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 俺は結局、ヒーローになれたのかな?

          □■□

   Scene0・prologue

          □■□

 駆ける。
 異能の力で光り輝くスニーカーは、人知の領域をはるかに超えた速度を俺に与えてくれている。
 抱えた『化け物もどき』は、まだ目を覚まさない。彼女の体重はあることを疑うぐらい軽くて、まるで人として何か大切なものが欠けているかのようだった。
 結局、この判断はただしかったのだろうか?
 彼女は、本当に心があるのだろうか。
 答えはでない。問いかけたところで、答えてくれる人もいない。
「くそ」
 吐き捨てる。取り返しは、実はまだついた。引き返して、彼女にコイツを引き渡せばいい。するとあの組織は問答無用で、彼女を『処理』するのだろう。

 ぞっとした。

 本当のところ、俺はまだ迷っているのかもしれない。
 けれど迷っているからこそ、彼女を殺すことはためらわれた。
 信じきっていないけれど、信じたい。そう、心のそこから思える。
 だから。
 駆ける。駆ける。駆ける。
 
 たとえその先に待つものが、終わりのない闇だとしても――。

 久瀬玲太(くせれいた)が死んだとき、何の感慨も受けなかったといったなら、それは嘘になるのだろう。たぶん客観的に見て、僕と彼には何の関係もない。クラスメイトではあったけれど、言葉を交わしたことなど一度もないし、たぶん初対面の名乗りだってしていない。
 それでも僕は、久瀬の死に特別な感情を抱いた。
 それは、若さ特有の死に対する未知感だとか、それに対する恐怖――そう言った意味では、残念ながらない。だからこそ僕は、彼の死でこんなにも揺らいでしまっている。参ってしまっている。
「えー。三十一ページからを――宮内(みやうち)。お前読んでみろ」
「はい」
 授業の隙間を縫って、僕は彼の机を振り返った。
 斜め後ろ。
 少し首を動かせばいつだって見えた、彼の姿はもう無い。『心にぽっかりと穴が開いたような』なんていう、安っぽい言葉が頭に浮かぶ。軽く頭を振って、前を向いた。彼の席を見つめたところで、何かを得ることもない。ただ、いたずらな感傷を広げるだけだ。それなら、見ない方がいい。
「メロスは激怒した。かの邪知暴虐の王を――」
 宮内さんの朗読が始まる。子供の頃より落ち着いたその声は、凛とした百合の花のように綺麗だった。
 僕はその声に耳を傾けながら、そっと瞳を閉じた。

          □□□

   Scene1・瑠璃

          □□□

 さあ帰ろうと靴箱からスニーカーを取り出して、それを履くとヌチャリとした。眉根をひそめて靴を脱ぐ。靴下と中敷に僅かな抵抗感があって、靴の中を覗けば予想通りにガムがこびりついていた。くすくすと笑い声が聞こえた気がした。
 うるさい。
 聞こえたのかどうかすら曖昧な言葉に、僕は抗議の声を心の中で放った。自分の中の黒い塊が、ざわりと音を立てた気がした。
「社(やしろ)?」
 ハッと、顔を上げる。
 目の前に、顔を覗きこむようにして、宮内蘭花が居た。茶髪気味の髪の毛を、軽いポニーテールにまとめた女の子。交差してバッテン印になったヘアピンが小学生の頃からトレードマークだ。
 彼女は学級委員。それも、とびきり優秀な。
 成績表は常にオール4以上。得意科目は理科社会英語。さらには体育。女子の中で一番運動神経が抜群で、球技でグループ分けをすれば彼女が入ったチームが勝つと、引っ張りだこな存在だ。性格も見た目も、すごく良い。
 だから僕や――久瀬玲太のような存在にも、わけ隔てなく接してくれる。
「社、どうかした? 大丈夫?」
 返事が無いからか、心配そうな顔。『僕だから』と特別なわけじゃないが、それでも『僕のため』にそんな表情をしてくれる。それを嬉しく思った。
「平気だよ」
「本当に平気? 何かあったんじゃないの? ほら……」
 イジメ。
 その三文字を飲み込んだであろうことが、容易に分かった。哀れみなんて受けたくない。そう、出来れば。僕はガムがこびりついたまま、靴を履きなおした。宮内さんは少しだけ瞳を伏せた。中に異物が入った靴は、ごわごわする。不快だ。その異物が他人の噛んだガムなのだから、なおさら。それでも、僕は我慢して歩き出した。
「じゃあ、バイバイ、宮内さん」
「あ、待って」
 そんな僕を、彼女は呼び止める。首に巻きついた、オレンジ色のマフラーがふわりと揺れた。
「一緒に帰ろう?」

          □□□

 思ってもいない誘いだった。
 断る理由もなく、僕はそれを受け入れた。思えば、宮内さんと下校するのは懐かしい。小学生以来の出来事だ。商店街を並んで歩く。彼女の容姿は十人並みを軽々と超えていて、だから街いく人の何人かが振り返って彼女を見る。
 そして、次は隣を歩く僕へ。
 そいつらが、決まってつまらなそうな、不快そうな、怒りをあらわにしたような顔を見せる。「どうしてこんなヤツと」その一言が表されているような、そんな気がする。
「ねえ」
 思考を中断。僕は、宮内さんの横顔を少しだけ見た。中学生にしては大人びている、どこか美しいとすら表現できそうな顔立ち。
「社、あのさ……」
 その顔は、どこかためらいが見て取れた。 いつもの快活な表情はなりを潜め、少しだけ陰鬱ともいえそうな色が見える。
なんだろう? 何か良くない話でもするつもりなのだろうか。言いにくいことなのだろうか。 思えば、彼女が僕を下校に誘うこと自体がおかしい。もしや、あのことなかれ主義の担任に、気にかけてやってくれとでも懇願されたのだろうか。
 本当は「何?」とでも問いかけるべきなのかもしれないが、促したその先が怖くて、僕は言いよどんだ。
 そんな僕の耳元で――
「久瀬を最初に見つけたの、君だって聞いたんだけどホント?」
 予想外の質問が飛び込んできた。
 脳裏に思い返される、あの日の光景。白。雪。そして潰れた彼の死体。
 軽く眩暈を覚える。宮内蘭花は僕のそんな表情を、じっと、何かを観察するように見つめていた。何故、何故、こんな表情を彼女がするのだろう。久瀬の死体の映像と絡まって、僕の中でざわざわと嫌な音を立てる。逃れようと、僕は絞りだすように声をだす。
「……うん」
「そうなんだ。……大変だったね」
 確かに大変だった。救急車を呼んで。助からなくて。警察がやってきて。事情を説明して。
 何より――心が、酷く傾いていた。
「久瀬さ、あんまり話したことなかったけど、良いヤツだったよね」
「……」
「本当に……残念、だよね」
「……うん」
 沈黙。
 二人の間に重苦しい空気が漂った。気まずくて、僕は横目を逸らす。ショーウインドウにサンタクロースの置物があった。柔和そうな笑顔を浮かべた、真っ白い髭の嘘つきオヤジ。そういえば、クリスマスはいつだったろうか? ……良く、思い出せない。
「ねえ」
 そんなとき、また宮内さんの呼びかけが聞こえた。僕は思わず、ぶるりと背中を震わせる。
 なぜ?
 声質だ。
 ざらり。ぞわり。
 怖い声。
 そんな音で、彼女は続ける。
「社、何も見ていないよね?」
「――え?」
 呆けた声を出す。宮内さんは数歩踊りでて振り返り、立ち止まって、僕を射抜いた。同じぐらいの身長だから、彼女の瞳が真正面に見える。薄い茶色の、切れ長で綺麗な瞳。いつもはそう感じる、魅力的なチャームポイント。
 それが、今は違う。
 これは……。
 この目は――。

「……何も、見てない……」
 
 震える声で絞り出す。僕らの周りだけ、空気が固まったかのような時間が流れる。何秒立ったか。何分立ったか。
永遠とも思えるような沈黙が、
「そっか」
 宮内蘭花の、そんな言葉と笑顔で終わりを告げた。

          □□□

「ただいま」
 当然のように返事はない。
 家族向けの立派な一軒家に、住人は二人しかいない。それでいて、親父は仕事に出ているからだ。医者の仕事は忙しいらしく、ほとんど顔を会わせることもない。実質この家の中で、僕は一人きりのようなものだった。
 靴を脱いで、自分の部屋に入る。鞄を置いてティッシュを取り出した。
 歩く。
 向かった先は、玄関だ。スニーカーを持ち上げて、中でこびりついたガムを見つめる。緑色のガムだった。
 誰が噛んだとも知れぬそれを、僕はティッシュ越しに擦っていく。
 ああ、どうして僕はこんな事をしているのだろう。こんな事をしなくてはならないのだろう。他人が噛んだガムの入った靴で歩き続けて。宮内さんと一緒に帰れたかと思えば、妙な質問をされて。広い家に一人ボッチで、こびりついたガムをはがしている。
 ガムなんて、僕は嫌いだった。
 好きなヤツの気がしれない。歯にまとわりつくあの感覚が、気持ち悪くてしょうがない。自分の歯型が、鮮明に形作るのも嫌だった。
 ようやく、ガムが綺麗に片付いた。
 僕はスニーカーを玄関に揃えて、ガムを包んだティッシュをもってゴミ箱があるリビングに向かった。 
死ね。
 心の中で吐き捨てて、その気持ち事、ゴミ箱にティッシュを投げ捨てた。僕は部屋に戻って、宿題をやった。ご飯はコンビニ弁当だった。一人で食べた。シャワーを浴びて、読書をして、十時近く、少しだけ親父と顔を会せた。軽く挨拶だけして自室に戻り、僕は布団に潜りこんだ。
 こうして。
 今日もまた、僕は眠りについた。

          □□□

「――」
「――、――!」
 声が聞こえた。誰かが、誰かを呼ぶ声。僕はゆっくりと目を開けた。すると、目の前には少女が居た。見知らぬ少女だった。
色素の薄い金髪が、長く長く垂れている。瞳の色は、……あれは、なんという色だったか。とにかく、神秘的な色をしていた。その髪は長く腰のあたりまで垂れ下がり、耳元の一房がリボンでぐるぐると巻かれている。
「君、誰?」
 僕は身体をゆっくりと起こして、目の前の少女にそう告げた。彼女は一瞬、呆けたような顔を見せてから、「……ああ、本当に起きたんだね。本当の本当に起きたんだね」と言った。
 状況が飲み込めない。
 僕は辺りを見回した。そして……ここはどうやら、駅前であるらしいと気がついた。クリスマスを彩るツリー飾りや電灯で形作られたトナカイの飾りが、普段と違う特別な雰囲気を出している。
 けれど、そのツリーやトナカイは輝いていなかった。辺りに、人気もない。
「……僕、布団で寝てたと思うんだけど」
「布団っ」
 僕が何気なくぽつりとそう言うと、目の前の少女が少しだけ瞳を見開いた。眠たげな瞳に、少しだけ煌きが宿ったような気がする。
「……布団。布団か。いいなぁ、布団……」
 良く分からないが、布団が羨ましいらしい。けれど、そこから話を広げる気は毛頭ない。僕は、口を開いた。
「えっと、僕は社です。君、誰?」
 訊ねる。
 すると、少女は幾分神妙な顔つきをした。問いかけの奥底に眠る本心を探り出そうとでもいうような瞳。……しかし、こんな何の変哲もない問いかけに、一体なんの本心があるというのだ。いや、何もない。それでも少女は神妙な顔つきをしていた。
 悩ましげな表情が月明かりに照らされて、どこか触れてはいけない聖域のような雰囲気がする。
 ……改めて見ると。
 少女は、とても美しかった。長い髪は先述したとおりの薄い金髪で、意地でも曲がってなるものか、とばかりに真っ直ぐ垂れている。肌は、陶磁器のように白く白く――。
 欠点を上げるとすれば、目が少したれ気味……というか、眠たそうな事。しかし、その欠点ですら少女の神秘的という印象を彩っているような気がした。
 ただ、来ている服装は実に機能的で、冬の寒さを防ぐそれは、緑色のジャンパーコートだった。
「……わたしは、九子」
「クコ?」
「……うん。九つの子どもって書いて、九子」
 表情の変化が乏しい。彼女はにこりと笑いもしないで、「……よろしく」と呟いた。どこか舌足らずな口調だった。僕も「よろしく」と返す。
 少女――九子は、急に何も言わずに立ち上がった。何をしていいか分からなかったので、僕もその後を追った。
「ねえ、君は何をしてるわけ? もう、夜も遅いと思うんだけど……」
 九子はちらりと振り返って、僕と顔を合わせた。
「ヒーロー、信じる?」
「え?」
「超能力を持ってるの。消えたり、増えたり。やつらは脅威」
「はぁ……」
「信じる?」
「信じるって……本当に居ると思っているのかって……そういうこと?」
 僕が戸惑い混じりにそう言うと、彼女は少しだけ眉根を潜めて前を向いた。何も言わない。ただ、足取りだけは軽く、すたすたと歩き続けた。
と、目的地へとたどり着いたのか、九子は足を止めた。
 そこは、駅前の自転車置き場だった。ここにも、人は誰も居ない。何時だか分からないが、駅前に誰も居ないなんてことがあるのだろうか? 僕はそこまで考えて、ようやく合点がいった。
 これは、夢だ。
 僕は自分で歩いた記憶なんてないし、夢遊病も患ってはいない。それになにより、ふわふわとしたこの感覚。ここはきっと、僕の夢なのだ。
「ん」
 九子は、自転車置き場近くで石を拾った。こぶし大の石だった。
あれ? 
 そう思ったとき、彼女は手短な自転車の鍵を、それで思いきり叩いていた。原始的な打撃音が辺りに響く。
 一瞬意味が分からなかった。けれど、意味が分からないのは一瞬だった。彼女は鍵を壊して、自転車を盗む気なのだろう。
「ダメだって!」
 僕は慌てて、九子の細い手首を掴んだ。動きが止まる。抵抗される。暴れはじめる。そんな予測が、僕の頭を落雷のように駆け抜けた。
 のだけれど――
「……くぅ」
 彼女は、僕にしな垂れかかってきた。
 ふわりっと、微かにスミレの香りがした。
「え、ぁ……?」
 僕は戸惑いながら、少女の顔を覗き込む。彼女は瞳を閉じて、小さく寝息を立てていた。こぶし大の石は、いつの間にか手を離れ、再び地面に転がっていた。
 安らかな寝顔が、僕に寄りかかっている。不思議な色をした瞳を閉じた九子は、神秘的な雰囲気が薄れて、ただのとても可愛い子どもだった。
 その穏やかな寝顔を見て、少し眠くなってきた。
 重い瞼に抗いながら、九子をどうにかしなければと思う。けれど、眠気は容赦なく襲いかかってくる。思考を置き去りにして、ただ欲求を運んでくる。
 眠りに落ちる前、僕が最後に思った事。
 
 あの瞳の色は――たしか瑠璃と、そう呼ぶのだったかしら、っと。

 朝、目が覚めると僕は布団の中に居た。
 現実で眠って、夢の中でも眠って、どうにも眠りつづけた一日のような気がする。
 身体を起すと、少しだけ筋肉が悲鳴を上げた。どうやら寝違えたらしい。布団から這い出て、僕はゆっくりとしたペースで歩き始めた。
 途中、ふとカレンダーを見ると、今日は十二月二十日のようだった。クリスマスまであと四日。どうでも良いけど。本当に。
「おはよう」
 リビングに入ると珍しく親父の姿があったので、背中に声をかけた。返事はない。期待もしていない。僕は唇をかみしめて、また死ねと思って、そして、久瀬玲太を思い出した。
 ……。
 何故、今、久瀬玲太を思い出したのだろう。

 ――そいつに憧れてたんじゃねえの?

「え?」
 辺りを見回す。誰も居ない。親父が軽く振り返って、なんだという顔をする。僕は訊ねた。
「今、何か聞こえなかった?」
「聞こえない」
 気まずくなって、僕は「そう」とだけ言ってリビングを出た。自室へと駆け込む。布団にくるまってしばらく待っても、妙な声は聞こえなかった。
『――そいつに憧れてたんじゃねえの?』
 聞こえてきた、その一言を思い返す。
 語尾は確かにクエスチョンマークで、だから、僕は答えるべきなのだろう。
 答えは、決まっていた。
 答えは、決まっているに決まっていた。
 ――僕は、久瀬玲太を同類だと思っていた。
 同類。
 言い換えて、同胞。
 そんな風に感じて、そんな風に思って、そんな風に――僕は、

          □□□

   Scene2・噂

          □□□

 家を出て学校に向かう途中、不意に曲がってきた女子高生の一団が居た。スピードが嫌な意味でかみ合ってしまい、抜くに抜けない。
「ねぇ、みんな知ってる? 最近さぁ、変な事が起こってるみたいだよ、この辺り」
「えー? なになに? またアイのオカルト話?」
「違うって。そんなんじゃないって。今回はガチ! ガチなんだからっ」
「まあいいや。言ってみ? ほら」
「馬鹿にしてない?」
「してないしてない」
 喧しい声が、自然と耳に入ってきてしまう。しかし、塞ぐのも不自然だ。僕は溜息をついて、ポケットに手を突っ込んだ。いかにも女子高生といった雰囲気の三人組は、楽しげに会話を続けている。うるさい。うるさい。
「じゃあ。えっとね、夜中に出る怪物の話と、疾走する獣人の話と、蘇る死体の話、どれが良い?」
「ぎゃはっ。やっぱオカルトじゃん! しかもスッゲーべったべた」
「こ、こらー! ホントなんだってば!」
「はいはい」
「だって、死体の話なんて、私の近所の子なんだよ? 病気で亡くなったんだけどさぁ――」
 と、一団がまた角を曲がっていく。僕も、いつもはそこの道を通る。けれど、あえて真っ直ぐ歩き続けた。これで、イライラすることもない。
 ようやく静かになった街道を歩きながら、先程の声もオカルトだろうかと考えた。
 頭の中で響く、誰かの声。不気味だった。

          □□□

 学校につくと、上履きが無かった。念のため軽くあたりを見回してみたが見当たらない。よくあることだ。僕は溜息をついてから、靴箱にスニーカーを仕舞って靴下で廊下にあがった。
 ひんやりと。
 足元から真冬の鋭さが突き刺さる。僕はバックを抱え込んで身を縮めて、歩き出した。
 幾人かの生徒とすれ違う。みな僕の足元を見て、それぞれに反応を見せる。不思議、憐み、嘲笑。
 ああ、ウザい。
 ウザい、ウザい。ウザい、ウザい。ウザい、ウザい。
 僕は唇をかみしめて、震える肩で一階の男子トイレに向かった。その入口脇にある、ゴミ箱を覗き込む。
 ビンゴ。
 僕は周囲を見回して、誰も居ない事を確認してからその上履きを拾い上げた。軽く叩いて、すぐに足を突っ込む。それから、何事もなかったような顔をして廊下にでた。
 足元の凍えはなくなったが、僕の心は冷たいままだ。高校生にもなって、なんて幼稚な行動だろう。
おまけに、隠す場所までいつも一緒。いい加減ワンパターンなんだ。飽き飽きしているんだ。たまにはもっと、アッと驚く場所に隠せないのか単細胞め。
 ――ふーん、お前、苛められてるわけだ。
 肩が震えた。
 声。
 声が、また聞こえた。
 首を左右に振るが、めぼしい人影は居ない。
 ――あ、何? 今もしかして、俺のコトを探してるわけ?
「……あぁ」
 自分でもおかしいと思った。言葉は飲み込もうと思った。それでも、僕は返事をした。小声で。
 ――うっは。探しても無駄無駄ァ。どうやら俺、お前の精神みたいだから。
「は?」
 ――いいねいいねその反応。さっぱり意味がワ、カ、ラ、ナ、イィ‼ みたいな?
「…………」
 ――おいおい、黙りこむなよ『もう一人の僕ぅ』。何せこちとら、お前しか話相手がいないんだからさぁ。
 頭が痛い。
 なんだ、えーと……。『もう一人の僕』? やばい。ついに精神が崩壊したかも知れない。
 頭を抱えながらとりあえず歩き出した。歩いていれば大抵の考えはまとまるものだというのが僕の主義だからだ。しかし混乱が広がるばかりで、めぼしい回答なんて見つからない。頭に直接響くように聞こえる声なんて、イタズラにしては高度すぎる。
 幸いにして、歩いている間、件の声は聞こえなかった。考えはまとまらないまま、僕は教室に辿りついた。
 扉を開く。席に着くすれ違いざま、三人の男子生徒の群れが、クスクスと笑って僕の上履きを見た。いつもの連中だ。やはり、今日もコイツ等だったらしい。単細胞。単細胞。単細胞。
 ――んだよ。ひょっとして、今の連中か? お前を苛めてんのよぉ。
 頭の中の声。
 僕は無視して、自分の席に――
「……ない」
 小さく呟いた。教卓前の、逆特等席。見下ろすいつもの僕の席には、椅子がなかった。あるのは机だけ。ただ、その机の上には、あった。
 ――ひっでぇ。
 それは、ペットボトルに活けられた花だった。
 菊やひなげしなんていう、あからさまな物ですらなく、ただのびんぼう草が七、八本。そのいい加減な選択が、なおさら僕の心を痛めつける。
 クスクス。クスクス。
 どこかで僕を笑う声。いや、どこかなんてものではない。クラスだ。クラス全体が、僕をあざ笑っている。僕を見下してあざ笑っているのだ。
 クソッ!!
 僕が一体何をしたっていうんだ。馬鹿どもめ。ああ、殺してやりたい。この教室に居る人間を一人残らず切り裂いてやりたい。
 ズブズブとナイフを首に刺して、ナイフを首に刺して、ナイフを首に刺して、この教室を血まみれにしてやるのだ。
 そして、そして――

「社、おはよう」

 ハッと、我に返った。顔を上げると、心配そうな顔をした宮内さんが居た。視線が一瞬移動して、椅子のない僕の席を捉える。
「……ぁ、ぁ」
 おはようと、そう返したいのだけれど声が出なかった。そんな僕を横目に見ながら、宮内さんが辺りを見回す。それから何を思ったか、ふと教室の外に出て行ってしまった。
 ――……なあ、あいつ誰だっけ?
 頭の中の声。僕は再び彼を無視した。
 ――ん。ていうかお前の名前も聞いてなかったけ。えっと、なんて名前? ……あ、社、か。
 僕は小さくあごを引いた。声を出すのは怪しまれるから無理だけど、これぐらいなら大丈夫だろう。というかコイツ、もう一人の僕と言っておきながら、僕の名前も知らないのか?
 ガラリ。
 教室の後ろの扉が開いて、宮内さんが帰ってきた。右手で、ずるずると椅子を引きづっている。
「あ」、とつぶやいて、僕は彼女を見つめる。宮内さんは、にっこりとほほ笑んだ。何も言わずに近づいてきて、席を元通りに置いてくれる。それから、机の上にあったびんぼう草をペットボトルごとねこそぎ掴んで、ゴミ箱へと向かいパッと手を離した。
 静寂。
 それが、一瞬だけ教室を流れた。誰もが、今の彼女の行動を眼で追っていた。感心したからだとか、感銘を受けたからだとかでは多分ない。
 理由はひとつ。違和感だ。
 僕が苛められるのは、認めたくないけれどいつもの事だ。しょっちゅう物がなくなったり、悪口を書かれたり言われたり。このクラスは、それをずっと黙認してきた。それが一番平和で、日常を上手くやり過ごせる方法だから。負担や手間がないから。面倒くさくないから。
 クラスメイトはもちろん、先生も。そして、宮内蘭花も。
 だから、僕は――。
 ――なんか、変じゃねぇ?
「…………」
 彼の言葉に、心の中で賛同してしまったのだろう。

          □□□

 昼休み。
 ブレザー制服のズボンポケットに手を突っ込んで、俯きながら僕は歩く。
 どうも、昨日から少し世界がおかしい。
 何が、とは言い切れないが、けれど確かに。
 いやひょっとしたら、世界はまるでおかしく何てないのかもしれない。おかしいのは、僕なのかもしれない。
 何せ、頭の中の声は鮮明にはっきりと、しかも頻繁に聞こえてくるのだ。
「おい、社ォ」
 肩を、ぽんと叩かれた。振り返ると、上履き隠し単細胞の三人が居た。ああ、またか。僕は思った。
「……昼飯、だよね? 今日は何」
「日替わり」
「オレは焼きそばパンとコロッケパンとチョココロネとコーラね」
「カツ丼。よろしく、社クン」
 三人が次々に注文を告げていく。
 ――おいおい、お前、まさか買いに行くのかよ。
 仕方ないじゃないか。
 頭の中の声に僕は心の中で反発を返す。
 嫌だ。嫌だけど、けれど僕は、僕には、もっと嫌な事がある。その嫌な事が起こらないために、そのために僕は苦汁を飲むのだ。
「……えっと、お金は?」
「アぁ?」
「何オマエ、オレ達に金払わせるわけ?」
 どうやら、今日は懐具合が悪い日らしい。
コイツ等はとても気まぐれだ。昼飯を買いに行かせるのも気まぐれ、金を払うも払わないも気まぐれ。靴を隠す日を決めるのだって、たぶん気まぐれだろう。
 思えば椅子を隠されるのも、机に花を置かれるのも初めてだった。その事を考えれば、彼らの機嫌が凄まじく悪い日だということが事前に察知出来たのかもしれない。備えあれば憂いなし。もっと深く考えるべきだったのだ。
 僕は、黙って購買へ――
「待てよ、今日は払っとこうぜ」
 そう思ったときに、リーダー格である耳ピアスがそう言った。
「あ? 何で?」
「わかんねーの? コイツまで自殺とかされたらオレ達マジ困んねぇ?」
「あー。そっか。それもそうだな。進学に響くわ」
「だろ? おらよ」
 五百円玉が押し付けられた。耳ピアスに感化されたように、他の二人も五百円を突き出してくる。僕は合計千五百円を持って、購買へと向かった。ダッシュだ。何人か生徒とぶつかって謝りながらも、僕は走り続ける。
 ――なあ、自殺って何の話?
 返事は、出来なかった。

          □□□

 クリスマスの雰囲気は、街を覆い尽くしている。
 一か月前から飾り付けは始まっていたけれど、目前となるとやはり活気は凄まじい。僕は背中を丸めながら、にぎやかな通りを歩いていく。どこかから聞こえる『恋人はサンタクロース』を聞きながら、家路を辿っていた。
 そんな時――
 自転車が、すぐ手前の角から飛び出して来た。それは、安っぽいシルバーのママチャリで、タイヤが回転するたびにどこかで擦れた音がして、耳障りだった。しかし問題はそんな場所にはなく。
「――九子?」
 疑問に返事がある前に、その自転車はまっすぐと走り去ってしまった。僕は弾かれたように走り出す。
「待って!」
 何故叫んだのか分からない。しかし、呼び止めなければとそう思った。
 声は――どうやら、届いたらしい。
 つんざくようなブレーキ音がして、アスファルトを擦る音。そして、九子は自転車から降りて、車体ごと振り返ってこう言った。
「……あ。……社?」
「うん。えっと……」
 何を言えばいいのか。分からない僕はしばし考える。まずは……まずは……。
「……ひょっとしてその自転車、」
「?」
 言いよどんだ僕に対し、九子は首をひねる。
 自転車。その鍵部分をよくよく観察すると、破壊されていた。石を叩きつけたような破壊の仕方だった。
「……やっぱいいや」
「……変な社」
 相変わらずの眠そうな瞳で、九子はぽつりと言った。それから、不意に自転車の荷台を軽く叩く。
「……乗って」
「え?」
「……いいから乗って。連れてくから」
 有無を言わせない口調。
 僕は戸惑いながらも、答えが知りたくて荷台に乗った。少女の細い腰に抱き着くわけにもいかないので、両手も荷台を掴んでおく。足をしっかりと邪魔にならない位置に引っ掛けて、僕は「いいよ」と言った。
 動き出す。
 二百メートル程は、キコキコとそのまま進んでいた。しかし、凄まじく遅い。
「ねえ九子」
「……は、……はぁ。な、に?」
「変わろうか、前」
 自転車が止まる。反動で、僕は少しだけ九子の背中とおでこがぶつかった。むっと、微かに異臭がした。そういえば、九子が来ているのは昨日と同じ、緑のジャンパーコートだった。
「……」
 九子は無言で自転車を降りる。僕も降りて、前と後ろをチェンジした。ハンドルを握り締めた僕の腰に、細い腕が回る。ぎゅっと、柔らかな感触とともに今度は微かにスミレの匂いが漂ってきた。
「で、どこ行くの?」
「……指示する」

          □□□
 
 九子の指示に従って自転車を走らせて、たどり着いた場所。
 そこは、少し町から外れたとあるビルだった。建設途中で放置された、誰も居ないビル。煤けた灰色の壁が寂れた印象を強く与える。埃っぽそうな窓から見える室内も、その印象を裏切らずにくたびれていた。
 僕はそんなビルを見上げながら、ぽかんと口を開けていた。何故なら、ここは――
「……ありがと」
 自転車の荷台から、九子が飛び降りる。そのままスタスタと、ビルの前庭へと歩いていく。
 ビルの前庭。
 そこは、ちょっとした公園並みの広さがある場所で。もしもビルが完成したなら、ステキな憩の場となるはずの場所だった。
 そして。
 そして、久瀬玲太が死んだ場所――なのだった。
「…………ねぇ」
 呼びかける。九子はぴたりと足を止めた。何故、この場所にやって来たの? 僕はそう訪ねたかった。
 あの場所は――まぎれもなく――。
「あ、ぅッ」
 ズキリ。
 頭が痛む。僕は自転車から降りてうずくまった。ガシャンと、横で音がする。自転車が倒れた音だ。けれどそんなものを気にしている余裕があるはずもない。呼吸が荒い。身体に力が入らない。動悸が激しい。
 僕は頭を抱える。
 ズキリ。ズキリ。ズキリ。
 久瀬玲太が死んだ場所。どうして、九子がここへ?
 どうして――。
 疑問を考える片隅で、僕はあの日の事を思い出す。
 あれは、白。雪。そして死体。
 僕は……僕は、それを見下ろしている。真っ赤に砕け散った彼の身体を見下ろしている。久瀬玲太は、ビルから飛び降りた。警察ではそう言われた。たぶん、そうなのだろう。雪の上に、足跡一つなく、綺麗な白のキャンパスにぽつんと落とされた黒い絵の具のように、彼の死体が真ん中にあった。
 何物にも汚されず。
 何物にも侵されず。
 彼の死体は、白い雪の真ん中に。
 僕は。それを見つけた僕は、雪をかき分けて彼の元に向かう。その時も、確か頭が痛かった。何もかもを忘れてしまうような激しい脳の痛みだった。
 雪をかき分ける。
 足元に十センチほど積もった雪を、足で左右に払いながら僕は進む。
 見間違いであってくれ。
 願いながら。
 見間違いのハズがない。
 その願いを、否定しながら。
 唇をかみしめて。目を見開いて。手を震わせて。足を動かして。
 僕は、久瀬玲太へと辿り着いた。
「……社?」
 九子の声。
 けれど、僕は顔を上げない。上げられない。今の顔は、たぶん誰にも見せられない。こんな顔は、決して――。
「……社」
 九子の声。
 今度は、声と共に背中に。
「大丈夫だよ」
 ぎゅっと、さっきまでと同じ感触が伝わってきた。

          □□□

 九子が背中から離れたとき、僕はもう大分落ち着いていた。
 ゆっくりと立ち上がる。少し眩暈がした。けれど、大丈夫だった。僕は自転車を起して、地面に立たせると、九子と向かい合った。
 もう、この質問を、この疑問を、避けるわけには行かない。
「九子、君はいったい――」
「久瀬玲太」
 僕の声を遮って、九子は言った。
「……久瀬玲太。身長百七十二センチ、体重五十八キロ。クラスでは大人しく、目立たない存在。顔は整っているけれど、あまりそうとは取られない。表情はいつも無」
 スラスラと彼女の口をつく、それは久瀬玲太のパーソナルだった。
 だけど続けて、彼女は言った。
「……けどきっと、本当の彼はそうじゃない」


 薄暗いビルの中は、床に埃がうっすらと積もっていた。その上には、いくつかの足跡がある。どこの誰だか知らないが、出入りしている人物が居るらしい。
 中は、空っぽ。
 雑居ビルになる予定だったのだろうけれど、ソファもテーブルもない。影も形も。そのがらんどうの空間に、微かなデシャビュを覚えながら、僕は九子の背中を追っていた。
 とんとんとんと、リズミカルな音を立てながら九子が階段を上っていく。辿りついた扉を開けば、そこは屋上だった。
 背の低いフェンスが四方を囲む、自殺にうってつけな屋上、だった。
「……ねえ、聞かせて?」
 九子が、僕を振り返って言う。そうだ。彼女と話をするために、僕はここに来たのだ。
 でも。
「僕も、聞かせて欲しい。君は一体、何がしたいんだい?」
 九子は、僕の言葉を噛みしめるようにゆっくりと頷いた。眠気眼の瑠璃色の瞳が、少しだけ大きくなる。
「わたしは」
「うん」
「……わたしは、彼に助けてもらった。久瀬玲太に、命を。今はまだ……それしか言えない」
 九子は胸の前で両手を組んで、ぎゅっと握りしめた。少し俯いた顔に、一房、束ねた髪が揺れかかる。
「でも、命を助けてもらったけど。……わたしは、久瀬玲太をあまり知らない。ほとんど全然、知らないの。それが、それが、……とても……不安、なんだと思う」
「不安?」
「……うん。不安。だから――

「わたしは、彼の事。知りたいんだと……そう、思う」

          □□□

   Scene3・願い
     
          ■■■

 一週間前。
 久瀬玲太が死んだ日。十二月の、十五日。クリスマスまであと十日。どんな言い方をしたっていいけれど、とにかくあの日。あの日も僕は、今日とほとんど同じように過ごしていた。
 どうしようもない毎日。どうしようもない日々。
 ただ、今日と違うのは……久瀬玲太が、首を少し捻りさえすれば、いつでもそこに居た事だ。
「社クーン。あのさ、ちょっと俺等、放課後ゲーセン行きたいわけ」
「てなわけでカンパしてくんない?」
「良いよな? 社んち、金持ちだし。オレら、中学からのいわゆる親友ジャン?」
 二ヤニヤニヤ。
 薄気味悪い笑いに囲まれながら、ちらりと後ろを見る。

 久瀬は一人ぼっちだった。

 高校に入学して、早九か月あまり。僕は、彼が友人と話す場面を、一度も見た事が無かった。
 いつでも、空気。
 いないようなもの。みえないようなもの。
 唯一、本当にときどき、宮内さんが彼に声をかけるけれど、それも一瞬。会話はすぐに終わってしまう。まるで人目を避けるように、一瞬で。僕とですら、普通に会話をしてくれる宮内さんが、である。
 ありていに言ってしまえば。
 僕が彼に感じたのは、同類意識と――そして、優越感だった。
 僕はだって、空気じゃない。
 きちんとそこに居ると、認識してもらっている。居ないものとして扱われたりしない。僕は存在している。僕は存在を許されている。
 だから。
「……はい、お金」
「おお、サンキュー」
「くはっ。あざーす」
「よし、行こうぜ」
 僕は、彼を、心の支えと感じていたのだ。

          □□□

「知りたいって言われても……」
 目の前の九子と向き合い、僕は言葉を紡ぐ。
「僕も、……何も、知らないよ」
「……そんなことない。だって、あなたはあの日、あそこに居たから」
「え?」
「十二月、十五日。わたしも……あそこに居たよ?」
「!」
 僕は息を飲み込んだ。
 九子も、あの日、この場所に居た。どこから、どんな風に。
「……ねえ、社。思い出してよ」
 瑠璃色の瞳が、まっすぐに僕を貫く。
 ズキリ。
 頭が痛む。思い出す? 何を。何を。ナニを。ナニヲ。
 と。
 その時、不意に。
 いつかの言葉がフラッシュバックした。

『社、何も見ていないよね?』

 あれは。
 あの言葉は……。
「……宮内……蘭花?」
「……そう」
 僕の呟きに、九子が頷く。
「……宮内蘭花。彼女もあの日――この場所に、居たんだよ」
「そんな。でも、だってっ」
「……嘘じゃない。宮内蘭花。彼女は、久瀬玲太と関係があった」
「え?」
「……人に言えない、関係」
 ガシッと。
 頭が殴られたような衝撃を受けた。
 そんなまさか。そんなまさか。そんなまさか。
 ただ否定の言葉だけが僕の中で連なる。けれど、その否定の言葉を否定するように、人目を避けるように会話する、二人の姿が脳裏に浮かぶ。
 あれは、もしかして。
「……この話も、今の君にはまだ出来ない……と、思う」
 でも、だとしたら。どうして、だって。
「……でも、信じて欲しい。わたしは……君を、悪いようにはしないから」
「悪いようにはしない?」
「……うん。わたしは、君の傍に居る。君の力になる」
「僕の力に――」
 操られるように復唱した。
 小柄な少女が放つ、あまりにも真っ直ぐな言葉。それはなぜか、澄んだ声質をともなって、すぅっと僕の身体に染みわたっていった。

          □□□

 九子と別れて、僕は一人家路を辿っていた。
 ぐらぐらと。
 頭の中で色々な事柄が積み上がっては崩れていく。別れ際、彼女に言われた事を思い出す。
『……わたしがやりたい事は二つあるの。一つ。久瀬玲太の事が知りたい。二つ。久瀬玲太は自殺じゃない、それを確かめる』
 そして最後に。
『……そのために、君と組みたい』
 僕は。
 ほとんど反射的に、その言葉に頷いていた。久瀬の事が知りたいと。久瀬の死に謎があるなら解き明かしたいと。
 そう思ったのだった。
「ただいま」
 鍵を開けて、家に入る。造花が飾られた玄関棚に少しだけ目をやってから、僕は靴を脱いだ。
 親父はまだ帰ってきていない。仕事が忙しいのだろう。顔を合わせたいとは思わない。だから、どうでもいいのだけれども。
 ほんとうに、どうでも良いのだけれど……。

          ■■■

 ああ、これは夢だ。
 僕は確信を持ちながら、目の前にぼんやりと浮かぶ霧がかったような場景を見つめる。
 それは、中学生時代の僕だった。
 昼休み、周りの連中が楽しそうに騒いでいると言うのに、一人、机に噛り付くように勉強している。
 実を言えば。
 僕は、私立中学を受験していた。父親にそうするように言われたからだ。
しかし結果は――不合格。
 その三文字を叩きつけられて、僕は失意とともに地元の公立中学へと進学したのだ。
 不合格の通知を手渡すとき、僕の手は震えていた。親父に怒られると思ったからだ。けれど、そうじゃなかった。親父はその通知に目を落とすと、まっすぐに僕を見つめてぽんと肩を叩き、「仕方ないさ」とそう呟いた。
 期待。
 それが、父親の中から消えたような気がした。
 だから。
 僕は、悔しくて。悔しくて。悔しくて。
 誰に言われるでもなく、ずっと勉強をしていたのだ。
 しかしそう言った行動は、一部の人間には鼻持ちならないものであるらしい。
「スカしてんじゃねぇぞ、社ォ」
「まーた勉強? 飽きないねー」
 今でも僕を苛め続ける、馬鹿三人組が、中学時代の僕に近づいてきた。
 そいつらは、僕の成績が良い事やがり勉である事が気に障ったらしい。最初はからかいの声。
 けれど、ある事件をきっかけにその行動はエスカレートすることになる。
 三人組が、図書室をたまり場にし騒いでいることを、僕が先生につけ口したと思われたのだ。確かに、彼らが溜まり場にする前、僕は図書室を学習の拠点にしていた。彼らが騒ぐようになって三日目ほどで、僕はイライラしながら拠点を移した。
 けれど、つけ口なんてしていない。
 そう弁解したけれど、彼らは僕の仕業だと決めつけた。
 そして、参考書を隠したり、ノートを破いたり。まったく、そんな暇があるならもっと別の事をやればいい。
 これだから低能は、と僕は今と同じように吐き捨てていた。
 さてはて。
 高校受験。
 僕は、一流の私立大学の付属高校を第一志望にして受けた。滑り止めに、地元の一番近い公立高校。
 結果は……もう、言うまでもないことだろう。
 その、不合格通知を父に受け渡したとき。
 やはり彼の瞳に、期待も――そして失望も、どんな色も浮かんではいなかったのだ。

          □□□

 こつん。
 音がした。
 僕は瞼をゆっくりと開けた。どうやら眠ってしまっていたらしい。……何か悲しい夢を見ていたような気がするが、思い出せない。微かに中学時代の出来事であったような気がしたが、思い出そうとすればするほど手からこぼれて消えていく。
 こつん。こつん。
 また、音がする。僕は身体を起した。一体どこから……。
 ――窓から聞こえる気がするぜ?
「うおっ」
 ――あ。何。もしかして俺の事忘れちゃってたり? 寂しいねー。おい。
「……いや、今まで喋んなかったから」
 ――んー。なんつーか、寝てた? みたいな?
「は?」
 ――活動時間、あんまり長くないみたいなんだよなー。社が寝ると、どうも元気がでるっぽい。
 なんだかなぁと思いつつ、僕は立ち上がってカーテンを開いた。すると、小石が窓に当り、こつんと音を立てた。
 見下ろすと、傍に自転車を立てかけた九子が居て、右手で小石を抱えて左手で小石を投げていた。
 犯人発見。
 僕は、首をひねりつつ窓を開けた。
「……社、降りてきてっ」
「なんで?」
「……良いから、早く。多分、見ないと分からないから。見たら、説明する」
 僕は窓を閉めて、身なりをサッと確認してから下に降りた。
 外に出る前にと、置時計を確認すると、時刻は既に十一時だった。こっそり部屋を覗いてみたけれど、親父はまだ帰宅していないらしい。
 もし、夜中に抜け出したことがばれたらきっと怒られる。けれど、好奇心が恐怖に勝った。
 ――深夜の訪問って、なんかメロドラみてー。すげー。
 頭の中の声が感心したような声を上げる。
 ――……んー。でもなんかアイツ、気になるな……。なんだっけ? 社。
「知らないよ。ていうか君、本当になんなの?」
 ――さあ。
「さあって……」
 僕は肩をすくめた。
 ――あ、今俺の事を馬鹿にしただろっ。くっそー。
 玄関に到着。
 扉を開けると、九子がすぐ前に立っていた。手招きしてくる。僕は示された通り、サドルに腰を下ろしてハンドルを握った。九子が荷台に座って、またぎゅっと背中から抱きしめてくる。背中から伝わる温もりに、心が落ち着く。ただ、女の子に抱きつかれているのだと意識すると、妙にドキドキしてきた。
 ――うお。見せつけてくれんなー。チクショウ。
 頭の中の声を無視して、僕はペダルを漕ぎ始めた。

          □□□

「で、九子、どこに行くの?」
「……たぶん、こっち」
 昼間と同じように、九子が指示する方へとハンドルを切る。しかし昼間と違い、九子の言葉には必ずと言っていいほど、「たぶん」だとか「きっと」だとか言う、あいまいな表現が混ざった。
 ――なーなー。さっきから気になっていたんだけどさ、この子、君の何な訳?
 こっちが聞きたい。
 僕は相変わらず黙っていた。人が居る時に、コイツと話す気なんかさらさらないのである。声は頭に直接響いているのだし、周りの反応から見ても、絶対僕以外には聞こえていない。そんな声と会話をしていたら、変な目で見られてしまう。
「九子、いったいどこに行くの? さっき見せたいものがある、とか言ってなかったけ?」
「……その、見せたいものの所に行くの。移動してるから……正確な場所、掴みづらい」
 そういう訳らしい。
 それにしても、移動していて見せたいものとなると……人間、ぐらいしか思いつかない。九子はいったい、僕に何を見せようと言うのだろう。
 そんな疑問を、心に浮かべている時だった。

「ひ、ヒィッ。助け、助け……っ」

 声が聞こえた。
 明らかに震えていて、怯えていて、そして……聞き覚えのある声だった。
「父さん……?」
「社! 今の、声がした方へ急いでっ」
 九子が叫ぶ。僕は我に返って慌てて足を回転させた。今……確か……こっちから……っ。
 曲がる。
 太腿が痛い。それでも漕ぎ続ける。と、ガチッと嫌な音が鳴って、バランスを崩し、僕らは地面に叩きつけられた。
 ――痛っ! い、いや、痛くねぇや……。おい、大丈夫か、社!?
 左膝に奇妙な感覚。恐る恐るズボンを捲り上げると、膝の皮が思いきり剝けて、ジワリと血がにじみ出ていた。
「……社?」
 顔を上げる。すると、九子が心配そうな顔で僕を見ていた。彼女も、頬に傷が出来ている。
「ごめん、九子」
 言いつつ、掌を地面につける。思いきり押して反動で立ち上がろうとするが、ズキリと痛む。
 そんな僕を見かねてか、九子はポケットから何かを取り出した。
「……じっとしてて」
 それは、花の模様がついた暖色系のハンカチだった。僕の膝に器用に当てて、きつくきつく縛ってくれる。
「……これで良し」
「ありがとう」
 僕は九子に心の底から御礼を言い、ズボンの裾を戻して、自転車に飛び乗った。九子もすぐに、後ろに乗り込む。
 ――……。なんか、不思議な感じがするな……。これは……嫌な気配? 社、急いだ方が良いぞ。
「分かってるさ」
「……え?」
 今度は、九子に返事をしなかった。ペダルを再び、漕ぎ始める。
 右足、左足、ぐるぐるぐると、タイヤが足に合わせて回っていく。
 左足の番が来るたびに、痛みが走る。だから、なるべく右足を力強く踏んで、左足は楽をした。
 それでも、今出来る最高のスピードのはず。
 がむしゃら。
 そんな言葉が似合う行動だ。と、半ば自虐的に自分自身を考える。
 どうして、親父の為にここまで? 
 そんな疑問が浮かんだが、答えはすぐに出た。簡単だ。
 僕は。僕は。
 念じる。
 どうか、何事もありませんようにと。どうか、親父が無事でありますようにと。
「社!」
 九子が叫んだ時、僕の視界に、それはまだ入っていなかった。
 だから、じぃっと目を凝らす。すると、闇の中、月明かりと星明りに照らされた一つの場面が浮かび上がってきた。
 それは、簡単に言えば二つの生き物が向かい合っている光景。
 一つ、というか、一人は親父。こちらに背を向け、ペタリと座り込んでいた。表情はまるで見えないが、全身の恐怖は震えからハッキリと感じられる。
 そして。
 そしてもう一つ。親父と向かい合っているものは。

「な――。なんだよ……アレ……っ」

 それは、うごめく巨大な影。
 いや、影という表現は、まったくもって正確ではない。ソイツは、立っていた。実体があった。奥行があった。
 けれど、影。
 あれは影だと、直感的に思った。そんな、黒くて大きくて蠢いている、人間のような形をした人間じゃない何か。

「……あれは、闇人(やみうど)」

 驚きを隠せぬ僕の耳に、九子のヒヤリとした声が届く。
「……分かりやすく言うと、化け物、だよ」

 いつだったか、小学校の授業で親の仕事を見学しよう、なんていう宿題がでた。
 僕はだから、親父に言って、親父の仕事を見学させてもらった。
 記憶は曖昧だが、覚えていることが一つある。
 幼稚園ぐらいの男の子と、そのお母さんが診察室にやって来た。どこか怯える男の子に、親父は優しく言った。
「大丈夫だよ。すぐに良くなるからね」
 それでも、男の子は怯えたままだった。
 当然だ。
 僕だって小さい頃はお医者さんが怖かった。歯医者なんてとくに最悪だ。親父は小児科だけれども、まあ怖いことには代わりはない。
 とにかく、男の子が怯えたまま診察をして、親父は注射を取り出した。どうやら診察の結果、注射の必要性が出たらしい。
 男の子は、その注射針を見て、ワッと泣き出した。
 傍で見ていた僕も戸惑ってしまうくらい、鮮やかな泣きっぷりだった。お母さんが慌てて、必死に男の子の背中を叩いてあやしている。
 そんな中――。
 親父が、男の子の頭にぽんと手を置いた。
「いいかい、注射はチクッと痛いかもしれないけど、放っておくともっと大変なことになるかも知れないんだよ。だから、頑張って注射を受けて欲しいな。君は、強い子だろう?」
 男の子は、一瞬だけぽかんと不思議そうな顔をする。でもそれから、きゅっと力強い表情を見せてくれた。
 そんな様子を、僕は見て。
 親父はやっぱり医者なんだ、と、どこか誇らしく、当り前の事を思ったのだった。

          ■■■

   Scene4・絆

          □□□

 三メートルはありそうな、影色の化け物が、腕を振り上げる。
 親父が危ない!
 頭では理解しているが、僕の膝は震えて動かない。飛び出したくない。その判断を後押しするように、九子が自転車ごと僕の身を引いた。
「……隠れよう」
「で、でもっ」
「……今出て行ったら、見れないから」
 闇人が腕を振り下ろす。
「あっ」
 危ない。
 そう思ったとき、何かが親父の傍へと駆け寄った。ソイツは、手に持った棒のような武器で、キィンと闇人の腕を払った。
「行け、マルム!」
 聞き覚えのある少女の声。
 その声を合図に、光る何かが一直線に飛んできて、闇人の頭部を貫いた。グアアアウウ、と、地響きのような声が闇人から洩れる。口があるのかは定かではないが、どうやら音を発することは出来るらしい。
「次は私がッ」
 またも、聞き覚えのある声がした。
 親父をかばったその人物は、棒を一度、くるりと大きく回転させる。
「え? 消えた?」
 姿がなくなった。
 そして、気付いたときには。
「やぁッ!」
 その人影は、闇人の頭頂部に武器を叩きつけていた。
 その棒も、さっきまでとは違う。一直線に飛んできた何かと同じように、光輝いていた。
 その光に照らされて、人影の顔がはっきりと見える。
「……宮内、さん?」
 その顔は、クラスメイトの優等生だった。茶髪のポニーテールが、動きに合わせて揺れている。
 と。
 彼女のその一撃で、巨人が大きく傾く。追撃なのだろう、またも頭部に向けて、幾本もの光の筋が飛んできた。
「危ないっ」
 とっさに叫んだ。まだ、宮内蘭花がそこにいた。というより、光の筋は彼女を貫くかのような軌道で飛んでいた。
 けれど。
 くるり。
 宮内さんがまた、棒を回転させる。彼女の姿は、一瞬で消えた。次に現れたのは親父の近くで、彼女は腰を抜かして動けない父の手を引いて、巨人と距離を取った。
 ドシィと。
 光の筋が幾本も突き刺さった闇人が、倒れて大きな音を立てた。その身体が、まるで群がり一塊に見えた虫が追い払われたかのように、サァっと小さな影に分解されて消えていく。
「あの、大丈夫ですか?」
 宮内さんの声。その美声をかけられた親父は、声が出せないのか、こくんと大きく首を縦に振った。
 その動作に安堵するように宮内さんは微笑んで、それからパッと棒から手を離した。光の粒になって棒は消え、彼女達の姿も、闇に溶けて行く。
「九子……なんだよ、コレ……」
「……闇人。光機関」
 言いながら、九子が「……離れよう」と言う。
 親父が助かったのなら、確かにわざわざ出て行く意味もない。僕は九子に言われるまま、自転車を動かした。
 角を曲がる。
 擦りむいた膝の痛みだけが、ズキリズキリと、ここが現実である事を教えてくれた。

          □□□

 僕と九子は、公園のベンチに座っていた。度重なる非現実的な出来事に、すっかり疲れ切っていたし、親父の事も心配だったから、僕は早く家に帰りたかった。
 けれど、それと同じぐらい好奇心があった。
 一体、何が起きているのかを、僕は知りたかったのだ。
「……闇人は、……なんでか分からないけれど、この世界に現れたもの。人を襲って、人を食らうもの。やつらは、弱ってる人とか、暗い思いを抱えている人とか、そんな人を好んで襲う。ねえ、日本の行方不明者って、年間何人いるか、知ってる?」
「……確か、八万人ぐらい、だったかな」
 僕の解答に、九子はこくりと頷いた。
「……そう。そして、その中の半数近くが、実はあの化け物に食われてる」
「え……っ!?」
「……宮内蘭花は、それを退治する光機関って組織の所属者。闇人を消せるのは、能力をもった人だけだから」
「のう、りょく?」
「……うん。倒すために必要な能力が一つ。これは、機関に共通した力、リュースって呼ばれてる、光を出す力。ほら、矢と、棍と、光っていたでしょ?」
 あの棒は棍と言い、あの直線は矢だったらしい。
「……もう一つは、個別の力。超能力。そう言えば分かってもらえる、かも……」
「まさか……テレポーテーション、とか?」
 おそるおそる出した解答に、九子は「……正解」と返してくれた。
「そんな……まさか」
「……知らなかっただけだよ」
 僕の唖然とした呟きに、九子が無表情で返した。
「……そういうものがあるって事、知らなかっただけだよ」

          □□□

 一通りの説明は、これだけで終わりらしい。
 九子は、「……また明日」と言って、自転車を引いて公園から出て行ってしまった。
 僕は、一人で歩き始めて、いまさらのように冬の夜の寒さを思い出し、ポケットに手を突っ込んだ。
 歩いている途中、不意に背後に視線を感じた。
 振り返ると、誰も居なかった。
 幽霊が怖い、などと思った事はない。けど、闇人なんていう人外の存在を見てしまったからだろう。僕は何かがずっと背中に居るような気がして、何度も何度も後ろを振り返りながら歩いた。
 鍵を開けて、家に入り、鍵を閉める。
 室内は暗く、部屋を覗いても親父はまだ帰ってきていなかった。僕は、なんとなく不安で、けれど探しに行く事も躊躇われて、リビングに明かりをつけて座っていた。
 僕の周りでは、僕を置いてきぼりにして、不可解な事が起こり過ぎている。
 久瀬玲太が死んで、宮内さんが親切で、九子と出会って、おまけに闇人に超能力に光機関。
 きわめつけに、もう一人の僕。
 まったく、ふざけた話だ。
 そう言えば……しばらく、彼の声もない。寝れば、また話せるのだろうか。いや、話すことなどないけれど……。
 瞼がいやに重い。
 かぶりを振って、立ち上がった。キッチンに向かい、ドロップ式のコーヒーを入れる。コポコポと、注いだお湯が茶色に染まりながらカップへと向かう。出来上がったコーヒーに、砂糖とミルクを思い切り入れて、スプーンでかき混ぜた。テーブルに戻り、ふーふーと熱を冷ます。
 親父が戻ってくるまで、今夜は眠る気がなかった。
 帰ってきたら……なんと声をかければいいだろうか。
 そんな事を考えながら、僕はコーヒーカップを手に取る。含んだそれは、甘すぎたし、熱すぎた。
 それでも、とても美味しいと、そう感じた。

          □□□

 カチコチと時計の音を聞き続けて、どれほどの時間が立っただろう。鍵を外す音が聞こえて、僕は立ち上がって玄関に向かった。
 扉が開いて、疲れた顔をした父が顔をのぞかせる。僕と目が合うと、ハッと驚いた顔をした。
「……どうしたんだ、社」
「あ、うん」
 何を言えばいいのか。
 実を言えば、この段階になっても僕のプランは白紙だった。どう話を切り出そうかと、視線を走らせ――親父のスーツに目が止まった。脇の部分がだらしなく敗れ、あちこちに汚れや傷がある。
 それが、さっきの事件の足跡なのだと気付いたとき、言葉が口をついた。
「あのさ、親父が……親父が、死ぬ夢を見たんだ」
「え?」
「なんていうか……とんでもない、『事故』っていうか。そういうのに親父が巻き込まれて、死んじまうんだ」
「――っ」
「妙な夢、だけどさ。その中で……なんていうか、そういうの見て、すっげー不安になったんだ」
「そうか……」
 親父はポツリと呟くと、俯いた。
 と、その視線が、どこかで止まる。
「なんだ? 怪我してるのか?」
 それは、僕の痛んだ左膝。親父のところへ行こうとがむしゃらに自転車をこいで、そして、転んでつけてしまった傷。
 親父は靴を脱いで部屋に上がると、「手当しよう」と僕に言う。少しためらった。いい年をして、親父に治療されるのも照れくさい。しかし結局は親父の後ろについて、僕は明かりのついたリビングに戻った。
 言われるまま椅子に腰を下ろし、言われる前にズボンの裾を捲る。
 九子に結んでもらった、花柄のハンカチをていねいに外し、ポケットに隠した。洗濯をして、次に会ったときに返さなくては……。
 と、救急箱を手に親父が戻ってきた。手際良く道具を広げ、消毒液とピンセットで挟んだガーゼを手に取る。
「滲みるぞ」
 言いながら、しゃがんだ親父が消毒液を傷口に当てていく。
「ウッ」
 と痛さに声を上げると、「社は強い子だろう?」と苦笑いのような表情で親父が言った。
 その言葉にあっ、と顔を向ける。
 椅子に座った、少し高い位置から見下ろす親父は、老けていた。頭頂部が禿げかかっていたし、顔にはいくつもの皺が刻まれていた。
 歳を取った。
 親父も、きっと、僕も。
 僕たちは一体、いつまで一緒に居られるのだろう。母さんが早くに病気でなくなって、家族二人になってから、十何年。
 ずっと一緒にこの大きな家で暮らしてきたけれど、それはいつまで続くのだろう。
 僕が大人になるまで?
 けれど、その大人になるまでに、あとどれくらいの猶予が残されているのだろう。
 時間は、きっと多くない。
 ひょっとしたら、あと二年ちょっとで僕はこの家を出て行く。高校一年生の二学期の終わり。進路についてアレコレ考えることが、今までなかったわけじゃない。けれどその中に、この家から離れるだとか、親父と別れるだとか、そんな事を考えたことはなかった。
 いや、それならまだ良い。
 大学に行くために出て行くぐらいなら、きっと、会いたくなったらいつでも会える……はずだ。いじっぱりな僕は、会いにいかないかもしれないけれど……。
「これでよし、だ」
 いつの間にか、治療が終わっていた。本職なのだから当たり前だけれど、包帯はとても綺麗にまかれていた。適度に締め付けられていて、それでいて動きやすい。
「……ありがとう」
 僕が御礼を言うと、親父は少しびっくりした顔をする。それからぽつりと、「もう寝なさい」と呟いた。
 闇人や、宮内蘭花の話を聞きたいような気がしたが、話すようなきっかけも、理由も見当たらない。僕は親父の言うとおり眠りにつくことにして、歯を磨いて二階にあがった。
 カフェインの効き目も切れてきて、瞼はやっぱり重かった。
 これなら、ベッドに入ればすぐに眠る事が出来るだろう。

 眠りにつくまでのわずかな時間。
 僕はほんの少しだけ親父の事を考えた。闇人や宮内蘭花の事を、彼はどのように捉えているのだろうか、と。
 答えは、きっと忘れていくのだろう、だった。
 今日見た実感は、明日には半分ほどに薄くなり。明日の実感は、明後日にはさらに半分ほどに薄くなっていく。不思議な経験はすり減って、現実の社会の中へと混ざり消えて、誰も信じない事柄を自分自身も信じなくなっていく。
 きっと、そのはずだ。
 僕は、どうだろう?
 そんな疑問が次に浮かんだ。
 答えは、忘れてはいられないだろう、だった。
 今日見た実感が、僕は明日も続いていくのだろう。だって僕は、親父とは違う。もう、すでに選んでしまっているし、望んでしまっている。それは、僕が初めて掴んだ『決断』だったのかもしれない。
 知りたいのだ。
 宮内蘭花の事。
 九子の事。
 闇人の事。
 光機関の事。
 そして何より、久瀬玲太の事。
 それは、好奇心などという、生易しいモノではすでに無かった。
答えを知りたいという、渇望だった。
 自分自身、その望がどこから湧いてきたのかは分からない。けれど、分からないままにはしておけないと、そう思うのだ。
 親父が危ない目にあったから?
 そうかもしれない。
 けれど、それとはどうも違うような気がした。なんだか、胸が苦しくなるような……。何かを、忘れているような……


 生きていることをとても希薄に感じていた。
それは僕にとってぼんやりと雲を眺める事だった。見上げながら、ああ、あれは魚の形をしているだとか、猫に見えるだとか、そんな事。運命の出会いなんて望むべくでもないし、捜したところできっと見つからないだろう。
 ただ、流れていく。
 それだけ。
 その感覚が……どうやら、ここ数日ちょっと違う。はっきりとした形はわからない。けれど雲を眺めるような、そんな退屈な事ではない。
 喜ばしい事、なのだろうか。
 分からない。
 僕が求めている答えは、まだその尻尾すら見えない。
 けれど、今の。
 今の状態を、日常と言えぬ日常を、悪くないと。
 僕は、そう思っていた。 


 この日まで。


          □□□

   Scene5・九子

          □□□

 十二月二十一日の朝。
 ――おい、社。昨日あれからどうなったわけ!?
 まどろみを楽しんでいた脳内が、大声でいっきに覚醒した。飛び起きた僕は、思い切りしかめっ面を作る。
「……。うるさい」
 ――あ、わりぃ。けど気になってさ。お前の親父、無事だったんだよな? 俺、お前が転んでちょっとしたあたりで、眠っちまってさ……っ。
「…………」
 ――お、おい? なんの沈黙だよオイ。ま、まさか……。あ、あの、ごめんな? 俺、本当に分からなくて……っ。
「……無事だった」
 ――え?
「助けてもらったんだ。宮内さんに」
 ――っ。だったら早く言えよ! 焦んだろーが!
「眠いんだよ……。昨日はほら、いろいろあったから」
 僕はまだ文句を言う『僕』の言葉を聞きながら、立ち上がって学生服に着替えた。教科書の準備も整えて、鞄を片手にリビングへと向かう。
 扉をあけると、親父がいた。「おはよう」と、実に自然にあいさつをしてくる。
「おはよう」と、僕も言葉を返す。
「朝ごはんを食べるのか?」
「そのつもりだけど。親父は?」
「まだ」
 僕はそれならと、二人分の朝食を用意した。ウィンナー付きの目玉焼きと、トースト、それから即席のコーンポタージュスープだ。
 それを机に並べながら、親父と朝食をとるのは何年振りだろうと考えた。思い出すのは、小学生の頃。母がいなくなってから二人でとった簡素な食事。親父は料理などそれまでしたことがなかったというが、僕のために苦心して毎朝作ってくれていた。ついでマナーにうるさく、僕はしょっしゅう優しく叱られていた。しかし――どうも、ここ数年は記憶にない。
「「いただきます」」
 二人で手を合わせて、ご飯を食べ始める。そういえば、僕はいつも手を合わせて「いただきます」を言うけれど、それは親父から引き継いだ我が家の約束事だったのだ、とそんな事を、思い出した。

          □□□

 登校すると、さっそく廊下で例の三人組に絡まれた。
「よお、社クン。おはよー」
「さっそくで悪いけどさ、数学の宿題見せてくれない?」
「オレ達が留年とかしちゃったら、お前も困んだろ? 学年に知り合い居なくなっちまうしー」
 ――あいっかわらずだなぁ。おい社、出さなくていいぞ。宿題なんてよ。
 頭の中の声を無視して、僕は大人しく鞄を取り出す。えーと……。数学の宿題はっと、ノートを広げる。
 そこで、思い出した。
 確かに昨日の三限目、宿題は出ていた。その事はハッキリと、ページ数と問題番号のメモがノートに残っている。
 けれど、今の所ページの最後尾がその書き込みだった。
 ようするに。
「……ごめん。忘れたみたいだ」
「ハァ!? ふざけんなよ、数学は一限目だぜ?」
 ガッと、ピアスに胸倉をつかまれた。
 息が苦しい。脳に酸素が届き難くなって、段々と空気が薄れて……。

「放しなさいよ」

 凛とする声が聞こえたのは、その時だった。
「ぁん?」
 身体を音源に向けた為、ピアスの握力が緩む。その隙に、僕は身をねじって解放された。
「ガハッ――。ゴホっ、グ……っ……」
 ――大丈夫か、社!?
 詰まった息を整えてから、僕は顔を上げる。把握した状況は、大体予想通りの場面だった。
 宮内蘭花。
 彼女が、僕をまた助けてくれたのだ。
「んだよ、宮内か。あっち行けよ」
 ピアスがめんどくさそうに言葉を吐く。宮内さんは、そんな彼をキッと睨みつけると、
「あんた達、いい加減にしなさいよ」
 とハッキリ言い切った。
 感動や、感謝より。
 なぜ――?
 そんな言葉が浮かぶ。
「なんだよ、お前だって今まで黙認してたじゃん。急にいい子ぶってんじゃねーよ」
「だよなー。何? 優等生さん、もっと内申が欲しいわけ? いじめっ子助けて、推薦がもらえるとか」
「くっは。それ良いねー。そんな仕組みがあったら、オレが社を助けちゃうよ」
 三人組が、ぎゃははと廊下中に響く、品のない笑いを放つ。
 それに対して、彼女は。
「……そんなんじゃない。私はただ……後悔したくないだけ」
「は? 後悔?」
「言ったって分からないから、言わない。でも、これだけは言っておく」
 ぎゅっと右手を握りしめ、誓いのように、言葉を放った。

「これ以上、社に手をだしたら、私があなた達を潰す」

 目を見開いた。
 なんで? 
 先ほどと同じ疑問と共に、ズンッと、胸の奥になにか大きなモノを置かれた気がした。それは、とても温かく、心強い何か。
 そんな心情の変化を。
 ――……やっぱ変だな?
 台無しにする一言が、頭の中で響いた。

          □□□

 宮内さんの脅しが利いたのか、それからは三人組に絡まれることなく、放課後が訪れた。
 帰りがけ、僕は少しだけ宮内さんを探したけれど、見つからない。学級委員である彼女だから、色々と雑事も多いのだろう。
 僕は、一人で校門を出た。
 家路を辿る途中で、何度が頭の中に喋りかけてみる。一緒に居る時間が長くなり、僕はどうやら彼を当たり前の存在にしてしまったらしい。
 人の能力で、一番重要な事は『慣れ』。環境に慣れてさえしまえば、人は平然とそこで起こる出来事を受け入れるようになる。住めば都とはよく言ったものだ。
「おーい、僕?」
 けれど、帰ってくる声はなかった。そういえば、昼飯を食べた辺りから喋り声はしなくなっていた。
 どうやら眠ってしまったらしい。僕は一人で、黙々と歩き続けた。そして、家が見えてきたところで異変、というか、変な事に気が付いた。
 人である。
 僕の家の前に、誰かいる。門に寄りかかって、プチプチと携帯電話のボタンをいじっているようだ。
 薄いピンク色のニットキャップをかぶり、カーディガンを着こんだ制服姿の少女。来ているスカートの細かいプリーツと模様から、近隣の中学校に通う生徒だとあたりをつけた。
 しかし……。どうして女子中学生が、ピンポイントで家の前に居るんだ。
 僕はしばらく、ぼんやりとその場に立ち止まって空を見上げていた。
 少女は、きっと待ち合わせか何かでそこに居るのだろう。ならば、待っていればそのうちどこかに行くはず。そう思ったからだ。
 しかし、待てども待てども少女は立ち去らない。きっかり十分間待ち続けて、僕はついに重たい腰を上げた。
「あの、すいません」
 少女は顔を上げた。可愛らしい顔をしていた。ニット帽からはみ出した、二房ほどの前髪が、似合っている。
「あ。あたし、矢島流無(やじまるむ)ですっ」
 そして、唐突に名乗りを上げて、ぺこんと頭を下げた。え? と思った次の瞬間、少女の口はスラスラと言葉を吐き出す。
「えっと、今日は怖い話をお届けに参りました。あの、信じられないかもしれませんがとても怖いのです。あ、変な宗教の勧誘とかじゃありませんですよ、あしからず。えぇと……あ、その前に、お名前聞いてもよろしいですか?」
 名乗りたくない。
 心の中で、僕は強くそう思った。
 どうしてこんな事になったんだろうと思いつつ、少女をまじまじと観察する。見覚えはない。それから、彼女の名前を考えてみた。矢島、流無。やはり聞き覚えは……。と思った所で、ふと何かが頭に引っかかった。
 矢島、流無。矢島流無。やじまるむ。
 ……なんだろう。なにか、音の響きに聞き覚えがあるような……。
「……マルム?」
「わぁ!」
 ぽつりと呟くと、少女――矢島さんは、大きく口を開いて、それからちょっと背伸びをした。驚きを表現しているらしい。
「それ、あたしのあだ名です。どうして知っているんですか? あたしは貴方の名前を知らないのに、どうして知っているんですか?」
「…………」
 答えに、詰まる。
 しかし、事この段階に置いて答えない選択は、不可能だと判断し僕は言った。たぶん、彼女が僕の家の前に居たのは、あの事実を知っているという事なのだろうから。
 そう。
 昨晩感じた、何かが後ろに居るという違和感。
 おそらく、その正体が彼女なのだろう。それしか、マルムと呼ばれたこの少女に、僕の家を知る手段はない。
「昨日、宮内さんが」
「ああ、そうかっ」
 僕の言葉を遮って、矢島さんは腕を組んで深く頷いた。理解を表現しているらしい。
「そうですね、宮内先輩、あたしの事を呼んでいました。どうでも良いですけど、あの時の『行け、マルム!』ってポケモンみたいじゃありませんでした?」
「あー……。そうかもね」
「うっ。反応薄いですねー。久瀬先輩とだったら、これで五分は盛り上がれるのに」
「え?」
 久瀬先輩。
 何気なく放った彼女の一言に、目を見開く。それを敏感に察したのか、少女は小首を傾げながら、
「あれ? 知り合いですか?」
「うん……。クラスメイトだけど」
「なのですか! そうですねー、先輩はもう知っちゃっていますし、こっそり教えてしまいましょう。じゃじゃーん、実は久瀬先輩も、あたし達の機関の仲間なのですっ」
 機関。
 光機関。
 昨日、九子が言っていた、怪物と闘う超能力者の組織。くだらないアニメみたいな設定の、実組織。
「おっと、機関がどんな仕組みで何と闘ってるか、なーんてことは言わせないでくださいよ? さすがにその辺ばらすとあたしがヤバいかもですし。こう見えて厳しい規律があるんだって、入隊前にばっしりびっしり叩き込まれましたからっ。『裏切り者には、死を』、みたいな?」
「……わかった。いや、まったくわからないけれど、とりあえず君の立場とこの状況がどうして生まれたかは把握した」
「むむ。なんだか先輩、難しい話し方ですね? インテリです?」
 これまた無視して、僕は言った。
「とりあえず、家の前に居るのも何だしさ、どこか行かない?」

          □□□

 家に戻り、鞄を置いて、財布の中身をつぎ足した。それから、矢島さんと二人で、少し離れた場所にあるファミレスに入る。
 店内はクリスマスムード一色で、チェーン店にしては豪勢な背の高いツリーが飾られていた。色とりどりの丸い飾りが、チカチカと光る電飾が、楽しげな雰囲気を演出している。
 席に案内されると、矢島さんはさっそくメニューを広げた。僕は広げなかった。
 店員さんを呼んで、矢島さんはソフトクリームを、僕はホットコーヒーを注文した。
「この寒いのに、ソフトクリーム?」
「ふっふっふ。先輩、甘いですね。ソフトクリームは冬になってからが本番ですよ?」
 注文した品が届くまでは、いつ店員が訪れるか分からない。僕たちはそれを待つ間、いくつかお互いの話をした。
 僕の名前が社である事。彼女の部活が弓道部である事。僕のクラスが宮内蘭花とも同じである事。彼女はやはり、僕の後をつけていたという事。そして、後をつけた理由をこれから話すのだという事。
 そんな前置きが済んだところで、僕らの注文品は同じトレーでやって来た。
 店員さんが去って行ったあと、矢島さんは彼女の背中を少しだけ恨めしげに睨みながら、「熱いのと一緒に運ぶなよぅ」とぼやいた。
 なんだか、こっちまで少し申し訳なくなった。
「さて、話そうか」
 店内は、クリスマス前だからだろうか、それなりの活気がある。他人に声が届かないほどうるさくて、自分たちに声が届かないほどうるさくはない。つまり、内緒話をするのに丁度良いくらいの雑音があった。
 けれど矢島さんは、「食べ終わるまで待ってください。だって、ソフトクリームですよ?」
 意味が分からないが、仕方がない。
 砂糖とミルクをコーヒーにたっぷり入れた後、息を吹きかけ冷ましながら、彼女がソフトクリームを口に含む様子を眺めていた。シャレたガラスのお皿に盛られたソフトクリームには、傍らに二つのさくらんぼが添えられていて、たっぷりチョコレートソースがかかっていた。彼女はそれを、実に美味しそうに食べる。
 最初にさくらんぼを二つ、嫌そうな顔をして食べたあとに、だけれど。
「ふぅ、美味しかったぁ」
「良かったね」
 満面の笑みで告げる矢島さん。僕は半ばあきれながら、やっとコーヒーに口をつけた。程よくぬるい。
「じゃあ、さっそく」
「ええ、そうですね。話をしましょう」
 矢島さんは、ピンと背筋を伸ばして、口を開いた。
「まずは、昨日の夜をおさらいしましょう。宮内先輩と二人で、敵反応があった場所に向かいました。そこで、敵に襲われている一般人を見つけました。あたしは新入りだし、遠距離専門だから、宮内先輩が前線に出て、あたしは遠くに潜んでいた。そこで、宮内先輩が飛び出すのを待っていたんです」
「うん」
 一般人が父親である事については黙っておいた。話をややこしくする必要もないだろう。
「そこで、宮内先輩から例のポケモンみたいな合図がでました! 『行け、マルム!』。あたしは合図に合わせて、光の矢をぱぱぱぁーんと発射しました」
 効果音にあわせて、弓矢を引くまねをされた。
 さっきから動きがいちいち大きい子だ。
「結果は見事ヒット! ラストの追い討ちも決まって、あたしはよしっと暗闇で一人ガッツポーズをしました。そんな時ですっ」
 ずびしっと、彼女は人差し指を僕に突きつけた。
「あたしは、あなたと、あなたの傍にいる小さな女の子を見つけました。そして、腰を抜かすほど驚いたのです」
 彼女は、神妙な顔つきで、
「だってあの子――家の近所の女の子で、二ヶ月前に亡くなってるんですから」

 世界でもっとも有名な黄泉帰りは、イエス・キリストの復活だろう。
 イエスはローマ兵により十字架にはりつけられた。そして、槍でわき腹を刺され、 血が流れたという。
 イエスは死んだ。
 その三日後、彼は復活をとげたとされる。
 復活により、神の子であることを明らかにした、とも。
 つまり。
 一度死んで、生き返るのは神の子の証でもあるのだった。
 
          □□□

   Scene6・疑心

          □□□

「亡くなった……?」
「ええ。亡くなりました。病気でした。残念な事です……」
 そんな馬鹿なッ。
 僕は大声で怒鳴りたくなった気持ちを、無理やりに押し込んだ。ただ、目に力が入る。矢島さんはそんな僕の様子を痛ましそうに見て、それからぽつりと話を続ける。
「あたし、それでびっくりして。どういう事だろうって、二人の後をつけたんです。二人が別れた後、本当は彼女のほうを追いかけるべきだったんでしょうけど……。あたし、幽霊だったらどうしようって本当に怖くて……っ。それで、社先輩に話しを聞いてみようって思ったんです」
「……その女の子だって、間違いはないの?」
「ええ。大島楓(おおしまかえで)ちゃん。間違いないです。あたし、結構仲が良くて、一緒にカルタをしたりもしてたんですよ? でも……」
「でも?」
「いえ。でも、っていうのはおかしいかも。えっと、彼女、死んじゃったんですけど、遺体は消えちゃったんです」
「え――?」
「亡くなって、その晩に。あたしの近所じゃちょっとしたミステリーだったんですよ?」
「…………」
 わけがわからなかった。
 彼女が言う言葉を信じるなら、九子は、あの浮世離れしたような不思議な少女は、いったい何者だというのだ。
「ねえ、怖い話、ですよね?」
 矢島さんは、不安そうな顔で小首をかしげた。眼はうっすらと潤んでいる。
 僕は脳を覚醒させようと、コーヒーに口をつけた。底に砂糖が溜まっていて、それが、ザロッと口に飛び込んできた。

          □□□

 矢島さんと連絡先を交換して、僕は一人歩いていた。歩けば思考がまとまるというけれど、上手くまとまらない。
 何を信じていいか、もうまるっきり分からなかった。
 矢島流無。
 彼女が嘘をついている可能性は、いったいどれくらいあるのだろう。
多分……それは、限りなくゼロに近い。
 彼女のパーソナルを考えても、立場を考えても、嘘をつく理由なんてどこにも見当たらない。あの驚きや話しぶりが、嘘だなんて思えなかった。
 九子。
 不思議な夜に出会った、自転車泥棒の少女。
 思えば、九子は最初からどこかおかしい。彼女との出会いだって、明らかな異常事態だ。気がついた時、僕は何故か外にいて、彼女に揺り起こされたのだから。
 彼女はいったい、何者なんだ。
 ガンガンガンと、頭が音を立てる。ひび割れて壊れそうなほど、僕の頭は稼動し続けた。けれど、答えなんて出ない。出るわけが無い。
 まだ、足りない。
 何もかも、足りないのだ。
 彼女を信じる根拠や証拠が。
 彼女を信じる思いや信頼が。
 悪い子だとは思わない。むしろ、良い子だと思う。
 けれど、それだけだ。
 僕は、彼女の事など何も知らない。名乗った名前だって、嘘、だったのかもしれない。
 大島楓。
 さっき聞いたばかりの名を、僕は頭に思い浮かべる。
 どちらが彼女にぴたりとはまるのか、僕にはまったく分からなかった。

          □□□

 家に帰ると、また門の前に少女が居た。けれど人影は、ニット帽の女子中学生ではない。彼女よりもっとずっと背が低くて、金髪のまっすぐな髪を腰まで伸ばした少女だった。
 彼女が、不意にこちらを向く。
 微かに大きくなる、眠気眼。
 それは、今日もなんら変わらぬ、緑のジャンパーコートを羽織った九子だった。
 足が止まる。
 けれど、僕が止まったところで彼女は近づいてくる。からからと、いつもと同じ自転車を手で押しながら、彼女は近づいてくる。
「……来るな」
 僕の口をついたのは、そんな拒絶の言葉だった。
 ぴたり。
 九子の小さな足取りが、止まる。
「……どうしたの、社?」
 そして、小首を傾げる。意味が分からない。そんな表情だ。実際、意味が分からないのだろう。
 だから。
 僕は、その理由を叩きつける。
「今日、……ある人に会って、話を聞いた」
「?」
「大島楓、という少女が、二か月前に死んでいるという話だ」
「――っ」
 九子は、口を小さく広げ、大きく大きく目を見開いた。
「……誰に聞いたの? ううん。そうじゃない。そうじゃなくて……。わたしは、わたしは……っ」
 眠気は吹き飛んでしまったらしい。彼女は初めてその顔に、動揺の色を浮かべて捲し立てた。
 僕はそれを聞きながら、次の一手を思考する。
 大丈夫。
 九子は小さな女の子だ。いざとなれば、力で押さえつけることだって出来る。それに、今は夕方の高級住宅街だ。人通りはないが、家の中には誰かしら人が居る。
「九子。教えてくれ。君は、一体何者なんだ?」
 僕は、もう何度繰り返したか分からない質問を、放った。
 九子は、僕の眼を真っ直ぐと見つめて、やがて観念したのだろう。顔を少し伏せて喋りはじめた。
「……わたしは……、九子。でも、身体は違う。大島楓って、女の子……」
「やっぱり」
「……社には言えなかったけど、わたしにも力があるの」
「力?」
「……うん。精神を、移す力」
「まさか……。その力で、大島楓の遺体を乗っ取っている、とか?」
 九子は、こくりと頷いた。肯定、であるらしい。
「……たまたま、死んですぐの彼女を見つけたの。空っぽの身体なんて、滅多にないから」
「――っ。なんだよ、ソレ!」
 弾けるような感覚がした。
 何が、かは分からない。けれど、弾けるような感覚が。
「お前、気持ち悪くないのかよっ。死んだ女の子の身体に入って、動いて、気持ち悪くないのかよ! 申し訳ないとか、思わないのか!?」
「…………さぁ?」
 愕然とした。
 九子は、可愛らしく小首を傾げながら、つまらなそうに「さぁ?」と言った。
 それだけで、僕には十分だった。
 こいつは、この女は、信じるに値しない。
 僕は無言で彼女に背を向けて、
「……待って!」
 走り出した。

          □□□

 心臓が痛い。
 はぁ、はぁ、と荒い息を繰り返しながら、それでも僕は足を止めなかった。
 自分が何を思っているのかも分からぬまま、僕はひたすらに走り続ける。苦しくったって、走っている間なら忘れられる。僕はただ、走る事だけを、痛む胸と足だけを、考えていられる。
 けれど、体力には限界があるものだ。
 僕はオイルが切れたブリキ人形のように、ぴたと動作を停止した。その場にうずくまって、呼吸を整える。
 それが落ち着くと、やっぱり九子の事を考えてしまった。
 不思議な少女。
 けれど、優しい少女。
 なぜ、僕は彼女をそんな風に思っていたのだろう。人の死すら。人の遺体にすら。敬意を払わないというのにッ。
 不意に。
 僕の腹の中にとてつもない怒りが湧いてきた。
 今まで抱いていた、恐怖や戸惑いなんかを吹き飛ばすほど、煮えたぎるような怒りだった。
 母さんが病気で亡くなった時、亡骸は丁寧に弔われた。
 それで母さんは天国に行ったのだと、上手に飲み込む事が出来た。綺麗な花に囲まれ、大好きだった本に囲まれ、火葬場に運ばれていった母さん。
 骨になった彼女を掴みながら、僕は涙を流し、母さんは死んだのだと実感した。
 綺麗に整えられた遺体は、まるで生きているようだったから。
 死んだなんて、心の片隅では信じていなかったのだ。

 おそらく――大島楓の両親は、そうじゃない。
 娘が死んで、遺体が消えて、一体どれほど心を痛めていることだろう。
 もし。
 もしも、大島楓の両親が、町中で九子を見かけでもしたら――。
 背筋が、凍りついた。彼らは、九子にすがりついて泣き喚くのだろう。けれど、そこに娘の意識はない。
 きっと、娘に良く似た別人だ。そんな風に結論づけて、九子と少しだけかみ合わない会話をして、子供のいなくなった寂しい我が家に帰っていくのだ。
「……くそ」
 呟いた。
 呟いて、僕はやっと、自分の感情を理解した。
 九子に抱いた、この言いようのない怒りは――
 失望と、そう呼ぶのだと。

          □□□

 日が落ちるまで、考え事をしながら町なかを歩き回った。恐る恐る家に戻ると、門の前に人影はもう居なかった。
 胸をなで下ろす。
 鍵を開けて家に入り、しっかりと鍵をかけ直してから、僕はようやくほっと息をついた。
 玄関口に座り込む。
 それから携帯電話を取り出して、アドレス帳から『矢島流無』を選択した。
『もーしもーし。どなたです?』
 すぐに、電話口に明るい声が響く。名前を名乗ると、『わあ、社先輩から初電話ですね?』と、どこか弾んだ声が返ってきた。
『ええっと、それで御用はなんですか?』
「ああ……えっと、実はあれから、九子――例の、大島楓に会ってさ」
『! ホントですか!? それで、先輩、どうしたんです?』
「うん……。えっと、聞いてみたんだ。『君は一体何者なんだ?』って」
『おおぅ。それはなんだかサスペンスな展開ですっ。それでそれで、どうでしたか?』
「……体は、やっぱり大島楓のモノだった」
『う。そうなんですか。じゃ、じゃあやっぱり幽霊……?』
 にわかに、矢島さんの声が震えだした。
 そう言えば、さきほども幽霊だったらどうしよう、なんて言っていたし、ひょっとしたら苦手なのかもしれない。
「いや、そうじゃないらしい」
 僕は、なるたけ優しくそう言った。気遣いか伝わったのか、矢島さんは幾分緊張が和らいだようだ。
「ほっ」と、息を飲む気配が伝わってきた。数秒間を開けて、僕は続ける。
 
「彼女は……君たちと同じような能力の使い手で、『精神を移す力』があるらしい」

「ガシャン」と携帯電話を取り落したような音が飛び込んできた。
 すぐさま、拾い上げられて、『御免なさい、落としました』と謝罪が聞こえた。
「どうしたの?」
 その段階でも、僕はのんびりとしたものだった。
 家に居るという安心感。それが僕の心を大きく安らがせていた。
 だが。

『えっと……。社先輩、落ち着いて聞いてくださいよ?』

 次に飛び込んできた、彼女のあまりに緊迫した声のトーンに、僕は身を引き締めずにいられなかった。身体の筋肉が全部、硬直でもしたような感覚。つばを飲み込む。ごくりっと、喉の奥が音を立てる。
 そして、彼女は再び、口を開く。
『あたし……その能力を持った人を知っています。……ううん。人っていうのは、正しくないかも

『社先輩。彼女は――おそらく、闇人です』

「え?」
『聞いたことがあるんです。精神を移す。その能力を持った闇人の事。それは、あたし達が昨日闘っていたような雑魚じゃない。特殊な力を持った、使い方によっては、世界を揺るがすような怪物。けれど身体はなくて、その形状は霧のようだ、と』
「……えっ……と」
『闇人の形は、色々種類があるらしいのですよ? 社先輩が昨晩見たのは、巨人タイプと呼ばれる闇人です。力は強いけれど、知性はない……。今あたしが言った霧というのも、タイプの一つ。霧状タイプと呼ばれて、力は弱いけれど特殊な能力を持っている、と言われています』
「……九子の正体が、それだって?」
『……おそらく』
 呆然とする僕の耳に、続けて矢島さんの声が聞こえてきた。
『えっと、機関の人に聞けば、詳しい事が分かると思います……。ていうか、もし闇人なら、あたし達が対処します。危険ですから、社先輩はもう、彼女に近づかないでください。……あぅ。ていうか、こんな情報を知っていたなら、楓ちゃんの幽霊が出たなんて騒がずに、すぐに真相に気づくべきでしたよね……。あたし、怪談話とか苦手で……そのくせ惹かれちゃったりもして……。えっと、ごめんなさいです』
「……なんで謝るの?」
 僕がぽつりと呟くと、
『だって、先輩……。良く分からないけれど、傷ついてしまったみたい、だから。酷な事をしてしまいました。……九子ちゃんって娘と、仲、良かったんですよね?』
 そうなのだろうか。
 ワカラナイ。
『本当に、すいませんでした』
 最後にも一度、謝罪が聞こえて、携帯電話は音を立ててぷつんと途切れた。


 死にたい気分だった。
 本音を言えば、僕は月に何度かこんな気分になる。
 理由は、あったりなかったり。
 けれど、定期的に死にたくなる僕は、結局この気分もいつか過ぎて、またぬるい生を享受して、そのうちまた死にたくなるのだと理解している。
 予定調和だ。
 もっと直接的で、あまり品のない言い方をするなら、僕にとってコレは生理現象の一つである。
 手首を切ってみたり。
 高い所から飛び降りてみたり。
 想像の中だけなら、僕は幾千も自分を殺してきた。

 きっと、今日の気分もその中の一つだ。
 何でもない、その中の一つだ。

          □□□

   Scene7・足音

          □□□

 ――社、どうした? なんか元気なくね?
「大丈夫だよ」
 ――眠れなかったとか?
「それもある……かも」
 昨晩は考え事をしていたし、窓からこつこつと石が当たる音もしていた。多分、九子が投げていたのだと思う。その音を意識しまい意識しまいと意識してしまい、眠れなかったのである。僕が眠りについたのは結局、窓ガラスが静かになった三時半過ぎだった。
 そして朝。
 一人歩く通学路で、こっそり脳内と会話をしていた。誰かと話すと気が紛れるというが、それはコイツのような妙な存在でも可能らしい。
 ――大丈夫ってもねぇ。なーんか朝から妙というか……。
「そんなつもりはないけど。それよりさ、何か面白い話とかない?」
 ――うわっ、そういうの気軽に言いますけどね、無茶ぶり以外の何物でもないですよ!
「ないんだ」
 ――いや待て、ある。あるって。えーと……。そうだ、昨日見た朝のニュース番組でだな……。
「一緒に見たってば」
 僕達は、ぽつりぽつりと話ながら、学校へと到着した。
 クラスに入ると、状況はいつも通り。クラスの大半は見て見ぬふりで平然と会話に戻り、例の三人組だけがニヤニヤとした笑顔で僕を囲んで来た。
「よお、社ォ」
 言いながら、ぐりぐりと右足を踏んづけてくる。
 ――宮内の脅しも、効果ナシね……。
 そりゃそうだ。
 女子の脅しに、コイツらが心底屈するわけがない。屈されても困る。僕の立場は、だって、今より悪くなるだろうから。
 女に守られて。
 誰からも無視をされるようになって。
 それは、とてつもなく惨めだった。

          □□□

 授業を受けながら、僕の頭は上の空だった。
 空虚。
 そんな二文字が浮かんでは消える。
 どうしてそんな事を思うのだろう。分からない。首を少しだけ後ろに回し、久瀬玲太の席を見た。
 結局……彼の自殺とは、なんだったのだろうか。
 その謎の答えを探しているハズだったのに、気が付けば他の謎ばかりが増えてしまっている。
 ワカラナイ。
 ワカラナイ。
 顔を伏せた。
 おでこを右腕に乗せて、目をつむる。色々な光景が、浮かんでは消えていく。
 まるで走馬灯のようだな、と、縁起でもない事を思う。
 けれど、なぜだろう。この映像を、この流れを、僕は最近どこかで見かけたような――。
 僕の瞼はだんだんと落ちていき、浅い眠りが――

「コラ、社。寝るんじゃない」
 名指しで怒られた。
 ハッと顔を上げると、古文の教師が苦い顔をしている。あわてて頭を下げると、「まったく、めずらしいな。まあ次からは気をつけなさい」と叱られた。
 しばし真面目にノートを取っていると、チャイムが鳴って放課後が訪れた。僕は鞄をもって、真っ先に教室から外にでた。学校に居場所なんてない。ただ、ここに残ったところで不快なだけだ。
 スタスタと校門に向かう。
 と、校門の前に、見覚えのある人影があった。薄いピンクのニット帽をかぶった、女子中学生である。宮内蘭花に用事だろうか?
「こんにちは」
 僕は、挨拶だけしてサッと通り過ぎる。
「ちょっ。ちょっ、社先輩! 華麗に通り過ぎないでくださいよっ」
 そうしようと思ったのだけれど、腕を掴まれてしまった。
 どうやら、用があるのは僕らしい。
「えっと、社先輩。時間大丈夫ですか?」
「……うん、あるけど。どうしたの?」
「はい。実は、あれから光機関に問い合わせの電話を入れたんですけど、どうも煮え切らないというか、怪しくて」
「怪しい? 怪しいって何が?」
「ええっと。どうやら九子ちゃんの件は、宮内先輩と――」
「あれ? マルム?」
 心臓が跳ね上がった。
 矢島さんも同じらしく、ひっくり返った声で「あ、う、み、みやみやみや、みにゃうち先輩、こ、こんにちは!」と挨拶をした。
 噂をすれば影。
 宮内蘭花が、声をかけてきたのだ。
 ……どこから聞かれた?
 僕の頭に浮かんだのは、その疑問だった。宮内蘭花。彼女が怪しいと言う話を、矢島さんは口にしかけていた。内容は分からない。けれど、もしもヤバい話だったなら――。
「えーと。マルムと社、知り合いだったの? ……てか、なんで腕とか組んでるわけ?」
 バッと。
 矢島さんの手が、腕から離れる。話に夢中で気が付かなかったが、どうやら掴まれたままだったらしい。
「あ、あの、これは。な、なんでもないです……」
「そうなんだ」
 宮内さんは、どことなく不機嫌な様子で僕らの顔を見比べる。それから、
「てっきり、付き合ってるのかと思った」
 真顔で言った。
 ブッと、矢島さんが吹き出し、「ないないないですよ」と、ぶんぶん手を横に振る。この娘がオーバーリアクションである事は理解しているが、それでもちょっと傷ついた。
「まいいや、それでさ、結局二人はなんの知り合いなの?」
「え? えーと……」
 矢島さんが、僕に視線を送ってきた。どうやら、助け舟を求めているらしい。
 これは、間髪入れずに答えを出さなければ――
「ぼ、盆栽仲間?」
「え? 盆栽? 盆栽ってあの、おじいちゃんとかがやる?」
「こ、こら、宮内先輩、趣味に差別や偏見は良くないですよ! 盆栽、すばらしいです。え、ええと、こう、木の枝が思い通りにクイッと曲がった時とか最高ですよ……ね!?」
「あ、うん。そうだよね、うん」
 バッと、顔をこちらに向けてきた矢島さんに、賛同を示す。ちなみに、彼女の顔は笑っているが目はまったく笑っていなかった。
「ふーん……。でも、変わった趣味だよね?」
「えっと、だからこそ、こうして知り合えたと言いますか」
 僕はしどろもどろになりつつも、挽回しようと口を開いた。宮内さんは、それで少しは納得してくれたらしい。「そっか」と頷くと、追求の手を引込めてくれた。
 けれど、彼女は不意に、
「ねえ、これからみんなでどこか行かない?」
 そんな言葉を、何気なく吐いた。

          □□□

 宮内蘭花の誘いに、矢島さんが間髪入れずに承諾した。
 僕が唖然と口を開くと、彼女は横を向いてウインクをした。良く分からないが、黙って見ていろという事だろう。
 こうして、僕達は三人で出かけることになった。
 宮内さんが先導して、僕と矢島さんが並んで後ろを歩いた。彼女は、ポケットに手を突っ込んでもぞもぞと手を動かしていた。その手が止まったタイミングで、僕の携帯が振動する。
 開くと、『差出人・矢島流無』で、メールが届いていた。
 さらに開くと、『このまま、宮内先輩に探りを入れます。社先輩は、自然にしていてくださいよ?』
 僕は彼女と目を合わせて、こくんと小さく頷いておいた。それにしても、いやに携帯なれした子である。さすが現代中学生。
「ねえ先輩、どこに行くんです?」
「とりあえず、駅前に出てるところ。この辺、あそこらしか遊ぶとこないし」
「ああ、確かにそうですねー」
 和気あいあい。
 そんな表現しか思い浮かばないが、矢島さんの考えは黒い。ハズだ。多分。
「えーと、社、どこか行きたい所とかある?」
 急に、話がこちらにやって来た。
 僕は普段通りにしろと命じられた通り、
「とくにないけど」
 と答えておく。本当に、とくにない。見たい映画もないし、スポーツ系は不得意だし、カラオケなんてもっての他だ。考えてみれば、僕ほど、一緒に遊んで楽しくない存在もないだろう。
 案の定、宮内さんは少し困った顔をして、「んー」っと眉根を寄せた。
「あ、そうだ先輩。なら、駅前の『アイス&ソフト』に行きませんか? 今、冬の雪ウサギセールで、全品三十パーセントオフなんですよ」
「そうなの? てか、マルムは相変わらずアイス好きだねー」
「ふふ。あたしの身体は、たぶん氷で出来ています。氷の女と呼んでいただいても良いですよ?」
「いや、それ意味違うから」
 女の子二人は「「あはは」」と笑った。それから、宮内さんが僕を振り返って「社はそれで良い?」と訊ねてくる。
 断る理由は毛頭ない。僕は頷いた。
 こうして、僕達は駅前の『アイス&ソフト』にやって来た。
 話に聞いたセールの名前通り、店内は雪ウサギの飾り付けで溢れている。それに混じって、クリスマスの飾りも混在しているものだから、がちゃがちゃと喧しい感じがする。冬という統一感はあるから、楽しげだけれども。
「えっと、このレモンシャーベットと、それからハッピーラビットとで。あ、上に乗せるソフトクリームは、特大でお願いしますっ!」
 矢島さんが、店員に注文を告げる。
 僕や宮内さんのような一般が、冬に大量のアイスを摂取できるわけもなく、それぞれ「コーヒー味」と「ストロベリー味」を注文した。
 受け取った商品を持って、窓際の席に腰を下ろす。店内は、閑散としていた。やはり、冬にわざわざアイスを食う人は稀有なのだ。
「あ、社はやっぱコーヒーなんだ」
 席につくと、宮内さんがそう言った。首をひねると、
「ほら、社って小さい頃から好きだったじゃん、コーヒー」
「ああ、そうだっけ」
「小学生でコーヒー飲んで、しかもそれについて語っちゃうんだから笑ったなー。しかも、よくよく聞くと砂糖とミルク、たっぷり入れているという。語るならやっぱブラックでしょ」
 口元を押さえて、宮内さんがくくっと笑う。
「あれ? 先輩たちって、小学生から知り合いなんですか?」
 と、矢島さんが不思議そうな声を上げた。
「うん、まあねー。……小さい頃はさ、私達、割と仲良かったよね」
「え? 今は仲良くないですか?」
 無邪気な一言。
 けれど、宮内さんは答えられず、ただ俯いた。心なし、彼女の瞳は瞳孔が開いている気がした。僕も答えようがなく、目を伏せる。素直に答えるなら「仲良くない」だけれども、本人を前にしてそう答えるのは憚れる。
 重苦しい空気。
 それに耐えきれず、僕は席を立った。
「ちょっとトイレ」
「あ、うん」

          □□□

 トイレから出て席を見ると、二人は何かぽつぽつと話をしているようだった。しかし、僕が席に戻ると、宮内さんと矢島さんは、ハッとした顔をして、唐突に口を閉ざす。
 何か、僕に聞かれてはいけないマズイ話をしていたのだろうか、と一瞬ムッとした。
「え、ぇぇと」
 矢島さんが口を開く。
 飛び出したのは、唐突な言葉だった。
「そ、そうだ。お二人は、久瀬先輩とも同じクラスなんですよね?」
「うん、そうだよ……」
「久瀬先輩……本当に、残念でしたよね」
 ……もしかして、この下りが探りだろうか?
 僕は自分の冷や汗を背中に感じながら、彼女に援護射撃を撃たねばならないと口を開く。とりあえず、自分が知っていることをそれとなく伝えて、宮内さんに話しても良い事だと思わせなくては……。
「えーと、矢島さん達は、なにかサークルに入ってたんだよね?」
 僕が言葉を吐くと、宮内さんは「え?」という顔を矢島さんに向けた。彼女は、「ええと、そうですよ。久瀬先輩と宮内先輩と、同じサークルです」と答えにならない答えを言って、アイスを三口立て続けに含んだ。
 それから、
「えーと、久瀬先輩、どんな方でした? あたし、サークルは入ったばっかりだったから、あまり知らないんですよね」
 と口にした。
 宮内さんは、それを受けて、眉根を潜める。それから、ぼそりと言った。
「……そうだね。良く分からない人、だったかな。いつも一人だし。無口だし。妙に頭が良いし。何を考えているのか、分からない感じだった」
「え? そうですか?」
「んー。そういえば、マルムとは良く話してたよね。私達には、そっちの方が不思議だったけど。ていうかサークルの中で、マルムが一番久瀬くんを知っていたと思うよ。仲良し、他に居ないから」
「……なんですか……」
「多分、初めての後輩だったから、嬉しかったんじゃないかな。マルムが来るまで、一番の下っ端は久瀬くんだったし」
「…………それにしても、無口?」
 矢島さんは、首をひねりながら掬ったソフトクリームを口に入れた。
 ……まどろっこしい。
 僕は、そんな二人のやり取りを眺めながら、心中でそう呟いた。
 もっと、ズバッと聞いてしまえばいい。
 そうすれば、何もかもが一瞬で分かるはず。
 まだ、宮内先輩が怪しいと言った、矢島さんの本位は分からない。けれど、この話の流れから、それはどうやら『久瀬玲太』に関する事であるらしい。
 ならば必然。
 その問題は、彼の死に繋がるはず――。
「ねえ、宮内さん、矢島さん」
 僕は便宜上、矢島さんの名前も呼びかけに含めた。瞳も、二人を交互に移す。
 けれど、答えを知りたいのは一人だ。
 たった一人、宮内蘭花だ。

「久瀬玲太は、どうして死んだのかな?」

 僕が放った一言に、今。
 時が、止まる。

 宮内蘭花は、大きく目を見開いた。
 矢島流無は、ぐっと息を飲んだ。
 僕は、ただ真っ直ぐに前だけを見ていた。
 知りたい答え。
 知りたい真実。
 九子が残した言葉に、僕は心の中で思いをめぐらす。
『久瀬玲太は、自殺じゃない』
 ならば、それは――

          □□□

   Scene8・欠片

          □□□

「……どうして、死んだって……」
 口を開いたのは、やはり宮内蘭花だった。僕は彼女を見つめ、その瞳を、その喉を、観察する。
 動揺は身体に出る。
 それを見逃さないように。それを見過ごさないように。
「久瀬くんは、自殺でしょ? 警察がそう言っていたじゃない」
「そうだね」
 僕が相槌をうつと、宮内さんは心なし、肩から力が抜けたようだった。よくよく観察してみれば、表情も確かに緩んでいる。息を吐ききったタイミングで、僕はするどく言い放つ。
「でも僕、そこに対して疑問を出していないんだけど」
「え?」
「理由だよ。自殺の理由を聞いたつもりだったんだ。ねえ、どうして自殺だって事を疑ったの?」
「――っ」
 瞳がわずかに見開く。口が小さく半開く。
 あきらかな、動揺。
 けれど、それは一瞬で消えて、いつもの引き締まった表情へと戻る。タイムラグが三秒。彼女は慎重に答えを選んでいる。けれど不自然に見えないように、苦心している。
「ごめんね。昨日、サスペンスのドラマを見たの。それが、自殺に見せかけた殺人だったから、なんとなく」
「……そう」
 上手く逃げられた。そんな気がする。
 でも、そんな気がするということは、彼女はやはり、何かを隠しているという事……。
「久瀬先輩は、自殺なんてしませんよ」
「「え?」」
 不意に、矢島さんが言った。
 僕も宮内さんも、彼女を見つめる。すると、
「だって久瀬先輩、あの日の何日か前に、週末のテレビが楽しみだって言ったんですよ? アニメ映画のテレビ初放映で、オリジナルカットも入るから見逃せないって」
「……そうなの?」
「ええッ」
 矢島さんは、ドヤ顔で力強く頷いた。ちらりと宮内さんを横目で伺うと、引きつった顔をしていた。
 沈黙。
 沈黙が、降りる。
 そんな中。パンっと宮内さんが手を叩いた。
「この話は、お終い!」
 え? と顔を向けると、困ったような顔で、「だって死んだ人の気持ちなんて分からないし。こんなの話しても、暗くなるだけじゃん?」
「そんな……。宮内先輩、そんな言い方って……」
「マルムの気持ちは分かるよ? 久瀬と仲良かったし、告白までされたんだもんね。自殺したって、信じたくないよね。でも、人間って不思議なものなんだよ」
「告白?」
 小さく呟いて矢島さんを眼やると、彼女は顔を伏せていた。
「絶対死なないとか、そういうのないの。いつ死ぬか分からないし。誰が死ぬかもわからない。全然平気に見えたって、腹の中に抱えてるものは、外から見えないんだよ。……気付いたときには、全部手遅れ。そんなのが多いんだから……」
 宮内蘭花が言葉を続ける。
 それは、どこか。
 後悔のような響きをもった、悲しい声音だった。

          □□□

『アイス&ソフト』の店内から出ると、外はもう真っ暗だった。
 冬の、冷たい風が突き刺さる。アイスで冷えた体に、堪える寒さだった。宮内さんは、オレンジ色のマフラーを巻きなおして、矢島さんは、薄いピンクのニット帽を深くかぶり直す。
「じゃあ私、こっちだから。またね、マルム、社」
 店先で、宮内さんが軽く手を振って別れていく。表情はいつもの優等生的な笑顔だった。二人残された僕たちは、ゆっくりと歩き始める。
「……ねえ」
「あ、はい。なんですか、社先輩?」
「えっとさ、色々聞きたい事があるんだけど、とりあえず。宮内さんが怪しいって話の続きは――」
「ああ!」
 僕が言い切る前に、矢島さんがぽんと手をうった。
「えっと、えーと。そうそう、九子ちゃんの件、どうやら担当は、宮内先輩と久瀬先輩だったらしいんですよ」
「……そうなの?」
「はい。久瀬先輩がなくなるまで、あたしはサブで、宮内先輩と組んでいたのが、久瀬先輩だったんです。光機関の任務は、基本二人一組なので」
「九子ちゃんの件ってことは、彼女はやっぱり?」
「あ。九子ちゃんの件って言い方は、ただしくないかも。正確には、この間話した霧状タイプの闇人って事になっています。『精神を移す、霧状タイプの闇人の討伐』。それが、お二人の任務だったようなんですけど……。その任務がどうなったか、資料がないんですよ。訊ねても、妙に態度がよそよそしいといいますか……」
 矢島さんは、人差し指を顎に当てて、悩ましげな表情を浮かべる。
「なんだか、おかしいです。きっと、何かあります」
 彼女は人差し指を離して、グッと拳を握りしめた。
「色々調べてくれて、ありがとう」
「いえいえ。……本当は、あたしも気になってましたし」
「え?」
「久瀬先輩が死んで……。これでも、すっごく落ち込んだんですよ? 今は、ようやく立ち直りかけた所だから……。このタイミングで社先輩と会えて、良かったです」
「そっか……」
 会えて良かった。
 ラブロマンスのようなニュアンスではないけれど、それは生きていたことを肯定されたようで、言いようのない暖かさを感じた。軽く頬をかきながら、
「えっと、最後に一つ、質問良い?」
「もちろんですよ?」
 僕は矢島さんの眼を見て、興味本位で訊ねた。
「告白って何の話?」
「うっ」
 矢島さんは仰け反った。
 それから、照れのような、戸惑いのような、複雑な感情を浮かべる。
 そのまましばらく、口をもごもごと動かしていたが、やがて言葉を決めたのか、意気揚々と口を開いた。
「えっとですね、あれは、おそらく間違いなんですよ!」
「……間違い?」
「はい。だって、文面がちょっとおかしいですし……。はう。でも、機関のみんなに見られちゃったんですよねー。持ち物検査だ、とか言って。くぅ。恥ずかしいったら、です」
「………………それ、僕にも見せてくれない?」
「え?」
「いや、なんか、ちょっと、……気になるんだ」

          □□□

「んー。見たって面白くないと思いますけどねー」
 ぶつぶつ文句を言う矢島さんと、並んで彼女の家に向かう。
 件の告白はラブレターで、家に保管してあるらしい。
「良いから良いから」
「……むー」
「ほら、今度ソフトクリームおごってあげるからさ、ね?」
「にゃに!? ホントですよね! 約束ですらかね!」
 渋るのでモノで釣ってみた。
 ら、勢いよく引っかかってくれた。……にしても「にゃに!?」って……。
「ねえところで矢島さん」
「はい?」
「光機関って結局どんな組織なの?」
「あー。それは言えませんね。さすがに」
 テンションが高いので、口を割ってくれるかもと思ったが、やはり無理だった。出会った時にもしゃべりすぎるとやばいと笑いながら言っていたが……。果たして、どこまで本当なのかも分からない。
 ならば、と、僕は搦め手を考える。
「……じゃあさ、矢島さんが闘ってる理由って何なのかな?」
「え?」
「だってさ、中学生であんな怪物と闘うんだよ。やっぱ理由とかあるのかなって」
「あー。なるほど。……んー。でも、あたしの場合は、すごくしょぼいかも?」
「しょぼい?」
「はい。えっと、社先輩は見ましたよね? あの、光を出す力」
「うん」
「あれを持っている人間って、本当に限られているんですよ。特殊な事例以外では、幼少期までに発生しなかったら、以後は絶対に目覚めたりしないらしいですし……。あ、そういうわけですので社先輩はほぼ絶対、光機関に入れませんー。残念!」
「…………別に入りたくもないけど」
「ぐはッ」
 胸を押さえて、マルムが軽く背を曲げる。
「そうですよね……。入会特典とかありませんですし……。組織の中の人ってみんなどこかきな臭いですし……。睡眠時間だって削られまくりだし……。いやでも良い事だってあるんですよ……。ええっと。治癒能力を持っている方が居るので、病院に行かなくても怪我や病気を直してもらえたり……」
 ぶつぶつぶつと、呪詛のようにこう言った。
 待つこと数分。彼女は、「落ち込み終わり! 会話再開!」と元気に飛び上がった。相変わらずリアクションの大きな娘である。
「えーと、まあとにかくそんな訳でして。力を持って生まれてきちゃったわけです。流無さんは」
「うん」
 僕の相槌に、勢い欲矢島さんは答える。
「それでですねー。持ってるからには、闘わなくちゃと思ったのです」
「……それだけ?」
「馬鹿にされた! しょぼいと前ふりしたのに、馬鹿にされた!」
 矢島さんは、その場で軽くしゃがみこんで、頭を抱えた。
 そして、
「……でも、本当にそうなんです……。だって、誰かがやらなくちゃいけない事だから。それが出来るって分かったら、やるしかないって思ったんです。家族とか、友達とか、大事な人を守れる力が、あたしには『あった』んですから……」
 彼女は小さく、けれどハッキリと、そう呟いた。

          □□□

「闘う理由と言えば、久瀬先輩と話した事がありましたねー」
 立ち上がった後、矢島さんはそんな話を切り出した。
 久瀬玲太の、闘う理由。
 気になった僕は、彼女に続きをうながした。
「はい。えーと、……確か、カッコいいから、でしたね」
 返ってきたのは、意外な答えだった。『え? そうなの?』と、思わず返してしまうぐらい、僕にとっては意外な言葉だ。
「久瀬先輩、少年漫画が大好きでしたからねー。しかもこう、ぎったんばっこんと闘うやつが、特に」
「そうなんだ」
 全然、知らなかった。
 そう言えば、彼女の話の中の久瀬玲太には、そんなイメージがあった気がする。
 僕や、たぶん宮内蘭花にとっての久瀬玲太は、無口で無感情で、とにかくそんな、『良く分からない』人物なのだけれど……。
「街を守るヒーローになりたかったそうですよ? いや、これまた正しくないかも……。多分、久瀬先輩は、少年漫画の主人公、そのものになりたかったんでしょうね……」
「主人公?」
「はい。自分の信念を持って、守りたいものを守って。邪悪な怪物や強大な組織にも怯えない。何よりも、まっすぐに――強く強く、ありたかったんですよ」
 誰の話だ。
 僕は、矢島さんの話を聞きながら、そんな言葉を思い浮かべた。
 もし、そうなら。
 矢島流無が語る、久瀬玲太が彼の本当の姿なら。
 ……それは、僕の鏡というにはあまりにかけ離れた存在だった。いや、きっと、この世界の誰に合わせてみたところで、あまりにかけ離れた存在だろう。
 そんな思考の人間が。
 そんな行動の人間が。
 本当に居るとは思えなかった。
「…………」
 何故だろう。ざわついた。心が少し、ざわついた。それを誤魔化すように、重ねて何気なく質問を放つ。
「えっとさ、じゃあ、宮内さんは?」
「え? ……えーと」
 彼女は、口ごもってから。
「両親を、闇人に殺されたって……そう、聞きました」
「え――?」
 息を飲む。闇人に、両親を殺された? ……そういえば彼女の両親を見たことがない。
「ああでも、これ以上詳しい話は知らないので……ひょっとしたらデマかもです。ごめんなさい」
 もっと話を聞きたかったが、先手を打たれてしまった。僕はもやっとした気持ちを抱えたまま、歩き続けた。

          □□□

 矢島さんの家は、何の変哲もない小さな一軒家だった。クローンハウスが、両隣に二軒ずつ立っている。酔っぱらって間違えて帰ってしまうお父さんとか居るのかな、と、なんとなく思った。
「ちょっと待っていてくださいね?」
 彼女はそう言って、家の中に消えた。そして、数分ですぐに戻ってくる。
「ほら、これですよ」
 それは、何の変哲もない白い封筒だった。
 手渡されたそれから、便箋を取り出して広げてみる。文面が飛び込んできた。
『 マルムへ。
  いきなり、こんな手紙を送って悪いな。
  突然だけど、俺は君が好きだ。
  二人で見た、あの日の花火が忘れられない。
  もし良かったら、付き合ってほしい。   久瀬玲太。 』
 綺麗な文字だった。
 手紙の文面は力強く、迷いなど一つもないように見える。
 まだまだ、便箋には余白が下に山ほどあるのに、簡潔な文面が男らしい。これもまた……僕が感じていた久瀬玲太とは、違和感を感じるモノだけれど。
「……えーと、なんかごめんね? ありがとう」
 僕は手紙をたたんで、矢島さんに戻した。
「え? なんで謝るんですか?」
「いやだって、全然怪しい所とかないじゃん……。てっきり、何か秘密が隠されているの
かと」
「あ。そーいう事だったんですか。急にラブレターが見たいとか、どうしたんだろうって思いましたよ」
 からからと矢島さんが快活そうに笑う。どうやら彼女はとくに不快感を抱いてはいないらしい。しかし、勝手にラブレターを読んだことで、久瀬に悪いことをしたと済まない気持ちが沸き上がってきた。とはいえもちろん、どうしようもない。
「うん……。ごめんね。僕の検討違いだったみたいだ」
「でも、怪しい所は、ありますよ?」
「え?」
 言われて、もう一度文面を見返してみる。
 やはり、怪しい部分など一つも見当たらない。
「んー。社先輩は分かりませんよ? ほら、ここに二人で花火を見たって書いてあるでし
ょう? あたしと久瀬先輩、一緒に花火なんて見たことないんですよ」
 見たことが、ない?
 こんな簡潔な文面の手紙に、わざわざ一つだけエピソードを書いておいて……? そんな事が、ありえるのだろうか?
 もし、あり得るとしたら――。
「あッ!」
「ひゃぅ? どうしたんですか、社先輩?」
「ごめん、ちょっと、ガスコンロ貸してもらえる?」
「え? 良いですけど……」
 お邪魔しますと、矢島さんの家に上がった。彼女の案内で、キッチンへと向かう。
 花火を見たか見ないか。
 それは、二人にしか分からない。他の人間には違和感なく受け取られる。
 ならば、これはメッセージではないのか。
 それならば――。
「えっと、どうぞ、です」
 ガスコンロに火をつける。ボワッと、青い焔が炎上に現れた。僕はその火に、つかず離れずで手紙をあてていく。
 証拠なんてない。
 けれど、メッセージが花『火』ならば、もしかして――
「え? う、嘘……っ」
「やっぱり……」
 矢島さんが驚きの声を上げる中、僕は一人頷いていた。
 あぶり出し。
 古典的な、秘密のメッセージのやり取り方法。久瀬玲太は、それを彼女に託していたのだ。ラブレターの便箋の、真っ白な下半分の部分に。
 文字が、浮かびあがってくる、
 文字以外の部分がうっすらと茶色くなり、その部分だけが白くなっていく。
 全ての文字が浮かび上がって――
「え――? そんな……。コレって……ッ」
 矢島流無が、悲痛な声を上げた。
 彼が残したその文面は、

『 マルムへ。
  メッセージに気づいてくれてサンキューな。これからする話は、すべて真実だ。
  俺は、近日中に殺される。光機関の手によってだ。
  理由は、俺の部屋にある。
  ベッドの裏に隠しスペースがある。探せばすぐに見つかるハズだ。
  こんな事を頼めるヤツが他に居ない。悪いけれど、頼む。   久瀬玲太。 』

 カチャンと、コンロの火を止める。
「こんな……。だって、こんな事って」
 その音に合わせるかのように、矢島さんの口からそんな声が漏れた。
 殺される。
 久瀬玲太は、自らの死を予感していた――。
「……光機関は、確かに戒律が厳しい所もありますけど……。本当に、みんな良い人で……。そんな、殺すだなんて……。だって! だって、これは正義の仕事だって! 闇人に襲われる一般人を救えるのは、君たちだけだって! だから……。あたし、だから……っ」
「矢島さん、落ち着いて」
「無理言わないでくださいよ!!」
 声を張り上げて、矢島さんはハッとした顔をする。しゅんと肩を小さくして、「……ごめんなさい」と小さく謝った。
「あたし、動揺、しているみたいです。はは。ざまぁない、ですよね……」
「そんなことないよ」
「……ありますよ。久瀬先輩が託してくれたメッセージだって、社先輩が居なかったら気づかないままでした。……思えば、久瀬先輩は、警戒していたんですね」
「警戒?」
「はい。多分……クラスでも無口だったっていうんなら、宮内先輩を含めて光機関を、丸ごと全部疑っていたんです。あたしは、久瀬先輩の後に入った新入りだったから、心を許してくれたんですね……」
「…………」
「あーあー。何やってんだろう、あたし。ずっと傍に居たのに、こんな事全然気づかなかった」
 さばさばした口調。
 けれどその口調と裏腹に、彼女の瞳からは涙があふれてきた。ぽろぽろと、とどまることなくそれは流れ続けて、ぽたぽたと床に落下していく。
「もし、もし、あたしが気付いていたら……。ひょっとしたら、久瀬先輩は――」
 僕は首を振った。
 矢島さんは、だからそれきり黙った。
 
          □□□

   Scene9・親

          □□□

 今日の夜中も、こつんこつんと石が当たる音が聞こえてきた気がする。疲れのせいが深い眠りにつけて、記憶は定かではなかった。
 気のせいかもしれないし。そうであって欲しいと思いながら僕は立ち上がる。
 ――なぁ社。何か疲れてないか?
「そんな事……。あるかも」
 ――あるのかよ。なんだ、言ってみろよー。言ってみろよー。
「ちょっと、複雑な問題がごちゃごちゃしているところなんだ。君には関係ないよ」
 ――ひどっ。
 頭の中と会話をしながら、出かけの準備をする。リビングで親父と顔を会わせて、そのまま二人で朝食を取った。ぽつりぽつりとだが確かに交わされる会話が嬉しく、少し疲れが安らいだ気がした。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 学校へと向かう。
 教室に入ると、宮内さんが探るような目つきで僕を見てきた。そして、不意に立ち上がって近づいてくる。
「社、おはよう」
「あ、うん」
「……最近、どうかした?」
「えっ? いや、何もないよ」
 動揺を見せないように、僕はなるたけ自然に眼を逸らした……つもりだ。そのまま、流れるように席に着く。
 授業は、終始上の空だった。昼休みには、パシリをさせられた。
 今日もいつも通りの一日が終わって、放課後が訪れる。
 僕は三人組に絡まれないうちに立ち上がって、廊下を競歩で歩いた。目的地は、職員室。ノックをして、学年クラス名前を言って、担任の先生を訊ねた。
「なんだ、社か。どうした?」
 僕が顔を出した途端、教師は苦い顔をする。コイツは、僕がイジメられている事に気づいている。気付いておきながら無視をしている。
 事なかれ主義。
 けれどまあ、僕は今回イジメの相談に来たわけじゃない。こんなヤツに相談して、たまるもんか。
「あの、先生、久瀬くんの住所を教えて戴けませんか?」
「は?」
「線香をあげに行きたいんです」
「お、おお。そうか」
 予期していためんどくさい案件と、あまりにかけ離れた要求が来たからだろうか、担任教師はあっさりと名簿を取り出して、住所をメモして僕にくれた。
 御礼を言って、職員室を出る。
 時計を見上げると、三時四二分だった。

          □□□

 早歩きで駅前のモニュメントまで行くと、すでに矢島流無がそこに居た。
 クリスマス仕様のきらびやかな飾りを彼女はぼんやりと眺めていたが、不意に辺りを見回すと、僕に気づいて手を振り上げた。
「あ、社先輩! 急ぎましょう」
「うん」
 僕達は、足早に移動を開始した。今回ばかりは、宮内蘭花に見つかるわけには行かない。隣を歩く矢島さんが、小首をかしげながら笑顔で訪ねてくる。
「住所、大丈夫でしたか?」
「うん。ほらこれ」
「……あ、東区ですね。良かった。駅からそんなに遠くないです」
 住所を片手に僕達は歩き、住宅街へとたどり着いた。古い家が並ぶ、長くこの土地に住んでいる人が多い場所だった。
「久瀬……久瀬……」
 ここまで来ると、住所は頼りにならない。僕達はそれぞれ左右の表札を確認しながら、ゆっくりと歩いて行った。
 そして、ようやく『久瀬』の表札を見つけた。ありふれた名字ではない。僕は期待を込めて、インターホンを押した。
『……はい。どなたですか?』
 覇気のない声が届く。僕は、
「あ。えっと、僕、玲太くんと同じクラスの者でして……。その――」
『まあ。玲太の?』
 僕の声を遮って、わずかに喜色の混じった声がした。
『……ちょっと待っててね』
 そして、ぷつんとインターホンが切れた。
 言われた通り数分待っていると玄関の扉が開いて、若い、けれどやつれた女性が出てきた。
「……さぁ、上がってください」

          □□□

 若いので、姉だろうかと思ったが、彼女は久瀬の母親らしい。
 驚いた。
 後ろで一つに束ねた黒髪も、引き締まった身体も、二十代としか思えない。
 服装も、カジュアルなワイシャツと茶色のシュッとしたパンツの組み合わせで、とても似合っている。
 ただ、まじまじと彼女を見てみると、化粧の下に心労を感じ取る事が出来た。
 顔色は青白く、目元には疲れが溜まっている気がする。

 僕達はリビングに通された。
「紅茶とコーヒー、どっちがいいかしら?」
「コーヒーでお願いします」
「あ、あたしは紅茶でっ」
 数分して、お盆に乗せられたクッキーと、コーヒーと、二つの紅茶がやって来た。
 カップは無地だが品の良いもので、受け皿もきちんとつけられていた。
 彼女はお茶を配って、僕達の対面に腰を下ろす。
「ええと、あなたが――」
「あ、社です」
「……そう、社くんね。ええと、」
「矢島流無ですっ。弓矢の矢に、島流しの島に、流れる無常と書いて、矢島流無ですっ」
「あら、もしかして、マルムちゃん?」
「わっわっ」
 矢島さんは、目を白黒とさせて、「久瀬先輩がなにか言っていましたか?」と訊ねた。
「ええ。サークルに、初めて後輩が入ったって。それからも、ちょくちょく話を聞いたわ……。おばさん、会えて嬉しいな」
「えへへ」
 久瀬の母親は、どこか愛おしそうな目で矢島さんを見つめた。まるで、娘を見るような瞳だと、なんとなく思った。
 僕はどことなく疎外感を感じながら、クッキーに手を伸ばす。
 さくっと軽いクッキーは、砕いた瞬間ふわりと溶けてしまう。とても美味しいクッキーだった。
「サークル、二年前ぐらいに入ったのよね。なんだか、幽霊を捕まえるサークルなのでしょう? 良く夜に出歩いて困ったものだわ」
「あ、え、はい」
「あなたは、そんなに遅くまでは残らないのかしら?」
「そ、そうですね。えっと、十時ぐらいまでとか……」
「……それでも、気をつけるのよ。危ないから」
 矢島さんは、なんとなく話を合わせているようだ。
 たぶん、彼女も分かっている。久瀬玲太も、光機関としての活動をサークルだと言い張っていたのだろう。それにしても……。
「止めろ、とは言わなかったんですね。……怪しげなサークルなのに」
「聞いたときは、思ったけれど……。わたしも、覚えがあったから」
 彼女は、目を細めた。昔を懐かしむようなその表情が、今の陰りを消し去って、少しだけ生き生きと綺麗に見えた。……本当に、少しだけ。
「こう見えておばさん、暴走族だったのよ」
「え?」
「夜中にみんなで集まって、騒いで……。警察に追われたり、男の暴走族とかち合ったり、危ない事もたくさんあったけど……やっぱり、いい思い出だって思うから。それに比べたら、我が息子ながら可愛らしいじゃない。幽霊を捕まえるだなんて」
 ふふっと、彼女は小さく笑った。
 僕はコーヒーを啜った。
 彼女の口調が、彼女の態度が、彼女の表情が。
 どれもこれも、ゆるやかな哀しみを伝えていた――。
 
          □□□

 僕達は線香を上げて、仏壇に手を合わせた後、部屋に上がらせてもらえないかとお願いをした。久瀬玲太の母親は、「いいですよ」と躊躇わずに返してくれた。
 彼女の案内で、一階の一番奥の部屋へと向かう。途中で、
「そうだ、良かったら、何か持って帰ってくれないかしら」
「え?」
「……いつまでも、あのままにはしておけないからね。処分するよりは、お友達に持っていてもらったほうが、あの子も嬉しいと思うの」
 
 通された部屋は、六畳ほどの一人部屋だった。久瀬玲太の母親は、僕達を通すとすぐに部屋から出て行ってしまった。……どうやら、この部屋をあまり見たくはないらしい。
 久瀬の部屋は、一言で言うと普通だった。
 薄い青系統でまとめられた、ベッドと机がある部屋。しかし――
「うわ。すごい量ですねー」
 唯一、本棚だけがオーソドックスから少しだけ外れていた。
 右壁一面に配置された本棚が、通常のそれよりはるかに大きく、しかもすべて漫画がつまっていたのだ。
 ほとんど少年漫画のようだが、隅に五冊だけピンクの背表紙の少女漫画があった。矢島さんがそれを目ざとく見つける。「あ。あたしがオススメしたやつだ……」と、少しだけ嬉しそうに、とても悲しそうに、ぽつりと呟いた。
「……探そうか」
「ですね」
 一通り久瀬の部屋を眺めて、僕達はベッドを調べにかかった。まずはかがんで中を確かめたが、怪しげな箱などは見当たらない。それどころか、物は一つも落ちていなかった。
「ということは……中に入って調べなければ、ですね」
「だね……。僕がやるよ」
さすがに矢島さんの服を汚すわけにはいかないので、率先して僕が潜る事にした。
 背中を床につけて、あおむけの姿勢のままベッド下に潜りこむ。予想通り埃っぽかった。しかし、誰かが最近入ったかのように、うっすらとしたものではあった。確信を強くしながら、僕は捜索を続ける。
舞い上がった埃が、鼻の粘膜を刺激する。気持ち悪い。
「社先輩、どうですかー?」
 口を開けると埃が入る。僕はコンコンと、ベッド裏を叩いて返事に変えた。
「え? 今のは良いんですか? 悪いんですか?」
 ベッドから出てこない事で察して欲しい。
 僕は若干彼女に呆れながら、捜索を続けた。
「?」
 すると、ベッド裏に怪しい部分を一か所見つけた。隙間から、何かの端のような部分が覗いている。
 引っ張ってみると、ずるずると、レポートが出てきた。
「!」
 僕は声を出すのをこらえて、レポートを片手にベッドから這い出た。蛍光灯の下で、まじまじとそのレポートを見る。表紙は白紙で、厚さは一センチほどもあった。左上が、ご丁寧に、紐でくくられている。印刷は黒インクの明朝体で、左下にはご丁寧にページ番号も書いてあった。
「あ、社先輩、お疲れ様です」
「うん」
 立ち上がって、埃を落とす。喉が若干気持ち悪かった。けれど、それ以外に問題はなさそうだった。
「はい」
「レポート、ですね」
 矢島さんに手渡す。これは、彼女に託されたものだ。見ないつもりは毛頭ないが、せめて開くのは彼女であるべきだと考えた。
「……結構厚いですし一度ココを出て、どこかに行きましょう」
「うん。どこに行く?」
「あ、じゃあ駅前の――」
「『アイス&ソフト』」
 僕が呆れ気味に言い放つと、彼女は得意そうにニヤリと笑った。

          □□□

 久瀬の母に丁寧に礼を述べて家を出た。またぜひ来て欲しいと彼女は言った。その様子がまるきり社交辞令に見えなくて、僕は返事に詰まる。矢島さんははいもちろんと間髪入れずに答えていた。
 二人で駅前の『アイス&ソフト』に移動する。
雪ウサギセールは、まだ続いていて、店内にはクリスマス飾りと一緒に白い雪ウサギが踊る。けれど、店内は相変わらず閑散としていた。
「えーと、ブルーベリー味と、スノーホワイト味! 上のソフトクリームは、特大でお願いします!」
「コーヒー味で」 
 ちなみに約束通り僕のおごりで、千円札が二枚も財布から消えた。
 店員さんがこの間と同じ人で、苦笑いをしながらレジを打って、注文通りのアイスを用意してくれる。アイスをそれぞれ受け取って、僕達は昨日と同じ席についた。昨日と違うのはアイスの種類と、宮内蘭花が居ない事。
 そういえば、矢島さんの趣味でここにやって来たわけだけれど、普通に考えて真冬に、こんな場所に二日連続来るやつなんて居ない。宮内さんに是が非でも会いたくない僕達にとって、この場所は丁度良い盲点かも知れなかった。
「……んー。おいしー」
 目の前で、矢島さんが実に幸せそうにソフトクリームを含む。緩みきった顔を眺めながら、緊張感がないなと思いつつ、僕もコーヒー味のアイスクリームを口にした。
「……なにが書いてあるんでしょうね」
 しかし、その一言で僕は思い直した。
 張り詰めた声には、レポートを見ることをためらうような、そんな響きが含まれていた。おそらく、彼女は怖いのだ。だから、アイスを食べる。何かを頑張るために、自分の活力としているのだ。
 まあ、違うだろうけれど。
「……わからない」
 ようやく答えながら、僕はまるで逆の事を思っていた。
 書かれていること?
 そんなものは決まっている。九子の事だ。宮内蘭花の事だ。
 それが分かるからこそ、僕は分からないと答えてしまう。
 答えをまだ知りたくないのは、僕も同じだった。
 コーヒー味のアイスを、もう一口。どうせ、食べ終わった後のんびりしたって、この店内の様子なら怒られることはないだろう。

「ごっちそうさまでしたー」
「おそまつさまでした」
 アイスを食べ終わり、僕達は手を合わせた。そして、学生鞄にしまっておいた、件のレポートを机に出す。。
「……開くよ」
「はい……」
 表紙を捲る。矢島さんの、ごくりと息を飲む音が耳に残った。

 この記録は、ありのまま書いている。
 つまり、出来るだけ正確に、という事だ。このレポートを通して、マルムが(ひょっとしたらそれ以外の人が読むかもしれないが……)、少しでも彼女の事を分かってくれると嬉しい。
 そして、叶う事なら……。

 いや、それはやめておこう。とにかく、このレポートに嘘はない。それだけは信じて欲しい。
 俺は、死にたくない。
 けれど、君がこのレポートを読む頃には、俺は死んでいるのだろう。まさか、現実でこんな言葉を使うとは思わなかったよ。
 まあ前置きは、ここまでだ。
 とにかく、俺がどうしてこんな事になったのか、それを書いて行こうと思う。

                      十二月十三日 久瀬玲太。
          □■□

   Scene10・闇人

          □■□

 光機関に入ったのは、中学二年生の秋の事だ。
 俺は幼い頃から妙な力があったけれど、特に何に使えるわけでもない。だから、あまり気にしないように過ごしてきた。
 ある日、それは突然訪れた。
 学校帰り、光機関の二人組に、声をかけられた。俺は当然怪しんだが、二人が俺と同じような力を見せてくれたので、すぐに信用した。
 俺たちは喫茶店へ行って、話をした。
 闇人という、人々に害をなす化け物。そして、それと闘う機関。
 まるで漫画の中に入ったような気分だった。
 一緒に戦わないかといわれて、俺は二つ返事で入会した。
 始めは良かった。俺は、何も考えずに深夜の探索を楽しんでいた。初めての闇人との戦いも、恐怖より興奮のほうが上だった。
 俺とコンビを組んだのは、宮内蘭花。
 彼女は同い年だったが、幼少時から光機関に所属していたらしい。彼女がおおむね闇人を倒したが、俺も初参戦で二発くれてやった。
 機関の本部に帰ると、初めてでよくやったとみんなから肩を叩かれた。大抵は、恐怖に震えて何もできないらしい。
 俺は得意げだった。
 自分が何者かになったような気がしていた。それから、決まったシフトで街を夜回りするのが楽しみでしょうがなくなった。
 闇人は悪。
 それを倒す俺たちは正義。
 安っぽい勧善懲悪思考。それだけが俺を支配していて、本音を言えば、とても楽だし、楽しかった。
 ある日。
 その思考に、迷いが生じた。
 宮内蘭花と二人、小人タイプの闇人を退治に出かけたときの事だ。事前に聞いていた情報では、力はないが足が素早く、また多少の知性があるという。
「足が速いなら、頼りにしようかな。久瀬くんを」
 作戦が始まる前、宮内にそう言われた。俺は再び得意げになって、まかせておけと言い放った。
 深夜。
 俺たちは街に繰り出して、反応を頼りに歩いていた。そして、それは突然目の前を横切った。
「居た! 追って、久瀬くんっ」
 宮内がそう叫ぶ頃には、俺はもう駆け出していた。
 加速。加速。加速。
 人間の限界速をはるかに超えるスピードで、俺は闇人の後を追う。ヤツは何度も角を曲がって、俺も何度も角を曲がった。
 苦しさはない。
 俺はただ、走り、ただ手を伸ばした。
「ギャフッ」
 掴んだとき、ソレはそんな声を上げた。街灯の下で見ると、まるで妖精のような姿だった。大きさは、百センチぐらいで細長く、オペラ座の怪人の仮面のような素顔が張り付いていた。
「……お前、喋れるのか?」
「アウ。シャベ、シャベレ」
 捕まえた時、妙な声をだすからもしや……。そう思って訊ねた俺の言葉に、ソイツは本当に意味のある言葉を返してきた。
 俺に掴まれて、手足をばたつかせながら、それは続ける。
「ユル、ユルシ……っ。ナニモ、ナニモシテナイ――」
「え?」
「ユル、ユルシ……」
 許して。何もしていない。
 俺がその言葉の真意を訊ねようとしたとき、バッと、宮内蘭花が現れた。
 位置特定をして、テレポーテーションで飛んで来た。
 そう思い至った瞬間、彼女は棍に光を込めて、一気に横に薙いだ。
 ズバッと。
 小人は真っ二つになり、俺が掴んでいるのは上半身だけになった。唖然としながら、それが小さな細かい影になり、夜に消えていくのを見つめていた。
「久瀬くん、グッジョブ!」
 宮内が、実に無邪気に立てた親指を向けてくる。俺は、そんな気分にはなれなかった。
 会話をしていた。話していた。意志の相通が取れる相手だった。
 そんな存在が、目の前で死んだ。
 組織に帰るまで、俺はぼんやりとしていた。宮内は不思議そうな顔をしつつも、黙っていた。
 それからだ。
 それから、俺は楽しいだなんて思えなくなった。
 今、俺たちがやっていることは本当に正しいのか?
 疑いだすと、信じていたものが全て怪しく思えた。
 上司も。光機関も。そして、宮内蘭花も。
 みな、腹に一物抱えて、何かをたくらんでいるように感じた。
 俺は、自然と回りから距離を置き、無口になった。安らぎは家と中学だけだった。高校に入ると驚いたことに、宮内蘭花と同じクラスになった。安らぎは家だけとなった。
 そんな中、高校に入ってしばらくたったころ、光機関から新しい仲間が出来たと紹介された。
 マルムだ。
 俺より後から入ったのなら、信用できるだろう。
 そう思いつつ、俺は彼女には積極的に話しかけた。とにかく、『仲間』が欲しかった。俺と同じ、疑いの眼を持った仲間が。
 けれど話すうち、マルムは巻き込むべきではないと考えた(この時は、という意味だ。今コレを、君が読む事を望んでいる俺は、明らかに君を巻き込みたがっている)。
 彼女は純粋な正義感の持ち主だった。それを、証拠もない猜疑心の中に放り込むべきではないと考えた。
 それでも、心を許せる人だと思った。それが、家にしか居場所のない俺にとって、何よりの安らぎだった事を、照れくさいけれど書いておく。
 とにかく、これで俺はやはり一人だ。
 一人で、考え続けなければならない。
 そんな時、俺と宮内に新たな討伐対象が示された。
『精神を操る、霧状タイプの闇人』
 俺たちは、ソレと闘う事になった。
 宮内は、「絶対に倒そうね」と、いつも以上に気合いが入っているようだった。俺は相変わらずだ。
 こんな事をしていいのか?
 闇人は、本当に人を襲うだけの存在なのか?
 そんな疑問が、ただただ頭で渦を巻いていた。それでも、夜回りをした。来る日も、来る日も、俺は宮内と闇人を探し続けた。
 そして――ソイツは、意外な形で見つかった。
 時刻は、朝。
 俺が一人、日曜日の日課であるランニングに出ている時だった。
 始め、俺はソレを人間だと思った。綺麗な金髪と、瑠璃色の眼を持った、綺麗な外国人の少女だと。
 気付いたのは、すれ違う時。
 彼女の身体から微かににじみ出た気配に、俺は不穏なものを感じて立ち止まった。
 それは、経験則から来た、予感。
「……なあ、あんた、ひょっとして闇人?」
 少女は、俺を眠気眼で見上げた。そして、小さく首を傾げる。
「……そうだけど。どうかした?」

          □■□

 驚くべきことに、その闇人には名前があった。九子、というらしい。
 彼女はあの小人以来に初めて出会った、意志相通の出来る闇人であり、そして、あの小人以上に人間に近しい存在だった。
「俺は久瀬だ。久瀬玲太」
「……久瀬、玲太」
「なあ、君は他の闇人とはずいぶん違うみたいだけど? やつらは日が出ている間は動けないはずだ」
「……身体、借り物だから……。神経回路を乗っ取っているの」
「あの、そう言う事、あまり簡単に言わない方が良いと思うぜ?」
「……じゃあ、今度からそうする」
 九子は、不思議な子だった。
 彼女の身体からは、たまに腐臭がした。訊ねると、臭いは力で抑えているのだと言った。抑えきれていない部分が、たまに出てしまうのだろう、と。
 その時点で、俺は彼女の体が誰かの遺体である事を悟った。
 悟ってなお、俺は彼女を嫌いにはなれなかった。
 どうやら、彼女は善悪の区別がついていない。例えるなら、生まれたばかりの赤ん坊のような精神を持っているようだった。
 俺は彼女を連れ回す気にはなれず、けれど話はしたかったので家に招いた。母と父が居ない間に、こっそりと部屋にあげたのだ。
 彼女は行く場所がないらしく、喜んでくれた。得に気に入ったのが布団で、彼女は一日のほとんどを睡眠についやした。曰く、公園のベンチの百倍気持ちがいいらしい。
 こうして、俺たちは奇妙な同居生活を始めた。これまた、何かの漫画みたいな光景だなと苦笑いしてしまうが、本当なのだからしょうがない。
 九子に食事は必要なかった。だから、排泄もいらなかった。
 一日大人しく、俺の部屋で寝ていた。
 たまに起き上がって、俺が居れば会話をし、居なければ勝手に漫画を読んでいるようだった。
 起きている時に漫画を薦めると、彼女はそれをすぐに読んでくれた。二人で、物語について語り合うのはとても楽しかった。九子の受け取り方は独特で、それがまた面白かった。
 ある日、俺は九子にプレゼントを渡した。
 すみれの匂いがする、香水だ。これで、たまに臭う腐臭を幾分か抑えられるだろう。
 九子は、少しだけ頬を染めて「……ありがとう」と言った。
 一緒に暮らして分かったこと。
 九子は俺を襲ったりしない。
 九子は物語を楽しむことができる。
 九子は御礼を言える。
 彼女はたぶん『化け物』では、ない。

          □■□

 マルム。
 もしコレを読んでいるのが君なら分かるかもしれないが、女の勘というのは恐ろしい。そして、それが宮内蘭花ならなおさらだ。
 九子と暮らし始めてからも、彼女とは当然のように顔を会わせる。学校で、夜回りで。そんな中、宮内は俺の様子がどこかおかしい事に気づいたのだろう。
 彼女は、俺の家にやって来た。
「久瀬くん、最近どうしたの?」
 玄関口で、彼女はそう訊ねた。俺は高鳴る心臓を感じながら、「別に」とだけ言う。
 しばらくそこで、他愛もない話をした。
 追い返すわけには行かない。
 そんな事をすれば、墓穴を掘るだけ。自然に話して、自然に帰ってもらわなければ――。
 その時、俺は忘れていた。
 九子と初めて出会った日。
 俺は彼女を、気配で感じ取れたこと。それが、今まで闘ってきた経験のおかげであったこと。
 そして宮内蘭花の経験は、俺とは比べものにならない。たとえ、玄関と二階とで、距離が離れていたって。
「ところで久瀬くん」
「何?」
「さっきから妙な違和感がするんだけど。二階に上がってもいいかな?」
 言うより早く、彼女は靴を脱ぎ始めた。
 俺は慌てた。いつか、一刀両断にされた、あの小人の上半身が頭をよぎる。
 俺は、駆け出した。
 加速。加速。加速。
 あっという間に二階に駆け上がると、布団で眠りこけている九子を抱えて、窓から飛び出した。
 屋根に着地。走る。飛ぶ。着地。
 人様の家の、屋根から屋根を伝って、俺は逃げた。
 宮内の能力は、位置特定が必須だ。行く場所が分からない状況なら、動き続けていれば大丈夫のハズ――。
「……あれ? なんで走ってるの?」
「いいからっ」
 途中で、九子が目を覚ました。不思議そうにしている彼女を抱えながら、俺は走り続けた。人目は気にしていられなかった。
 走り続けて。走り続けて。
 俺は、知らない街へ来た。体力は限界に近かった。
「……はぁ。……はぁ」
「……久瀬玲太、大丈夫?」
 九子を降ろすと、彼女は俺の背中を優しく撫でてくれた。いたわりの心。彼女はいつの間にか、そんなものまで手にしていた。
「九子、聞いてくれ」
「……うん」
「もう君を、俺の家には置いておけなくなった。光機関の連中にばれたんだ。いいか、光機関は、君たち闇人を倒そうとする連中だ。問答無用でな」
「…………」
「だから、逃げるんだ」
「……やだ」
「九子!」
「……やだ。わたし、久瀬玲太と一緒に居たい」
 涙がうっすらと浮かんだ。
 けれど、俺はそれをこらえて拳を握りしめた。
 そして、光を出す。
 出した瞬間、彼女は数歩下がった。闇人の天敵を、彼女はきちんと理解している。これなら大丈夫だ。大丈夫……。
「九子、逃げろよ」
 俺は、踵を返して加速した。
 走りながら泣いて、泣きながら走った。

           □■□

 家に帰ると、宮内蘭花が厳しい顔で立っていた。俺が居ない間に彼女は部屋に上り込み、闇人の気配を確信したらしい。
 そして、光機関が掴んでいた『精神を操る、霧状タイプの闇人』の破片と照会し、一致したと彼女は言った。
 破片、と言う言葉をマルムは知らなかっただろうか?
 闇人は、ごくまれに自らの痕跡を残す。それが破片だ。光機関はそれを回収し分析することで、討伐対象となる闇人を特定している。
 光機関が掴む闇人の形状、能力は、あくまで残った破片から来る推測だ。
 九子の本当の性質は、精神を操るのではなく、神経回路を操る事だった。そこに、自らの精神を送り込んでいた。
 けれどそんな事、俺はやっぱり言わなかった。言う必要は、ない。
「久瀬、あんた、何をしていたの?」
「…………」
「君、闇人に乗っ取られているんだよ。きっと」
「…………」
 何も言わない俺に呆れてか、彼女は溜息をついてから帰った。多分そのまま、光機関に向かったのだろう。
 その晩、俺のメールに、通知が来た。
『十二月十五日。下記の場所に来い』
 光機関からの、呼び出しだった。

 マルム。
 おそらく、俺は殺される。逃げても無駄だから、奴らは俺に二日の猶予をくれたのだろう。その間に、俺はこのレポートを書いた。残りの時間は、古い友人に会ったり、家族とゆっくり食事をしたり……。
 それと、君と話そうとも思う。まだまだ、話したい事がたくさんあった。それだけは、書いておく。

 最後の一文まで読んで、僕らはどちらとも無く深いため息をついた。レポートを閉じて矢島さんを見ると、彼女はまたうっすらと涙を浮かべていた。
「……これが、真実だったんですね……」
 ぽつりっと、彼女の声がこぼれる。潤んだ瞳からも、今にも涙が零れ落ちそうだった。
 久瀬玲太は自殺じゃなかった。
 彼は殺された。彼の所属機関に。九子が理由で。
「……そうだね」
 それきり、僕たちは黙っていた。暗くなるまで、黙っていた。矢島さんはうつむいていて、何かを考えているようだった。
 僕も考え続けていた。
 その中で、自分の頭がある面ではすごくクリアで、またある面ではすごく混乱していることに気がついた。
 ……僕は、これから何がしたいんだろう。
 宮内蘭花を問い詰めたい?
 それは違うような気がした。このレポートじゃ分からない。彼女の考えを、僕はまだ知らない。
 それよりも、今の思いは――
「ねえ、矢島さん」
「はい?」
「九子に……九子に、会おうよ」

          □□□

   Scene11・再開

          □□□

「九子ちゃん、居ませんね……?」
「そうだね」
 あれから。
『アイス&ソフト』を出て、僕たちは九子を探し回っていた。始めは、彼女と出会った自転車置き場。次に、二回目に出会った通学路。それから、僕の家の周りや、久瀬玲太の家の周り。
 けれど、そのどれもが空振りで、艶やかな金髪は影も形もなかった。
「……矢島さん、そろそろ帰りなよ。もう九時近いし」
「そんな、あたしも探しますよっ」
「でも、矢島さんにそこまでやらせるわけには……」
「なーに水臭い事言ってるんですかっ!」
 矢島さんはドンッと、胸を叩いた。強く叩きすぎたらしく、ごほごほとむせた。
「うぅ……。えーと、えとですね」
 ちょっと顔を赤くしながら、咳払いをしてから彼女は言った。
「久瀬先輩のレポートの最初にあったじゃないですか、『マルムが、少しでも彼女の事を分かってくれると嬉しい。そして、叶う事なら……』って。あの言葉の続きを、あたしなりに考えたんです。それで……多分、こう続くんじゃないかなぁって

「九子の事を守って欲しい」

 矢島さんから放たれた言葉を考えてみる。
 確かに、彼はそう伝えたかったのかもしれない、と僕は思った。
「だからあたし、九子ちゃんを探したい。久瀬先輩が残してくれたもの、無駄にしたくないんです。それから、……理由はどうあれ、楓ちゃんの身体を使ってることに対して、お説教の一つもしてあげなくちゃいけないし」
「……そうだね。一緒にがんばろう」
「はいッ」

 二人で、補導されるぎりぎりの時間まで、九子を探した。
 けれど彼女は、見つからなかった。

          □□□

 意気消沈しながら矢島さんを途中まで送って家に帰ると、丁度親父も帰宅するところだった。ばったり目が合って、「遅いな」と親父は言った。
 お前に言われる筋合いはない。そんな言葉が瞬間的に浮かんで、けれど僕はそれを瞬時に打ち消した。
 脳裏には久瀬の母親の、寂しそうな笑顔があった。
「御免なさい。友達と遅くまで居たから」
「そうか。今度から気をつけろよ」
 他愛もない会話。
 けれど、数日前の僕には出来なかった会話。
 僕達は二人で軽い食事をとって、それぞれの部屋へと引っ込んだ。ベッドに倒れ込むように寝転がる。
 色々な事があった、濃い一日だった。
 整理が追い付かない。話によると、人は眠っている間に記憶の整頓をするらしい。ならば、今の僕のもやもやも、朝になればすべてすっきりと片づけられているのだろうか。
 ぐわんぐわんと回っていく脳内の中で、ふわりっと、宮内蘭花が浮かび上がった。
 彼女は赤いランドセルを背負っていた。となりには、黒いランドセルを背負った僕もいた。僕達は笑いながら歩いていた。二人は石けり遊びをしているようだった。
 交互に、交互に。
 思い出の中の僕らは、石をけりながら楽しそうにどこかへ向かっている。
 どこへ行くのだろう?
 ワカラナイ。
 ぐらり。
 視界が揺れた。今度は、中学時代の僕が居た。ピアスを先頭に、三人組の不良に絡まれている。僕は小さくなって、肩を震わせていた。怖い。こわい。コワイ。
 どうして僕はこんな所に居るのだろう。
 どうしてこんな所に居なければいけないのだろう。
そこに、「ああ先輩、探しましたよぅ?」と扉が開いて矢島さんが入ってきた。僕は彼女を見上げた。
 ピンクのニット帽が僕の前にやってきて――。
 そして、僕を通り過ぎて行った。
「ささ、久瀬先輩。お昼を食べに行きましょう?」
「うん」
 僕の斜め後ろ。そこに座っていた久瀬玲太に、彼女は声をかけた。そして、楽しそうに二人で出て行く。
 あ、あ、あ、あ。
 動揺していた。僕は明らかに動揺していた。
 何故?
 矢島さんが好きだから。
 いや違う。それは違う。そんな単純かつ、清い感情じゃない。
僕のこの思いは――。僕のこの気持ちは――。
「オィ、社ォ。さっさと昼飯買って来いっつってんだよォ!!」
 ピアスが、前蹴りを繰り出した。僕は机ごと床に倒れる。目線が、地面と重なって、僕の視界は皆の足元になる。
 上履き。上履き。上履き。上履き。
 それだけが僕の視界に映っていた。クラスメイトのほとんどが、僕を見下ろしていた。
 笑い声が聞こえる。
 くすくすと。
 クスクスクスと。
 僕は、床に倒れたまま頭を抱えた。頭だけじゃない。膝も折り曲げて、僕は小さく小さく小さくなった。
 まるで芋虫のようだ。ああ、僕は芋虫になりたい。それならどれだけ楽だっただろう。いや芋虫じゃなくてもいい。なんだっていい。貝だっていい。ナメクジだっていい。とにかくどんな生き物だって人間よりはマシだ。幾分か。
 そのハズだッ!
 僕は知っている。
 自分を嫌というほど知っている。
 汚い人間だ。弱い人間だ。僕は、自分の下を求めていた。自分より惨めな存在を見つけて、コイツよりはマシだと生きてきた。
 僕にとって。
 僕にとって、その存在こそが久瀬玲太だった。
 アイツは僕より劣っていた。劣っていたんだ。ソイツが死んで、しかも死体を間近で見て、お前は何を感じた?
 特別な事が起こった。僕はこれを調べなくてはならない。そして、久瀬玲太が自分より劣っていたと、証明しなくてはならない。
 ところがフタを開けてみれば、どうだ社。
 お前なんかと百八十度違うじゃないか。あのレポートに何が書いてあった? 久瀬は良い奴だった。強いやつだった。
久瀬は優れていた。優れていたんだ。

 僕はますます頭を抱えた。自分の腕の力で、ガシガシと頭痛がする気すらする。チガウ、と、声に出して呟いた。けれど笑い声にかき消されていく。
 違う! と、今度は叫んだ。笑い声は止まった。
 確かに、僕は思っていた。久瀬玲太を同類だと。そして、自分より下位の存在であると。
 でも、今は違う。
 それは、久瀬を優れていると思い直しただとか、そういう事では、ない。
 意味がないのだ。
 比べることは。
 それに僕は、久瀬の死の調査を、特別な事が起こっただとか、劣っていたと証明しなくてはならないだなんて思って始めたわけではない。
 あのきっかけは――

 ガッシャァン‼

 ガラスの割れる音がした。見ると、教室の窓が粉々で、床には大きな石が投げ込まれたかのように横たわっていた。

          □□□

 こつん。
 ぱっちりと瞳を開くと同時に、そんな音が窓からした。カーテンを開けて見下ろすと、いつかのように自転車を立てかけ、小石を抱えた九子が居た。
 僕は、階段を駆け下りて玄関から飛び出した。
「九子――ッ!」
「……社、久しぶり」
 目の前に行くと、九子は相変わらずの眠気眼で僕を見つめてきた。口元には、微かな笑顔が浮かんでいる。
「九子、その、ごめん」
 頭を下げた。数十秒下げ続けて顔を上げると、彼女はきょとんとしていた。
「……ほら、君を、その……僕、疑ったから。ごめん」
 もう一度謝る。すると、彼女は「……ううん。わたしも、上手く説明出来なかったから」と、すまなそうに頭を下げた。
 顔を上げた九子が、小首をかしげながら尋ねる。
「……ねえ、社は闇人ってなんだと思う?」
「……ごめん、良く分からないよ。最近知ったばっかりだし、正直……居るって事を信じるのが精一杯と言うか……」
 九子は「そっか」と無表情で言ってから、不安そうな表情を見せた。
「……わたしにも、良く分からない。……これって変かな?」
「変じゃないと思う」
 九子の問いに、僕はためらいなく答えた。
「人間だって、同じだもん。自分の事とか、全然分からないんだ」
「そっか」
 彼女は少しはにかんだ。
 僕達はしばらく黙っていた。けれど夜は更けてくる。欠伸を一つすると、九子は「……今日は帰るね」と言った。
「あ、待って」
「……何?」
「うん。会わせたい人が居るんだ。えっと、久瀬玲太の後輩で、矢島流無って子。君に会いたがってる。悪いようにはしないよ。彼女は信用できる子だから……」
「……マルム」
 九子は小さく彼女のあだ名を呟いた。ひょっとしたら、久瀬から聞いたことがあるのかもしれない。
「……わかった。会う。待ち合わせをしよう。明日の……何時が良い?」
「そうだね、学校があるから、四時じゃダメかな? 四時に、またココで」
「……うん」
 手を振って、九子は自転車に乗り始め、僕は家へと向かった。
 ぞわり。
 後ろを振り返った。悪寒。誰かに見られているという、気配。それを感じたのだけれども、視界は何の変哲もない夜の街道だった。
 僕は自分の部屋に上がり、再びベッドに倒れ込んだ。
 
          □□□

 ――よう、社。今朝は顔色良さそうだな?
「まあね」
 ――それは良かった。俺の身体でもあるわけだからなー。丁寧に扱ってもらわないと。
「……」
 なんだかむかついだけど黙っておいた。
 僕は、ベッドから降りて携帯電話を取り出した。手早く矢島さんにメールを打つ。用件は、もちろん昨日の九子との約束の事だ。
 返信はすぐに来た。可愛らしい絵文字が二つ入った、『社先輩やりましたね、了解しました、絶対に行きますっ』という文面のメールだった。
 ――後輩女子と待ち合わせーって、うらやましいなーオイ。
「そんなんじゃないよ」
 ――どうだかなー。
「煩いな」
 意味があるか分からないが、シッシッと頭の上で手を振って、僕は階下に向かった。途中、カレンダーを確認する。今日はクリスマスだった。

          □□□

 学校はほとんどいつも通りだった。変わったことと言えば、宮内さんが休みだった事。けれど、むしろ僕は気が楽だった。今はまだ、彼女とどんな顔をして向かい会えばいいのか、良く分からなかった。
 午後四時五分。
 待ち合わせの僕の家の前に行くと、まだ誰も来ていなかった。
 それから五分して、矢島さんがやって来た。
「すいません、部活の仲間を振り切るのに手間取っちゃいました」
 と、彼女はすまなそうに頭を掻いた。話を聞くと、クリスマスパーティーに呼ばれたらしい。僕のほうがすまなくなった。
 僕達は塀に寄りかかりながら、ぽつぽつと話をした。
 話題はお互いの趣味や好きな事、嫌いな物、最近学校であった事、そして、共通の知人である久瀬玲太や宮内蘭花の事だった。
「遅いですね」
「遅いね」
 途中に、何十回この言葉が交わされただろう。僕達は会話に花を咲かせつつも、ずっと九子を待っていた。
 ……ひょっとしたら、彼女は矢島さんと会いたくなかったのだろうか。
 僕は、そんな事を考えた。矢島さんも、叱ってやると言っていたし、怒られるのが嫌なのかもしれない。
 時刻が六時を回ったところで、「……本当に遅くないですか? 大丈夫ですか?」と矢島さんが言った。
 僕もだんだんと不安になっていた。警察に電話しようとも考えたが、一体なんと言えばいいのだろう。言えるわけがない。
 とりあえず僕達は事故かなにかで女の子が運ばれはしなかったかと、九子の特徴と共に病院に訊ねた。答えはノーだった。

 時刻が九時を回って、矢島さんは帰路についた。
 僕は、親父が帰ってくるまで、一人彼女を待っていた。
 夜遅くに帰ってきた親父は、クリスマスケーキを買っていた。僕は心にしこりを抱えながらも、数年振りのプッシュド・ノエルを口に運んだ。


 夜遅く。
 ベッドに寝転がりながら、天井を見上げていた。眠気は、九子を待っている間に通り過ぎてしまったようだ。
「……どうしたんだろう」
 呟く。
 と、携帯がメールの着信を伝えた。何の気なしに開いてみる。差出人は、矢島流無。嫌な予感がした。
 慌てて開く。
 そこには――
『大変ですっ。今、光機関からメールが来て……っ。宮内先輩が、九子ちゃんを捕えて、今から護送するそうです!』

          □□□

   Scene12・ひかり

          □□□

 寝間着を着替えて飛び出した。
 走る。
 僕は必死に足を動かし、一心不乱に宮内蘭花の家を目指していた。
 まだ、間に合うかもしれない。
 まだ、彼女はそこに居るのかもしれない。
 微かな希望を支えるのは、矢島さんから来たメールだけ。彼女はあれから、『宮内先輩はこれから光機関の本部へ、彼女を連行するそうです』と付け足してくれたのだ。
 意志相通が出来る闇人は珍しい。
 機関にとって、利用価値のある、生かして損のない相手。そういう、事らしい。
「くっそ!」
 いつか痛めた膝がズキリと唸った。そう言えば、僕は、まだハンカチを返していない。
 急げ。でも。
 もう、間に合わないかもしれない。
 頭を諦めが横切った。
 何のきっかけもなく降ってわいたそれは、僕の心を満たしていく。宮内蘭花が、九子を捕えたのはいつだ? もしかしたら、昨日、僕と話す彼女を見かけたのではないだろうか。
 宮内さんは勘が良い。
僕の可笑しな様子に気づいて、夜回りの最中にふらっと僕の家に立ち寄る。そこで九子を見つける。
 そうだとしたら……。彼女が捕まったのは、もうずっと前の話じゃないか。
 だとしたら――。
 スピードが緩む。そんな時だった。

 ――走れ!

 頭の中に響いた、単純なメッセージ。
 そうだ。走るのだ。余計な事を考えるのは、その後で良い。
 加速。加速。加速。
 周りの景色が、信じられないくらい早く流れていく。
 宮内蘭花の家は、それほど遠くない。あと数メートル。あとほんの少し……。
 バッと、曲がり角を曲がる。
 そして、彼女の家が視界に映り、通りを歩く宮内さんと九子の姿が視界に映った。
 間に合った――。
 安堵で膝が崩れ落ちそうになる。それをこらえて、僕は再び走り出しながら叫んだ。
「九子ぉ――っ!!」
 二人が振り返った。
 深い夜の中、かちゃりと小さな音が聞こえてきた。目を凝らすと、九子の手に歪な鎖が巻かれている。なるほど。これが深夜のわけ、か。
「社!?」
「……社?」
 二人の少女が、それぞれ僕の名を呼ぶ。一人は驚愕。もう一人は、少し不思議そうに。
 僕は距離を詰めた。宮内さんが、一歩下がる。
「ちょ。社……。あんた、どうしてここに居るの? それに……コイツの名前。何で知ってるの? 何しに来たの?」
「決まってるよ。九子を、助けに来たんだ」
「!」
 大きく目を見開いて、彼女は息を飲んだ。
 信じられない。
 そんな言葉が、間接的に伝わってくる。
「……社、どこまで知ってるの?」
「さぁ。結構たくさんの事を知ったと思うけど……」
「そう」
 悲しそうに眼を伏せる。けれどそれは一瞬で、彼女はキッと僕を睨みつけてきた。
 憎悪。
 どうしてそんな瞳を向けられるのか分からず、僕は思わずたじろいでしまった。
「社……。言いにくいけどさ、たぶん君も、この子に毒されている。知ってるのかな? 彼女、精神を操る化け物なんだよ」
 その声は、純真な悪意が感じられた。
 それを振り払うために、力強く口にする。
「違う。九子は化け物なんかじゃない……っ。九子は笑った。悲しんだ。慰めた。人間と変わらない。感情があるんだっ」
「だからぁ、それも毒されてるんだって」
 宮内さんは肩をすくめると、鎖で繋がれた九子をちらりと一瞥した。
「社、闇人がどんなものか知らないから……。だから、そんな事が言えるんだよ」
「……宮内さんだって」
「私は知ってる。私は両親、闇人に殺されたから」
 息が詰まった。
 彼女の口調は、淡々としていた。さらりと、なんでもないことのように口にした。けれどそれは、なんでもないことの『ように』でしかない。
「この子と同じ、霧状タイプだよ。精神を狂わせる闇人、だったかな。父さんが、それにとりつかれたの。別人になったようだった。お金を湯水のように使って……。会社からお金を盗むようにもなって……。見つかって、クビになって……。借金をして、夜逃げ同然で一家で引っ越し。その時のトラックが事故に会ってね。私以外、みんな死んじゃった」
「そんな……」
「自業自得だって思う? けどね、それじゃ割り切れないんだよ」
 宮内さんは悲しげな表情で顔を伏せ、斜め下へと視線を落とした。
「父さんが死んだとき、身体から影が噴出した。私は額から流れてくる血を拭って、それを見ていた。怖かったよ。ごわごわして、深い闇色でそれがバラバラになって、すぅって出てくるの。それはね、私の眼の前で集まって、霧の塊を作った。細い目があって、それがキュって赤く光るの。馬鹿にされてるみたいだった。その時、私は分かったの。ああ、コイツが父さんをオカシクしたんだって」
 頭の中で、宮内さんの言葉を反復した。
 彼女の淡々とした口調の端々からは、抑えきれない感情のはし切れが見えた。だからこそ、言葉をかけたくなかった。けれど、何も言わない訳にもいかなかった。
「……大変だったんだ」
「安っぽい同情はいらないよ。けど、社にそうなって欲しくないの。だから、この話をしてる。私はいつでも君から逃げられるけど、この話をしてあげてる」
 宮内さんは、いつものように、安らかな笑みを浮かべた。
 今日の月明かりにはそぐわない、どこか歪な笑みだった。
「ねえ、分かってくれたよね、社?」
 彼女の声がする。
 その声は優しくて、頼りなくて、どこか懐かしさを覚えるものだった。その雰囲気に一瞬だけ、頷いてしまいたいと思った。
 けれど、心は決まっていた。
「分からないよ」
「っ!?」
「宮内さんが言っていること、全然分からない。だって、その話に出てきた闇人と、九子は違うよ。違う闇人なんだ」
「……おかしな事をいうね、社」
「おかしいのは宮内さんだ。そんなの、何々人だからって一緒くたに接するような人間と同じだ。君は、そんな人じゃないと思っていた」
「…………それとこれとは、話が違うよ」
「違わないよ、何も。それに――

「僕には、君を許せない理由があるんだ」

          □□□

「許せない……理由?」
 宮内さんが首をひねる。
「久瀬玲太」
 しかし、僕がその言葉を吐き出すと、ハッとしたように口を開けた。
「忘れた、なんて言わないよね。まさか」
「……」
「君たちが、殺したんだろ」
 はっきりと言った。
 何かが決定的になったような気がした。
 殺した。
 殺した。
「違う!」
 宮内さんが叫ぶ。僕は、彼女の弁明を「違わないだろ!」とかき消した。
「僕は知っているんだ。久瀬は、遺言を残していた。光機関に殺される。九子を守って欲しい。切実な思いで、あいつはそれを書き綴ったんだ。僕は――。僕は、君を許せない。宮内さんも、久瀬の処刑を知っていたんだろ?」
「違う……っ。そんなんじゃない……っ」
「じゃあ、なんなんだよ?」
「…………」
 顔を伏せた。
 宮内さんは、今にも泣きだしそうな顔を伏せる前に見せた。
 あれは――。
 あれはきっと、後悔の念。
「お前達は自分勝手だ! 久瀬を仲間に引き入れておいて殺したり、闇人を一方的に悪だと決めつける。そんなのは正義じゃないッ」
「うるさいッ!!」
 唐突に、宮内さんが叫んだ。
 頭を抱えて、叫んだ。
「うるさいっ! うるさいっ! うるさぁぁい!! 社、お前に何が分かる!? 何を知っている!? いい加減な事言わないでよ。勝手な事言わないでよ! 本当の事なんて、何も知らないくせに――っ」
「僕は知ってる。全部、知ってる」
「へえ、じゃあアンタが自殺した事も知ってるんだ。それを久瀬が助けて、それが理由で死んだことも?」
「え――?」
 時が、止まった。
 安っぽい表現だけど、そうとしか言えない。
 聞いた僕はもちろん唖然としていたし、言った宮内さんさえ唖然としていたし、それに、会話に混ざれずにいた九子ですら青ざめた表情をしていた。

『へえ、じゃあアンタが自殺した事も知ってるんだ。それを久瀬が助けて、それが理由で死んだことも?』

 どういう意味だ。どういう意味だ。どういう意味だ。
 ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。

 本当に?

 僕は思い出す。耳鳴りがする。それをかき消そうと、頭を掻いた。ガリガリガリと。僕はその音を聞きながら、やはり思い出す。
 あれは。あれは。
 十二月十五日。
 聖なる夜の、十日前。
 僕は。僕は、そうだ、僕はビルの屋上に立っていた。あの、久瀬が死んだビルだった。時刻は放課後で、夕日を背景にいつの間にか細かな雪が降り始めていた。どこか幻想的な雰囲気があった。
 そんな中で――僕は、死ぬ気だった。
 良い事なんて一つもなかった。頼れる人なんて一人も居なかった。悪い事だけが山ほどあった。親しい友人の一人も作れなかった。
 僕は――どうしようもないくらい、孤独だった。
 一歩。
 たった一歩で天国に行ける場所で。
 僕は、その一歩を踏み出してしまったのだ。
 そして――そして、僕は落ちていく。ひらひらと舞う雪と一緒に、落ちていく。
 空気抵抗を身体に感じながら、僕は色々な事を思い出していた。幼稚園の頃、小学生の頃、中学生の頃、そして、たった九か月間の高校の頃。ああ、走馬灯って本当にあるんだとぼんやり思いながら、僕はただ落ちていた。
 そうだ。僕は。そうだ。僕は。
「あぁぁァァァァァァ!」
 叫んだ。意味はなかった。それでも、叫ばずにいられなかった。
 死のうとした。僕は、あの日死のうとしていた。どうしてそんな事をしてしまったのだろう。
 いや、それは今だからこそ言える事だ。父さんが居て、九子が居て、矢島さんが居てくれるからこそ言える、今の事。
 あの時の僕はただ毎日が苦しかった。苦しかったんだ。
 泣いたって誰も助けてくれないと分かっていた。
 毎日は何一つ変わらないと思っていた。
 久瀬玲太は結局赤の他人で、支えとしては頼りなかった。
 だから何の気なしに「ああ死のう」と思って、そのまま飛び降りてしまったのだ。
「ごめん、違うの。ごめん」
 うずくまった僕の背中に、暖かな手が乗った。僕はとっさにソレを払いのけた。宮内さんがどんな顔をしているのか見えない。けれどきっと困った顔をしているのだろう。
 それが分かってなお、僕はうずくまりつづけた。
 弱い自分が情けなかった。
 強い久瀬を思い出した。
 彼は――そう、僕の真下に駆けてきた。どこからかは分からない。けれど、とてつもないスピードで、それこそヒーローのように、僕の真下に駆けてきた。
 衝突の瞬間は、記憶にない。
 けれど、僕は助かって。
 そして、久瀬は死んだ。
「社! 社! お願い、顔を上げてよ。ごめん。本当に、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 宮内さんの声が聞こえる。
 僕は、彼女の不自然な優しさのわけをようやく悟った。
 彼女は知っていた。
 この事を知っていた。
 僕が、追い詰められていた事を。
 僕は馬鹿だ。
「う、ぁ。ぅぅぅ……」
 うめき声のような言葉と共に、涙があふれる。立ち上がらなければ。そう思うのに、上手く身体が動かせない。
 駄目だ。
 どうしようもないくらい、僕は駄目な人間――。

「……大丈夫。大丈夫だよ」

 そんな僕の背中に――すとんと、懐かしい感触が落ちてきた。背後からぎゅぅっと、細腕で抱きしめられる感覚。
 そして、ふわりと漂う、すみれの匂い。
 何が大丈夫なのだろうか?
 良く分からなかったけれど、彼女はただそれだけを繰り返した。払い避ける気も起きず、僕はしばらく彼女の言葉を聞き続けた。
 心が、静かに休まっていく。
 僕は九子に「大丈夫だ」と返して、彼女の身体が離れるのを確認してから起き上がった。
 振り返ると、宮内蘭花が居た。
 どこか、様子がおかしい。
 僕を見ているようで、九子を見ているようで、それでいてどこも見ていないようで。
 その瞳は虚ろで、黒目がぶれるように動いている。
「あ、の? 宮内さん――?」
 呼びかける。けれど返事はない。
 そのとき、九子の叫びが聞こえた。
「社、離れて!!」
「え、とっ」
「いいから、離れて!」
 服の袖を掴んで、九子はぐいぐいと僕を引っ張っていく。けれど僕は、宮内さんから目が離せなかった。
 ぶつぶつと、聞き取れない何事かの言葉を、彼女は吐いている。
 周りの空気には、黒い何かがあった。あれは、見たことがある。闇人が消え去る時、小さな粒になり消えていって行くときに――。
 そう。それの、逆だ。
 黒い粒が、集まっていく。形が霧散するのではなく、形が作られていく。
「闇、人?」
 呟く。
 まるで僕の呟きと鼓動するように、黒い粒はいっきに塊となった。
出来た塊は、スラッとした長細い影。二メートルほどの身長に、ほとんど体重のなさそうな細い腰。その影が、闇人が、宮内蘭花のすぐ傍にいて、彼女に右手を伸ばしている。
「宮内さんッ!」
「――っ!」
 宮内さんが、僕の呼びかけでハッと顔を上げ、後ろに飛びのく。影の手はスカッと、彼女の身を掴み損ねて空ぶった。
「リュースっ」
 宮内さんが叫ぶ。すると、彼女の手にはいつかみた長細い棒――棍があらわれた。けれど、光輝くそれは、淡くぶれて飛散した。
「んで――」
 彼女は一瞬、ひどく子供っぽい表情をみせた。何が起こっているのかわからない、唖然とした戸惑いの表情。
「ギヒッ」
 闇人が、薄気味悪い声を放つ。と同時に左手を伸ばし、彼女の身体を再び掴もうとする。再び後ろに飛びのく。しかし、今度は交わしきれなかった。
 闇人の腕が、伸びたのだ。
 その長く伸びた影の手によって、宮内蘭花は捕らえられた。一瞬だけ、残像のように残った光の粒に照らされて、彼女の顔が浮かぶ。
大きく眼を見開き青ざめた表情のその顔は、恐怖と驚きに支配され、いかなる言葉を発することも出来ないようだ。
 やがてその口に影を当てられる。口が塞がり、彼女はもう声を出せない。
「宮内さん!! 宮内さん!!」
「……社、危ないッ」
 闇雲に一歩踏み出した僕の腕を、九子が掴む。片足でバランスを崩した僕の身体を、彼女は見事に引っ張った。
 一閃。
 闇人の腕が、目前を掠めていく。前髪が数センチ切れた。
「ギギ……?」
 闇人が、壊れたラジオのような耳障りな音を発する。
 そしてそれは、唐突に言葉になった。
「オマエ……ギ、ドウシテ、タスケル? ワレラノ、ナカマダロウ?」
「知らない」
 背後ではっきりとした声が聞こえる。
 首だけ振り返ると、九子が瑠璃色の瞳で前方を睨みつけていた。
「知らない。理由なんていらない。わたし、社を助けたいの。……あなたこそ、どうして人を襲うの」
「ギヒ?」
 細長い影が首をひねる。その様子は、どうしてそんなことをいうのか心底分からないという、ただ純粋な疑問を表現していた。
 いつかの、九子の様子とそれが重なる。
 けれど、その時首をひねった彼女は、今、僕の前へと躍り出て、繋がれた両手をにぎりしめ、守るように身を構えている。
 その身体に怯えによる震えはない。
 ただ勇ましく、瑠璃色の瞳を向けている。
「……彼女を放して」
 再び、闇人の腕が伸びてきた。宮内さんを掴んだ腕と反対の腕を、薙ぎ払うように動かしてくる。両手を前に構えながら後ろに飛び退く。かわしきれない。僕は前方にいた九子もろとも、地面へと叩きつけられた。
「ぐっ……」
 鈍い痛みが背中の全身をおおう。闇人の第二撃は、頭上に振りかぶられた拳だった。判決を下す裁判官のような動作で、それが地面に叩きつけられる。僕はとっさに転がるように横に移動し、寸ででその攻撃をかわした。
 真冬だというのに、汗が止まらない。
 闇人の拳が当たったアスファルトは、微かなひび割れが走っていた。
 こんな化け物を、今まで彼女達は相手にしていたというのか。
 勝てるわけがない。逃げられるわけもない。
 僕の中に、静かな諦めが訪れた。
 どうせ、あのとき死んでいたはずなのだ。ならば、いまここで死んだところで数日間生き延びただけ得である。
 最後の最後に、僕は妙な計算を持ち出して、自分を納得させ――
「なわけ……あるかよッ」
 唇をかみしめるように呟く。頭の中に一瞬で、色々な事を思い返した。宮内蘭花、久瀬玲太、その母親に、矢島流無、父さん、それから
「九子……」
 振える足で立ち上がり、彼女の姿を探す。見つからない。ゆっくりと探す暇もなく、化け物はさらなる攻撃を加えてくる。
 一撃、二撃、三撃、四撃。
 連続で繰り出される、地面をつつくような手の攻撃を、僕は素早くかわしていく。右、左、斜め前、左。自分でも信じられない事に、身体がほとんど反射的に攻撃をさばいていく。
「ギギギギギッ!」
 攻撃をかわされるのが気に入らないのか、駄々のような声を上げた後、闇人が大ぶりな力強い一撃を放つ。
 それを、身体を少し逸らすだけの簡単な動作で僕はかわした。
 その不思議な感覚に、戸惑う。
 僕は――知っている。
 僕は――この化け物の、倒し方を知っている。
「リュース」
 放つ。
 胸の内のどこからか、暖かなものを感じる。それが全身を駆け巡り、素早く僕を包んだ。その感覚は、けれど一瞬で無に帰る。気が付いたときには、僕の足元が光輝いていた。
 靴だ。
 今まで履いていた運動靴の外側を、もう一回り大きな靴が覆うように姿を現している。光で出来た、スニーカー。
 思いきり足を前に上げて、闇人の片腕を蹴り飛ばした。
「ギュギッ」
 っと、闇人が悲鳴のような声をあげる。片手を離して、痛みを抑えるようにそこにあてた。
「ッ!」
 手を離されて、宮内蘭花が落ちていく。彼女の甲高い悲鳴があたりに響いた。
 駆ける。
 僕は力いっぱい脚を動かし、落下地点へと滑り込んだ。
 両手を伸ばす。彼女を受け止める。
 ずきり。
 脳に痛みが走る。いつかどこかで、僕は、いつかどこかで、こんなことが。
 あのときと、違う立場で――。
 
 僕は、落下してきた宮内さんを、しっかりと受け止めた。
 腕に衝撃。
 歯を食いしばるような痛みを耐え、僕はそれでも立っていた。
 人ひとりの重み。
 けれどそれは、僕には確かに重すぎて、無様にも倒れてしまう。
「社……、社!」
 宮内さんの声。僕の手をとって、自分の肩へと担いだ。闇人から距離をとろうというのだろう、彼女は僕を引きずるように動き出す。
「ギギっ」
 けれど、かの怪物はすでに痛みを跳ね除けていた。若干かけた腕を、ぶらりとさせて、もう片方の腕を振り回してくる。
 逃げなければ。
 そう思うのに、身体は重たく動かない。
 僕の身体を支える宮内さんも、引きつった顔で、それでも僕を担ぎながら一歩二歩と進んでいく。
 影の腕が伸びながら迫る。
 やられる!
 そう思った瞬間、何かが僕らの前へと躍り出た。
 鈍い打撃音。
 けれど、僕にも宮内さんにもその衝撃はない。
「九子!」
 ただ、薄い金色の髪が、叩かれた衝撃で広がっていた。
「……に、げ、て……。社……。宮内蘭花……っ」
 九子が僕達の名前を告げる。宮内さんは、ハッとした表情を浮かべた。魅力的な茶色の瞳を見開いて、薄い唇を震わせて――。
「九子ぉぉ!」
 叫ぶ。
 九子の身体には、もう何度も闇人の攻撃が突き刺さっていた。左から右への殴打、叩きつけるような拳、鋭く尖らせた爪のような引っかき。
 彼女はそれらの攻撃のすべてを、さけない。
 むしろあたりに行くような動きで、僕らを傷つけまいとしている。
 彼女の身体は、ぼろぼろだった。
 僕はとっさに、宮内さんを後ろに弾き飛ばした。
「社!?」
 走る。
 さっきまで動けなかった身体を、それでも無理やりに動かす。
 走る、走る、走る。
 光り輝くスニーカーは、羽が生えたように軽い。
 僕は右足で地面を踏みしめて、飛んだ。闇人の身体は、二メートルほど。その高さを軽々と飛び、僕は闇人の目前へと飛び込めた。
「うおおおおお!!!」
 力をこめる。
 渾身の蹴りを、力いっぱい顔面にぶち込んだ。その身体を数回経由し、僕は地面に着地した。
「ギギギギギッッ」
 闇人が、倒れていく。しかし、力が足りなかったらしい。途中で踏ん張り、体制を立て直そうとする。
 もう一撃――。
 僕は再び力を
「あ」
 しかし、それは叶わなかった。力が抜ける。胸のうちのどこかから溢れていた何かが、空っぽに尽きたことを感じた。
 だめだ――。
 そう思い、せめてもと睨みつけた闇人の顔。
 そこに――。
 光の矢が一本、突き刺さった。
「あ」
 二本、三本、光の矢は連続で、闇人を打ち抜いていく。その身体は壊れたラジオのような悲鳴と共に、ゆっくりと完全に倒れていく。
 そして。
 黒い粒となり、虫のようにばらけていく。
 三十秒ほどでその身体は、そんなものなどはなから無かったかのように消えていた。
「九子」
 その様子を眺め終えた後、僕はハッとしてあたりを見回した。九子の小さな身体はアスファルトの上、まるで遺体のように横たわっている。
「九子? お、おい……」
 僕は這うようにして、なんとかその身体に近づいた。近くで見る彼女の身体は、見ているだけで痛々しいぐらい傷ついている。
 擦り切れた頬、裂かれた衣服から覗く赤。
 そういったあれこれを視界にいれ、涙でかすんだ目元をぬぐう。そして、そっと九子を揺すった。
 彼女の身体は、冷たい。
 そして、恐る恐る確かめた手首の脈は、止まっていた。
「九子……。九子……」
 涙が流れる。
 その頬に、そっと小さな手が触れた。
「え?」
「社……わたし、死んでない」
 九子が、うっすらと瞳を明けていた。そうだ、彼女の身体はもともと――。
「九子ちゃん、ありがとう」
 と。
 突然、宮内さんの声がした。顔を上げると、彼女は僕ら二人を覗きこむように見下ろしていた。
 その表情は、さっき出会った時と別人であるかのように、柔らかな笑みをたたえている。少しだけ、戸惑いのような、微かな陰りはあるのだけれど。
「宮内先輩、覚悟ッ!」
 そこに突如、勇ましい声が降ってきた。
 そして、僕達の間を掠める光の矢。
「マルム!?」
「矢島さん!?」
 矢の予想発射地点を眼で追うと、案の定、薄いピンクのニット帽をかぶった少女が居た。
 彼女はどこからか矢を出現させ、また射る。
宮内さんが右へ身体をずらすと、彼女は目標を右へと向けた。
「ちょちょちょ、何しようとしてるの、矢島さん!」
「何って、九子ちゃんを守るのですよ。さっき闇人が見えて撃ったりしてちょっと状況わかりませんが、久瀬先輩との約束ですっ」
 弓矢を引く。
 そんな彼女の前を、よろけながら立ち上がった九子がふさいだ。
「く、九子ちゃん?」
「……撃っちゃダメ」
「だ、ダメって言われてもですね? このままだと九子ちゃん、大変な事になっちゃいますよ? 怪しげな機関に入れられて、怪しげな実験に付き合わされて、おまけに変態上司に何されるか分かりません!」
「……それでも、撃っちゃダメ。撃ったら、死んじゃうから……」
「え?」
「……久瀬、死んじゃった。そういうの、悲しいから」
「…………九子ちゃん」
 矢島さんが、弓矢を降ろす。同時に、それは光の粒となって消えた。

「決めた!」

 明るい声が響く。
 宮内蘭花の声。僕達は皆、彼女を見つめた。少し照れたようなはにかみを浮かべ、彼女は言う。
「私、逃がしたことにするよ」
「「「!」」」
「だって、命助けてもらったしね。これで機関に連れてくなんて、どんだけ人でなしって話だもん。まあ見つかったら怒られるけどさー。上手くやるよ。大丈夫。私こう見えて、結構古株の上位階級だから」
「宮内先輩っ」
 矢島さんが軽く飛び跳ねて喜びを表す。
 宮内さんはそれをキッと睨みつけながら、
「でも、少しの間だけだから。この子の事、ちゃんと見て、ちゃんと考えて、機関に預けるか決める。執行猶予みたいなものだと思って。……それに、人間に害を加えるようなら、すぐにでも真っ二つにしてやるから」
「もう。宮内先輩、九子ちゃんの行動見てたでしょ? 彼女が人を襲う訳ないじゃないですか」
「……そうだね、だから、信じたいかも」
「え?」
「さっき闇人に襲われてたのね、私なんだ。それを、九子ちゃんはかばってくれた。社が言っていた、違う闇人なんだって言葉が、分かった気がしたの。……変かな?」
「ええ、変ですね。宮内先輩らしくないですっ」
「こら! そこは否定するところでしょうにっ」
 起こった風に、宮内さんが言い切る。けれど、彼女達は楽しそうに笑っていた。
「……社、結局どうなったの?」
 そんな中、不意に九子が僕に近づいてきた。鎖に縛られた両手を器量に使って、ついついと僕をつつく。
「さぁ? でも多分、良い方向にまとまったんだよ」
「……そっか」
 九子は小さく微笑んだ。
 僕も、小さく微笑み返した。

 夜更けの街の片隅で、小さな奇跡が起こっていた。


 クリスマスの余韻を残す、冬の街を歩く。
 まだ片づけられてないイミテーションや、クリスマスツリーを眺めながら、来年はどんな風にそれらを迎えているだろうと考えた。
 ――片づけちゃうの、勿体ないよなー。
「そうだね」
 頭の中の声に、僕は賛同した。
 ――一年中クリスマスだったら良いのになァ。
「飽きちゃうよ。……ああ、ていうか、昨日? は、ありがとうな」
 ――え? 俺、何かしたっけ?
「さぁ」
 欠伸を一つ。
 今日は、二学期最後の学校だった。

          □□□

   Scene13・epilogue

          □□□

 学校に着き教室に入ると、早速いつもの三人組が現れた。
 クラスメイトの大半は、やはり見て見ぬふりをする。
「社ォ、おっはよー。でさ、今日は忘れてないよね?」
「宿題?」
 僕は訊ねる。ガタっと席を立つ音がして、目を動かさずに視線をやると、宮内さんが立ち上がるところだった。
「そうそう、宿題宿題。見せてくれるよなァ? 社―」
 ピアスが、顔を突き出しながら続ける。
「嫌だ」
 僕はその鼻っ柱をぶん殴るような気持ちで言い放った。
「「「ハァ!?」」」
 途端に、三人の顔が怒りに変わる。たじろぎかけた身体を、意識的に立て直した。
 拳を握る。
「嫌だ! これは僕がやって来た、僕の宿題だ!」
「ンだと――」
 何かを言われる前に、僕はサッサとその場を走り抜けた。
 あッと、何人かが叫び声を上げる。気にせず、僕は自分の席に座り、それから宮内さんを振り返った。
「おはよう」
「あ、うん。おはよう」
 宮内さんが、唖然としたまま、けれど挨拶を返してくれた。

          □□□

「ほへー。それは、すごいですねぇ、社先輩! これから、いじめっ子をぎったんばったんやっつけてくれると、ホント爽快なんですけどっ」
 テーブルから身を乗り出すようにして、矢島さんが力説する。
「ちょ、マルム! 紅茶が危ないって! 零れちゃうっ」
 放課後、僕と宮内さんと矢島さん、三人で近所のファミリーレストランを訪れていた。
 話題は、ピアス達との一件だ。
 今朝の出来事を宮内さんが口にした所、事の顛末を隅々まで矢島さんに話す結果になったのだった。
「でも、そんなにずっとイジメられてたってのに、急に決別するとは、何か良い事でもあったんですか?」
「マルムの言葉のチョイスって、地味に変だよね」
「え!? そんな事ないですよ! 宮内先輩こそ、えーと、ほら、堅苦しい時ありません?」
「べ、別にいいじゃない」
 けらけらと楽しそうに笑い、二人は話題を次々と替えていく。
 女の子同士の会話は、まるで着せ替え人形のようだな、とヘタなたとえを思いついて一人苦笑した。
 と。
 視線を感じて、窓ガラスに眼を向ける。すると、ガラス越しに眠気眼と交わった。
 九子だ。
 そう今日は、僕達三人と九子との、懇談会という予定だった。

          □□□

 店内に入ってきた九子は、空いていた僕の隣に腰を下ろした。注文に来たウエイトレスと話がかみ合わなかった為、マルムが勝手に「じゃああたしと同じものをこの子に」、と注文した。
「食べれなかったら、もらいますね」と、彼女は舌をだす。九子の食べ物は、僕が料金を払う手はずだった。
「あ、そうだ」
 言いながら、鞄からハンカチを取り出す。
「これ、今までありがとうね」
「……うん」
 花柄のハンカチを、九子はジャンパーコートのポケットに押し込んだ。

「で、会議だよ」
 九子の(というか矢島さんの)注文品、ソフトクリームが届き、自己紹介もそこそこに、宮内さんが切り出した。
「議論の焦点はただ一つ。九子ちゃんはこれからどうするのか。えーと、今はどこに住んでるのかな?」
 宮内さんの質問に、九子は軽く首を傾げながら答える。
「……公園」
「「「公園!?」」」
 まさかの野宿ガールだった。
「うー。まあ、しょうがないかな。ホテルとかも借りられないだろうし……。えーと、でも、これからはそんな危ない所に置けないよね……」
「あ、あたしの家は無理ですよ!? 普通に実家暮らしですし!」
 矢島さんが素早く言葉を放つ。宮内さんの視線が、つーッと僕に移動した。
「……って、ダメだよねやっぱ」
 けれど、彼女は自分で視線を逸らすと、まっすぐに九子を見つめた。
「どう考えても適任は一人暮らしの私だし。九子ちゃん、ウチに来る?」
 ささやかな沈黙。
 九子はその間、うつむいていたが、不意に顔を上げて頷いた。
「……うん」

          □□□

「ではでは、宮内先輩、社先輩、九子ちゃん、さらばですーっ」
 矢島さんが、大きく手を振って離れていく。僕達は彼女と別れ、三人で歩いていた。
「ねえ社」
「ん?」
「あのさ、今まで、ごめんね」
 突然の謝罪に、目を見開いた。
「……私ね、自分に、ちょっと変な力がある事、ずっと気にしてたんだ。ほら、人間って自分と違うものを仲間外れにしちゃうでしょ? だから……」
 話が見えない。
 でも、大切な事を伝えようとしているのだと、なんとなく感じ取った。
「だから、社が苛められているって気づいたとき、助けられなかった」
「…………」
「助けたら、私、周りと違うものになってしまう気がして……っ。ただでさえ普通じゃないのに、なおさらそこから外れちゃうような気がして……っ。それで、すごく、怖くなったの」
「……そっか」
「社も、案外平気そうな顔してるしさ。私、君に甘えてた」
 会話が途切れる。
 それきり、僕らは一言も喋らなかった。
 別れ道が訪れる。

 別れ際、九子にこっそりと耳打ちした。
「ねえ、初めて会った時さ」
「……?」
「君は、久瀬玲太を呼んでいたの?」
 彼女は。
 眠気眼を少しだけ見開いて、小さく頷いた。
 それは、ずっと考えていた事。
 彼女と初めて出会った日、僕はいつの間にか外に出ていた。見知らぬ場所まで、歩いていた。
 精神を操る力。
 その能力は、光機関が思うより、久瀬玲太が思うより、大分強大なものだった。
 例えば、他人の精神を他人に宿したり、それを石杖に身体を自由に操ったり。
「そっか。ありがと」
 僕はなんとなくそう言ってから、宮内さんと九子に「また明日」と手を振った。
 一人で歩き出す。
 冬の街。ポケットに手を突っ込みながら、もう眠ってしまったであろう、頭の中の彼に、もう一度告げた。

「ありがとうな、久瀬玲太」

                              END

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