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小説『ヌシと夏生』1

プロローグ 会長室

「終活を手伝って欲しいの」

そう言うと、会長は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
初めて会った日と変わらないきれいな顔立ち。正確にはわからないけれど、夏生より少し上くらい。五十になったかならないかくらいのはずだ。その目は生き生きとエネルギーに満ちている。とても死にそうには見えない。

代表権はもう譲ったとはいえ、創業者に言われたら一従業員の自分に拒否権はない。しかし、終活とは……。テレビや雑誌なんかで話題になっているのは知っているけど、考えたことはなかった。

「終活って……お葬式とかお墓の準備のこと、ですか?」

机の上に置かれた封筒に目をやる。
パソコンを使わずに、自分の手で字を書いたのは、ずいぶん久しぶりだった。

会長室への異動を命じられることが、退職の勧告だということくらい、理解している。

今の社長は小さな編集プロダクションだったこの会社を、従業員百人規模のIT企業にまで育て上げた。その経営手腕はさまざまなビジネス誌などでも紹介されるほどで、夏生自身、素直にすごいと思う。しかし会社の成長とともに、昔から会社を支えてきた古株と言われる社員たちが次々と退職していったのも事実だ。特に会長が一線を退いた三年程前から、その傾向は顕著になっている。

中途採用で管理職が入り、その前の管理職を一掃する。
そしてまた新しい幹部が入り、その前のマネージャーたちを一掃する。まるで歴史の教科書のようだ。気が付くと勤続十年以上の社員は夏生一人になってしまった。大した出世もせずに、ずっと現場にいたからそうした政治的な動きに翻弄されることなく、仕事を続けてこられたのだろう。

でももう夏生自身、ここにいることに限界を感じていた。
IT企業としての成長するための基礎を築いたのは俺たちだ、という自負はある。同時に、自分たちだけの力ではここまでの発展はできなかったことに対して、ふがいなさも感じる。

この一年間で、新入社員以上に社内のいろいろな部署に回された。「取り扱いが面倒な人」「終わった人」というレッテルはもうはがすことはできない。この会社で働き続ける理由は、四十五歳の平社員として転職が怖いからという消極的なものと、もうひとつ、会長の存在だ。

「お墓とかお葬式っていうのも、そうなんだけどね。お茶でも飲みながらお話ししましょう」

白くて高級そうなカップに注がれた紅茶。この甘い香りは、夏生にとって、会長の香りだ。

二十年前、穴の開いたジーンズにTシャツ姿でアルバイトの面接に訪れた夏生に「ご飯は食べてる?ズボンを買うお金はあるの?」と心配して、バイトではなく、正社員として迎え入れてくれた。あの時の紅茶も、この香りだった。

「もう二十年になるかしら?もっと?」

「五月でちょうど二十年です」

「まあ、ずいぶん経つわね。ずっと会社を支えてくれてありがとう。やっぱり私の目に狂いはなかったわ」

あのころは、社員は会長も入れて四人だった。

肩書もなく、皆名前で呼び合ってた。六時を過ぎたら缶ビールを買ってきて、飲みながら会社の未来を熱く語り合ったり、仕事がない日は皆で営業の電話を掛けたり。今思うと信じられない世界だ。

「お仕事は楽しい?」

「おかげさまで。学生の頃からずっと編集の仕事に就きたくて。その夢は叶いました」

「そう。良かったわ」

「ありがとうございました」

「こちらこそありがとう」

「今回、会長室に異動というお話ですが、実は私もこれからの人生のことを考えて……」

「本を作りたいの」

「はい?」

「本を作りたいのよ」

そういうと、会長はまたちょっと恥ずかしそうに笑って、立ち上がった。

机の引き出しから大きな封筒を取り出し、古い原稿用紙の束を取り出すと「昔、夫だった人が書いてたのよ……」と懐かしそうにパラパラとめくった。

「ずいぶん書いてますね」

「彼の故郷の話かしら。最初の方しか読んでないけどね。古い家の出だから。いろいろ故郷には思い入れがあったみたい。私は嫌いだったけど」

「会長に読んで欲しかったんじゃないですか?」

「……もう別れた男だし。私、あの場所に良い思い出はないのよ。何て言ったら良いのかしら?嫁姑とかじゃなくて、土地柄なのかしら?閉鎖的って言ってしまえばそれまでなんだけど。一人だけ秘密を教えてもらえないでつまはじきにされてるみたいな感じ?結局なじめなくって東京に戻ってきちゃった。あの人もすぐに出てきたけど、やり直しはできなかったわ。子どももいなかったし……。あの家も絶えちゃったのかしら?」

会長の人生にもいろいろあったのだろう。
都会育ちのお嬢さんが何かと制約の多い旧家に入ってもうまくはいくまい。東京に戻った彼女が実家にも帰れずに、生きていくために自分で興した小さな出版社がこの会社だ。

もしも会長が夫と別れてなかったら、この会社はなかったかもしれないし、夏生も会長と出会うことはなかっただろう。

「中途半端な男は嫌いなの。死んだ後に弁護士だか後見人だか知らないけど、他人を使って一方的に送り付けてくるなんて、情けないったらありゃしないわ。私に読んで欲しいなら、生きている間に、ちゃんと自分で届けなさいって」

会長の元夫の話は昔、飲みに行った時に聞いたことがある。
でも、たぶん会長は今もまだ、彼のことが好きだ。

年を取ると、男と女の好きとか嫌いとかの感情は薄れていくと思う。でも、会長の場合、そういった感情が薄れる前に別れているせいか、夫に対する思いがどこか成長しきれていないうちに止まってしまったのではないかなと、勝手に推測いている。

会長が元夫のことを話すときは眉間にしわを寄せるが、それでも何だかかわいらしい表情になる。幼い子が嬉しい気持ちを隠そうと、一生懸命しかめ面をしているみたいな。うまく言えないが、とにかく幸せそうなのだ。

「無理に押し付けられた原稿なら、本にする必要あります?」

「だって、そのまま捨てたら後味悪いでしょ?祟りとか迷惑だし。昔ずっと本出したがってたから。だから本にするかどうか、相談してるんじゃない」

もしかしたら会長が編集プロダクションを作ったのは、元夫の夢を叶えたかったからかもしれない。

原稿用紙を手に取って読んでみる。
黒いボールペンで書かれた手書きの文字は力強い。子どもの時の記憶をもとに、故郷の習俗などが書かれている。村のおじいさんの話とか、昔話の類か。気が付いたら三十分ほど経っていた。

「商品として売れはしないでしょう。でも、構成をきちんと考えればそれなりに面白いかもしれません」

原稿を読んでいる夏生を邪魔しないよう、そっと自分の机に戻って仕事をしていた会長に、正直に伝える。
夏生の言葉で会長が嬉しそうな顔になった。今度は眉間のしわも消えてる。

「じゃあ、お願いしても良いかしら?今の会社、本作れる人があなた一人しかいないのよ、もともと編プロなのに全部外注。まあ今の世の中、それでも良いんだろうけど」

「……わかりました。お手伝いさせてください」

「ありがとう。じゃあ、この封筒は捨てちゃってもいい?」

机の上に置いたままになった辞表を指さす。
夏生は無言でうなずくと、目の奥が熱くなった。

異動を固辞して、会社を去る方が美しかったかもしれない。
でも最後にきちんと恩返しがしたかった。
そもそも会長がいなかったら、普通の生活には戻れなかっただろう。就職氷河期と言われた時代、何とか滑り込んだ会社を結婚の失敗とともに辞め、ほとんど引きこもっていた夏生を社会に引っ張り出してくれた人。
この会長には恩がある。
そして今、古くなって会社から不要と言われた「終わった編集者」に、もう一度「あなたが必要だ」と手を差し伸べてくれた。
その優しさには、全力で応えたい。

いつか去らなくてはいけない日が訪れるにしても、その日まではどんなに無様で、恰好悪くても。

「良かった……」

会長がもう一度、ほっとした顔で微笑んだ。

「じゃあよろしく。あと、『会長』って呼ぶのはやめて。自分じゃないみたいで好きじゃないのよ。昔みたいに『美津さん』が良いわ。夏生さん」

(つづく)


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