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わたしほどになれば、

わたしほどになれば、朝起きたときの瞼の重たさでその日のテンションがわかる。

 わたしほどになれば、珈琲にもその日の苦味が出る。

わたしほどになれば、犬のおしりがかわいいだけで泣いたりする。

 わたしほどになれば、一日なんて一瞬にすぎてゆき
あるときふと「あれ なんだかさみしいかも」なんて思いながら風呂を洗うこともある。



この日々に確かにある、
大事な言葉を綴りたい。
けれど、大事すぎてこれは切り離せない。

大切なので誰にも知らせなくていい。

わたしの毎日はそういうふうなのだ。


 小沢健二の講義をうけたとき
彼はそれはそれは素晴らしいテキストを用意してくれていた。
そして、その素晴らしいテキストのページをどんどんやぶっていく(!)ワークがあった。


すごく抵抗感があった。
だって完璧なかたちで残しておきたいでしょ。


ぶーぶー言う会場のみんなに
「ね、嫌とか言わない!」

「 表現ってこういうことなの 」と 続けた。


そうか
表現とは自分のなかのあるページを破ることだと、
そんなふうに伝えたかったのかなとおもう。



 自分のなかを破るように表現するとき、
そのあいだにたくさんのものがこぼれ落ちている事実。


神様とか 奇跡とか 不思議とか 偶然とか

もうたくさんのものがこぼれ落ちていて
そのすべてを掬えない。拾えない。


けど、ごめん!わかってる。
これでいくね、という覚悟。
そして おもてへ出すのだ。


それは 自分だけがわかっていればいいこと。


それでも  それでも
どうしようもなく、自分を表現しないといけないときがあるでしょ
なんかわかんないけど、そういう衝動があるでしょ

そういうときは、その間を思い出すんだよ

自分とその向こうにある、なにか
あいだにあることを

光り輝くようなまばゆさと
漆黒の闇のなかに

風がそよぐ場所に
悲しみに暮れる人々のこと
赤ん坊が泣いているそばで咲く花
ストーブにあたる犬や猫

やかんから噴きでる湯気

桜の蕾が膨らんでゆく気配、路肩にかたまる溶けない雪


あいだにある そのすべてを
わたしはとうてい拾えない


わたしほどになれば、自分とはそういうものだとわかりはじめている。


玉ねぎを飴色になるまで炒める忍耐力すらなく
味噌汁を沸騰させてしまうくらいずぼらで
大事な書類はいつも 大切にしまいすぎてわからなくなる。

最近はつめたい空気の中に春が包まれている、
そういうにおいがするよね。

わたしほどになれば、こんなもんだ。
このページ ビリビリっとやぶって 開放 !

バインダーの端に残る、雪のようなちいさな紙屑を
ひとつひとつ
丁寧に拾いあげ 手のひらに乗せた。

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