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あの日

出先から戻り、家まであと数十メートルの場所まで来たときに
「すみません、すみません」という声が聞こえた。
あたりに歩いている人はいない。

ついに妖精の声が聞こえるようになったか、と期待したが、残念ながらそうではなかった。

向かいから減速しながらやってきた車が停止して、運転席の窓からご婦人が顔を見せた。
どうやらご婦人は、正面を向いた状態で車を動かしつつ私に話しかけていたようなのだが、私が気づかないものだから、停車して顔を見せたのだった。

「〇〇斎場はどちらですか?」

実はこれ、月に1回は聞くフレーズである。今日みたいに、車に乗った人から尋ねられるのは初めてだけれども。多いときは、月に2、3回くらい道行く人から声を掛けられる。

それは単に、住まいの近所に斎場があるからなのだが、この斎場、最寄駅からの道順もそれほど複雑ではなく、駅から徒歩でも5分程度。それなのに、わりと頻繁に道を聞かれるのは、その斎場が住宅街の中にあるからだと思う。

この住宅街の中に、本当に斎場があるの?と不安になるくらい、周辺がおもいっきり住宅街なのだ。


この街に住むようになってから、毎日毎日、喪服で斎場に向かう人をみかけ、そして斎場から戻る人を見かける。

こんなにも毎日、人は亡くなっていくものかと思う。そんなこと、頭でわかっているつもりだったけど、近くで見ると実感として強調される。

私が生きるために食べる食料品を買い出しに歩く道のそばで、今日も、見送られる人がいる。その近くでは生まれる人もいて、生まれてからほんの数年の小さき人たちもよくみかける。


そういえば、会ったことない人のお葬式に出たことがある。といっても、その人は義理の祖母で、無関係な人でないのだけれども、夫と出会った頃から寝たきりで意思疎通はできない状態だったから、会ったことない人という感覚である。

寝ている姿を見舞ったことはあるけれど、彼女は私の存在を知らないまま旅立ったのだ。
お葬式に参列しながら、これも縁というものかと思ったのだった。

一方で、確かに同じ時間を共有しながら、二度と会わない人もいる。
旅先やバーでたまたま隣り合わせて、ともに時間を過ごした人は、今、生きているのだろうか。
その中のほとんどの人とは、別れるときにはもう二度と会わないとわかってもいたのだった。


生きているけれど、もう長いこと会っていない人と、
亡くなってもう会えない人と、
どんな違いがあるのだろう。


9年前のこの季節に、以前の職場で仲良くしていた人が亡くなった。
お互いにその職場は退職した後のことだった。

彼女が亡くなったことを知ったとき、私は入院中だった。正確にいうと、入院していた病院ではできない検査をするために、一旦、退院をして別の病院で検査を受けるその日に知らせを聞いたのだった。

自力で検査を受けにいくために一時的にも退院できる体の状態だったわけだから、事情を説明すれば、入院日をずらしたり、入院先からの数時間の外出はできたと思う。

でも、私は病院で相談することもなく、葬儀には行かなかった。


その後もお墓詣りにいかないまま、今になってしまった。

私にとっては彼女は、今でも長いこと会っていない人と同じなのだ。そうであって欲しいから、葬儀に行かなかったのかもしれない。

私は今年、最後に会ったときの彼女と同じ年齢になる。

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