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「ああ、もう生きていけないな」という気持ちを言葉にしたかった記事。



どうも、うさみしんごです。

少し前に「日本一周をしていた発達障害のバイカーが旅の最後に自○した」というツイートがトレンド入りしていました。

この記事を書いている段階では安否についての確定情報がなく、無事を祈るばかりです。

さて、このツイートを見かけて同時に記事にしてみたいと感じたことがありました。

それが「もう生きていけない」という感覚についての話です。

私も一度、病みに病んで退職まで行っているので、思い返してみると「もう苦しみたくない」という感覚が非常に共感できるのです。

というわけで、今回の記事では「もう生きていけない」という気持ちについて、自分の言葉でまとめてみようと思います。

「生きていたくない」ではなく「生きていられない」

まず「どうにもならない」と苦しむ人は「生きていたくない」と言うよりも「生きていられない」と思ってしまうように思います。

もう少し細かく言うと「世間に入っていくために当たり前に求められる水準に達していない自分には社会での居場所がない。だから、生きていくために必要なものが得られない。よって、生きてはいられない」と、感じるのではないでしょうか?


順番に考えていくと、結構残酷な結論が出ます。
・生きていくためには、まとまった金額が必要。
・まとまった金額を稼ぐためには、それなりの仕事をしなければならない。
・それなりの仕事をするためには一定水準の能力が必要。
・では「その一定水準の能力が自分にはない」と言うのなら?

考え始めるきっかけはどうでもいいのですが。
こんな感じで「社会で生きていくためには必要な水準のことが自分には出来ない」と考えてしまうと行き着く先は決まってきます。

「当たり前の水準以下で生きる」
「生きていられないから生きることをやめる」

このどちらかです。

ここまで思い詰めた人に「いやいや、まだまだ他にもっと厳しい人もいるじゃない?」というのは、あまり意味がありません。


「世界では1週間に一度、日本でいうところの残飯みたいな飯がなんとか食べられるような人もいるんだぞ!毎日漁れば残飯が食べられる国に生まれた君は幸せなんだぞ!?」

と、外部の人から言われたらどう思いますか?

「自分にとっては耐えられない環境」を他人から一般論で押し付けられたところで、気持ちが上向くはずがないんですよ。


「よっしゃ、俺は幸せに残飯食うぞ!」とはならないでしょうが。


周りの人のいう「こうすればいいよ」も自分にとってはハードルが高い。

あるいは「そんな状態にはなりたくない」としか感じない。

でも、これ以上苦しみ続けることには耐えられない。


どうにもならない。

「もう生きていられない」

という感覚になるのではないかと、思うのです。


ついでに言えば劣等感にさらされてきた人ほど「まともでなければならない」と思い込みます。

まともでないことに強い恐怖と不安を感じます。

だって「まともではない」と散々、いじられ、つつかれ生きてきてるんだもん。

ありのままの自分を誇り、受け入れよう?

自信なんて持てるわけないじゃないですか。

周りも自分自身も「まともでない自分」を責めるんですから。

さんざん嗜めてきたでしょうが。
いくらでも叱り、否定したでしょうが。

何を今更。



結局、世間とそうはズレていない(と、少なからず本人は思っている)感覚で、まともに生きていけないのならば、生きることに耐えられない、という結論に至るんですよ。

違うなら違うでいい。

今回の記事は書きたいままにとっ散らかってます。
勝手に書いてるだけなので、ご本人の感覚とは違うのかもしれません。

それならそれでよいのです。


ただね。
「なんでそんなことで」と言う前に。


少しだけ考えて欲しいのですよ。

「なんでそんなことで」命を絶とうとする人がいるのかを。

きっと感覚も境遇も想定の外にいると思います。


終わり。

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