題名も宛先も何も無く

小学校に入学してから五年生の一学期くらいまで、ずっといじめに遭ってました。クラス全員からシカトされる系のいじめです。

いじめの理由なんてあって無きようなものなんでしょうけど、顔が可愛くないとか、運動が出来ないのに勉強は出来るとか、離れた地域から引っ越してきたよそ者だったとか、その辺だったんじゃないかな。一度気に入らないと思うと何を言おうがやろうが何もかも気に入らなくてケチをつけられ続ける、というのがいじめとかパワハラとか嫌がらせとかいうものの定番でしょうし。

教室では男女がひとりずつ机をくっつけて2列に並んでたんですけど、私はそれを誰からもくっつけてもらえなかったんです。バイキン扱いされてたからですね。これもいじめの定番ですかね。

その扱いが始まった原因みたいなものは、何となく察しがついてるし記憶もあるんですよ。書く気になれないので書きませんけど、母親に持たされたあるものについてそれはもう酷いことを言われたんです。
でもそれは言いがかりだったんですね。だいたい言いがかりなんでしょうけど、こういうの。
言いがかりなので、先生がちゃんと説明してフォローしてくれたことも覚えてるんです。でも、誰もそんなの聞いてなかった。聞いてても言葉として理解できなかったのかもしれないけど、ハナから聞く気が無かったんだと思います。一度気に入らないと思われると、何を言っても悪いようにしか取られないいい例です。大人も子供も同じですね。

五年生の時に転勤してきた先生が担任になったことで、長かったいじめはようやく終わりました。あんなに熱心に、まともに生徒と向き合ってくれた先生はほかにいなかったと思います。それまでは子供はもちろん大人だって、小学生の子供ひとり助けようとしなかったんだから。いじめられてる子供のせいにしとけば楽ですからね。これがまた、私が変な子供そのものでしたし。

いじめが無くなった小学校生活は完全に別物でした。いじめられてた私以外のクラスメイト全員とも楽しく過ごせるようになって、それは本当に良かったと今でも思ってます。いつまでも恨み続けるの、疲れますからね。私は元々人懐っこくて、孤独が好きなタイプじゃなかったみたいですし。
あの先生が居なかったら、こんなに長く生きていなかったろうなあ。命の恩人ですよ。あの先生が私の文章をとても褒めてくれて、「将来本を書きなさい」って言ってくれたから、私はこうやってnoteやブログを書いているようなものです。


でも、普通に笑えるようになった私のその表情の下には、ずっと他人に怯えている小さな子供の顔が残っちゃってるんですよ、今も。
私は汚くて人に触ったり甘えたり頼ったりしちゃいけないバイキンなんだな、って何処かでまだ思ってるんです。そんなわけないのに、小さな子供の頃に何年もそういう扱いをされ続けると、こすって転写するタイプのシールみたいに、いつまでも残るの。さっさと綺麗に剥がさなかったから、もうすっかり定着しちゃって綺麗に剥がせなくなってタンスの模様になっちゃったシールみたいに。

誰に何か言われたかとか、何処でそういう態度を取られたか、とかじゃなくて、自分をそういう存在だとまず考えてしまうようになっている。考えたくないのに考えてしまっている。
否定以上に強い肯定で記憶を上書き出来てないから、思考回路の基本が「否定」のまま。「肯定」に変えるために手は尽くすのだけど、人生は肯定されるよりも否定されることの方がずっと多い棘の道。少なくとも私にとっては。

だから、子供の私が連想したらしいバイキン的なものが今でも苦手だし(これは説明が難しいので省きます)、他人のことはそうは思わないけど自分のことをバイキンかもしれないからあれもこれもしちゃダメだって考えるタイプの軽い潔癖症みたいな何かだったりします。潔癖症とはちょっと違うかもしれないんだけど、ほかに適当な言葉が見つからないので、あえて使用しますね。

スーパーで買い物するのも大変なんですよ。一度自分が触ったもの元に戻せないから。自分が触ったものはバイキンついてるかもしれない、嫌がられるかもしれないし誰か死ぬかもしれないって思ったりするの。そういう思考を忘れられる時もあるんだけど(たぶんストレスに左右される部分が大きい)、思い出しちゃってる時は「野菜を持ってみて重い方を買う」的なことすら出来ない。
アルバイトの定番のコンビニやスーパーなんて当然ながら働けない。だって私バイキンなのに、何かあったら大変だ、って思ってしまうんですよ。

他人から見れば実に馬鹿馬鹿しいし、たぶん考えたこともない人の方が大多数だと思います。でも私はずっとこうだった。6歳くらいからだから、本当にもう人生のほとんどすべてでそう思って生きてきたんです。ものすごく不自由で、制約が多くて、実に馬鹿馬鹿しい人生になってしまってます。
あんまり人に話したことないですけどね。だって話した相手だってそう思ってるかもしれない。そう思われちゃうのが怖くて話せない。あと、上手く言語化できる感情じゃなかったのもあるかも。とにかくこうやって文章にしてみてるけど、果たして伝わってるかどうか自信ないです。

心についた傷は自分にも他人にも見えないから、自分ではたいしたことないと思ってても実はものすごく深かったり、かすり傷に見えてもいつまでも膿み続けて治らない厄介なものだったりするみたいです。
生きていればそのつもりがなくても他人を傷付けてしまうことも逆に傷つけられてしまうこともあるから、まったく傷付かずに生きていくことは不可能だと思います。だから傷を癒す手のひらや薬や温かさが大切になってくる。それを与えることができないと傷のまま残ってしまう。
そして、付けなくてもいい傷をわざわざ付けに行く行為は必要ないはず。意図的に付けた傷はたぶん非常に深い。いじめとかパワハラとか嫌がらせとかいった行為は、付けなくてもいい傷をわざわざ付けに行く行為ですよね。


このところの地球規模の騒動で、「わざわざ傷を付けに行く人」の話をいっぱい耳にします。他人をバイキン扱いする人の話もいっぱい聞く。んで、それを「しょうがない、自分を守るためだから」みたいな適当な言葉で流そうとする人もいっぱい見かける。
それ、全員今すぐやめた方がいいんじゃないかな。私みたいな人間もいるって知ったなら、やめてくれないかな。もしかしたら大人には耐えられることなのかもしれないけど、人の心の硬さややわらかさは人それぞれ、絶対なんてないよ。

みんな本当に、そんなに綺麗なんだろうか?だって、今まで風邪引いたことのない人やインフルエンザやはしか等々にかかったことない人どのくらいいるんだろう?自分の症状に気が付かずに、公共の場所や職場に出掛けて菌を撒き散らしたことのない人間なんていないんじゃない?自分は他人に何もうつしたことことはない、って言い切れる人いないんじゃない?うつした相手がさらに誰かにうつして、その過程で誰かが死んでるかもしれないよね?私の身内はインフルエンザから肺炎にかかって亡くなったよ。
自分の人生を最初から思い返して、自分は絶対潔白だって言い切れるなら、他人を犯罪者扱いして責めればいいと思う。でも、その証明ができる人間なんて一人もいないでしょうね。
よく自分のこと棚に上げられるなあ、それだけ神経太いのに細かいこと気にするんだね、ってすごくびっくりする。

気が付かずに誰かに風邪やインフルエンザをうつしたからって、それはもういくら悔やんでも仕方ないこと。どんなに気を付けたって病気にはなるんだから。
治療法の確立されてない病気は怖いけど、伝染しないだけでそんな病気いくらでもあるし、それと戦ってる人はそこら中にいる。でもその病気のために国とか他人とかから守ってもらえてる人なんてごく一握りじゃないのかな。
そして、死に至る病はいつ何処で突然発症するかわからないし、偶然に偶然が重なって事故に遭うこともある。「死」なんて日常のそこら中に落ちている。普段からその意識もなく、みんなが騒いでるから命を失うのが怖くなったんだろうか。どれだけ命に向き合うこともなく生きてこられたんだろう?幸せな人がこんなにいるんだね。

どんなに取り繕ったって、人間は他人の命など何とも思っちゃいない。大切なのは自分の命と、自分に安心や利益をもたらす存在だけ。別に今回の騒動に限らず、ありとあらゆる場面でそれは露呈してる。
でも、それでも自分の命以外も命だと捉えることを、社会的生命体としての人間は目指してるし求められているのだと思う。いろんな国の政府とかえらい人が、一人残らず「命」です、って言ってくれたから、いろんな措置が求められて取られてきた。
ただし、一人残らず命として守るためには何処かで何かを犠牲にしなきゃならない。会ったこともない誰かの命を守るために、当たり前のように経営してたお店や得られてた収入や幸せや生活を犠牲にしなきゃならない人たちがいた。それはその人たちの命すら奪ってしまいかねない行為。救済措置は取られるけど、たぶんすべてに手が回ることは難しい。命を最優先することが悪いという意味ではなしに、命を守るためには金が必要で、金がなければそもそも命は1日だって維持できないということも覚えてなきゃいけないんじゃないかと思ってる。

私たちは全員が加害者だ。自分が生きていくために誰かの幸せを奪った加害者。それなのによく自分だけは悪くないような顔をして堂々としていられるものだよ。
支え合いとか助け合いとか言えば聞こえはいいけど、誰かの幸せや平穏や生活を奪って私たちはやっと息をしている。自分の楽しい毎日の陰で必ず誰かが苦しんで泣いている。学校が休みになって阿鼻叫喚の声をたくさん聞いたけど、それはどれだけ学校やその周辺のシステムに支えられて生活してきたかという証拠で、そのためにどれだけの労力や予算が割かれていたかということにほかならないんじゃないか。「当たり前」なんてどこにもない。

それでもその仕事を誇りを持って、時にやっすい給料で遂行してる人たちがいて、時に危険や批判と隣り合わせで働いている人たちがいる。それは今に始まったことじゃない。この騒動が起こるまで気が付かなかったなんて、「常識ある大人」とやらが言ってはいけないんじゃないの?

全員に給付金を出すことには何の異存もない。早急に対応するためにもそうした方がいいと思ってたし。でも、貯金に回しちゃう人がいるから困ってる人以外にはあげたくない、って言っちゃうえらい人の気持ちも正直ものすごくわかる。これは「会ったこともない誰かの命を守るために犠牲になってくれた」誰かのためのお金であって、自分の貯金で旅行や美味しいものを賄える余裕のある人のためのお金ではないもん。前者だけに渡そうとするとややこしくなるから全員にくれてるだけ。

本来はお金をどう使おうがその人の勝手だけど、今回だけは違う。そのお金は、自分が行かなきゃ潰れちゃうかもしれないお店とか、色々支援の手が回らなくて困ってる人のために出来るだけ使ってあげて欲しい。今まで通り自分の収入でいろんなことを何とかできるのであればね。
もし私に余裕があったら、きっとお金の使い方ですごく悩んだと思うから、何も考えず全額生活費に回すと言い切れる状態で良かったのかもしれない。いや、全然良くないけど。
でも、なんか色々流れてくる話に出てくるような人は、そのお金使って美味しいもの買ったり立派な差し歯したりしても、売ってくれた人や治療してくれた人バイキン扱いするのかな。そんな人間にも平等にお金貰えるんだな、と思うとちょっと重い気持ちになる。でも平等ってそういうものなんだろうね。平等に扱った相手に平等の意識がないだけで。


毎日しんどい気持ちにしかならないので、テレビもあまり見なくなった。ひとつだけ強く思うことは、もし今回心無い行為に胸を痛める経験をした人は、どうかそのことをちょっとだけ覚えていて欲しい。しっかり覚えてると辛いから、ちょっとだけ。
そして、同じ事を誰かには、しないで欲しい。それはその痛みを知らない人間には出来ないことかもしれない。

子供の頃の、ひとりぼっちで見えない傷だらけで膝を抱えて座り込んでた私が、最近よく泣いてる。嫌でも思い出してしまうのでしょうね、今の私が。でも、泣いてるのに、私は小さな私の涙の拭き方もわからない。
どうか、こんな人間を再生産しないでください。それは「どうしようもないこと」ではないと思います。私たちは、花を美しいと感じ、音楽や芸術を愛することのできる、つまり自分以外の存在に心を寄せることのできる、人間なのだから。

あなたは大切な命です、そう言ってもらったのだから、それ以上自分だけを大切にしろ、自分だけは生きていたいって子供が泣くみたいに暴れたりしないで、同じ事を皆が言ってもらってるんだよ、自分だけじゃないよ、そうじゃないと自分の命にも価値がないことになるよ、そう考えてみるのは、ねえ、ダメなのかなあ。私の考え方は変かもしれないけど。いつも変だって言われて社会からはみ出してきた人間の言葉になんか価値無いもんね。うんしょうがない…。

今日の日記は何だかよくわからなくなってしまいました。あんまり読まれたくないので有料にでもしようと思ったけど、普段からそんなに読む人もいないので、このまま普通にアップします。
なんかね、もう、疲れちゃった。希望がね、見えないのよ。


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主にフィギュアスケートの話題を熱く語り続けるブログ「うさぎパイナップル」をはてなブログにて更新しております。2016年9月より1000日間毎日更新しておりましたが、現在は週5、6回ペースで更新中。体験記やイベントレポート、マニアな趣味の話などは基本的にこちらに掲載する予定です。お気軽に遊びに来てくださいね。

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