと差し出した。
 彼女は若干戸惑いつつも、やがて自分のスプーンを手に取る。そして先ほどと同じように少量だけすくって小さな口にほうりこんだ。
「…………」
「ど、どう?」
 なぜか真剣な表情の都さんに、こちらまで固唾を飲んでしまう。やがて、彼女はごくりとケーキを飲み込んで――
「……美味しい」
 ぽつりと言った。
「よかったぁ」
 ほわほわと温かな気持ちが――ゾクリ。
 振り返った。しかし、いるのは普通の客たちばかりで、特に怪しげな人物などどこにもいない。
「……どうかしました?」
 都さんが首をかしげる。
「い、いや」
 曖昧に答えて、僕は首を戻した。なんだか今――誰かに、見られているような気がしたのだけれど。

          ×××

 ケーキを食べ終わり、さあ話題に入ろうという時に、店が騒がしくなってきた。どうやら人気店らしく、ちょうどかきいれ時となってしまったらしい。僕と都さんは外に出た。
「……どこに移動しようか?」
「そうですわねー。ボウリングとか、映画館とか、ウインドウショッピングとか、ファミレスに行ってみたいですわ」
「――は?」
 密談をするにはありえないラインナップに、僕は思わず目を見開く。都さんは素知らぬ顔で、
「あら? 今日の意図を言っていませんでしたっけ?」
「意図?」
「ええ……。わたくしは今日、あなたをデートに誘ったつもりだったのですが……」
 そのあまりに予想外な言葉に、僕は驚愕した。デート? デートって好意をもった男女がする、あのデートだよな……?
 不思議に思っていると、
「消えてしまうかもしれない前に、普通の女の子みたいに、男の子とデートをしてみたかったのですわ」
 僕の疑問を見透かしたように、都さんが言った。その表情はひどく儚げで、触れたら壊れてしまいそうなほど繊細に見えた。その表情のまま、僅かに首をかしげ、彼女は潤んだ瞳で続けた。
「やっぱりこんなの……おかしいでしょうか?」
 彼女は――彼女が望んだ世界は、普通なら当たり前のように手に入るものだ。
 だからこその普通。
 生まれた家が名堂で。お金持ちで。住む世界が違う。
 そこで生まれてから今までをずうっと過ごしてきた少女が、窓の外の景色に憧れるのは――自然で、どうしようもないことに思えた。
「おかしくないよ。全然ッ」
 思わず力強い言葉が出た。都さんは、大きく瞳を見開いた。
「おかしくないよ。普通だよ」
 言葉を続けると、都さんの口元が緩んだ。ごく自然で、とてもやわらかな微笑みだった。その顔で見つめられて、僕は急に照れくさくなってしまった。視線をそらし、
「……行こうか。とりあえず、映画館。今は何をやってるっけなー」
「わ、わたくし、実は見たい映画を調べてきましたの」
 僕達はそれから、二人でハリウッドのサスペンス映画をみて、その感想をファミレスで言い合い、軽くデパートを回ってから一緒に少し早い晩ご飯を食べた。
 食べ終わる頃には、辺りはすっかり夕闇に染まっていた。喫茶店で感じたような視線がときたま肌に突き刺さったが、やはり怪しい人物はどこにもいなかった。
「今日は……、とっても。とっても、楽しかったですわ」
 別れ際に、満足げな、けれどどこか切なげな表情で都さんはそう言った。本当はもう少し遊びたいとその顔に書いてあるようだった。
「僕も楽しかったよ」
 本当は、もっと別の言葉も言ってあげたかった。けれど、どうにも照れくさくて、何も言えずに俯いた。
「今日は、ありがとうございましたですわ」
「こちらこそ」
 返事をすると、都さんはジッと僕を見つめてきた。その頬は微かに赤く染まっていた。まるで告白のようなタイミングと表情に戸惑ってしまう。心臓の高鳴りが、とくとくと感じられた。
「あ、あのっ! また、わたくしと一緒に――」
 いったい、その言葉の先には何が続いたのだろう。きっと、「会ってください」だとか、「話してください」だとか、「遊んでください」だとか……「デートしてください」だとか。
 そんな言葉が続く予定だったのだろうけれど、結局彼女はそこで口をつぐんだ。
 都さんは優雅に一礼すると、相変わらずのふわっとしたロングスカートを翻して僕に背を向けた。
「都さん!」
 その背中に向けて、僕は咄嗟に叫んでいた。立ち止まり、戸惑いと共に彼女が振り返る。
「また……また、一緒に遊ぼう!」
 口に出した瞬間、言わなければ良かったかもしれないと思った。不可能かもしれない約束を、僕は軽々しくも口にしてしまったのだ。
「はい……っ!」
 しかし、都さんの返事と表情を見た瞬間、そんな後悔は吹き飛んだ。
 彼女は、満面の笑顔だった。今までの上品さなど伺うことすらできない、ただひたすらに嬉しいという感情だけの笑顔。飾り気一つないその表情は、これまでのどの顔よりも素敵に思えた。
 再び一礼し、彼女は歩き出す。心なしか先ほどより、足取りが軽やかに見えた。
 その背中を数秒見送ったあと、僕も彼女に背を向け歩き出した。結局、あのゲームの話など、一言も話題にあがらなかった。
 それは――触れたくなかったからなのかもしれない。
 自分が明日、消えてしまうかもしれないということを、忘れたかったのかもしれない。
「……なんだかなぁ」
 僕はうんざりしながら溜息を吐いた。ぼんやり一人で歩きながら、明日が来なければいいのになと、なんとなく、思った。

 第三章・LIKE

 来なければいいのにな、と思った程度で明日が来なければ苦労はない。
 当たり前のようにカレンダーは全国で数多くめくられ、七月一日の朝がやって来た。外の天気は、文句なしの晴天。初夏の心地良い日差しが、窓の外から注ぎ込んで僕の目を覚ました。
「……今日、か」
 眠気眼で手を伸ばし、テーブルから黒いスマートフォンをとる。何か連絡でも来ていないかとパスワードを打ち込み開いたが、とくにこれといった様子はない。もしかしたら、あとで電話が鳴るのかもしれない。今日は一日中電話を持ち歩こうと、僕は決めた。
「お兄ちゃんっ。おっはろーん!」
 紅那がひょこっと、部屋の扉から顔をだした。
「うわ! おまっ、ノックぐらいしてくれよ」
「えー? でもノックって、ほら、めんどくさくない?」
「めんどくさいけどやるの。めんどくさいめんどくさいってそんなんじゃ生きてくのが辛いぞ」
「確かにそうだけど注意の規模が大きいよ、お兄ちゃん?」
 楽しそうににこにこと笑う紅那。その視線に注意しながら、僕はそっとスマートフォンを身体の影に隠した。見知らぬ携帯電話を持っていたら、親に報告されてしまうかもしれない。それはめんどくさい……もとい、面倒な展開だった。
「で、何しに来たんだ、紅那」
「え? 今日は報告日じゃん。どしたのお兄ちゃん?」
 うっかり――していた。
 今まで僕が一度たりともそれを忘れたことなどないからだろう。紅那は心底不思議そうな顔をしていた。「疲れているの?」と小首をかしげながら訊ねてきたほどだ。
 確かに、疲れているのかもしれない。
 僕は重い体を起こして、のろのろと紅那の後についていった。
 姉は、僕ら家族にとってヒーローのような存在だった。
 他人の問題に首を突っ込む妹の性格は、姉に由来している。彼女はそれにプラスして、したたかさを豊富に持ち合わせており、問題を上手にまとめるのが得意だった。だから誰からも敬愛され、尊敬される姉だった。
 そんな姉は、ある日を境に自分の部屋から出てこなくなった。最初は具合が悪いのだろうと思っていたが、引きこもる前の様子がおかしかったこともあり、家族はみな彼女の心配をした。僕が最後に姉と交わした会話は、引きこもるその寸前のものだった。
 明朝。不意に早く目が覚めた僕は、リビングに出ていた。すると、ちょうど姉が外から帰ってきたところだった。こんな朝早くへ一体どこへと尋ねる前に、答えは明らかになる。姉は両手に二つずつ、コンビニのビニール袋を持っていたのだ。しかも、中に入っている商品の量が半端ではない。突き破ってしまうのではと思うほど、パンパンに詰め込まれている。
『……どうしたんだよ、それ』
『……買ったの』
『買ったって、どうして?』
『わたしね……信じてたんだよ。心の底から、大好きで――。でも結局、裏切られちゃった――』
『何の話をしてるんだ……?』
『わたしが受けた、裏切りの話』
 そう言って、姉は階段を駆け上がった。彼女が最後に見せた表情は、苦しげで、儚げで、もう何一つ信じられないと訴えるような絶望の瞳を携えていた。
 その顔は――今でも僕の脳裏に張り付き、離れようとはしない。
「おはよう、お姉ちゃんっ」
 妹が『あおいのへや』と書かれた扉をノックする。
 そして、今日の報告会が始まった。毎週、月曜日と木曜日が、報告会の日。その日までにあった楽しかったり、悲しかったり、悔しかったり、なんてこともない出来事を、姉の扉の前で話す日。
 彼女に聞こえるようにと、僕と妹は毎回、少し大きな声で話すのが通例だった。
「でね、学校の友達がね、お揃いのペンをくれてね」
 紅那の報告が続いていく。僕は耳で聞きながら、さて、今日は何を報告しようかと考えた。思いついたのは、雛乃の顔。いまどき珍しい長い黒髪の女の子。
 雛乃は、僕と紅那と――そして姉である葵とも、仲が良かった。一人っ子である雛乃は、葵のことを実の姉のように慕っていた節がある。葵のほうも、彼女を第二の妹として可愛がっていたのであろう、雛乃の話は引きこもる前、姉の口から良く上がった。
 彼女の話をしなければ。
 そんな考えが頭に浮かんだが、実行できる勇気などない。そう思っていたのに、
「そうそう、あのね、お姉ちゃん。雛姉が町田に帰って来たんだよっ!」
 紅那があっさり報告を済ませる。扉の向こうから、ガっと物音が聞こえた気がした。
 それは、この扉に彼女の背中が当たった音。
 葵はいつも僕らの話を聞こうと、扉のすぐ向こうに背中を合わせている。
 この事は、四度目ぐらいの報告会で疑惑になり、六度目の報告会で確定となった事柄だ。たとえ視界が阻まれていても、色々なことが分かる。
 葵は――僕達の話を楽しみにしていてくれる。
 本当はこの報告会を、僕は毎日でもやりたい。けれど、早くそこから出て来いと訴えかけているようで、彼女の負担に、迷惑になるのが怖い。
「でもね……。雛姉は、そのぉ……あー、やっぱやめるっ」
 紅那の話の続きがよほど気になったのだろう。うながすようにトントンと扉の向こうから指を叩く音がした。それを受けて、
「そ、そうだよね。こんな中途半端なところで区切られちゃ気になって眠れないようねぇ」
 紅那は小さく何度も頷いた。伺うように僕の顔を覗き込む。小さく頷き返すと、紅那はやがて話し始めた。
「あのね、お兄ちゃんと雛姉、なんか喧嘩してるみたいなんだ。うちは、早く仲直りして欲しいなって思うんだけどね」
 喧嘩。
 紅那の柔らかな表現に、僕は思わず苦笑する。あれを果たして喧嘩と呼べるのだろうかと、ふと疑問に思う。
「ね、お兄ちゃん。早く仲直り、してよねっ?」
 紅那が話を振ってくる。一瞬言葉に詰まったが、すぐに「あたりまえだ。すぐに仲良くなれるさ」と返事をした。それは――姉に心配をかけたくないという気持ちから来た、嘘だった。
『りりりりりりりりりりん! りりりりりりりりりりりりりん!』
 呼び出し音が唐突になりだしたのは、その時だった。
 ――扉の向こうから、大きくガタリと音が聞こえたのも。
「お兄ちゃん、呼び出し音変えたの?」
 妹の不可思議そうな顔。
「……直くん」
 その顔に、喜びの表情が広がっていった。
「お、お姉ちゃん!?」
 りりりりりんと、小さな女の子の声が響く中、妹が扉に手を触れる。僕も、扉を見つめていた。嬉しくて、心が温かくなる声。
「な、なんだ、姉さん」
「……直、くん」
 久しぶりに聞く姉の声は、弱弱しかった。それでも、彼女の優しさが伝わってくるような、こちらをいたわる声だった。その声にある種の厳しさを交えて、彼女は――
「そのゲームを、今すぐやめて」
「え――?」
「やめて。お願いだから。やめて。頼むから。やめて。やめて。やめて。やめて!」
「……ね、姉ちゃん?」
「ゲーム? ゲームって、何のゲーム?」
 紅那が小首をかしげる。僕にはもちろん心当たりがある。りりりりんとなり続けていた携帯を、ポケットから取り出す。姉の誕生日を入力して開く。
『本日のゲーム案内\(^o^)/
 二時間後に町田109に集合してくださいっ』

          ×××

 ゲームはやめる。
 空っぽの心でそう答えて、なんとか姉をなだめた。そのあとに、さりげなくゲームについて尋ねたが、もう何の反応も彼女は示してはくれなかった。
「お姉ちゃん、喋ってくれて良かったなっ」
 妹はツインテールを揺らして、のどかに飛び跳ねている。
 僕の心はそんな彼女と対照的に、とにかく混乱していた。
 何故姉は――ゲームのことを知っているのだろう?
 ひょっとしたら――彼女が引きこもる原因になったあの事件も、ゲームに関わっているのだろうか――。
「まさかな」
 つぶやく。けれど、あながち間違いではないのかもしれないと思いかけていた。だって――彼女のあの反応は、普通ではないから。
「……町田109」
 縦長のビルを見上げる。普段なら若い女性で賑やかな場所だが、朝九時半の現在、まだ静かになりをひそめている。
 妹と別れた後、僕は準備を整えてこの場所へとやってきた。初夏の日差しはまだ緩やかで、心地よい風が吹いていく。
 ぐるりと外観を一周しながら、これからのことを考えた。
 あのメールを受け取った時刻は八時。二時間後である十時まで、あと三十分の余裕があった。すなわち引き返そうと思えば、引き返せる。
 けれど、このゲームに参加しなければ大変なことが起こるのだ。
それに、都さんが消えてしまうかもしれないし、雛乃と仲直りが出来るかもしれないし、姉の抱える問題が解決するかもしれない。
「……やるしか、ないのか」
 ぐにゃりっと。
 視界が曲がった。雛乃を刺殺した感触が、唐突に鮮やかに蘇る。自分の手が、酷く汚れて見えた。うずくまる。吐き気はないものの、腹が痛くなった僕はコンビニに駆け込みトイレを借りた。
「落ち着け……落ち着け……」
 ダラダラと額から汗が零れおちてくる。僕はいったい、どうすれば良いのだろう。分かっている。ゲームに出ればいいのだ。どうせ出なければいけないのだし、それほど悪いことばかりでもない。目的はある。それは、目的なくデス・ゲームに巻き込まれるよりもマシなような気がした。
 僕が望む世界。姉が傷つかなかった世界。そして、雛乃と仲良く過ごし、妹も両親も傍に居て、ついでに都さんが普通の女の子をやっているような世界。僕が愛したり、大切にしていたり、ちょっと仲良くなれそうな人だったりが、いつでもそばに居て、にこにこ笑っていられるような場所。
「……行こう」
 決意を固めて、扉から外にでる。コンビニにかかった壁時計を見上げると、ぴったり十時だった。
「やばっ」
 駆け出す。町田109の自動ドアを潜る。クーラーの涼しい風と、それになびく黒髪が視界に入った。
 肩より少し上あたりで、バッサリ切られた黒い髪。
「あ――」
「……」
 そこに立っていたのは、獅子川雛乃だった。

          ×××

 大きな瞳に、短い黒髪も良く似合う。リボンもカチューシャもヘアピンも、飾り一つついていないシンプルな髪型があどけなくて可愛らしい。実に動きやすそうな、ショートパンツとTシャツというラフな姿も、さりげない露出が見えてどきりとする。
 けれど――。
 三日前との変化に、戸惑ってしまう。
「……髪切ったんだ」
「……」
「えっと、その、似合ってるよ」
「……」
 雛乃の瞳は、僕を見つめていた。僕はその視線に耐えきれなくなり、斜め下に目を向けた。埃一つ落ちていない床は、つるつると輝いていた。視線を下に向けたまま、あたりをそれとなく観察する。開店前の109は、店であるはずの部分にシャッターが降りており、二台のエレベーターと非常用らしき鉄の扉だけが見えた。
 時間が過ぎていく。開店を待つために、三人組の女の子が自動ドアを潜った。僕は雛乃から近ず離れずの距離に立ち続け、気まずさを感じていた。誰か知り合いでも来ないかしらと考えて、ひょっとしたら都さんが来るかもしれないと思った。
 自動ドアが開く音。
 期待を込めて視線を向けると、見知らぬ男が立っていた。浅めに野球帽をかぶり、半袖のパーカーとチェーン付きの長ズボンを履いている。いわゆるストリート系のファッションだ。顔立ちはかなり整っており、ああきっと彼女とでも待ち合わせしているんだろうなと思った。
「……おまえらか」
 そんな男前が、何故か僕らを見てそう言った。それどころか、歩み寄ってきて程よい距離で立ち止まった。
「よおルーキー。お前らは知らないだろうけど、このゲームは基本的に後腐れなしだ。前のゲームのことは水に流して、次のゲームに集中する。感情論で動いて、俺に迷惑をかけるなよ?」
 淡々とした口調で、男はそんなことを言う。そして、僕はそこでようやく気がついた。
「ジミィさん!?」
「なんだ、気づいてなかったのか」
 やはり淡々と彼は言う。クールな雰囲気。見た目も、それに合わせて洗練されているようだった。身にまとった気配が違うとでも言えばいいのだろうか。とにかく、初めて会ったときのジミィとは別人のようだった。良く見れば顔は何一つ変わっていないのに、だ。
 腹がジリリと痛む。
 こいつのせいだ、と僕は思った。
 こいつのせいで、僕は雛乃に手をかけた。こいつに騙されたせいで、僕は、僕は……っ。
「みるく」
 ジミィは雛乃の方へと向き直り、彼女のHNを呼んだ。「はい」とか細く彼女は返事をする。少しだけ、警戒心のこもった瞳だった。
「相変わらず、可愛いな」
「へ!?」
 一瞬、雛乃の顔が赤く染まる。そんな筋合いもないのに、僕はムッとした。
「あなたこそ、相変わらずの女好き……ね」
 背後から良く通る声がした。振り向く。いつの間にか、女の子が立っていた。服装はシンプルな黄色のワンピースで、丈が短く動きやすそうだった。僕より頭半分低いその身長の女の子は――
「え? 相田花蓮……?」
 艶やかなボブカットの髪に、小さな桜色の唇。白い肌に、微かに色づいた頬っぺた。それはまさに、テレビ画面の向こうの花蓮そのものだった。しかし――くりくりとした瞳だけは、やる気のなさそうな半目だ。
「ふへ? 花蓮?」
「あーっ! ホントだ!?」
 ワッと騒がしくなる。開店待ちの女性三人に、花蓮はあっという間に囲まれてしまった。
「きゃーっ。ほんっと可愛い!」
「あのあの、花蓮ちゃん、サイン貰ってもいい?」
「……かまわない……よ」
 ぽつりと返事をする花蓮に、「ファンの前では愛想良くしろよ」と文句のようにジミィが言った。その言葉を受けて、花蓮はカッと目を見開いた。くりくりとした、大きな瞳。それは、テレビ画面のままの輝く可憐なものだった。
「いつも応援してくれて、ありがとうね! あたし、とっても嬉しいなぁ~」
 テレビの中の口調。
 三人組の女性が、感激したとばかりに身体を揺らす。先ほどまでの愛想ない態度も受けていたはずだが、そんなことは彼女達の脳内からすっかり追い出されてしまったらしい。
「花蓮ちゃん、これからも応援してるからね!」
「あのあの、ハグしてもらってもいい?」
「あっ。ズルい! 私もハグーっ」
「うん。いいよ! 特別だからね?」
 花蓮は笑いながら、ぎゅーっと三人に抱きついた。小さな腕では抱えきれていなかったが、三人は満足したらしい。ハグが終わっても、花蓮は解放されなかった。質問攻めにあっている。にこやかにそれにこたえているが、段々と目が閉じてきた。七分ほど瞳が閉じかけたところで、ジミィが割って入った。
「すいません。花蓮も疲れていますので」
 まるでマネージャーのようなことを言う。三人組は常識人だったらしく、頭をさげ感謝を述べて花蓮から離れた。
「ほら、行くぞ」
 そして、ジミィは勝手に歩き出した。扉を開けて、中に入る。花蓮もついて行った。僕は迷った後、なんとなく彼らの後を追う事にした。勝手について行ったが、文句は言われなかった。扉の向こうは階段だった。しっかりと扉はしめたが、まだ興奮冷めやまぬ三人組の嬌声が、断続的に聞こえてくる。
「ふーん。こんなふうになっているのか」
「疲れた……」
「いつもはもっと気を張ってるんだろ。ファンサービスぐらいで疲れるのか?」
「……疲れる。ファンは疲れる……」
 これが、あの相田花蓮なのか。
 僕は少しがっかりした気持ちを抱いた。それにしても、この二人は一体どんな関係なのだろう?
 不思議に思っていると、花蓮がポケットから黒い携帯電話を取り出した。
「あ」
 ゲームの参加者であるという証。ジミィはこのゲームに慣れているようだった。つまり二人はこのゲームで、闘ったことがあるという……そういうことなのだろう。
 ギィっと扉が開いた。振り返ると、雛乃がこちらにやって来たようだった。一人で待つ判断を止めたらしい。
「なんだ。結局全員着いてくるのか。なるほどな」
 ジミィがしたり顔で頷く。何かを考えるような仕草まで見せて、一人で頷いていた。……こいつは、また何かをたくらんでいるのだろうか。
「……花蓮さんも、このゲームの参加者なんですね」
 雛乃が言うと、花蓮は半目をすいっとそちらに向けた。
「……名前……」
「あ、みるく……です。よろしくお願いします」
「……【♪(おんぷ)】」
「あー。こいつのHNな。音じゃ分からないと思うが、記号なんだ」
 ジミィが空中で♪のマークを描いた。漢字だったりカタガナだったりひらがなだったり、統一性がないとは思っていたが、記号というパターンまであるとは。
『りりりりりりりりりん!』
 電話が鳴った。四人が一斉に、黒い携帯電話をいじりだす。画面には、
『全員集合しました! バトル開始までのアナウンスをお待ちくださいっ』
 と書かれている。
「ふーん。今回の参加者は六人、か」
 ジミィがつぶやく。その言葉で思い出しバトル状況を見てみると、カウントが始まっていない二時間のタイマーと、『現在参加者 悪魔二人 人間三人 退魔師一人』と書かれていた。
「……退魔師?」
「最初に説明を受けたはずだ。特殊能力を持ったプレイヤーが存在するってな。退魔師ってのは、一ゲーム中に一人だけ、そいつが悪魔かどうか判断できるって能力だ」
「……そういえば、ジミィさんはそうやって色々とルールを教えてくれますけど……なんでなんですか?」
「損しないからだ。最初にお前らに話したのは信用させるため。今は、基本的なルールも分かってない奴と同じチームになったとき、迷惑だから」
 納得すると同時に、安堵した。こいつが親切な人物だとしたら、恨み言のような気持ちを抱くのに躊躇してしまう。ジミィは数秒無言で、僕の瞳をじいと覗き込んでいた。
「なあおまえ、このゲームをどう思う?」
「え――?」
 突然の問いかけに首をひねる。どう思うもなにも……
「いかれていると、思います」
「ふーん」
 冷めた目つきを向けてくる。切れ長の瞳を向けられて、まるで氷のナイフか何かを向けられたような気分にさえなった。
「なあみるく」
 ジミィは、次に雛乃のほうへと視線を向けた。
「お前は、どう思う?」
「……私は――」
『おはようございます。開店五分前です。みなさん、開店の準備はお済ですか?』
 唐突にアナウンスが聞こえた。若い女の声だった。時計を見ると、十時二十五分。
 みなの間に緊張が走る。開店時刻が、すなわちバトルの開始時刻なのではないか――? そんな疑問が浮かんでいた。そして、事実その通りであったらしい。
『りりりりりん!』
 携帯電話を取り出す。パスを打ち込み確認する。
『青鴉さんの今日のチームは人間チームです(*゚▽゚*)』
 僕は微かな安堵を覚えた。
 しかし、瞬時に悪寒が走った。
 顔を上げる。目の前に、冷ややかな目をしたジミィが立っていた。
 こちらを見つめるその瞳は、まるで冷徹な悪魔そのものだった。注いだ視線を、僕から全く外していない。彼は、にぃと笑った。そして、手元のスマートフォンに視線を落とす。顔を上げた。再びにぃっと笑った。
 一体、なんだというのだろう。そう思っていたら、彼はついっと雛乃を指差した。
「あんた、悪魔だろ」
「……何の話ですか?」
 雛乃が返答を返す。ジミィはハハッと声を上げた。
「上手なポーカーフェイスだな、みるく。だけど、さっきの瞬間、あんたは確かに白状していた。自分は悪魔ですってな」
「どういう、意味ですか?」
「スマートフォンでチームを確認したとき。そんとき、あんたの顔には明らかに過度な緊張が走った。逆に、こいつには安堵が浮かんだ。前回のときと役割が同じか違うか。二回目ってのは、表情に出やすい」
 ブワンっと、何かの起動音のような音がした。雛乃の手に、西洋剣が握られると同時に、彼女は僕に突っ込んできた。
「よっと」
 脇から衝撃が走った。僕の体は吹き飛ばされ、僕がたった今までいた場所に亀裂が入った。すぐ近くで再びの起動音。僕を突き飛ばしたジミィが立ち上がり、武器である盾を出現させた音だった。
「……仕留める……」
 雛乃の後ろにいた花蓮も、武器を取り出した。彼女の小さな拳には、鈍く光るナックルが現れていた。そのあまりに貧弱そうな装備に、けれど不安を抱いたのは数秒だった。花蓮は獣のようなスピードで、一瞬で雛乃との間合いを詰めると、その拳を思い切り振り抜いた。雛乃が西洋剣でそれを防ぐ。しかし、押しているのは花蓮のほうだった。
「はぁああああっ!」
 左、左、右っと、テンポ良く花蓮はジャブを放つ。その猛攻に、明らかに雛乃はたじろいでいた。
「ぼさっとしてないで、行くぞ青鴉」
 ジミィが僕の背中をポンと叩いた。その声に流されるように、二刀流の日本刀を取り出す。ずっしりと重い、二日ぶりの感触。
「……分かるだろ? みるくが悪魔ってことは、確定だ」
 念を押すようにジミィがそう言って、雛乃のほうへと飛び込んだ。僕はその場に立ち尽くしていた。
 ――雛乃を、殺さなければならない。
 それが、今回のゲームの勝利条件。それは、間違いのないことなのだろう。雛乃は僕をためらいなく攻撃してきた。悪魔同士なら、誰か悪魔かが分かる。つまり、人間が誰であるかも分かる。
 理屈ではそう思っても、僕の体は動かなかった。再び自分の手で雛乃に刃を向けることに、ためらいを覚えていた。
 目の前では、戦闘が行われている。雛乃が西洋剣を無理な角度で振るうと、あっさり花蓮は吹き飛ばされた。その振り終わりを狙って、ジミィが雛乃に突っ込む。彼は、盾を構えて突っ込みながら、「青鴉!」と僕の名を叫んだ。雛乃は盾をかわしたが、僅かにかすめて態勢を崩した。
 今、僕が急いで刀を振るえば、彼女を殺せる。
 そう思える、明らかな好機。
 なのに結局僕の足は張り付いたまま、ジミィが助けてくれたその場から動くことすらできなかった。
 それが――完全な、アダとなった。
「待て!」
 ジミィが叫ぶ。しかし待つ訳もなく、雛乃は階段を駆け上がっていった。
 武器を引っ込め、ジミィが彼女のあとを追う。僕もはじかれたように階段を駆け上がった。起き上がったのであろう、花蓮が僕らを追い越していった。彼女の拳はナックルがはめられたままだった。
 しかし、追いつかない。
 雛乃は人間とは思えない驚異的なスピードで、階段をあっという間に駆け上がっていったようだった。
「ちっ!」
 ガッと、ジミィは壁をけった。僕たち三人は階段を二階分ほど駆け上がったあとの踊り場で、立ち止まった。悪魔の戦闘能力は1.5倍という説明文を不意に思い出す。追いかけても無駄という判断だろう。
「青鴉」
 ジミィが僕に視線を向ける。瞳には苛立ちが混じっていた。
「おまえさっき、なんであいつを殺さなかった?」
 責めるような口調。確かに、彼には責める権利があるのかもしれない。雛乃のチームを瞬時に見抜き、おそらく僕のチームも瞬時に見抜き、三対一の状況をあっという間に作り上げたのだから。けれど――
「……僕にもう一度、あいつを殺せって言うんですか?」
 責めたいのは、こちらだって一緒だった。
「僕は……っ! 僕たちは、仲の良い幼馴染だった! あの日だって、久しぶりに遊ぼうって町田駅で待ち合わせして……。なのに……っ。なのに……っ」
「うるさい。そんなことはどうでもいい。おまえ、死にたいのか?」
 脳内が一瞬で沸騰した。
「おまえのせいで!!!」
 僕はジミィの胸ぐらを掴んだ。身長差が激しいため、外から見たらひどく不格好なのだろうと思う。
「おまえが……! おまえが、僕を騙すから……っ。雛乃を騙すから……っ。僕たちを、裏切ったから…………っ。だから僕たちは、めちゃくちゃになったんだ!」
 吐き出す。ただ感情のままに、怒りを、恨みを、つらみを、僕は吐き出した。不思議なことに、ふつふつとした怒りが自分自身の言葉によって熱せられるかのように、ドロドロとした塊が胸の奥で作り上げられていった。
「殺したのはお前だ」
 そんな僕を、ジミィは冷ややかに見つめながら吐き捨てる。
「うるさい!」
「俺は誘導しただけだ。選択権はおまえにあった」
「うるさい……っ」
「頭を切り替えろ。今は次のゲームだ。青鴉、お前のポイントは、残り三十なんだろう?」
「…………」
 僕は手を離した。すぐ横で花蓮が僕に向けて拳を構えているのが視界に入った。止めるタイミングを伺っていたらしい。
 僕を攻撃してきた雛乃は悪魔。瞬時に敵対したジミィと花蓮は人間。なぜなら悪魔であれば、二対二の状況は好ましいものであるはずで、味方のフリをするはずがない。
 理屈を確認して、僕は一人頷く。もしこの状況で三人の中の誰かに悪魔がいたとしても、それは一人である。ならば、二対一に持ち込むことができる。
「とりあえず、原則としてこの三人で一緒に行動する。決して離れるな。分散すれば、みるくがどこから襲ってくるか分からない」
「……分かってる。あなたから離れない……」
 花蓮がまるでドラマのようなセリフを返す。僕もしぶしぶながら、「分かった」と返事をした。
「よし、行くぞ」
 階段を上がっていく。四階部分にたどり着いて、ジミィは扉に手をかけた。後ろの僕たちを振り返り、開けるぞとばかりに視線で合図を送ってくる。頷き返すと、彼は武器を取り出し、そして扉を開いた。
 バンっと勢い良く開けたそこには、ほとんど無人の美容エリアだった。あたりを軽く見回すと、コスメ用品の売り場やリラクゼーション施設や脱毛サロンなどがあった。
 ジミィがゆっくりと歩き出す。僕も花蓮も武器を携えつつ歩いて行った。
「この階にはいないか?」
「……施設の中に、隠れているかも……」
 花蓮が指摘する。僕たちは順に施設を回っていった。しかし、そのどこにも雛乃の姿はない。ただ――
「相変わらず、不気味だな」
 ジミィが指摘する。その視線のさきには、動きの止まった人間の姿があった。ゲームの開始時刻が開店間際だったため、一般客は一階にしかいなかったが、スタッフの姿があったのだ。脱毛サロンの白い制服をまとった女性が、カウンターの内側で固まっていた。
「……移動しよう……」
 止まっているエレベーターを歩いて下り、僕たちは三階フロアへとやってきた。
「まったく、分かりにくい建物だな」
「……町田109は地下一階から三階までがファッションのエリア……。四階がエステやメイク。五階がレストラン……。六階から八階までが、町田市立公民館……」
 ジミィの文句に、花蓮がスラスラと答える。「この建物は公民館までついているのか。詳しいな」と茶化すようにジミィが言うと「女の子だから」と、とくに照れた様子も自慢げな様子もなく花蓮は答えた。
 ガタリ。
 物音がなったのは、その時だった。
 音がした方向へと、一斉に武器を構える。
「あの、わたくしは怪しいものではないですわ!」
「そうなのですっ」
 可愛らしすぎるフリフリのショップ。その店内のカウンターから、彼女たちは姿を表した。そこにいたのは――
「都さん!? それと……永遠音、ちゃん?」
 派手なカチューシャの、金髪少女。透き通るような青い髪をした、小さな少女。
 二人は降参っとばかりに両手を挙げていた。
「あ。青鴉さん! よ、よかったァ……」
「ああ、いつかのお兄さんなのですっ」
 二人が駆け寄ってこようとするのを、ジミィが振り払うように盾を構えた。攻撃の姿勢に、二人の足が止まる。
「青鴉。おまえの知り合いか?」
「えっと、まあ」
「……ふーん」
 ジミィはうなったあと、
「永遠音って、【崎永遠音】か?」
「あ、そうですよ? 永遠音は、崎永遠音ですー」
 永遠音が頷く。ポップな絵柄の猫型ポシェットが、フリフリと揺れた。
 ジミィの顔が一瞬だけ凍りつく。それから、訝しげな視線を永遠音に注ぐ。対する永遠音は、視線を浴びることに慣れていないのか、実に照れくさそうな態度で、
「そんなにイケメンさんに見つめられると照れるのです。恥ずかしいのです」
 とうつむいた。うん。なんかムカつくやりとり。
「このゲームの中には本物の悪魔が紛れ込んでいる――」
 ぴたり。
 ジミィの口から放たれた言葉で、あたりの空気が一瞬にして冷え固まるのを感じた。
「悪魔……?」
 僕が呟くとジミィは一瞬だけ僕を見やり、
「崎永遠音。その名前が、このゲームでささやかれている悪魔の名前だ」
 言い切って、人差し指を永遠音に向けた。向けられた永遠音は、一瞬きょとんとした顔をみせ、それからケラケラと笑い出した。
「あはっ。あはははっ」
 町田109に少女の笑い声が吹き抜けていく。都さんがびくりと震え、身構えるようにして永遠音から距離を取り始めた。彼女はじりじりと移動し、ある程度距離をとると一気に翻って僕の後ろへとやって来た。
「永遠音は、悪魔じゃないですよ?」
 ひとしきり笑い終えると、小さな身体で飛び跳ねるような動作をしたあと、彼女はそういった。
「……ふーん」
 ジミィは、興味無さそうにそう答えた。
「まあいい。とにかくお前は崎永遠音なんだな」
「そうですよ? 永遠音は、崎永遠音ですよ?」
「自分の噂を知ってるか? ゲームクリア間際になると絶対に現れるプレイヤーであるだとか、彼女が現れたゲームは必ず不幸が訪れる、だとか」
 含みを持った疑問の言葉をジミィが向けると、永遠音はふるりと首を振った。
「そんな噂は知らないのですよ? たまたまじゃないですか?」
「……そうか。まあいい。ここに五人の人間がいる限り、たとえ悪魔であっても手出しは出来ないだろう」
「そうですね。数の有利は偉大ですわ」
 都さんが口を挟む。すると、ジミィはようやく彼女へと視線を向けた。都さんの顔をじぃっと眺めている。その視線が気まずいのか、彼女は軽く僕の腕へと触れてきた。拍子にふわりと良い匂いが漂ってきて、とぎまぎする。
「ハーフか? 綺麗だな、あんた」
「お褒め頂き、ありがとうございますわ」
 ジミィの言葉に、都さんは平然と答えた。言われ慣れている対応に感じた。ジミィの横に花蓮がスッと寄っていき、「……女好き」と恨めしそうに呟いた。
 永遠音も僕らの輪に近づいてきて、五人で軽く自己紹介をした。HNを告げるだけだったが。
「さて、確認しとこうか」
 ジミィが口火を切る。
「今確定している悪魔は一人。これは、みるくだ。現在町田109のどこかに潜伏中。彼女はまだ二度目の戦闘のため、このままビビって何も仕掛けない可能性もあるが……」
 そこで、ジミィはすっと僕の方を見た。
「ためらいなく青鴉を攻撃したことを見てとっても、このまま黙っているとは考えにくい」
「……」
 許せない。
 アプリのメッセージに残された雛乃の言葉を思い出した。ちくりと胸が痛いのは、僕が彼女を裏切ってしまったと、分かっているからだろう。
「さて、問題はもう一つだ。俺たちの中に――もう一人、悪魔がいる」
 順繰りに視線を向ける。ジミィはクールな表情を、花蓮は相変わらずの半目を、永遠音はニコニコと楽しそうな顔を、都さんは不安そうな表情をしていた。
「この中に……悪魔が」
 固唾を飲むような音が、背後から聞こえる。都さんは微かに震えているようだった。
「まあ、この人数で固まっていればおおむね問題はない」
 そんな彼女を一瞥してから、ジミィが続ける。
「さて、一応聞いておこうか。この中に退魔士がいるはずだ。どうせ名乗らないと思うが誰が――」
「はーいっ!」
 勢いよく手を上げたのは、永遠音だった。全員の視線が彼女に集まる。
「……どうして名乗るんだ?」
 訊ねた癖に、ジミィはいぶかしげな視線を永遠音に向けた。永遠音はニコニコ笑いながら、
「あー、うん。そうだよね、このゲーム普通なら名乗らないですよね? だって名乗ったら悪魔さんに狙われちゃいますし! 言った所で回りが信じると思うのもあれですし! だから一人でこっそり誰かを判別して、こっそり行動をするのがセオリーですよね? でも残念。永遠音はそんなセオリー、めんどくさいから無視しちゃうのですー」
 ニコニコニコ。永遠音は笑顔を崩さない。そんな彼女の様子を見て、ジミィはひとつ溜息をついた。
「ちなみに名乗ったら狙われちゃうってリスクはもう回避してますよ? ジミィさん、貴方を判別して人間でした!」
「は――? な、なんでそんな勿体ないことに使うんだ! 俺は、自分が人間だってきちんと順を追って説明が――っ」
「えー。そんな説明とかされても、永遠音は分かりませんよ? 永遠音を悪魔だなんていう失礼な人は、きっと悪魔に違いないと直感的に思ってしまったのです。だから確かめたのです。文句なんて受け付けないのです?」
 ジミィが頭を抱える。「直感で動くタイプは苦手だ……」と彼は悲壮感溢れる口調で呟いた。
「……可哀想……」
 花蓮が呟き、ジミィにスッと手を伸ばす。彼は身体を傾け、その手を避けたようだった。
「えっと、とりあえず」
 恐る恐るといった口調で都さんが口を開く。
「わたくし達が今すべきことは、みるくさんというプレイヤーを探して……その……」
「そうだ。殺すことだ」
 お茶を濁した都さんの言葉を、ジミィが引き継いだ。
「いいか。相手は何かを狙ってくるかもしれない。注意を払って事にあたろう。味方はこの中の『三人』だ。一人は敵。それを忘れるな。――いいな?」
「……分かってる」
「はーいっ」
「分かりましたわ」
 僕も遅れて、「ああ」と頷いた。
 雛乃を殺す――。
 今回は、直接的ではないのかもしれない。僕が手を下さずとも、ジミィあたりが平気で彼女を圧死させるのだろう。けれど――見捨てる事だって、立派な裏切りだ。
 どころか、殺しの補助位は、僕も請け負わなくてはならない役目なのだろう。それを裏付けるようにジミィがぽんと僕の肩を叩いて、「次は頼むぞ」と怖い顔で告げる。それは、半ば脅しの様な口調と顔だった。
 雛乃を殺したとして、彼女はまた生き返るのだろう。だけど、僕と同じようにポイントは減っているハズで。だからこそ、ここで彼女を殺すことは、彼女を少しずつ『消していく』という行為であるわけで。
「……くそ」
「……大丈夫ですか? 顔色が悪いですわ」
 斜め横から声がかかった。振り返ると、心配そうな顔で都さんが立っていた。
「おい、行くぞ」
 僕らをジミィが急かす。大丈夫、と絞り出すように言って、僕は彼女と共にジミィの元へと急いだ。ジミィは僕と都さんの顔を交互に見ると、陣形を組もうと提案してきた。
「青鴉と都が前。真ん中に永遠音。そして背後に俺と花蓮だ。隣は知り合いの方が、多少の安心感があるだろう?」
「はーいっ」
 永遠音が手をあげた。
「永遠音の武器は大きくて、真ん中に配置されると出せないのですがどーしたらいいですの?」
「……いつでも出せるようにしておけ」
「あはっ。了解です?」
 あとは誰からも質問はなく、その陣形が採用された。永遠音を真ん中に配置というのは、彼女を警戒しての配慮なのだろうな、となんとなく思った。
「……どこから探す?」
「上から探そう」
 花蓮の問いかけに、ジミィが答えた。
「上から順に降りて行って探そう。その方が効率良さそうだ。移動手段はエスカレーター。エレベーターから降りたところを待ち伏せされたら、狭いからな。人数の利便さがなくなって、危険すぎる」
「それは、逆に言うと……雛乃さんはエレベーターを使い放題、というわけですわね?」
「いや違う。たとえばエレベーターが動いていることを確認すれば、俺達はその階に向かうだろう? そこで待ち伏せされたら終わりだ」
「……なるほど」
「ああでも、それをブラフに使っておびき出すって手段もあるのか。……ふむ」
「ねーねー。そんなの気にしなくていいんじゃないですの? さっさとみるくちゃん見つけて、終わらせちゃえば良いですの」
「そんなわけにはいかない」
「どうしていけないんです?」
「これには、俺達の人生がかかってるんだぞ!?」
「望む世界と消えたくない、ですか? アメと鞭に踊らされてるですのー」
 あくまで無邪気な永遠音の態度に、その場にいる全員が閉口した。
 たしかに、このゲームは彼女の言う通り、アメと鞭がゲームを無視するという選択を消し去っている。
「……永遠音。あんた、平気なのか? お前が望む世界はなんだ?」
 ジミィが訊ねる。それは、誰もが聞きたいことであるような気がした。対して、瑠璃色の髪の少女は――
「永遠音の望む世界は、世界中のみんながニッコニコーな世界ですよ? だれもどよーんな気分にならずに、心安らかに過ごせる世界なのです」
「……は?」
「そう、だから永遠音は平気なんですよ? たとえみなさんを消しても、永遠音がゲームをクリアして生き返らせればいいだけですし? 何も怖くないですの」
 相変わらず、楽しそうな笑顔を浮かべている。
「……自分が消える事に関してはどうだ?」
「永遠音は消えないですよ? 万が一消えたら、そのときはそのときです」
「……なるほどな。とんだクレイジー野郎だ」
「??? クレイジーです?」
 ハテナマークを浮かべる永遠音を見て、ジミィは深く深く溜息をついた。
「さっさと行こう」
 疲れたように呟くと、僕と都さんを見た。僕達はようやく、歩き出した。

          ×××

 最上階まで辿りつき、町田公民館のホールを見た。階下に降りて、ギャラリーコーナーやカフェスペース、生涯学習センターなども見て回る。しかし黒髪の少女の姿はない。さらに下に降りて、レストランスペース。その下の、先程までいたサロンスペースも回ったが、姿は見えなかった。
「……みるくがいるのは、ファッションコーナー……?」
 花蓮が言う。僕達は頷き、さらに階下へと降りて行った。町田109らしい、華やかな店が並ぶ。そのどれもが女性ものの服だった。永遠音と花蓮は興味無さそうに、事務的にフロアを見て回っていたが、都さんだけはあちらこちらに視線を向け、ときどき楽しそうな表情さえ見せた。
「……欲しい服でもあった?」
「あ! い、いえ。……その、わたくし、服を買った事がないので……」
「え? こういうところで、とかじゃなくって?」
「はい……。まったく、です。服はいつも、父が買い与えてくれますので……」
 筋金入りのお嬢様というのも大変なのだなと改めて思った。正直男の僕には分からない感覚だが、妹も姉も、洋服の買い物を本当に楽しそうにする。買わなくても、ただ見るだけで幸せな気持ちになるらしい。
「ねえ、いつか――」
「このフロアにはいないな。下に降りるぞ」
 一緒に買い物でも行けたらいいねと口にしたかったが、ジミィの指示が飛んだ。こんなところで言う言葉じゃないなと僕は思い直し、素直にエスカレーターへと向かった。
 次の階には洋服だけでなく、いくつかのアクセサリーショップもあった。三百九十円均一ショップや、おしゃれカツラのコーナーだ。
「あっは」
 永遠音がなぜか楽しそうに、茶髪カールのカツラをかぶる。「あんまりふざけるなっ」と割と真剣にジミィに怒られていた。
 さらに階下に降りる。再び洋服フロアとなった。上の階の服と比べて、なんとなく値段設定が安いような気がした。
「……安くて可愛い……」
 意外にも、花蓮がそんなことを言う。
「たくさん金もらってるだろうに」
 嫌味のように、ジミィが返す。花蓮はとくにムッとした様子もなく、
「……給料はたくさん。でも貯金……」
「ふーん」
「……貴方との結婚資金」
「ぶっ」
 ジミィが吹き出し、そのあとゴホゴホと数回むせた。僕と都さんはぽかんと口を開いていて、永遠音は、「わーいっ。らっぶらっぶだ~。ニッコニッコだーーっ」と笑っている。
「おま……っ。ふざけんなよ、花蓮」
「……ふざけてない」
「……たく」
 恨みがましい視線を、ジミィは花蓮に向けた。この二人の関係は、どうやら花蓮が一方的な好意を向けていて、ジミィはそれに戸惑っているという感じらしい。このゲームの中において、それは奇妙な感情のように思えた。
「下に降りるぞ」とジミィがいって、僕たちは最初の一階へとたどり着いた。フロアに開店待ちの客がいる。人数が増えていた。お洒落で茶髪な垢抜けた印象の女の子が多い。そんな客たちを避けながら、僕たちは進む。シャッターが上がっていて、靴や帽子を売る店がある。
「ぐあああああああッ」
 断末魔が聞こえたのは、そのときだった。隣の都さんと、一緒に振り返る。そこには瑠璃色の頭と、唖然とした花蓮。そして、血まみれで倒れるジミィの姿があった。
「え――?」
 そしてそばには、茶髪ロングをなびかせた、花柄のワンピースを着た少女。足元はサンダルで……と、そこまで考えたところでようやく気がついた。
「……雛乃……ッ」
 ブワンと起動音がして、今まで武器を出していなかった永遠音が彼女に飛びかかった。彼女の手には、巨大な斧が握られていた。あの大きさでは確かに――陣形の真ん中では、出せないだろう。
「殺すのです?」
 永遠音がブンッと斧を振り回す。雛乃はそれを避けた。長い茶髪がバッサリと切れたが、そんなことはどうでもいいことなのだろう。特に気にした風もなく、彼女は西洋剣を片手に突っ込んで――
「鈴緒(すずお)……? ねぇ、ねぇ……」
 ジミィの死体のそばでうずくまる、花蓮にその刃を向けた。
「危ないっ!」
 僕の叫び声に、花蓮はハッと顔を上げた。けれど――もう遅い。
「あっ」
 プシュッと何かが弾ける音がして、花蓮の首が切断された。勢い良く頚動脈から血が吹き出す。そこからの雛乃の行動は、逃走だった。片手でウィッグを外し、それを投げ捨てて彼女は僕らに背を向けた。
 町田109にあった豊富な衣装と、ウィッグ。思えば、彼女のシンプルすぎる服装も、このための伏線だったのかもしれない。
「まてーっ!」
 永遠音がその背中を追いかけ出す。
「おい! 待て永遠音!」
 叫んだが、彼女は止まらなかった。猪突猛進に、雛乃を追いかけ続けている。追いかける気力もなく、僕は視線を花蓮とジミィに向けていた。
 見たくなんて――なかった。
 けれど、自然と釘付けになってしまう。それは、どうしようもない赤色だった。
 花蓮の愛らしい顔は、切断された首に悲しみの表情で張りついていた。もしもこれが現実ならば、彼女の死はセンセーショナルすぎる。連日のようにテレビを占拠するのだろう。ジミィの死体は、彼女に比べれば幾分かマシだった。首筋に深く入った切れ込みによって、彼は死んでいた。完全に不意を疲れたためだろう。表情は驚きのみが浮かんでいた。二人の死体は、重なるように倒れている。流れ続ける血は混ざり合い、それはあまりに不謹慎な感想だが、ひとつの芸術作品のような雰囲気すらあった。
「くそっ」
 震えている。けれど、前回より幾分かはマシだった。まだ、立っていられる。僕は、戦える。
 ガッ。
 脳みそが揺れた。
「え――っ、と……」
 ぼやけた頭と視界で、背後を振り返る。そこには涙を浮かべた、都さんの姿があった。
 彼女の手には――鎖鎌が、握られている。重りの部分には、べったりと血がついていた。ああ、あれは僕の血だと気付いたとき、一瞬で顔面が蒼白になった。
「ごめんなさい」
 都さんが呟く。彼女の瞳はためらいが見て取れた。伏し目がちで、泳いでいて、そして、涙を浮かべたモスグリーンの瞳。
「わたくしは……あなたを、殺します。消えたくないから……ごめんなさい」
 彼女の言葉は、こんな状況なのにやけに真摯だった。笑顔が浮かぶ。一緒に食べたケーキ。一緒に見た映画。一緒に過ごした時間。
「こんなときに言うのもなんなのですが、わたくし、あなたを…………いえ、やめておきましょう」
 都さんはぎゅっと、鎖鎌を構え直した。
「本当に、ごめんなさい」
 ああ、と、僕は思った。
 これは――抵抗する気も、起きない。
 それこそが彼女の策略だったのかもしれないけれど、この試合で負けても多分僕は消えない。けれど、都さんは消える。ならば彼女の為に死ぬのも――悪くはない。
 そんなことを思ってしまうほど、彼女に、僕は同情してしまっていた。
 都さんが鎌の部分を持ち上げる。彼女は、僕に止めを指すつもりだ。
 一直線に、僕の首元へと鎖鎌の刃が――――
「んぁっ」
 刺さらなかった。軽い叫び声が背後から聞こえ、僕の身体は唐突に吹き飛ばされた。ああ、永遠音が帰ってきて、僕をかばってくれたのか。
 そう思い、顔を上げると――
「え……雛乃?」
 そこに立っていたのは、花柄のワンピースを着た黒髪の少女だった。背中の部分から、値札が出ている。それが妙にまぬけに見えるが、ワンピースは血に染まっていた。
「……みるくさん? このゲームは、悪魔同士で優劣はつきませんわよ? どちらがトドメを差そうと、ポイントは同じですわ……」
 掠れる声で都さんが言う。けれど雛乃は西洋刀の切っ先をビシリと都さんに向けた。
「そんなこと、関係ない」
 はっきりとした断定を口にする。
「私が殺す」
 そして――彼女はそう言った。
 身体中の血が、底冷えするのを感じた。雛乃が、あの雛乃が、僕に明確すぎるほどの殺意を向けている――。
「私が殺すの。彼は、荒木直也は私が殺す」
「……分かりましたわ。どうぞ。……わたくしも、そちらの方が、気が楽ですわ」
 都さんは、そんなことを言う。
 雛乃は、「何を言っているの?」とばかりに肩をすくめて首をかしげた。
「私、あなたにも死んでもらいたい」
「え――? そ、そんなことしてもポイントは――」
「ポイントなんて関係ない。あなたは直也を誘惑した。だから、死んでもらう」
「は――?」
 思わず声がでた。雛乃は、そんな僕に視線を向けてきた。
 それは――狂ったような、据わりきった瞳だった。
「直也。私見てたんだよ? 気づいていなかった? この女と、楽しそうにしてたよねぇ。ケーキを食べたり映画をみたり」
 ゾワッとした。
 都さんとのデートの最中、何度も感じた突き刺すような視線がよみがえる。
「ねえ直也、この女を殺して? 大丈夫。私が抑えてあげる」
「え――?」
「み、みるくさん? あなた、一体なにを――」
「黙れ雌豚ッ!」
「ひっ」
 キッと視線を向けての咆哮に、都さんが肩を震わせた。雛乃の瞳は血走っている。なのに、それが再び僕の方へと向けられたとき、彼女は驚くほどの笑顔だった。
「ね、直也。この女を殺して? そしたら、私はあなたを許してあげられる。それから、私に殺されて? 大丈夫だよ。この女を殺してから私に殺されれば、直也のポイントは変わらないから。私がゲームをクリアしたら、どうせ直也は生き返るんだろうけど、その前に消えるのも悲しいもんね」
「雛乃……? おまえ一体……?」
 彼女が浮かべているのは、穏やかな笑顔だった。いっそ、安らかそうなと言えるほど。
 だからこそ、それは――この血だらけの世界で、ひどく歪なものだった。
「ねえ直也。私ね――君の事が大好きなんだよ?」
 それは、唐突な愛の告白だった。
 嬉しいはずのその言葉なのに、この状況がそうはさせない。
 彼女は血まみれのワンピースと、血まみれの西洋刀を手に、いっそ芝居がかったほど饒舌に口を動かす。
「だからこのゲームをクリアして、私は絶対に裏切らない直也をもらうの。そして、二人で一緒に暮らすんだよ? 幸せだと思わない? 私を殺さないし、他の女と遊びになんて行かない。いつでも私の味方でいてくれるし、私以外の味方なんてしない。そんな直也がいる世界を、私はこのゲームで手に入れる」
「く、狂ってますわ……」
 都さんが呟く。雛乃はその言葉を受けてか、何故か「くくく」と笑い始めた。
「私、狂ってないよぉ? 大好きな人とずっといたいと思って何が悪いのかな? その希望が打ち破られた後、努力するのは悪いことかな?」
「努力……」
「そう! 例えば、人を殺したり!」
 ブンッと雛乃が素振りをする。まだ乾ききっていなかった血が、僕の頬に飛沫してきた。この血は――一体、誰の血だ? ジミィか、花蓮か、それとも永遠音か。
「と、いうわけで」
 雛乃が再び、切っ先で都さんを指し示した。
「直也、早いとこ、この女を殺して? そうすれば、ポイントが加点されるから」
 彼女は、晴れやかな笑顔でそう言った。
 僕はわけが分からず、都さんと雛乃の顔を交互に見遣った。都さんは怯えているようだった。雛乃は、にこやかなままだった。
 僕は泣き出しそうな都さんの顔を数秒眺めてから、ギュッと拳を握り、口を開いた。
「ひ、雛乃……」
「なあに、直也?」
「都さんは……消えてしまうんだ。このゲームに負けたら、消えて――」
「それがどうかしたの? 私と直也に関係のあることかな?」
 試みた説得は不発だった。何を、どうすれば良いのか分からない。
 そもそも、雛乃はこんなことをする人間じゃないはずなのに。そんなことを言う人間じゃないはずなのに。
 まるで――本物の、悪魔のようだと僕は思った。
「さ、はやく」
 雛乃が促す。僕は手に持ったままの日本刀の切っ先を眺めた。
 この状況で、獲れる選択肢がいくつある?
 雛乃のいう通りに、都さんを殺す。逃げる。雛乃を殺す。都さんと一緒に雛乃を殺す。
 いくつかあげたそのどれもを――僕は、選びたくなかった。
「はーやーくぅ‼」
 雛乃が咆哮をあげる。それは、怒りのように見えた。
「ねえ、なんなの!? 私とこの女と、どっちが大切かなんて一瞬で出るでしょ? 私は直也の幼馴染なんだよ? ずっとずーっと一緒にいたよね!? 十年以上も!」
 年月で二人の仲を図るのに、どれほどの意味があるというのだろう。
 そんな反論を、口にできるわけも勿論ない。
 冷や汗が流れる。時間は、あまり多くない。
「……青鴉さん……」
 都さんの声。視線をちらと向けると、彼女は目じりに涙を浮かべて、僕を上目使いに見遣っていた。その様子が――
「ア? 媚びてんじゃねェよ、雌豚がッ!」
 雛乃の気に障ったらしい。
 彼女は西洋剣を、都さんの肩口へと振り下ろした。あっという間もなく、鮮血が宙を舞う。
「……っ!」
「HNとはいえ直也のことを気安く呼ばないで」
「……」
「何、その目」
 肩口を押さえて、都さんは怯えた表情と瞳で雛乃を見つめていた。
「もっと苛めて欲しいのかな? はしたない女だね?」
 雛乃が剣を振り下ろす。何度も。何度も。致命傷にはならない、そんな位置に器用に切っ先だけを掠らせる。そのたびに唇を噛んで、都さんは耐えた。鎖鎌で時折防ぐが、雛乃のほうが一枚上手だった。その中の一刀が、都さんの太ももに深く食い込んだ。
「アアああああああッ!!」
 都さんの声は、激痛に耐えるソレだった。
 まるで見ていられないような地獄絵図に――僕は唖然と立ち尽くしていた。
 何かしなければ、動かなければと思う。けれど、何一つ出来る事が浮かばない。
「あああぁぁ。なんだろう? なんだろう、この気持ち……。うーん。ひょっとして……ソソるってやつかなぁ?」
 やけに艶っぽい、恍惚の笑みを雛乃は浮かべていた。そしてその表情のまま――
「そうだね。直也が殺してくれないなら、私が殺しちゃえば良いんだよね?」
 彼女は実にあっさりと、そんなことを言った。
 ぴたりっと。
 都さんの叫び声が止まる。痛みも忘れるほどの恐怖が彼女を襲っているのだろう。身体から完全に力が抜け、彼女は落ちるように膝をついた。
「じゃあ、ばいばーい!」
 雛乃が西洋剣を握る。都さんの首元へと、一直線にそれを振り下ろした――。

 ―――GAME OVER―――

 【青鴉】 獲得ポイント     0 
      現在累計ポイント +30

※ 反則行動確認のため、後日再ゲーム

 第四章・REAZON

 目が覚めると、全身が汗にまみれていた。
『おはようございます。開店二分前です。みなさん、今日も一日頑張って行きましょう』
 と、町田109のアナウンスが流れる。ハッと辺りを見回すと、そこは扉をくぐって階段の前で、ジミィと花蓮と――そして、雛乃がいた。
 致命傷などなく、首もついていて、服装だって元に戻っていた。
 一歩、雛乃から離れる。彼女は一瞬だけ傷ついたような表情を見せたが、何も言わずに扉を空けこの空間から出て行った。
「……くそ。負けか」
 ジミィが呟く。階段まで移動して、その二段目に腰を掛けた。
 そうだ――負けた、のだろう。
 雛乃が都さんを殺してから、唐突にこの場所に戻ってきたが――
「あ」
 都さん。名堂郁子。
 彼女はこのゲームの負けによって消えてしまうかもしれないと言っていた。彼女は、彼女は――っ。
 慌ててポケットから携帯電話を取り出した。教えてもらったばかりの電話番号に、電話をかける。呼び出し音が鳴り続ける。無機質なそれはただ淡々と連鎖していく。
 消えた――のであろうか。彼女は本当に、この世界から消えて――っ。
『……もしもし、郁子ですわ』
「! 都さん!」
 僕はほっと息をついた。
「良かった……。なんだ、このゲーム、消えたりなんかしないじゃないか。あ、いや。それとも、ポイントが大丈夫……だったの?」
『後者ですわ。――悪魔が悪魔を殺すのは反則事項。おそらく今回、ポイントが増減したのはみるくさんだけですわ』
「え――?」
『……すいません、わたくし、気分が悪いので今日は帰りますわ』
 電話が切れる。「都、なんだって?」とけだるそうにジミィが訊ねてきた。
「いや……。なんか、悪魔が悪魔を殺すのは反則事項だから、ポイントはみるくしか変わってないって……」
「なに!」
 ポケットから素早くジミィは黒い携帯電話を取り出した。慣れた手つきで画面を押していく。彼はすぐに、驚きの表情、そして喜びの表情を浮かべた。
「じゃあな」
 そして唐突に立ち上がり、彼は扉を出て行ってしまった。必然的に――僕は、相田花蓮とその場に残ってしまった。
「えっと、花蓮……さん?」
「……うん」
「帰らないんですか?」
「……考え中……」
 外にいるファンへの対応など、めんどくさい事情があるのだろう、花蓮は眉根を寄せていた。この場所に二人でいるのも気まずい。僕は一声かけて、外にでた。町田109は既にオープンしていた。あの異様な世界と同じように、靴や帽子などのファッションの店が開いている。
 外にでると、今まで室内の涼しい冷房にあたっていたからだろう、ムワッとした熱気を感じた。道行く人の流れに混ざり、家路につく。雛乃や都さんや永遠音や花蓮やジミィの顔がかわるがわる頭に浮かんでは、僕はこれからどうすればいいのかを考えた。
 このゲームから逃れる事は――出来ないのだろうか?
 今日の戦いで感じたこと。
 雛乃に都さんを殺せと言われた時、僕はどちらも選べなかった。
誰かを殺し、誰かを消滅に近づけること。そんなこと、僕はしたくない。もちろん自分も消えたくない。
 不意に、永遠音の願いを思い出した。
 自分が消えない為に誰かを消し、ゲームをクリアした後に全員の幸せを願う――。
 理屈的には間違っていなさそうな解決方法を思いつき、僕は考えた。
 この目的のために――他のプレイヤーを騙して殺すことが、果たして僕に出来るのだろうか?
「ただいま」
 結論が出ないまま、家へとたどり着く。扉を開くとツインテールの少女がいて、「わ、しまった」と言った。
「……何がしまったんだよ」
「んーっと。ケーキがあってね? でも……お兄ちゃんの分がない……わけでもない」
「……僕がいない間に二つ食おうとしたな?」
「うーっ! うち、もうケーキ二つ食べる口になってたのに! ねえお兄ちゃん、ケーキ譲ってくれないかなっ?」
「やだよ」
「うーっ!」
「唸ってもダメ」
 靴を脱ぎ、紅那の頭をぽんっと叩いてからリビングへと向かった。その時、ぴんぽーんとチャイムがなった。
「はいはーい」
 紅那が言いながら扉が開ける。僕は何気なく振り返った。
 そこに――
「え……。嘘。か、花蓮ちゃん!?」
 相田花蓮が、相変わらずのぼんやりとした半目で立っていた。

          ×××

「まあまあまあ! 花蓮ちゃん!? 嘘! 信じらんない! く、紅那! 早くケーキと紅茶を用意してっ」
「了解! お兄ちゃんの分でいいよね!?」
 本来の持ち主である僕に出し渋ったケーキを、紅那はあっさり花蓮の前に置いた。
 季節のフルーツたっぷりのショートケーキで、近所で評判のお店のものだった。
「わぁ! とっても美味しそう。ほんとにあたしが戴いちゃっていいんですか?」
 アイドルモードの花蓮が言う。瞳はぱっちりと大きく、輝いていた。自分のファンだと気付くや否やの対応に、正直若干引いたのは内緒だ。
「もちろん良いよ! お兄ちゃんの胃袋に収まるより、花蓮ちゃんみたいな素敵で可愛い子に食べてもらった方がケーキにとっても幸せだよっ」
「えへへー。じゃ、戴いちゃいますっ」
 丁寧にフォークでケーキを切り、小さく口を開けて放りこむ。まるでそのままCMにすら使えそうな笑顔で、彼女は「うん、美味しいぃ~」と笑った。その表情を、うちの妹と母親は涎を垂らしかねんばかりの恍惚とした表情で眺めていた。うん、怖いです。
「……で、何しに来たんですか?」
 僕が花蓮に問いかけると、母と妹は急にハッとした表情をした。
「「そういえば、なんで我が家に花蓮ちゃんが!?」」
 ……遅い。遅いよ二人とも。
「あ。そうですそうです。あたし、貴方にお話しがありまして。……お部屋に案内してもらえますか?」
「……分かった」
「な、なにこの展開……。お兄ちゃんと花蓮ちゃんが知り合い!? しかも二人でお兄ちゃんの部屋へ!? ど、どうしようお母さんっ。スキャンダル対策とか考えた方が良いのかな!?」
「お、落ち着いて紅那っ。とりあえずデジカメをッ。ああ。どうしましょう。二人で部屋だなんて……っ。婚姻届とかいるかしら!?」
「母さんが落ち着けよ……」
 ぶっ飛びすぎにも程がある二人をあしらって、花蓮を連れて二階に上がった。僕の部屋に入ると、花蓮は真っ先にクッションへと腰をおろし、表情を崩した。もはや僕にとってはこちらのほうが馴染む――眠たげな半目である。
「疲れた……青鴉の妹と母親もファンだなんて……そんなの、聞いていない」
「聞かれてないからな」
「……家族にファンがいるなら、サインをねだるべき」
「いや、そんな状況じゃなかったじゃん」
 冷静に突っ込みを入れると、それもそうだなと言った様子で花蓮が頷いた。
「ていうか、花蓮さん。どうやってここが?」
「後をつけた」
「……即答っすか。てか話があるなら普通に言ってくれ……さい」
 距離感の掴み方を測りかねて、奇妙な言葉を使ってしまった。花蓮はとくに気にした風もなく、
「……あなたに拒否されるかもしれないから。だったら直接乗り込んだ方が確実……」
「はあ。さいですか……」
「……みるくについて教えて欲しい」
 花蓮は唐突にそう言った。
「え?」
「……みるくについて教えて欲しい……。次のゲームは、反則試合の再選のために、今日と同じメンツ……。強敵の情報が、少しでも欲しい。青鴉とみるくは知り合い、でしょ?」
「……そうですけど」
「代わりに、貴方に情報をあげる。こちらも……。ギブアンドテイク……」
「情報、ですか?」
 花蓮はこくりと頷いて、
「貴方はゲームを始めたばかり。情報を、提供できる。たとえば……このゲームはそもそも……負ける事のほうが多い。負けたときのほうがポイントの移動が大きいし、最初の試合では基本的なルールさえ説明されず、九割負けるように出来ている……」
「え。そうなのか?」
「そう。最初の手持ちのポイントが50。最初のゲームで確実に-10。流れによってはそれ以上。このゲームは負ける人が凄く多い」
「……なるほど」
 右も左も分からない状態でゲームに巻き込まれたのは、制作者側の意図であるらしい。
 ――製作者。
 黒いスマートフォンの向こう側にいるはずの、姿すら見えない誰か。
「……ねえ、花蓮さん」
「ん?」
「このゲームの製作者について……何か知ってる?」
 僕が訊ねると、花蓮は首をかしげた。
「情報提供されたかったら……みるく」
「……それは――」
 獅子川雛乃。
 僕が殺して、僕に都さんを殺させようとして、そして、僕を殺そうとした少女。
 ずっと傍に居て、知っていると思っていた――けれど、様変わりしてしまった少女。
「それは――したくない」
 けれど、僕の心が導き出したのは、その答えだった。
 やはり僕は――雛乃を、傷つけたくなどなかったのだ。当たり前だけれど、最初から。
「……どうしても?」
「どうしてもだ。みるくは……僕にとって、仲の良い幼馴染。それは、今でも変わらない。僕は――彼女にまた信用されたい。信頼されたい。だから――ここで彼女を裏切るようなことは、したくない」
「分からないよ? ……誰にも言わないし、ばれない」
「それでもしない」
 僕ははっきりと言い切った。
 それは、自分自身への決意のようでもあった。きっと言葉じゃ、雛乃の心は動かせない。表すなら態度で。行動で。そして、それは雛乃が見ていないときだってそうなのだ。
 花蓮は僕の心を覗き込むように、半目でジッと見つめてきた。
「……あの子が好きなの?」
「え!?」
「………………ふーん」
 僕の顔色と反応を伺って、花蓮はそう言った。それからくすりっと、笑いを零した。テレビ画面の向こうとは違う、素朴で、そしてどこか影のある笑い。けれど――どこか魅力的だった。自然で、彼女本来の笑い方なのだろうと思った。
 なんとなく照れくさくなり、お返しに指摘することにした。
「花蓮さんはジミィさんが好「大好き」きなんだろ」
 迷い一つない口調で、僕の言葉に重ねるように花蓮はそう言った。まっすぐな口調と、まっすぐな瞳。それは嘘偽りのないものにしか見えなかった。
「あ、ぁぁ……そうなんだ」
 訊ねたこちらの方が、思わず赤面してしまう。
 しかし、そこまでの思いならばと、気になることができた。
「……花蓮さんは――」
 彼女は。
「戦うことに、ためらいはないの? ジミィさんとも戦ってきたんだろ? あの世界で彼を殺すことは、消失に近づけること……だよね?」
「……そうね」
 花蓮は頷いた。
「だから……あたしは、いつだって選んでいる」
「選ぶ?」
「何が大切で、何が大切じゃないのか。あなたは――迷っているでしょう?」
「え――?」
「早く、決めたほうがいい。いざというとき、……何一つ身体が動かなくなる……」
「それは……」
 どういう意味、と尋ねたところで、花蓮は立ち上がった。
「みるくについては……教えてくれないんでしょう」
「うん」
「……帰る」
 くるりっと、踵を返す。ボブカットの髪がゆらりと揺れた。
 その華奢な背中を見送りながら、僕は考えていた。
 選ぶ。
 何かを選択し、そして、何かを切り捨てること。
「最後に同じく恋をする身として……一つ、サービス」
 気だるそうに、花蓮は首だけ僕を振り返った。
「このゲームの中には本物の悪魔がいる……そして、その悪魔こそが製作者……」
「悪魔が作ったゲーム……?」
「あくまで、噂だけどね?」
 にやりっと、ドヤ顔で花蓮が笑う。つまらないダジャレだったが意外すぎて、僕はプッと吹き出した。
「それから……花蓮でいいから」
「ん?」
「さんはいらない……。花蓮でいい」
 それだけ言い残して、彼女は僕の部屋から出て行った。別れの挨拶一つしなかった。階下で、「もう帰っちゃうのー? お昼ご飯とか用意してるのにっ」と紅那の大声が響いてきた。

          ×××

 ハンバーグにオムレツ、冷製コーンポタージュにオレンジジュース。おまけに御飯はいつもの茶碗ではなく、お皿の上に盛り付けられたライスっと、気味が悪いほど豪華すぎる昼食を終えた。
「あーあー。花蓮ちゃんに食べて欲しかったなぁー」
 母はずっとこの調子で、机に突っ伏している。僕はその背中を哀れに思いつつ、なんとなくリビングの共用パソコンに向かった。
 花蓮は、みるくの情報を勝つために集めていると言っていた。ならば――少しずるい気もするが、彼女のことを知っておくのも悪くないと思ったのだ。
 検索にかけると、六百四十万のサイトがヒットした。めまいすら覚える情報の量。僕はとりあえず、誰もが書き込める情報ページを開いた。正しさに保証はないが、情報はきちんとまとめらているはずだ。
 クリックすると、以下のような記事が出た。
『相田 花蓮(あいだ かれん、1997年(平成9年)3月27日- )は、日本のタレントである。主な活動はドラマ・映画で、若手女優としていくつもの賞に輝いている。また、白鳥ちせらとともに町田市観光親善大使を務める。 東京都町田市出身。ピミットプロダクション所属』
 基本的な情報を読み終え、画面をスクロールしていく。その中で一箇所、気になる記事があった。
『花蓮のデビューは実兄である相田 鈴緒(あいだ すずお)との共演である、『兄妹ソウルマティック』。また、二つ年上の相田 鈴緒は現在タレント活動を休止している』
「……なにが気になるんだっけ?」
 頭の中のひっかかりを探ってみる。しかし思い当たるものは特に出てこなかった。それからしばらくもネットサーフィンを続けたが、めぼしい情報は出てこなかった。いつか聞いたマフラーのエピソードも本人に会ったあとでは冗談でしか思えないように、花蓮の作られた人格に関するものとしか思えない。
 パソコンを閉じる。それから、しばし花蓮の言葉について考えてみた。
 何かを選ぶこと。
 大切なもの一つ見定めて、他の物を切り捨てること。この僕に……そんなことが、出来るのであろうか、とか。
 例えばジミィですら、今では悪印象をほとんど持っていない。彼は彼なりに生き残るために策略を練り、そして真っ向から戦っているだけだ。
 僕はあのゲームで出会った人の誰ひとりとして、消したくはないのだと思う。それは、本当に心の底からそう思う。
 このゲームは……残酷だ。
 嘘をついて人を蹴落とし、誰かを消失へと近づけて、生き残るために生き返るとはいえ人を殺させる。
 一体――何がさせたいのだ。
 こんな戦いはしたくない。僕は普通に、平穏に、ただ緩やかに生きていきたい。今まで当たり前に喜受していたものを、これからも当たり前に受け取っていきたい。
 それなのに――今の状況は、まるで袋小路だった。
 何をするにしても、誰かを傷つけ、何をするにしても、自分を傷つける。
 雛乃に都を殺せと言われたとき、僕はそれをしたくなかった。その気持ちに嘘はない。絶対に、もう二度と、裏切ってはいけないモノのように思えた。
 何より――自分自身の気持ちを。
「……製作者、か」
 その人物を見つけ出して、鼻っ柱の一つでも叩いてやれば、この状況から救われるのだろうか? そうかもしれない。しかし、人間の動きが止まるような、世界を異世界に変えてしまうような、そんな人物である。
 歯向かうことは――可能なのだろうか?
 まず、どこの誰かも分からないし、相手は本物の悪魔かもしれないのだ。閉じたパソコンを開いてみた。検索ワードに悪魔といれて調べてみる。四千二百三十万がヒットした。
『悪魔(あくま)は、特定の宗教文化に根ざした悪しき超自然的存在や、悪を象徴する超越的存在をあらわす言葉である』
 なんともぼやっとした説明文句だなと思った。
 再びパソコンを閉じる。これから、何をすべきなのかを考えた。

          ☓☓☓

「ちょっと直也。買い物行ってきてくれる?」
 自分の部屋でぼんやりしていると、母親がやってきてそう言った。
「お昼ご飯張り切って作りすぎちゃったから、冷蔵庫が弱ってるのよ、お願い」
「弱ってるって……。ていうかちゃんと考えて量を作ろうよ」
 しぶしぶ立ち上がったが、こうして何の目的もなく座っていてもどうしようもない。気晴らしに外に出かけるのも、悪くはない。買い物のメモとお金を受け取って、僕は家から外にでた。
 歩き出す。
 すぐに、おかしなことに気がついた。背後に――明らかに、誰かがいる。そいつは僕が足早になると同じように足早になる。振り返ると、身を隠すのか誰もいない。しかし、背中に突き刺さる視線は、いかにも気づいてくれとばかりの主張が激しいものだった。
 まるでちぐはぐな尾行。
 その意図を読み取れないまま、僕は歩き続けた。どうすればいいのか、分からない。ただ危害を加えてこないならば、何か手を打つ必用も感じられない。結局答えがでないまま、スーパーマーケットへとたどり着いた。野菜売り場、肉売り場と順に回っていき、最後に『ついでにキャンディーよろしく☆ 美味しそうなやつ』と書かれていたので、お菓子売り場へと向かった。
 美味しそうなやつってどれだよ、と思いつつ色とりどりの飴袋が下げられた売り場を見つめる。
 サク――っ。
 何かの咀嚼音が真後ろから聞こえた。それは、真後ろという表現では生ぬるいほどの至近距離に感じた。あまりに不気味すぎて、動けない。そのあいだもサクサクサクと、咀嚼音が続いていく。最後にごくんと喉を鳴らす音が聞こえて、不意に僕の腹へと手が回ってきた。左腕だけで抱きすくめられる形。そして、その細く白い腕には、かすかな見覚えがあった。手にはつまむようにして、白いビニール袋に入ったクッキーを持っていた。
「なおや」
 くすぐったい息遣いとともに、甘ったるい声音が耳に届く。振り向かなくても、分かる。
「雛乃……ッ」
 背後でからからと、買い物カートが通りすぎる音がする。昼間っからお熱いのねと言わんばかりのため息も聞こえた。のどかな昼下がりのマーケット。しかし僕には、世界が一変したようにしか思えなかった。
「ねえ直也。今日、花蓮ちゃんを家にあげてたよね? ねえ、なんでそんなことしたの、ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ!?」
 そして聞こえてくるのは、雛乃のそんな声。ちょっとずつ声音を変えながら、彼女は『ねえ』と繰り返す。
「あ、あれは……か、花蓮が勝手についてきただけで……。て、ていうかなんでそんなことを知って……」
 絞り出すようにそういうと、フンと鼻を鳴らす音がした。
「花蓮、ねえ……。呼び捨てなんて、仲がいいんだね? 私というものがありながら……っ」
 僕の疑問には一切答えず、底冷えするような静かな怒りの声音で、雛乃はそう囁いた。
 一体――彼女はどうしてしまったのだろう。
 腹部に鈍い痛みが走る。気がつくと、雛乃の指先がクッキーの袋と一緒に、僕の腹をつまんでいた。
「ねえ、直也?」
 ギリギリと、つねられた腹がねじられる。ついで、爪を突き刺すようにして雛乃が指を動かす。確かな痛みが、僕の脳へと持続的にやってくる。
 ふっと、その痛みが緩んだ。
 彼女が手を離し、こつんと足音が聞こえた。ようやく、僕は振り返って雛乃と向き合った。一歩だけ僕から離れた彼女は、それでもまだ僕のすぐ近くに立っていた。
 彼女は、白いワンピースを来ていた。初めてのゲームのときに来ていた服ではなく、また別のワンピースだった。短くなった黒髪には、四葉のクローバーの髪飾りが付けてあり、左側だけに小さな三つ編みが結われていた。
 そして表情は――まるで泣き出しそうな顔で、瞳は死人のように濁っていた。
「私との約束、忘れちゃったのかな……?」
「約束……」
「……最後の日に――」
 頭の中に衝撃が走った。
 なぜ――今の今まで、忘れていたのだろう。姉さんのことで、頭がいっぱいだったから?  しかし、それは言い訳にしか過ぎない。
 僕の表情から、何かを読み取ったのだろうか。雛乃は涙を浮かべた。そして、サッと彼女は踵を返す。右手に持ったクッキーの袋を、彼女は床に投げ捨てた。
「待って! 雛乃……ッ!!!」
コツコツと歩いていく彼女の背中を僕は大声で呼び止める。スーパーの客が驚いて、一斉に僕の方を向いた。しかし、こんなことでは止まれない。僕には、言わなくてはならないことがある。
「裏切らない!」
 きっと、痴話喧嘩のたぐいだと思われるだろう。羞恥心がかすめる。僕は爪が食い込むほど拳を握り、それを振り払った。
「裏切らない! 約束する! 言葉じゃ信じてもらえないなら、次は行動で示す……ッ!! 雛乃! 覚えておいてくれ! 僕は、約束を守るからッ!!」
 彼女の歩みが止まって。一瞬だけ僕を振り返る。
 そこには、瞳の奥で少しだけ輝いた光があって、口元は、笑いかけのような半端なものだった。
 そんな表情を残して、彼女はスーパーから外へと出て行った。
 ひとり取り残された僕は、雛乃が投げ捨てたクッキーの袋を拾う。
 それは、町田駅で再会したときに、僕が渡したものだった。
 

          ×××

 買い物袋を家においてから、散歩をしてくるといって夕暮れの町に出た。向かった先は、町田第一中学校。僕と雛乃が今年の三月まで通っていた母校である。
 部活が終わり帰宅するのだろう。大きなカバンを担いだジャージ姿の中学生たちが、次々と校門から放出される。その流れに逆らって、僕は中学校へと足を踏み入れた。
 向かった先は、校庭の隅にある大きな桜の木。桜がつぼみの頃に、僕と雛乃はこの下に二人、並んでいたことがある。
 もう、いくばくも中学校生活が残されていないというタイミングで、雛乃に呼び出されたのだ。
 呼び出された僕は、ドキドキしながらその場所に向かった。人生初めての告白を受けるのではないかという、甘酸っぱい期待である。けれど、夕焼けに照らされた雛乃の横顔には、言いようのない悲しみの表情が張り付いていた。
「来てくれたんだ。直也」
「そりゃ、くるよ」
 雛乃が地面の上に腰を下ろして、木の幹に背中を預ける。僕はためらいながらも、そのとなりに腰を下ろした。
「お父さん、お母さんより好きな人が出来たんだって。だから……今の家、お母さんは……出て行くんだって。私も……一緒に」
 逡巡のあとにつぶやいたのは、そんな言葉だった。雛乃の言葉には刺があった。あからさまな嫌悪が、父親に向けられているようだった。
「……そう、なの?」
「うん。黙っててごめん」
 僕は何も言えずにうつむいた。雛乃とは幼馴染。当然のように、彼女の母親とも父親とも顔見知りだ。仲良さそうな夫婦であると、僕はそう思っていた。雛乃は両親を慕っているように見えた。
「……ひどいよね。お母さんと、私を、切り捨てて……。ひどいよ」
 つぶやく言葉と一緒に、彼女の目尻にじわりと涙が浮かんだ。それはゆっくりと重力に従って、白い頬をすべり落ちていく。その言葉で、僕は確信した。やはり雛乃は、両親をきちんと愛していたのだと。
 不意に彼女が横を向いた。
 となりに座った僕と、ほんの十数センチしか離れていない距離。その距離感にとぎまぎしながら、僕は雛乃の瞳を見つめていた。
 彼女の瞳には、すがるような光があった。
「……約束、しよ?」
「約束?」
「うん……約束。あのね、直也。直也は……直也だけは、私を……私を、決して裏切らないで……っ」
 掠れた声が雛乃からこぼれた。それは、彼女がみせる弱さだった。いつだって明るくて、しっかりもので、健気だった彼女。
「……分かった。約束するよ」
 僕は頷いた。
 雛乃が他県の高校に入学したのは、それからすぐのことである。

          ×××

 翌日は、雨だった。
 それも、勢い良く叩きつけるような雨だ。窓ガラスから響いてくる雨音がうるさい。遅めの朝食を終えたあと、そんな天気であるがためにすっかり手持ち無沙汰になったしまった。
 階段を上り自分の部屋に戻る。そのとき『あおいのへや』という看板が目に入った。部屋の前で立ち止まる。
 姉のことを知るために、僕はあのゲームに参加することを考えた。
 しかし、それは逆に――ゲームのことを知るために、姉と向き合うことだって、有効な手段の一つなのではないだろうか――?
「…………」
 そこまで考えて――けれど、僕はためらってしまう。
 あの日から今まで、姉の傷に僕は触れては来なかった。なかったことにしてしまおうだなんて微塵も思っていないけれど、触り難いことに変わりはない。
 見るからに痛そうな傷口に、誰か進んで手を伸ばすというのだろうか? 
「……お兄ちゃん?」
 振り返ると、髪の毛を下ろした紅那が立っていた。手には、何か紙切れらしきものを持っている。
 どうやら、まだ髪型をセットしていないらしい。眠気眼をこすっていた。
「どうしたの? お兄ちゃん」
 返事に一瞬詰まる。「なんでもない」といかにも何かありそうな言葉がでた。じぃっと、怪しんだ目を向けてくる。ああ、やばいぞと僕は思った。
「あ、あのさぁ! え、えっと……そうだ、それなんだ?」
 僕は苦し紛れに、妹の手を指さした。「これ? 写真だよ?」と、それを見せてくる。
 それは、花蓮と僕の写真だった。おまけに絶妙な距離感で、どことなく恋人同士にも見える。
「お、おま!? ガチで撮ったのかよ……っ」
「うん。良いでしょー。ブログに乗せようと思って」
「……よこせ」
「あ!」
 ひょいと妹の手から写真をとりあげる。それをポケットにしまって、ちらりと姉の部屋を見つめた。
「……ひょっとして、お姉ちゃんに声をかけようと思ってたの?」
「あー……えっと……」
 我が妹ながら、なんて勘の鋭さだろう。彼女は写真に興味を無くしたようで、ジッと姉の扉を見つめている。
「そっか。そうなんだ」
 紅那は意味深な顔をして、俯いた。それから、意を決したように顔を上げた。
「ねえお兄ちゃん――うちね、ずっと思ってた」
 何を? と訊ねる前に、
「うち達はずっとお姉ちゃんから逃げてたんじゃないかって」
「逃げてた……?」
「うん。引きこもったお姉ちゃんを、扉の外側から撫でてるだけで、誰ひとりその扉をけ破って引きずり出そうなんてしなかった。お姉ちゃんを傷つけないためって、うちはそう思っていたけれど、それって結局――自分達が傷つきたくなかっただけなんじゃないかな?」
 姉は僕らのヒーローだった。
 そんな彼女に拒絶されること。それは、とてつもなく痛いこと。
「だから、お兄ちゃんがこの扉を叩くなら……うちは、応援するよ」
 唐突に、紅那は僕の手を握りしめてきた。小さくて、柔らかくて、温かい手だった。
「お姉ちゃんを、助けてあげて」
 小首をかしげて、真剣な眼差しで彼女はそう言った。力強いその口調は、僕にまでその強さが移りこんでくるようだった。
 その表情に、なぜか雛乃の姿が重なる。あの日桜の下で見せた、すがるような瞳。
「……分かった。助けるよ」
 僕が頷くと、紅那は柔らかく微笑んだ。

          ×××

 扉を叩くと、室内で姉が身体を動かすのが分かった。ガタリ。大きく身じろぎしたその音は、動揺の大きさを物語っている。
「お姉ちゃん、ちょっと良い? ――例の、ゲームの話なんだけど」
「――――っ」
 扉越しなのに、息を飲む音が聞こえた。僕は、それ以上言葉を続けずにずっと待っていた。長い長い沈黙のあと、「直くん……」と微かな姉の声が聞こえた。
「直くん……ゲーム、やめてないの?」
「やめられないよ……。このゲーム、途中でやめると消えるらしいんだ」
「え――?」
 驚きの声が聞こえた。そのルールを、どうやら彼女は知らないらしい。それからまたしばらくの沈黙のあと、
「……そうか、わたしが出たから……だからあの子は……ルールを変えて……」
 と、独り言のような言葉が聞こえた。
「直くん」
 姉にしては大きな声だった。そして、その後に足音が聞こえてきた。一歩、一歩、踏みしめるような歩みだった。時折ぺたっと裸足と床が音を鳴らした。
 そして――かちゃりっと、鍵の音。
「……久しぶり」
 扉が開き、姉の姿が現れた。
 髪が伸びている。とくに、前髪が伸びている。しかし、妹以上に小さな背丈も、やせ細った身体も、そのままだった。ただ――肌が異様に白くなっており、顔色が悪い。
「入って」
 僕は姉に言われるまま、彼女の部屋に足を踏み入れた。僕が中に入ると、姉は鍵を閉めた。薄暗い部屋だった。遮光カーテンを閉め切っており、明かりと言えば三段階で一番暗い蛍光灯が一つきりだった。見える範囲で姉の部屋を観察すると、あまり整っているとは言えない部屋だった。雑多に物が重ねられており、そのどれもが薄汚れて見えた。そもそも部屋自体が埃っぽい。空気を入れ替えることがないのだろうから、当然と言えばそうなのかもしれないが。
「適当に座って」
 姉は自分のベッドに腰を下ろしていた。気温は快適とは言えないのに、タオルケットを身体に巻き付けている。
「……嘘つきゲーム」
「うん」
「わたしは……あのゲームに、参加していたの」
 姉の告白に、僕はそれほど驚きを覚えなかった。予想していた事ではあった。
「そこでわたしは……ひどい裏切りにあった」
「……裏切り」
「あれは……あのゲームは、そもそもがそういうルールだけれども……それよりも、ずっとずっと、ひどい裏切り」
 暗い顔で姉さんが言う。顔は蒼白で、何かに怯えているようでもあった。その何かから逃れるために、彼女は自らの部屋に閉じこもったのか。
「わたしはそう、あのゲームの……『製作者』に、会ったの」

          ☓☓☓

 連絡を取ると、明日ならばと返事が来た。僕はその日一日をぼんやりとして過ごした。そして次の日がやってきた。昨日片付けておいた部屋を、改めて片付けてみる。机の上からいつかのアロマキャンドルが発見された。僕はなんとなく火をつけてみた。
 灯した明かりをじぃっと見つめていると、嗅いだことのある花の匂いが漂ってきた。それはラベンダーの匂いだった。そういえば、一度、雛乃とラベンダーを見に行ったことがある。近くの植物園で、ラベンダーのフェアをやっていたのだ。
 咲き乱れる紫色の花の中を、手をつないで二人で歩く。そういえばそのときも、雛乃はワンピースをまとっていた。汚れ一つない白い服は、雛乃にいつでもよく似合う。
 ピンポーンと、インターフォンがなった。火を吹き消してから立ち上がる。
 階下に降り玄関に辿り着き扉を開けると、呼び出した人物が立っていた。
「おっはようーです? それとも、こっんにちはーです?」
 透き通るような青い色。きれいな瑠璃色の髪の少女。ファンシーな服装と、相変わらずの機能性より見た目重視のポシェット(今日はうさぎのぬいぐるみ型だった)。

 崎永遠音は、今日も可愛らしい笑顔で立っていた。

          ☓☓☓

 僕の部屋に招くと、永遠音はとくに抵抗なくついてきた。部屋に上がると、どこに座ればいいのか分からないらしく、辺りをきょろりと見回した。クッションを指し示すと、彼女は大人しくその上に座った。彼女は机の上にあった使いかけのアロマキャンドルを目ざとく見つけると、「使ってくれたんですねぇ。嬉しいですよ?」と笑った。
 その無邪気な笑顔を前に――本当にこの子なのかと、戸惑ってしまう。
 けれど、姉が嘘を付いているなんて、どう考えても思えなかった。
「荒木葵」
 僕がはっきりと姉の名を告げると、永遠音は大きく目を見開いた。それから口の端を釣り上げ、「懐かしい名前ですね?」とつぶやく。
「懐かしい……か」
「はい。もう一ヶ月も会っていませんからね?」
 たったの一ヶ月前のことを、こいつは懐かしいというのか。
「……お前は、荒木葵を裏切ったのか」
 詰問するような口調がでた。事実、それは詰問だったのだと思う。しかし永遠音はどこ吹く風で、いっそ機嫌よく答える。
「永遠音は葵を裏切ってなんかないですよ? 永遠音はいつだって、いまだって、彼女の幸せを願っていますよ。彼女だけじゃなくて、世界中の人間の、ですけど」
「……世界中の人間の幸せ……」
「はい。そうですよ? たくさんの人間がニコニコなら、永遠音はとっても嬉しいのです」
 それは――誰も選ばないということ。
 葵を大切であると、思ってもいないのだと僕は思った。彼女にとっては誰もが大切な人で――それゆえに、とてつもなく残酷だった。
「なあ、あんたは――このゲームの、嘘つきゲームの製作者なのか?」
「そうですよ?」
 事も無げに、永遠音は言った。その気軽さは、いっそ腹が立つほどだった。参加者の誰もが傷つくようなゲームを作っておきながら、彼女は……。
「あんたは一体……なんのためにこんなものを……っ」
 拳を握り訊ねた。どんな答えを聞けば納得できるか分からなかった。そんな僕に対し、永遠音はやはりなにも気負うことなく答えた。
「このゲームは、悪魔をおびき出す檻ですよ?」
 そんな、非現実的な言葉を。
「強い欲望をもった人間ほど、悪魔は寄せ付けられるのですよ? そんな人間を極限状態に追い込めば、必然的に悪魔が擦り寄ってきますよ? そうしたら、こちらから探すよりもよっぽど手間がかからないのです」
 ようするにそれは――避雷針や、ヒューズのようなもの――ということなのだろうか。
「あんたは――あんたは一体、何者なんだよ……っ」
「永遠音は、天使ですよ?」
 瑠璃色の髪をなびかせて、永遠音は笑う。天使――。ああ、彼女がいう世界の幸せは、確かに――悪魔よりも天使にふさわしい。
 けれど――
「ゲームの参加者を、あんたはどう思っている?」
「必要犠牲ですよ?」
 無邪気に彼女は言い放つ。
「あのゲームで悪魔を集めて、自動的に悪魔を消すのです。とても効率が良いのですよ? それに、悪いことばかりでもないです。ゲームをクリアしたのなら、永遠音にできる限りで世界を変えてみせますよ?」
「ゲームを、クリアしたら……?」
「はい。百ポイント集めてください」
 ニコニコと永遠音は笑う。その笑顔のまま、
「今は――獅子川雛乃に、悪魔がとり憑いているようですね?」
「雛乃に――悪魔が?」
「はい。おまけに彼女、あと少しで本当のゲームオーバーですよ? 消えてしまうのです。 永遠音にとってはとっても好都合ですよ?」
「――っ」
 息を飲む僕を、永遠音はじっと見つめてきた。その顔は、やはり笑っている。
「あなたに、彼女は救えないですよ?」
「え?」
「だってどー考えても、一ゲームで貯まるポイントじゃないんですよ、七十ポイントは」
「あ――」
 目の前にたたきつけられた絶望に、僕は狼狽した。姉から聞いた、崎永遠音の裏切りを思い出す。

『わたしは、誰もが笑うだろうけど……世界の平和を願ったの。世界中の人間みんなが幸せな世界……。人に言ったら、絶対笑われるような、素朴で盛大すぎる夢を、わたしは本気で信じていた』
『そして、あのゲームの中で出会えたの……。わたしと同じ理想を持ってるって感じた女の子――永遠音ちゃんに』
『とっても良い子だと思った。ゲームの外でも仲良くしてたの。でもね――ある日、わたし、知っちゃったんだ。彼女こそが、この残酷なゲームの仕掛け役だったんだって』
『彼女はね、そのことを、事も無げにわたしに教えてくれたの。そのとき――自分との、補いきれないほどの溝を感じた』
『彼女はこのゲームの構造も教えてくれた。そして、わたしに言ったの。『世界平和は、犠牲なしには成り立ちませんよ?』って』
『わたしは……っ。本当に、彼女のことを……っ。わたしを理解してくれる、一緒に夢を追いかけてくれる、同志だと……っ。かけがえのない親友だと、そう思っていたの……っ』
『そうして――あのゲームの何もかもが怖くなって、逃げ出したんだ』

 思考を切り替える。
 目の前の現実に集中すると、永遠音が立ち上がるところだった。
「楽しみですねぇ。明日の悪魔退治」
 にっこりと永遠音は、悪魔のような笑みを残して去って行った。

 第五章・LASTGAME

 いつのことだろう。
 遠い日の記憶を、僕は夢で見ていた。ぼんやりと霧がかった白黒の風景で、夢の中とは思えないほど頭が冴えていた。冴えているからこそ、僕にはここが夢であるということがはっきり分かったのかもしれない。
「ねえ、なおや」
 幼い声が聞こえた。それは、小さな女の子からだった。白いワンピースを身にまとった女の子。僕はその子と、ラベンダーが咲き乱れた道を歩いていた。
「きれいだね」
「そうだね」
 手をつないで歩きながら、
「ねえ、ラベンダーの花言葉って知ってる? 繊細、優美、疑惑、沈黙、なんだって」
 と彼女に告げた。母に植物園に行くと伝えたところ、よかったら、雛乃ちゃんに教えてあげなよ。きっと喜ぶわよ。女の子はこういうの、好きだから――。そう言って、教えられたものだった。
 雛乃は僕の言葉を聴き終わったあと、じぃっと何かを考えているようだった。
 それから、「ふしぎだねぇ」といった。僕が何がと尋ねると、言葉の意味が分からないから、不思議なんだと彼女が言った。確かにその頃の僕にも、四つの言葉の意味は難しすぎてよく分かってなどいなかった。
 しかし今にして思えば、言葉の意味以上に、この取り合わせを不思議に感じる。
 繊細で、優美という綺麗な言葉に、なぜ疑惑や沈黙などという言葉が続くのか。
 よく分からないまま、僕は完全に目が覚めた。
 黒い携帯電話に、今日の集合場所と時間が届いていた。
 この場所から、動きたくない。
 不意に、そんな感情が浮かんできた。
 解決の糸口は確かに掴んだが、それは途切れた糸だった。自分が消えてしまってもいい。その代わり、ゆっくりとベッドの上で寝転がっていたい。そんな投げやりの感情が浮かんでは消えていく。
 その気持ちを雛乃の泣き顔で振り払い、起き上がった。
 着替えを済ませる。服装は、ハーフパンツと半袖パーカーにした。履きなれたスニーカーの靴紐を結ぶ。決して解けないようにときつく結ぶ。
「……直くん」
 ありえない声が聞こえたのは、そのときだった。嘘だろ。まさか。そう思いつつ振り返ると、そこに姉が立っていた。
 小さな背丈と長い髪。服装は水色のパジャマ。顔色は相変わらず優れない。明るい家の中でみると、なおさらだった。
「お姉ちゃん……っ」
 上ずった声がでた。自分の胸が急速に、暖かな何かで埋め尽くされているのが分かった。彼女は――一歩を踏み出したのだ。小さいけれど、確かな一歩を。
「直くん……頑張って……っ。何もできないけど、応援、してるから……っ」
 姉の声は震えていた。足も震えていた。自分の部屋から出るだけで、彼女にとっては苦痛なのだ。それでも、僕に伝えてくれた。その事実だけで、いつもよりほんの少し頑張れるような気がした。
 先程まであった、ベッドで寝転がっていたいという投げやりな気持ちは消えていた。
「ありがとう。行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
 くしゃっと姉が顔を崩した。それが笑顔だと気付くまで、数秒かかった。

          ×××

 このゲームをクリアし、願いをかなえてもらう事。
 しかも、今日のこの一度のゲームで。
 それこそが、雛乃と都さんを同時に救う、唯一にして無二の方法だと永遠音は言った。
 けれど、僕のクリア条件は残り七十ポイントで、一度のゲームで手に入れる事が不可能な数であるらしい。
 たとえば悪魔になったとして、味方同士で殺し合いをさせるとボーナスがつく。これが一つ十だと予測されるから、四人の人間に殺し合いをさせて、三人が死ぬだろうから三十ポイント。最後に残った一人を殺し、四十ポイント。確かに、クリアには遠く届かない。
「何か手が……何か、あるはずなんだ」
 それは、昨日から僕が考えていることだった。しかし、一向にいいアイディアは思いつかない。どうしようもなく行き詰っている。
「青鴉……さん?」
 そんなとき、前から見覚えのある人物がやってきた。薄い青の高級そうなワンピースを身にまとった、派手なカチューシャをした金髪の少女だった。
「都さん」
「どうしました? 顔色が悪いですわよ?」
 そういう都さんの方こそ、大分顔色が優れていなかった。顔面蒼白と表現しても、何一つ間違いはないほどだ。それに気のせいだか、僕に対して一歩引いている感じが伝わってくる。
 いっそ警戒心と言っていいほどのものだろう。彼女は両手を身構えるように僕と自分の身体の間に置き、足はいつでも逃げだせるような姿勢だった。
「ぁ、そうか」
 小さくつぶやいた。
 都さんは、僕を騙した。つまり、僕を信頼させて、油断させるという、昨日と同じような手は使いにくい。だからこそ、この再戦が怖いのであろう。何一つ手を打っていないままどころか、不利な状態で始まる、この再戦が。
「都さん」
「は、はい」
 僕は、君を救いたいんだ。いっそそう言ってしまいたかったが、それは無責任な言葉としか思えなかった。救うための手立て一つなく、彼女にいたずらな希望を見せるだけだ。
 だから、代わりに僕は訊ねた。
「例えば……なんだけどさ」
「……はい」
「自分には実行不可能な課題があったとして、けれど、どうしてもその課題をクリアしなくちゃってなった時……都さんならどうする?」
「それは……決まってますわ」
 都さんは、自信満々のようだった。形の良い胸を少し張り、さりげない口調で答えてくれる。
「他人にやらせます」
 それは、いかにもお嬢様らしい発想だった。しかし、そのシンプルで分かりやすい答えは、僕に天啓ともいえる閃きを与えてくれた。
『まあいい。とにかくお前は崎永遠音なんだな』
『そうですよ? 永遠音は、崎永遠音ですよ?』
『自分の噂を知ってるか? ゲームクリア間際になると絶対に現れるプレイヤーであるだとか、彼女が現れたゲームは必ず不幸が訪れる、だとか』
 永遠音とジミィが、初めて交わしていた会話。ジミィは噂を口にして、そして永遠音を警戒していて、ポイントの移動がないと知った時、心底安堵をしめし――。
 頭の中で次々と、ジグゾーパズルのピースが埋まっていくようだった。そして現れた絵図には、『ジミィはこのゲームをクリア間際である』と描かれていた。
「自分に出来ない事は、他人にやってもらえばいい……」
 呟く。
 困難な茨の道に思えたが、不可能と言い切れるほどではなかった。今まで明かり一つ見えない暗がりを、一人で彷徨っていたのだ。微かな微かな光だが、すがらないという選択肢を、僕は選ばない。
「……都さん。聞いてくれないか?」
「は、はい?」
 僕は、彼女と向かい会った。モスグリーンの瞳が、驚きで溢れていた。彼女の細い肩に手を置く。
「僕は君を救いたい」
 想いを伝えた。それは、本当に心の底から思ったものだった。ほんの数日の短い付き合いだけれども、僕は都さんを素敵な人だと思う。人が羨むような高みにいながら、僕たちの等身大の生活に憧れた少女。
 都さんは数秒、ぽかんと沈黙した。それから、ボンッと顔が真っ赤に染まった。
「え、え? えっと、えええ、ああああああ? え、え、え、ああ?」
 その狼狽を、初めて会ったときのようだなと苦笑しながら、僕は続けた。
「このゲームを、終わらせるんだ」

          ×××

 昨日と同じ、開店前の町田109のエントランスには、都合のいいことに二人の人間しかいなかった。一人は相田花蓮。そしてもう一人が、ジミィだった。
 花蓮は派手な黄色のチェニックワンピースとレギンス姿で、足元は動きやすそうなローヒールの靴。
 ジミィは黒のスラックスとワイシャツで、伊達なのか黒いメガネをかけていた。会うたびに服装の印象が違う。
 僕達は誰からとなく視線を交じりあわせた。 
「よお」
 ジミィが手を上げる。ラフな仕草だった、
「どうも」
「……こんにちは、ですわ」
 僕と、都さんも挨拶をした。花蓮だけは、黙って半目で僕らに目礼した。
 僕はそこで、あたりを見回した。続けて、例の階段へと続く扉を開けたり、周囲を警戒していく。背中にジミィや花蓮の視線が突き刺さった。
「何をしているんだ?」
 ジミィがクールな声で訊ねてきた。
「内緒話があるんだよ」
「内緒話?」
「ああ……ジミィさんに、お願いが」
 振り返ってジミィの顔を確認すると、案の定疑い深い目を向けていた。ジミィは、このゲームに精通していて、頭も悪くない。当然ながら、このような持ちかけに対して警戒心しかないのだろう。
「聞いてくれ――僕は、このゲームの製作者へとたどり着いたんだ」
 そして、僕は話した。さきほど都さんに簡単に説明したことを、さらに詳しく丁寧に。
 このゲームのこと。姉のこと。永遠音のこと。雛乃のこと。悪魔のこと。天使のこと。
 全てを伝え終えて、僕はいった。
「この状況を打開するには、今日、このゲームをクリアする必要があるんだ――っ。けれど、僕にはそれが出来ない。だから――」
「……俺に頼みたい、と?」
 ジミィの言葉に頷いた。すると、彼は頭を抱えだした。
「それはつまり……ゲームの勝ちを俺に譲るってことか?」
「そうだ」
 断言すると、ジミィはますます頭を抱えだした。その表情は必死に何かを考えているようだった。
「青鴉、お前の願いはいいのか……?」
 数秒の思案のあと、吐き出された言葉だった。僕を見下ろすその瞳には、どんな表情も見逃すまいと警戒心が見て取れた。そうだ。ここは、執念馬なのだ。彼に少しでも、自分を信じてもらうための。
「僕の願いは、姉さんが傷つかなかった世界を作ることだった」
「姉さん?」
「ああ。姉さんは、僕たちの憧れだった。何でもできたし、それでいて優しかった。でも、ある日、すごく傷つけられて帰ってきて……部屋からでなくなったんだ」
 ピクっとジミィの身体が震える。その瞳には驚きの光が宿っていた。
「僕はこのゲームで、そんな姉の幸せを願った。けれど――姉さんは自分の力で、一歩踏み出したんだ。だから、今となっては、僕の願いはもう良い。姉さんは傷ついたままだけど……それを、一緒に乗り越えていけばいいって思うから」
「……そうか。いい姉弟だな」
 ジミィがぽつりと言った。その口調は、いつもよりずっと柔らかく、口元がかすかに緩んでいた。
「……青鴉」
 花蓮がすっと僕に近づいて来た。
「……あたしはその提案、受けてもいい」
「!」
 花蓮が賛同を示したことに、都はホッとしたらしい。胸をなで下ろす仕草を見せた。花蓮はその様子を一瞥した後、ジミィを振り返った。
「……こんなゲームは、もううんざり。あたしは、あなたと殺し合いなんてしたくない……。だから、終わらせよう、こんなゲーム」
「花蓮……」
 ジミィはじっと、花蓮を見つめていた。その瞳には、何かの感情が見て取れた。それが何か――僕には全く分からなかった。
「そうだな」
 ジミィが頷く。
「終わらせよう、こんなゲーム」
 そして、花蓮の言葉を力強く繰り返した。

          ×××

 りりりりりんと、小さな女の子の声が一斉に響いた。戦闘開始までお待ちくださいという例のメッセージを受信する。
「じゃ、役割を振られたら、僕らの中で打ち明け合おう。そして、ジミィを勝たせる」
 順々に顔を見回す。誰もが力強く頷いてくれた。時計が進んでいく。息苦しいほどの沈黙の中、僕は探っていた。
 この共闘は――はっきりいって、賭だ。
 いつどこで、誰が裏切るか分からない。けれど、僕にはこの方法しかない。それに、考えがあった。いざと言うときは、考えが……。
 りりりりりんっと再び着信がなった。僕は自分の携帯を片手で操作し着信を止めた。両目は、ジミィに花蓮、そして都さんを観察することに使った。三日前の戦闘でジミィが使った顔色の変化を見るためである。
 ジミィが僕と同じようにこの手を使う可能性も考えたが、使った時点でジミィの共闘の意志に疑念があるということが分かるはずだ。
 しかし結局、彼はいたって普通に自分の画面を確認していた。しかし、表情はまったく変化しなかった。花蓮もだ。
 ただ都さんだけが、安堵のような表情を見せた。目の光が和らぎ、口角が少し持ち上がったような気がしたのだ。
 その表情から、僕は思考を働かせる。昨日、彼女は悪魔のチームだった。そして、雛乃に殺された。もしも再び悪魔だったとして、安堵の表情を果たして浮かべるだろうか? 役割的にも、人間であるほうがその表情を浮かべる事に納得できるような気がした。
 僕はポケットから黒い携帯電話を取り出して、自分あてのメッセージを確認した。
『今日の青鴉さんのチームは~でるるるるるるっ、じゃーん! 人間チーム\(^o^)/ クリア目指して頑張ってね?』
「僕は人間だ」
 すぐに皆に告げる。言いだしっぺから言わなければ、信頼など最初から得られるはずもないのである。
「俺は悪魔だ」
「……人間」
 意外なことに、ジミィと花蓮が僕の告白に続いてくれた。二人が打ち明けたからだろう、都もホッとした様子で、「わたくしは人間ですわ」と言った。
「ジミィは悪魔か……」
「ああ。そんでもって、ここに人間が三人だ。永遠音と雛乃、どちらかが悪魔でとちらかが人間ということになるな。……ついでに確認しておこうか。この場に、退魔師はいるか?」
 全員が首をふった。
「ふん。じゃあ、永遠音と雛乃どちらかが悪魔で、どちらかが退魔師ということになるな」
「うーん……」
 雛乃に、永遠音。
 どちらも取り組み難い相手である。その二人が両陣営のどちらかに属しているという状況は、あまり好ましいモノとは思えなかった。
「……どうすればいいでしょうか?」
 都さんが呟く。ジミィが、「とりあえず俺に殺されればいいんじゃないか? そうすれば、クリア確定だろ」と身もふたもないことをさらりと言った。
「いや、まて」
 その思考に、僕はストップをかける。
 不安に思ったのは、雛乃のことだった。確かに、今ここにいる三人がジミィの手にかかったとしたら、普通ならばその時点で悪魔二人人間一人の状態になり、悪魔の勝ちだろう。ただし、雛乃には前科が存在するのだ。
「……みるくが、どういう行動にでるか分からない」
「ん? ああ、あいつのこの間の行動か。しかし、さすがに懲りただろう」
「……分からない。あいつには、悪魔がとりついているから」
 あっとジミィが息を飲んだ。「非現実すぎて、その要素を忘れていたぞ」と呟く。
「……それなら、殺せばいい」
 断言したのは、花蓮だった。
「……みるくは殺す。悪魔同士で傷をつけちゃあいけないから、人間のみんなであの子を殺す。とにかく殺す。意地でも殺す。それで、……解決」
「そうだな。それで……あ」
 ジミィが黒い携帯電話をポケットから取り出した。そして、手元で操作する。
「ああ、みるくは人間だ。永遠音が悪魔と映っている」
 しばらくして、そう呟いた。
「あ。そうでしたわ。悪魔同士なら、誰が悪魔か分かるんでしたわ」
「人間なら、やっぱりみんなで殺そう。そして、俺と永遠音が生き残って、そうしたら俺はゲームクリアだ」
 僕達は誰ともなく頷いた。
 最後のゲームが、始まろうとしていた――。

          ×××
 
 ジミィと花蓮が前、僕と都さんが後ろという陣形を組み、僕らは町田109のフロアを回っていた。おしゃれな服の店が数多く並んでいる。僕は歩きながら、携帯電話をいじっていた。黒い携帯電話ではなく、自分の青いスマートフォンカバーのものだ。
「……何をしていますの?」
「いや、ちょっとチェック」
 小声で問いかけてくれた都さんに、小声で返す。僕が行っているのは、いわゆる保険だった。メモ帳の画面に文字を入力し、そしてそのまま画面を落とした。
 普通だったら。
 とジミィが話し始めたのは、町田109のエスカレーターを上っている時だった。今日は下から順番に建物を回ろうという話になっていた。
「普通だったら、これだけの人数がいて、役割が人間なら、みるくは進んで合流をするはずだ」
「そうか……。悪魔は二人。五人の人間がいれば、内訳は二対三になるもんな……」
「そう。つまり普通にこうして歩いているだけで、向こうが見つけてくれると思うんだが……」
 そして姿が現れたとたん、一斉に雛乃を襲うのか。
「……ねえ」
 気付いたら、僕は口に出していた。
「一度、僕にみるくを説得させてくれないか」
「え――?」
 戸惑いの声が三つ重なる。それは、そうだろう。リスクしかないような挑戦に、僕は挑もうとしている。雛乃を殺してしまいさえすれば、この問題は解決するし、説得によるメリットなど何一つない。
 それでも――
「僕は……一度、みるくを裏切った。彼女が壊れたのは、たぶんそれが理由だ。偽善かも知れないけど、ただの我がままかもしれないけど、でも、僕はその責任がとりたい。
 彼女を説得して、彼女と一緒に、このゲームに立ち向かいたい。だから、頼む、……頼みます。僕に、どうか――」
 頭を下げた。返事に、期待はできそうにないと思う。数の有利を確保するために、危ない橋など落としてしまうべきなのだ。それでも、僕は頭を下げ続ける。
 深々と下げたその頭上で、
「別にいいぞ。人間同士の殺し合いなら、ポイントが余計に加算される」
 賛同の声を上げてくれたのは、意外なことにジミィだった。
 弾けるように顔を上げる。彼はクールな表情のままだった。
「……ジミィがそう言うなら、あたしも」と花蓮が続けて賛同を示す。期待に満ちた目を、都さんに向ける。しかし、彼女は難しい表情で俯いていた。
 そうだ。
 この中の誰よりも、みるくに対して疑念があるのは彼女だろう。そんな彼女を仲間に引き入れることに、不安を覚えるのも仕方ない。
「都さん。君が、三日前にみるくに傷つけられたのは分かってる。だから、無理にとは言えないけれど……」
 僕が声をかけると、都さんは首を振った。
「いえ、いえ、違うんですわ……」
 と、掠れた声で呟く。首をひねっていると、ずいと都さんが身を寄せてきた。
「その――青鴉さんはみるくさんのことが、好きなのですか?」 
「え!?」
 それは、あまりにも真っ直ぐな質問だった。都さんの表情は真剣そのもので、喉は張り付いていた。彼女の白いこめかみに、つっと汗が流れる。
 彼女の気迫に、思わず答えに詰まってしまう。けれど彼女のモスグリーンの瞳は、答えをうながすようにじっと僕を見つめ続ける。
 この瞳に――嘘はつけない。
「……好き、かも知れない」
 だから、僕は思った通りの言葉を口にした。その気持ちはずっと心の奥底にあって、今、口に出した途端「ああ、そうだったんだ」と納得した。
 彼女の笑顔が。彼女の仕草が。彼女の言葉が。僕は、確かに好きだった。
「……そう、ですか……」
 都さんの顔面から一瞬にして表情が消えて、能面のような無表情が現れた。
「……どうしたの、都さん?」
 問いかける。その顔はまるで絶望のようで、見ていられなかった。そっと肩に手を触れる。すると、彼女はびくんと身体を震わせて、大きく目を見開いた。その瞳には光が戻っていて、顔も能面ではなかった。
 頬が微かに上気した――それは、恋する少女のような顔。
「あ、あの!」 
 その表情のまま、彼女は続ける。
「わたくし、……わたくし、貴方のことが好――――っ」
 言葉は、続かなかった。
 ぴゅーっと、まるで冗談のような血が流れる。つい今さっきまで彼女の首があった場所に、一人の女の姿が見えた。大きな両手剣を、振り下ろした姿勢で構えている。
 ぐらりっと、頭部を失った都さんの身体が、血だまりの上に倒れた。彼女の全身が、露わになる。
「雛乃……っ」
 叫ぶ。彼女に声が届いたのか届かないのか、雛乃はニッと笑った。そして、くるりと彼女は踵を返す。ああ、逃げる気だ。そう思ったときには、エスカレーターを駆け下りていた。
「一人で行くな!」
 ジミィの叫び声。彼は僕に追いつき、そしてすぐに追い越して行った。花蓮は足が速いはずなのに、僕の背後にぴたりと着いてきていた。
「……みるくを、本当に説得……できるの?」
 花蓮が言う。その疑問に、答えられそうにはなかった。雛乃は、僕の大切な幼馴染である。彼女が困っているのならば、いつでも手を貸したいと思う。多少の犠牲を払ってでも、彼女の助けになりたいとも思う。
 だから、今は、ただ走る。
 失敗するかもしれない。話し合いなんて意味はなくて、彼女の心には何一つ響かないのかもしれない。それでも、僕は挑戦する。挑戦させてくれる仲間がいる。
 今のみるくの役割は人間だ。ならば、悪魔の戦闘力の1.5倍には敵わない。たとえ僕がポカをやらかしても、きっと彼女は確実に詰む。そして、ジミィがこのゲームをクリアしてくれるだろう。
 視界に、ジミィと雛乃の姿が見えた。フロアの隅。どん詰まりに追い込まれているようで、雛乃はあたりを見回していた。逃げ道を考えているのだろう。しかし、そんなものはどこにもない場所だった。
「雛乃!」
 そんな中で、僕は叫ぶ。彼女の瞳が、僕を向いた。やけに無機質な瞳だった。僕はジミィを押しのけて、雛乃の目の前へと立った。彼女は両手剣を構える。しかしその切っ先は、どこかぶれて見えた。
「雛乃……っ。なんで、都さんを殺した?」
「決まってるでしょ。あの女が、直也に……っ」
「僕に?」
「直也に、告白しようとしたからぁッ」
「え――?」
 頭が白く染まる。目の前も一瞬だけ白くなり、色が戻ってからもなお違和感があった。雛乃の言葉を、上手く受け取る事が出来ない。
 都さんが、僕に告白をしようとしただなんて思えない。さらに、それを理由に、彼女が都さんを殺したという事も理解が出来なかった。
「……雛乃。前にも言ったよね。都さんは……あと一度の戦闘で消えてしまうかもしれないって」
「……それがどうしたの?」
 唇の端を噛みしめる。
「僕が知っている雛乃は! そんなことは言わない!」
 雛乃は健気で、努力家で、そして弱い少女だ。だからこそ、人を誰よりも気遣えた。
 僕は彼女へと近づいて行った。手には、二本の刀だなんて持っていない。素手のままの歩み。
 死ぬかもしれない。
 その恐怖を押し殺して、僕は進んでいく。大丈夫。雛乃は、大丈夫……。
「それ以上、近づかないで……っ」
 震える声で、雛乃は警戒を示した。当然だろう。僕が悪魔だとしたら、接近を許すことはゲームオーバーへの第一歩だ。
 僕は雛乃の指示に従い、立ち止まった。どこか、心の隅で安心している僕がいた。近づかないでというだけで、彼女は僕にその刃を振るおうとはしなかった。
 彼女の瞳を見つめる。雛乃の目には、警戒心が色濃く表れていた。
 そんな彼女に向けて、僕は告げるべき言葉を頭の中で確認する。
 怖い。
 本当は、そんなことはされたくないし、言いたくない。けれど、僕は言わなければならない。彼女に再び、信頼してもらうために――。
「雛乃……。僕の腕を、切り落としてくれ」
「は――?」
 雛乃の表情が、一瞬にして戸惑いに変わる。口はぽかんと半開き、瞳は丸く見開かれていた。
 今だ、と思った。
 彼女とまた話したい。一緒に歩きたい。子供の頃のように無邪気にとは言わない。年相応に大人になった距離感で、僕は君の隣に戻りたい。
 胸にこみ上げてくる想いを、そのまま舌先に乗せる。
「聞いてくれ。雛乃。このゲームにもう戦闘はいらない。みんなで、勝つんだ。このゲームをクリアして、そして、このゲームを覆す。みんなが幸せになる道を選ぶんだ」
「……幸せ……」
「僕が裏切るんじゃないかって、雛乃は思うだろう。だから、腕を切り落としてくれ」
 足りない頭で考えた、雛乃に信じてもらう方法だった。
 彼女を殺めたこの腕を、彼女に切り落としてもらう。
 そうすれば、彼女を裏切る事なんて、出来ない。
「切ってくれ。雛乃」
 沈黙が訪れた。
 雛乃の目線は、何度も何度も右と左を往復し、かなりの逡巡が伺えた。表情もまるで万華鏡で、その顔を曇らせたり、かすかな笑顔になったり、ちょっと眉根を潜めたりと、落ち着かない。
 どくん。
 小さな心臓の音が聞こえた。頼む、と、僕は拳を握る。
 頼む。頼む。どうか雛乃に、この気持ちが届いて欲しい――。
 すうっと、雛乃が深く息をすった。彼女は長い沈黙を破るように、僕へと一歩近づいた。
「……分かった」
 けれど、雛乃は僕を傷つけなかった。軽く手首をひねっただけで、その刃が僕の身体を貫くというのに、彼女はそれをしない。
「……分かった。私は、直也を信じるよ。ううん……。本当は、ずっと信じてた」
 すっと、雛乃が手を降ろす。両手剣が消えた。
 僕が何か言わねばと口を開いたタイミングで、ニカッと雛乃が笑う。
「さっき、私のこと、好きかもしれないって言ってくれたよね……。すごく、嬉しかった」
「え? ………………あっ!」
 一瞬なんのことかと思い、それから、さっき都さんへ言った言葉を思い出した。
 あの告白まがいのセリフを、まさか本人に聞かれていたとは。
「い、いや! そ、その! あれは、あれは違くて! いや違わないんだけど、とにかく違くて!」
「くすっ」
 雛乃が笑う。
「あはっ。あははははははっ」
 その声に、胸の中がじんわりと暖かくなる。瞳の端にあふれた涙を、僕はこっそりと左手で拭った。
 それは心底、楽しくて仕方がないという笑顔で、あの日以来、見ることが出来なかったものだった。

          ×××

「よし、じゃあ、決まりだな」
 僕らに近づいてきて、ジミィが言った。顔には穏やかな笑みを浮かべている。その表情は人好きが浮かべる曇りのない笑顔で、思わず和んでしまうものだった。
「俺が、花蓮と青鴉とみるくを殺して、ゲームクリアして、このゲーム自体を消す。それで……良いんだな?」
「ああ……」
 僕は曖昧にうなずいた。
 晴れ渡るジミィの自然な笑顔を、じっと見つめながら。
 花蓮がすっとジミィに近づき、「これで終わるんだね……」と言葉を発する。半目のままの小さな笑顔の表情で、素朴で可愛らしかった。
 雛乃は僕らの輪から一歩離れて外にいた。ジミィと花蓮が、穏やかに言葉を交わしている。その様子を尻目に、彼女にさりげなく近づいていく。
「直也……。何か用?」
 どこか子犬のような笑顔を彼女は浮かべた。頷きながら、ポケットから青い携帯電話を取り出す。花蓮やジミィの動きに気をつけて、そして、雛乃にだけその画面を向ける。
 雛乃は大きく目を見開くと、すぐに視線をジミィに向けた。
 数秒たって、「人間」と彼女が僕の耳元で囁いた。
「そっか、ありがと」
 小さくお礼を返す。
 僕は奇妙なことに、安堵を覚えていた。やはり、あいつは嘘をついている。それも、二つも。僕はゆっくりと二人のもとへ戻っていく。途中で雛乃を振り返り、彼女を手招いた。こくんっと、真剣な表情で彼女はうなずいて、僕の後ろをついてくる。
 速度を落として、僕は数歩だけ雛乃の隣に並んだ。立ち止まっても、彼女のすぐ隣にいた。手を伸ばせば、手をつなげる距離に。
「ジミィ」
 そして、僕は彼に呼びかけた。花蓮との会話を中断し、冷ややかな流し目が僕を捉える。その瞳に刃物を突きつけるつもりで、僕は言った。
「やっぱり、ジミィは嘘をついていたんだな」
「ん」
 ジミィが僕を見つめる。
 その表情は普段となんら変わることなく、確信がなければ見当違いだったと思い込んでしまいそうだ。思えば先ほどの笑顔も、完璧。
 しかし、確かな根拠がある今、僕に迷いなんてない。
「みるくのチームは『人間』で、能力が退魔師。いま、ジミィの所属を確認してもらった。ジミィ。あんたは『悪魔』じゃない。――『人間』だ」
 一息で指摘する。一瞬で、この場に張り詰めた空気が走った。表面上の顔は、誰ひとりとして変わっていない。僕と雛乃は真剣な眼差しで、ジミィは普段と変わらぬ表情で、そして花蓮はやる気のなさそうな半目で。けれど、誰も彼もが心の底で、今この場の流れを掴もうと息を潜めていた。
 僕は力強く、ジミィを睨みつけた。
「間違ってないだろ、ジミィ?」
「……ばれたか」
 追撃すると、ちろりと舌をだしやがる。認めなかったところで、何が変わるわけでもないという判断だろう。
 ジミィは男前の面を歪めて、「で、どうするのかな青鴉くん?」と呟いた。
 余裕が見える態度だが、それは余裕を見せているとも感じた。
 自分の策略がばれて、内心では冷や汗をかいている――。『余裕を見せている』と感じるのも、彼の演技が崩れていることを示している。
 拳を握った。
 僕は、これから彼を丸め込んで、もう一度要求を飲ませなければならない。そうしなければ、僕の理想には手が届かない。だから、伸ばす。
 そのために――切り札を、切る。
「花蓮とジミィは兄妹なんだろ」
「!」
 この指摘で始めて、ようやくジミィは表情を崩した。眉根をひそめ、口元を斜めにし、顔をゆがめる。びくりと震えた身体は、攻撃姿勢をとっていて、何を根拠にと噛み付きそうな勢いだった。
 そして実際、彼はその言葉を口にした。
「何を根拠に」
「ネットの記事とそれから、花蓮の言葉だ」
「花蓮の言葉……?」
「覚えてないのか。雛乃に殺されたとき、花蓮はあんたを『鈴緒』と呼んだんだ。相田鈴緒……花蓮の兄貴と、同じ名前だ」
 僕の瞳を、ジミィはじっと見つめる。長い時間が流れたが、やがて諦めたように一つため息をついた。
「……なるほどな」
 そんな彼の裾を、ちょこんと花蓮がつまむ。その指先に震えはなく、「大丈夫」とジミィを支えているように見えた。そんな彼女を、僕は指差す。
「花蓮、君が『悪魔』だ」
 これが、もう一つの嘘。
 ジミィと花蓮が兄妹で、彼らはお互いの役職を偽り合った。細かな情報はやりとりで伝えあい、隠していたのだろう。
 その理由は、ただ一つ。僕達を信用していなかったから、だ。
 そして、攻撃が集中する『悪魔』という身分をジミィが名乗り、花蓮がその立場だったことから――。
「なあ、クリア間際なのは、花蓮なんだろ」
 この指摘に、ジミィの仮面にヒビが入った。いつものクールな表情の下に、やけどしそうなほど熱い表情があった。
「何を根拠に……ッ」
 その気迫は、いったいどこから来るものだったのか――。彼が叶えたい夢の、そのための思いだろうか。
 そんなことを、考える。
 誰かを消してでも、叶えたかった願い。それを僕は認めた上で、花蓮にゲームを消してもらわねばならない。だから、冷たく吐き捨てる。
「その顔は、肯定と受け取っておくよ」
 ジミィは軽く舌打ちをした。
「顔だと? ふざけるな。そんなものが何の証拠になる」
「このゲームに、証拠なんている? 僕は、僕の考えを信じる」
 クリア間際なのは、ジミィだと考えていた。だから悪魔と偽っておけば、裏切るのなら彼をみんなで取り囲む。そうなれば、花蓮だけは上手く生き残れることになるし、仲間のフリをして、安堵した僕達に攻撃を仕掛ける事も可能だ。そうして、ゲームクリアし、願いを叶える。
 その策略は、今ここで露見した。
「それで……これからどうするんだ?」
 不敵な口調のジミィの頬に、一筋だけ汗が流れた。それは、おそらく冷や汗。今の状況は、悪魔&人間対、人間&人間の二対二。戦闘力1.5倍の悪魔を有するジミィのほうが有利だが、多少は危ない橋なのだろう。
 しかし、今の状況。
 有利なのは明らかに、ジミィたちの側である。僕たちは勝ったとしても、願いを叶えることができない。ただ、花蓮にすがることしか、誰もを救うことなんてできない。
「取引をしよう」
 だから僕は懐から、もう一つの切り札を引き抜いた。それは、文字通りの札だった。丈夫な一枚の薄い紙。そのオモテ面を、ジミィと花蓮の方へと向ける。
「ん――――っ!?」
 ジミィが驚きの声を上げる。花蓮と僕が、まるで恋人同士のようにも見える写真。妹から奪い取ったそれを、僕は二人に見せつけた。
「君たちが勝ったら、僕はこの写真をネガごと放棄して、君たちが願いを叶えることを受け入れる。僕たちが勝ったら当初の約束通り、このゲームを消してくれ」
 僕が告げると、ジミィはぷるぷると唇を震わせた。怒りに震えた唇が、言葉を紡ぐ。
「そんなの、めちゃく――「受けてあげる」」
 バッと、ジミィが花蓮に視線を向ける。彼女は相変わらずの眠たそうな半目のまま、僕たちを睨みつけるように見つめていた。
「……受けてあげる。勝って、望む世界を手に入れたとしても……そんなゴシップが出るのは絶対に嫌」
「花蓮……っ!? よく考えろ。リスクなく、俺たちは勝つことができるんだぞ? この試合であいつらの要求なんて飲むことはない。負けたとしたら、普通に負けて、またポイントを貯めればいいんだッ!」
「……受ける。……いいでしょ、鈴緒……?」
 上目使いで、花蓮はジミィを見つめた。トップアイドルのその表情は横から傍観している僕にさえも破壊力抜群だ。
「ぐっ」
 案の定、鈴緒には大ダメージだったらしい。苦しげに息を一つ飲む。
「あの写真が出回るのは嫌……。それに、負けないよ。あたしと鈴緒は、絶対に、負けない。二人で勝利を手にするの。絶対に……大丈夫」
「花蓮……」
「あたしが好きなのは、鈴緒。……デマでも、嘘でも、それ以外のお話が出回るのは嫌」
ジミィは諦めたように、小さく頷いた。
「分かった。……勝負だ」
 ほっと、胸をなでおろす。綱渡りのような取引だったが、なんとか成立した。グッと見えないようにガッツポーズをする。途切れそうな糸を、三分の二まで渡りきった。あとは、渡りきるだけだ。最後の最後で落ちないように、渡りきるだけ――。
「この戦い、お互いに止めは刺さないで戦闘不能を前提にしよう」
 僕がそう言うと、ジミィは顎を引いた。
「分かった」
 ほな、始めよか、といつかの関西弁で、ジミィはそう告げた。

           ×××

 初動はジミィだった。起動音がして、彼の武器である盾が召喚される。僕は瞬時に日本刀を手元にだすが、間に合わない。
 やられる――ッ。
 咄嗟に瞳を閉じ、衝撃に備える。
 しかし、金属音。
「させないからっ」
 目を見開くと、雛乃の西洋剣が、僕とジミィの間に素早く潜りこみ、その攻撃を請け負っていた。ギリギリと、拮抗状態が訪れる。しかし、支点力点作用点の関係で、雛乃の不利は明らかだった。僕は彼女の力になるようにと、彼女の剣の上に体当たりするように身体を動かした。二対一。ジミィの身体は、わずかに押し込められた。バランスを崩した隙を狙って、雛乃も僕も立ち位置を変える。
 それぞれ素早く、ジミィの右と左から、彼を挟み込むように動いた。
 左から、日本刀を振りかぶる。大丈夫。殺さない。倒すだけだ。
 僕は自分に言い聞かせて、日本刀を振り下ろし――
 殺気。
 僕は振りかぶる動作の途中で、捻るように身体を動かし、無理やりバックステップをした。僕が動くはずだった場所を、花蓮の鋭い拳が舞う。背中に走る鈍い痛みを感じながら、僕はそれを眺めていた。
 悪魔――。戦闘力1.5倍の、力強い拳。
 風きり音が確かに届くその拳は、十六の少女には似つかわしくない。ナックルによるパワーアップも考慮にいれて、プロボクサーと言って差支えがない威力とスピードではと思った。
「花蓮!」
 ジミィが彼女の名前を呼ぶ。その言葉の続きはなかった。
 彼は、先程と同じように雛乃と拮抗状態になっていた。ただし、雛乃の体勢がさっきよりも良い。力は完全に同じと言った様子だ。ならば、花蓮に呼びかけたその意味は、己に加勢しろという意味だろう。
「させるかよっ」
 駆ける。
 しかし明らかに、花蓮の方が速い。彼女は雛乃の背後に回り込み、背中から彼女を殴る腹積もりらしい。間に合わない。花蓮の動きには、どう考えても間に合わない。
「うらぁぁぁ!」
 だから僕は走りながら無理やりに、ジミィの無防備な背中を狙った。一本の日本刀を、限界ぎりぎりまで射程距離を伸ばすように握り、振りかぶる。振り下ろす。
「っ!」
 布地が破けて、背中に一筋の赤い傷が出来る。ジンジンと痛みが伝わるようなその傷。ジミィは身体をひねり、僕と雛乃から距離をとるように動いた。そのころ、花蓮は雛乃の背後から――
「鈴緒……っ! 大丈夫……っ?」
「馬鹿! 来んな!」
 ジミィの元へと向かおうとしていた。鋭く制されて、彼女は一瞬だけ泣き出しそうな顔を見せた。しかし表情はすぐに半目に戻り、雛乃と向かい会う。
 大きな剣と小さな拳。お互い探り合うように繰り出す攻撃は、決定打とはなり得そうにない。
「雛乃!」
 僕は彼女に声をかけた。少しだけ目を向けた一瞬で、僕は自身の日本刀の内の一本を投げた。雛乃は素早く西洋剣を片手持ちに切り換え、もう片方の手で器用に日本刀を受け取った。
「ありがと直也!」
 西洋剣を消し、雛乃は日本刀を握りしめる。細かく刀を振るう。花蓮はその刃をナックルで受け流すように捌きつつも、時たまかすって手首に切り傷ができた。
「さて、と」
 僕は剣先を、ジミィに向ける。ジミィは変わらず盾を構えている。
 あれは、前方からの攻撃にとてつもなく強い。真正面から突っ込んでも意味がないことは分かっている。しかし、ジミィを倒しさえすれば、おそらく花蓮は崩れるのだ。
 それは先ほどの彼女の心配と、前回の勝負の負け方から分かる。ジミィが倒れれば、彼女は心配でたまらない。駆け寄り、その手を握り締めずにはいられない。
 とても素敵なことだと思う。
 けれど、心を押しつぶして、僕はそれを利用する。
「ジミィ。あんたを倒しさえすれば、結局僕達の勝ちだ」
「……」
「花蓮は雛乃を放り投げて、あんたに駆け寄る」
 言い捨てて、僕は走った。射程距離へと入り込む。そして剣を振るう。右斜めから振り下ろすように。返す刀で反対に。それから突き刺すように鋭く。そして、回り込むように足を動かして切り裂く。
 しかしそのどれもが、金属音と共に跳ね返される。巨大な盾は、ジミィに傷一つ付けまいと、僕の攻撃を防ぎ続ける。
 まるで、殻だ。
 傷つかないための、固くて丈夫な、殻。
 ジミィはその殻に篭もりつつ、ときどき僕に攻撃を仕掛けてくる。盾に身を隠したまま、突進を繰り出してくる。
 それに吹っ飛ばされながら、僕はこっそり心の中で笑っていた。
 僕が作った隙に向けて、彼は攻撃を仕掛けていた。
 剣を動かした跡に左わきを明けたり、少し体勢を悪くしてみたり。そうして攻撃を誘導していた。ちょっとずつちょっとずつ、僕達の戦場は雛乃と花蓮の場所へと近づいていく。
 ここまで。
 僕は狙い通りの距離感まで近づくと、弾かれたように駆け出した。
「うわああああああああ!!!」
 叫びながら、大きく大きく日本刀を振り上げる。
 ジミィは当然、盾で自身の身体を守った。
 自分の顔を隠すように――。
「っ」
 身体をひねる。僅かもかからない内に花蓮のもとへとたどり着く。
 一瞬の躊躇。
 華奢な彼女の身体を切り裂くことに、言いようのない罪悪を覚える。
「直也……っ」
 すがるような、上目使いの雛乃の瞳。助けて、と叫んでいるようにも見えた。あの日、あの時、僕が裏切った少女。その彼女が、僕に確かな信頼を向けてくれていた。
 袈裟懸け――。
 花蓮の右肩から入れた日本刀を、左の脇へと流すように切る。
「…………ッ!」
 血が噴き出す。手にはまた、人を切った嫌な感触が残っていた。花蓮がとすんと倒れる。その様子はまるでスローモーションで、僕の脳へと静かに焼きついていった。
「……悪いな、花蓮」
 ――と。
 背後で、異様な気配を感じた。ドロドロに練り固められた憎悪と、相手を慈しむような心配。それらが混ざった、灰色がかった水色の気配が、ゾワゾワと背中を撫でていく。
「花蓮……っ!」
 それは、ジミィだった。構えていた盾から顔をだし、こちらを伺ったらしい。その瞳はいつもの冷静さをどこかへ放り投げたように、熱く熱く、感情に支配されているように見えた。
 ああ――。
 彼も、そうなのだ。ジミィが崩れれば花蓮が潰れるように、花蓮が潰れれば、ジミィが崩れる。
「くそ……ッ」
 ジミィは、盾を構えたまま、雛乃へと突っ込んで行った。
 彼女はたった今まで、一人で花蓮と闘っていた。悪魔である彼女との一対一。当然のように雛乃は押されていて、その身体には痛々しい拳の跡がいくつもあった。呼吸も小刻みで荒く、疲れているのは明らかだ。
「……っ」
 雛乃が、駆け出した。その顔には焦りも、疲れも、浮かんではいない。彼女はただ敵であるジミィを見つめていた。集中――。それによって彼女は負の要素を何もかも押し込め て、彼と戦うつもりであるらしい。
 ジミィとの交戦距離まで近づく。雛乃は日本刀をまっすぐ垂直に振り下ろし、それをジミィは真正面から抑えた。日本刀と盾が金属音を奏でる。
 助けに行かなければ。
 僕は駆け出した。ジミィと雛乃の力は五分五分で、日本刀と盾はお互いにお互いを押し合っていた。
 拮抗状態。それが、再び始まると思った。
 しかし――。
「ばーか」
 雛乃は、そこでニカッと笑いながら、日本刀から手を離した。キィンと軽い衝撃音がする。日本刀が、地面に落ちる音。押さえていた力がなくなり、当然、勢い余ったジミィが傾く。大きな盾と共に、身体を斜めにぐらつかせる。
 そこに、ぶぉんと、軽い起動音。
 雛乃の手には、西洋剣が握られていた。
「はあああああ!」
背後に回った雛乃が一閃。それは、ジミィの足を狙ったものだった。血が噴き出す。
「ぐ、ううううう……」
 うめき声を上げながら、ジミィが倒れる。
 足の傷をかばうように背中を曲げたその姿勢は、傷の痛ましさを示していた。ズキズキと、響くような真紅。深く刻まれたその傷では、彼は立ち上がる事さえできないだろう。
 
 その姿に、胸の奥でずんと喜びが響いた。
 勝利。
 都さんが、そして雛乃が、消えない世界を手に入れることができたのだ。
 姉の敵である、崎永遠音の目論見を破って。
 熱い気持ちが溢れてきて、不意に涙がこぼれそうになった。それを心の内だけにとどめて、僕はジミィに数歩近づき訊ねた。
「なあジミィ。結局、君達の望む世界って、なんだったんだ?」
 彼らの夢を潰すその罪を、僕は背負っておきたかった。偽善かもしれないけれど、僕は本当にそう思っていた。何も知らずにその夢を崩すのではなく、きちんと願いを受け止めた上でそうしたかった。
 ジミィは地面に顔を伏せ、しばらくの間黙っていたが、やがてぽつりと話し始めた。
「俺は……成功したかった。花蓮よりも……、ずっとだ。だって、俺は花蓮の兄貴なんだからな……。なさけないじゃないか。一生懸命努力して、妹より下っていうのはよ」
 嗚咽のような声が混ざる。
伏せた顔には、涙が浮かんでいるのだろう。そう感じる声だった。言葉の響きには静かな熱があって、その熱が、僕が踏み潰したものが確かな夢であることを教えてくれた。
「花蓮に会うのもつらくなってた。好きだけど、世界で一番嫌いなやつだ。自分の劣等感を突きつけられる相手だぜ? どうやったら気が置けるんだよ。
だから――このゲームに参加して、作りたかった。花蓮と……二人でトップスターになった世界を」
 すすり泣く声が聞こえる。
 僕は不覚にも、その涙にあてられてしまった。
 妹と、同じ舞台に並んで立つ。ジミィが抱いていた夢を、僕は素敵だと感じている。
「そんなもの、本当は今からだって作れる……」
 その声を受け止めるように、弱弱しい声が聞こえた。
 花蓮は。
 花蓮は、本当に鈴緒のことが大好きだった。その言葉に曇りはなく、その言葉に――嘘は、なかった。
「花蓮?」
 振り返ると、美しい少女は辛そうに顔を上げ、大きく瞳を見開いていた。その表情のまま、けれどいつもの口調で彼女は言う。
「……あたし、そう思う。こんなゲームに頼らなくったって、本当は大丈夫だったんだよ……。だって、あたしは……」
 花蓮はゆっくりと立ち上がった。
 よろけて何度も倒れそうになった。
 けれどふらふらと、ジミィの近くへと寄って行く。どくどくと背中から流れる血が痛々しい。背中の傷は疼いており、一歩進むことに激痛が走っているのではと思われた。
 それにもかかわらず、彼女は歩みを止めない。そして、ジミィの前へとたどり着き彼を起すと、ぎゅっと抱きしめた。
「努力してる鈴緒が、いつでも大好きだから……」
「花蓮……っ」
 ジミィが、花蓮を抱き返す。
 くすりとジミィが笑った。その小さな笑いはだんだんと大きくなり、やがて町田109に響くほどのものとなる。
 その声が静かに収束すると、ジミィは言った。

「さあ、終わらせようか。花蓮?」


 ―――GAME OVER―――

 【青鴉】 獲得ポイント   -10 
      現在累計ポイント +20

 エピローグ・SMILE

 最後の最後でジミィと花蓮が僕達を裏切る。すなわち、脅しに屈しないで約束を破るという展開もあり得たが、彼らはそうはしなかった。
 ゲームから帰った僕を迎えたのは、ゲームが始まる時と同じメンバー。
 ジミィに、花蓮に、そして都さんだった。
 都さんがいるということは、花蓮が約束を守ったということ。花蓮に視線を向けると、彼女は僕の視線に気づき、小さく笑ってうなずいた。
「本当に……良かったのか?」
 ジミィが花蓮に尋ねる。彼女は横にいるジミィを見上げた。その横顔は、まるで朝日のように美しい少女のものだった。眠たげな半目の奥が、きらきらと希望のように輝いている。
「あたし達は、手を伸ばせば届くものの為に闘っていた。だから……これで、良かったんだと思う」
 花蓮はそれから、不意に僕のほうを見つめた。瞳は大きく見開かれており、テレビ画面そのままの、彼女の笑顔がそこにあった。
「それに、あなたの恋を……応援したい気持ちもあったしね?」
 どきんと胸が跳ねた。
「直也――っ」
 バンっと勢いよく、非常階段への扉が開かれた。その聞き覚えのありすぎる声にしびれを感じつつ、弾かれたように視線を向ける。そこには、雛乃の姿があった。
 切りそろえたばかりの短い黒髪が、あちらこちらに跳ねていて、呼吸が軽く乱れている。彼女は、階段を駆け下りてきたのだろう。
「直也! 直也!」
 雛乃が飛び跳ねるように、僕に抱きついてきた。その身体を受け止めようと反射的に手を広げる。しかし、人間一人分の衝撃に耐え切れず、僕はよろけて床に倒れてしまった。 
「ありがとう!」
 僕の上に折り重なった雛乃が、ぎゅっと首筋に手を回し抱きしめてきた。豊かな胸があたって気持ちが良い。しかし、脳内が桃色になったのは一瞬で、かぁっと一気に体温が上昇した。
「ひ、ひな、雛乃! あの、離れてくれ……っ」
「え? ねぇ、なんで? 直也は私のこと好きなんだよね? 私も直也のことが大好きっ。だから良いじゃな――」
「いけませんわッ! 学生ならば、もっと健全でおありなさいッ!」
 僕たちの近くでしゃがみ、ずいっと都さんは、引き裂くように手を広げた。その手に引き離されて、雛乃の身体が浮き上がる。素早く僕は雛乃の下から抜け出して、立ち上がった。身体が離れた僕は、ほっと一息をつく。同時にちょっともったいなさも感じたが。
「ちょっと何すんの!」
 雛乃が怒鳴る。都さんはびくんと大きく震えると、素早く僕の後ろに隠れた。その細いては僕の服をつまんでおり、かすかに震えが伝わってくる。先ほどの威勢の良さはどこへやら、すっかり萎縮してしまっているらしい。彼女たちの間で起こったこと(都さんは雛乃に殺されました×2)を考えれば、当然すぎる反応だ。
「ま、まあまあ雛乃。落ち着いて」
「むー……。でも、その女は直紀に告は――」
「あーあーあーッ! 聞こえませんわ! なにも聞こえませんわ!」
「なっ。何、ごまかすつもりなの!? ……いや待てよ。なかったことにするならそれはそれでいっか♪」
「え、え?」 
 あたふたと都さんが焦ったような顔を浮かべる。その表情をにこやかに眺めつつ、雛乃は「うそうそ」と笑った。
そんな僕らの様子を、
「あはは。モテモテだな、青鴉」
「……あたしも、嫌いじゃない」
「え!?」
「安心して。鈴緒のほうがずぅっと好き……」
「あっそ………………、ありがとな」
 花蓮とジミィは、二人並んで笑顔で、穏やかな会話をしながら眺めていた。

          ×××

 みんなと別れ、帰り道。
 僕はいつもよりも軽い足取りで歩いていた。このままスキップでもしたい気分だった。なにせ――誰も傷つけることなく、僕たちはゲームから解放されたのだ。
 これから、もしかしたら仲良くできるかもしれない。ゲームという不思議な縁で結ばれた僕たち。それは、奇妙で、けれど素敵なものに思えた。
「あはっ。君、嬉しそうな顔してるですの?」
 声が聞こえた。
 今までの楽しさを塗りつぶすように、ゾクリっと、背筋に嫌悪が塗りたくられる。
 振り返ると、瑠璃色の髪をもった少女が立っていた。
「崎……永遠音……ッ」
「ですよ?」
 永遠音は、お花の形をしたポシェットを肩からかけていた。ふわふわとした足取りで僕の隣に自然と並んでくる。彼女から、僕は距離をとった。
「そんなに警戒しないでくださいよー。ほら永遠音、今回のゲーム、全然全く邪魔していないですし――?」
 それは、戦闘中、頭の片隅でずっと不思議に思っていたことだった。悪魔を退治するという目的のために、歪んだゲームを押し付けるような奴なのに。
「どうしてだ」と尋ねると、
「実はですねー。悪魔退治には、本当にポイントがあるのですよ? 殺して消してしまうより、愛の力で解決! のほうが、天界の評判がよろしいのですー」
 あっけに取られた。そのはちゃめちゃな設定はもとより、僕を焚きつけた理由にも。彼女は世界の平和だなんだと言いながら、結局のところは効率と他者からの評価を気にして生きている。
「青鴉。あなたは見事、本物の『退魔師』になってくれましたですよ? 永遠音は、心の底から感謝を述べます!」
 ニコニコニコと永遠音は笑う。そのムカつく顔面を、一発殴ってやりたいと思った。しかしその瞬間。不意に彼女は僕に何かを放り投げた。
 片手で受け取る。
 それは、もはやお馴染みとなった黒い携帯電話だった。
「パスワードは、みるくが使っているものですよ? それでは、ぐっばーい、なのですっ」
 ひらりと永遠音が右手を振る。
 すると、彼女の体は空気と溶け合うようにして薄くなり、そして消えていった。
「……あいつ、まじかよ……」
 永遠音が消えた場所を、じいっと凝視してみる。しかし、彼女が再び現れるなどということもない。
 だらしなく開いていた口を閉じ、僕は手元を見下ろした。永遠音から受け取った、黒い携帯電話。その電源をおそるおそる入れる。
 ロック画面が現れた。
 パスワードを考える。みるくが大切だと思う人の誕生日。それが、この携帯電話のパスワード。
「『0414』……と」
 自分の誕生日。
 僕は若干照れながら、その番号を入れた。
 ロック画面が解除され、在線が引かれたルーズリーフのような背景に、華やかなオレンジ色のふざけた文字が踊っていた。

『 Congratulations! Happy end.  And more…….』

 ―――― おめでとう! ハッピーエンド。また、どこかで……。

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