自分のマンガの面白さを信じられなくなった話

マンガの「面白さ」とは一体なんなのだろう。

私が初めてマンガを描いたのがいつだったのか、もう正確には覚えていない。少なくとも、小学生くらいの時期には「漫画の描き方入門」的な本を読み、自分なりのオリジナルマンガ(のようなもの)を描いていたように思う。プロの描くような「マンガの絵」にあこがれて、どうやったらあんな絵を描けるのだろうと、Gペンやトーン類の道具を揃えて模写をしたのが懐かしい。

また、父のパソコンを借りてマウスで必死にデジタル絵(当時ハマっていた、FFシリーズのファンアートが多かった)を描き、お絵かき掲示板に投稿したりもしていた。
中学生になる頃にはComicStudio(Clip Studio Paintの前身となるソフトであり、今でも一部で使用され続けている)が発売されており、人づてに「プロのイラストレーターはPhotoshopというソフトを使っているらしい」などという情報も聞いたりしていた。本格的なデジタルでの作画にも興味があったが、当時はプロだけが扱える、手に届かない遠いもののように感じていた。今ではiPadさえあれば誰でもどこでも絵が描けてしまうし、トーンを原稿用紙に貼り付けてカッターで削っていたなんて信じられない。

しかしその後、たくさんの物語を読んだり観たりしていくにつれて、興味は次第に「絵」から「物語」へと移り変わっていった。
どれだけ上手に絵を描いたところで、物語にのめりこめなければ、その「絵」そのものも魅力的には見えてこない(少なくとも、自分にとっては)ということに気づいたのだ。

だから、研究すべきは絵ではなく物語だ!と考え、上京し一人暮らしを始めた大学生のころからたくさんの映画を観始めた。また、当時ちょうど邦訳が発売したシド・フィールドの本などを読み、理論の勉強もした。理論を知るとなんだかプロに近づけたような気がして、他の作家志望者をリードしているような気がして、得意げになった。

実際この頃(大学生時代)に、初めてオリジナルの読み切りマンガを完成させ、ホームページを作り、pixivなどに投稿し、即売会にサークル参加して同人誌を頒布したりして、自分の作品に他者が反応してくれる経験を得た。高校時代まではほとんど誰にも自分のマンガを見せたことはなかったので、反応があるのは嬉しかった。こんなに多くの作り手がいたのか、という新鮮な驚きもあった。
また、初めて出版社の編集者から連絡をもらえたのもこの頃だ。結局連載などにつなげることはできなかったけど、嬉しすぎて携帯電話(まだスマホではなかった)を持つ手が震えていたのを覚えている。

思い返せば、自分の大学時代はちょうどpixiv、youtubeやニコニコ動画、twitterなどのwebサービスが誕生したタイミングと重なっており(更に言えばあのiPhoneの発売も大学生の頃だ)、その後インターネット上で(無料で)観られる創作物は、質・量ともに爆発的な発達を遂げていくことになる。

大学卒業以降はというと、会社勤めの傍ら、たまに読み切りを制作し、ネットに投稿し、即売会に参加していた。
時折、私がアップした作品を見て編集者から商業誌への誘いが来て、何人も会って打ち合わせしたりしたが、商業連載に値するようなものは作れず、そのうちメールの時点で断るようになり、連絡先をネットに掲載することもやめた。あと、出版社というのはわりと手当り次第作家に執筆の誘いをしているものらしく、連絡が来てもあまり期待しないほうが良いと学んだ。

読み切りをストーリーとしてまとめるのは、そんなに難しいことではない。ページ数にもよるが、働きながらだらだら描いても、まあ1年に1本か2本くらいなら完成させられるだろう。
個人で好き勝手にやっていることであり、売上のノルマがあるわけでもない。もうプロになるのも諦めた。このままずっと、自分のペースで描いていければそれでいい。そう思っていた。
そして、大学を卒業してから10年の年月が過ぎた。

その間、私は段々と、自分の描いているマンガの「面白さ」に懐疑的になっていった。

何十本もマンガを描いたものの、毎回テーマはバラバラだった。
内容は大体「ちょっとした事件がおきて、ちょっといい話っぽく終わる」というものだった。どこかで誰かが言っていた、「新人作家は皆、『ちょっといい話』を描きたがる。大して面白くもない『ちょっといい話』を」という言葉が頭をよぎった。
絵についても、手癖で描くことが多くなり、画力の伸びも頭打ちになった。

要するに私は、「描きたいもの」がなくなっていたのだ。


……とはいえ、描きたいものがない、というのは今に始まったことではなく、実は最初からそうだった。

もちろん、大好きな作品はいくつもある。今でも、新しく夢中になるマンガやアニメには出会っている(数は少ないけど)。
でも、「尊いラブコメを描きたい」だとか、「迫力のあるバトルを描きたい」だとか、そういうジャンルへの拘りや情熱はなかった。「物語として本当に面白いものが描ければなんでもいい」と思っていた。

理想を言えば、「描きたくてしょうがないモチーフやテーマ、面白くなると確信しているアイデアがあり、いてもたってもいられず筆をとった」というのが一番良いに決まっている。
でも実際は、「次は何を描こうか、こういうのはどうだろう、いやこれじゃつまらない」という風に、悩みながら作り続ける……そんなものじゃないだろうか。

ちなみにシド・フィールドも、「創作は、創作と格闘する時間の中にのみ存在する」というような意味のことを語っていた(言い方はちょっと違ったかもしれないけど)。
これは要するに、「何を描くべきか苦悩しつつ作品を作っていくのが普通であり、天啓のようなアイデアや情熱が湧いてくるのを待っていても作品は生まれてこない」ということだろう。自分の経験的にもそれは正しいと感じている。

でも、それはそれとして、自分で作ったものに充足感を感じられないのは問題だった。
正直、新しい作品に取り掛かるたびに、「まあ今度の作品も、この程度かな」と予想できてしまうので、モチベーションが削られてしまう。
プロはもう目指していないし、売れてお金持ちになりたいわけではない。
せめて、自分で自分の作る作品について「なかなか面白くかけたな」という充足感を得たい、求めるのはそれだけだ。

ただ、ここで一つ疑問が浮かんだ。
そもそもマンガの(もしくは物語の)面白さって、なんなんだろう?

この疑問については、思いつくだけでも様々な答えがある。

「キャラクターの魅力こそがマンガの面白さであり、魅力的なキャラのアクション(リアクション)をひたすら積み上げていけば面白くなる」
「感動の瞬間こそが面白い瞬間だから、その瞬間を書くためにお膳立てをすることが大事だ」
「それぞれのジャンルごとに求められるお楽しみ、すなわち読者の期待に応えるサービス的な部分こそがマンガの面白さだ」
「読む側ではなく、作る側が描いていて楽しいもの、つまり好きなものを描けばいい。その情熱が読者に伝われば、読者も楽しめる」

などなど。

実のところ、今でもこの疑問に対する納得のいく結論は出ておらず、毎回悩みながら新しいマンガを描き続けている。
そもそもこんなことで悩んでいる人がどれくらいいるのか疑問だし、「お前創作に向いてないよ」と言われたら何も言い返せない。

でも、人が抱える悩みというのは大抵共通しているから、自分がつまづいた部分には、同じようにつまづいている人が他にもいるんじゃないだろうか。だとしたら、今の私がやるべきなのは、フィクションの作品を発表することよりむしろ、その制作過程で考えたことを発表していくことの方なんじゃないか。
もしかするとそちらのほうが、他者にとって価値のあるアウトプットになり得るんじゃないだろうか……。


そういったわけで、創作活動とは名義を別にする形で、創作論を執筆する活動を始めてみた。
既に数ヶ月前から、創作論のようなものをまとめてkindleで個人出版しているが、noteではその時その時思いついたトピックを書いていきたい。

アマチュアの、特に実績もない人間の書くものなので、果たしてどれほど人の役に立つものが書けるかわからないけれど、同じ悩みをもつ人にとって、少しでも参考になるものが残せればいいなと思う。

・・・・・・

kindleにて、創作についての思考をまとめた個人出版本を出しています。kindle unlimitedに入っていればどれも無料で読むことができますので、気になった方はぜひ読んでいただければ幸いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?