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心の旅、ジューンベリーで逃避行ーおでかけがしたい。⑤ー

目の前にある色鮮やかなジューンベリー。
「無理せんで適当なところでいいぞ」と、父。

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「うん」
と返事をしながらも、暇な休日の午後1時。
私は黙々とジューンベリーを剥き始めた。


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断水逃避行

予定がない休日の朝。引き続きおでかけしづらい世の中。
けれど今日は、出掛けねばならない理由が私にはあった。

断水である。


数日前にポストに入っていた大家さんからのお手紙によると、本日午前9時から12時くらいまでの間、階下の漏水修繕の関係で断水致しますとのこと。3時間、給水はなんとか空き容器に溜めておけるとして、トイレを我慢できるだろうか…。

少し前、映画館で『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観に行った際、2時間30分強の上映時間を中座せずに乗り切るためかなりの事前対策が必要だった私には、とてもじゃないが耐えられそうにない。

実家に逃げよう。

前日母に電話をいれ、当日の朝ごはんを済ますと廊下でざわつき始めた工事関係者の人たちを避けて、断水アパートから脱出した。

梅雨の晴れ間の、汗ばむ陽気。近所のおいしいパン屋さんで手土産を買い、運動がてら片道45分を歩いて実家に到着した。
「ただいま~」
リビングに続く階段を見上げると、2階から顔の右半分を覗かせているニボシと目が合った。「ニボシ、ただいま」
声をかけると、ササーっと逃げられた。

「お帰り。キキ(ニボシのこと)、お母さんが帰ってきたと思ってとんで行ったんだわ」
12時にパート先から母が帰ってくるのを見守るのがニボシの日課らしい。勘違いさせてごめん。

母の帰宅後、父の用意してくれた昼ごはんを3人で食べる。
定年の少し前に退職して以来、実家の炊事は完全に父の担当となった。もともと料理が得意でマメだった父。
私と弟が学生だった頃は毎日弁当も持たせてくれていた母は、実はあまり料理が好きでなかったらしく、父の退職後は台所の自治をすっかり父に明け渡して、パートに勤しんでいる。そんな母は現在、冷蔵庫の中身すらあまり把握していない。

父の食事は健康的な和食が中心。厚焼き玉子にきんぴら、長芋のかつぶし和え、椎茸と根菜のすまし汁。お野菜の揚げ物。

「お母さんはいつもこういうおいしいものを作って貰ってるんだよ~」

と自慢しながら頬張る母。いくら作る人が好きでやっていても、毎回の食事の支度は大変と分かってのことだろう。私も実家で父のごはんを食べる時は、思うだけでなく何度も「おいしい!」と口で言うようにしている。

作れば気が済んで一番先に食べ終わる父。私の差し入れたパンを物色しつつ皿を片付け始める。
「今年はこんなにとれたんだよ、ほら」冷蔵庫から大きなタッパーと瓶にびっしり入ったジューンベリーを机に置いた。

「こんなにあると食べる前に傷んじゃうね。冷凍してみる?」言いながらジューンベリーをつまむ母。
「この“モサモサ”と茎は取った方が食べやすいよね」
と、小さなジューンベリーの実から収穫時についてきてしまった茎と、茎の反対部分にある皮が爆ぜたような部分をむしって、なんとなく瓶の蓋に集めている。

「これ全部やるのなんか無理だろう」
「私はそのモサモサが好きなんだけどなー」
「えー口に残るじゃん」

すると食卓横の長椅子にいたニボシが何やら不審な動き。ごそごそと前脚を動かしている。「あっ、ニボシ!ダメだよ!!」気づいた私が大声を出すと、ニボシがバッと飛んで消えた。
「あーよかった。今、おしっこしようとしてたよ」

「あっ!!もうしてるじゃん!!!」

長椅子のマットを確認した母が絶叫する。
「こらっ!!キキ!!」
ニボシを叱りにダッと駆け出す父(←一応悪いことをしたと自覚させる為)。「ああ~下に敷いたタオルまでいってる。」
ユーラシア大陸くらい大きく染まってしまったタオルを母が広げる。

3人がジューンベリーを囲んでいる様子を見て自分だけ仲間外れになっていると機嫌を損ねたらしい。かまってちゃんの困ったニボシ。

「続きは私がやるよ」と引き受けて、食卓に残った私はひとり、ジューンベリーと向き合った。


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ジューンベリーの思い出

ジューンベリーはその名の通り6月に実をつけるらしいが、ウチでは大抵5月下旬頃に収穫できる。

さくらんぼに比べたらかなり小さく、ブルーベリーに比べてもまだ小さい。小指の爪ほどの大きさである。
林檎くらいの浅い色から、熟れるとだんだん細長い系の葡萄に近い色になる。味はほのかに甘く、瑞々しい。そのままでもおいしいが、私はヨーグルトにどっさり乗せて食べるのが好きだ。

「ところでジューンベリーって、いつからうちにあるの?」

「もう10年以上経つよ。家を建て替えたときにシュッちゃん(母の兄)が紫陽花と一緒にくれたから。紫陽花は今年、ダメだったけどね~」
そんなに昔からあるのか。私が実家に住んでいた頃からなのに、ぜんぜん気づかなかった。

実家に猫の額ほどでも庭があるのは嬉しい。でも、そこに何が植えられているのかまでは知らない。毎年母が「今○○が咲いてるから後で見なさい」と言われても、生返事をして結局見るのを忘れて、季節が過ぎていた。
「ジューンベリーも最初は中々実が生らなくて、植木屋さんに聞いたの。そしたら、樹が若いと実がならないんだって。ほんとに、2、3年経ったらちゃんと生ったわ。それでもこんなに沢山生ったのは初めてだよ」

「去年は取れなかったからなあ」

父が言う。
去年、ジューンベリーは沢山生った。取れなかったのは、収穫時期に合わせて父が入院をしてしまったからである。

たまたま実家を訪れた去年の5月。「ただいま」を言っても誰も出てこない。2階に上がると、その日、大腸の内視鏡検査を予定して朝から下剤を服用していた父が、腹痛でもがき苦しみ倒れていた。急な事で動揺する母と救急車を呼んだ私。病院に運ばれ、父はそのまま入院になってしまった。

呆然とした気分で母と帰宅した実家。

「そういえば、ジューンベリーもう採らないと、熟れちゃう」

母がぽつりと言い、庭に出て、鈴なりに赤い実をつけたジューンベリーをふたりでボウルいっぱいに採った。
「あとで持って帰ってね。お母さんだけじゃ食べきれないから」

父の入院は思いのほか長引き、退院はジューンベリーの季節をかなり過ぎてからようやく叶った。


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母は午後2時からの兼業パートの前にいつも少し昼寝をする。
ニボシはほとぼりが冷めた様子を見計らって、寝ている母の脚の間で丸くなった。
父はマットとクッションを剝ぎ取られ、座りづらくなった長椅子でぎこちなく脚をのばし、テレビのチャンネルをいじっている。

ジューンベリーはよくよく見ると、結構鳥たちにつまみ食いされていた。熟れすぎたものと一緒に分けて、きれいな実だけを残していく。
時間になり母がむくりと起き上がると、ニボシが父の膝へ移動した。

父の体勢がいつもと違うことを訝るニボシ。
「なんか変だぞという顔しとる。お前のせいじゃ。」

作業開始から1時間。ジューンベリーの処理が終わった。

「わーありがとねー!1つ持って帰ってね」
と母が言い、再びパートに出掛けた。

ジューンベリーの実をずっと触っていた私の左手の親指と人差し指の先は、すっかり赤紫色に染まって、洗ってもなかなか取れなかった。

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今週もお読みいただきありがとうございました。旅やおでかけとは違いますが、一度実家を出て暮らすと、もうそこに流れる時間は自分のものとは違ってくるので、旅先で過ごすようなゆったりした気分がいつも少し味わえる気がします。この日の出来事は少し前。現在ニボシのおしっこ癖は落ち着いているとのことです。

◆次回予告◆
『雑事記⑤』こどもの頃、もしも将来自分が作家になれたとしたら、それは専業に違いないと思い込んでいたけれど、現実の将来は完全なる兼業。おとなになっても制作を続ける人々の24時間はどうなっているんだろう?を、お送りします。

それではまた、次の月曜に。

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◆今週のさんぽ猫◆
階段の上で母の帰りを待つニボシ。

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