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【小説】蝶の幸せ

 蝶は、自分が特別な存在であることを理解していました。

 彼女がまだ頼りない白い卵であった時から、それは明らかでした。顔を見たこともない親は、彼女を味のよい葉に産み付けました。その葉は、幼虫となった彼女を幾重にも折り重なって外敵から隠しました。蛹となって慎重に準備を整えている間は、月が絶えず見守っていました。そして羽化の瞬間、彼女が真にこの世に生まれた瞬間には、彼女の背後に輝く太陽が昇っていたのです。それは絵に描かれるべき光景だったに違いないと、蝶はそう信じていました。

  実際、蝶の美しさは際立っていました。滅多矢鱈に羽を動かすような無粋なことはしませんでした。ひらりひらりと花弁が散るように、時に方向を変え、時には高さを落とし、時には速さを操ったのです。それは誰の目にも優雅で可憐に見えました。
「お嬢さん、素敵な羽模様ですね」
「ダンスをご一緒しませんか」
 数多の蝶々が声をかけてきましたが、彼女はどの誘いにものりませんでした。
「だって私はきれいな蝶」
 その辺の蝶々では相手になりません。彼女は聞こえないふりをして飛んでいきました。

 「お嬢さん、こちらへお止まりなさい」
「私に口付けてください、どうか」
無数の花々が手招いていましたが、蝶は羽を止めませんでした。
「だって私はきれいな蝶」
その辺の花々ではお話になりません。彼女は急いでいるふりをして飛んでいきました。 

 五月の野原には上機嫌の風が吹き、色とりどりの花や虫がそれぞれの持ち場で春を謳歌していました。蝶はその中を飛び回り、特別な花を探していました。しかし、どの花もこれといって特徴がありません。目の前の花も隣の花もむこうの花も、どれも同じように美しいのです。それはもはや美しくないのと同義でありました。

 やがて蝶はポピーの花畑へ辿り着きました。無数の朱の珠が一面に並ぶ様は圧巻でした。けれどもやはりどれも同じに見えます。風が吹くたびに無個性に揺れる様は、いっそぞっとする程でした。

 ふと、朱色の一群の中に一つだけ、異彩を放つ藍色をみつけました。珍しい、夜明けのような色のポピーです。青を認識しにくい蝶々たちはその存在に気付きもしないようでした。それはまるで彼女のためだけに隠されているような、秘密めいた輝きを持っていました。

 蝶は、最初は気の無い振りをして、それから少しずつ藍色のポピーの周りを旋回し、たっぷり時間をかけて近づいていきました。その花弁に軽やかに足を降ろし、もったいぶりながら口を伸ばして、そして小さなキスをしました。なんと甘美な事でしょう。蝶はたまらず、今度は深く口づけをしました。優しく触れ返すポピーの仕草で、自分がはしたなく蜜を求めていたことに気付き、蝶は乙女の嗜みを思い出しました。しかし体は衝動的に強く強く蜜を求めます。痺れるような甘さは一口で彼女を虜にしたのです。

「愛しいあなた。あなたに会うために、私は美しく生まれたんだわ」

 ポピーは何も答えませんでしたが、蝶に身を任せました。蝶にはそれが嬉しくて嬉しくて、このまま時が止まればいいと思い、またこのまま死んでしまってもいいとさえ思うのでした。
 赤い花畑の、青い花にとまる、美しい蝶。それはまさしく絵画のようで、そうして容易く人の目に止まったのです。

 人はいつだって何かを壊してしまうものです。無暗に網を振り回し、天の園のようだった花畑を無遠慮に踏みつけました。周囲の虫は悲鳴をあげて逃げまわり、逃げることのできない草花はただただ災厄が降りかからないよう祈るばかりでした。
 突然のことでパニックに陥った蝶は飛び立つ方向を見誤り、あっけなく網に捉えられてしまいました。
 網の目の隙間から最後に見たのは、くしゃりと折れたポピーの姿。

「だってお前はきれいな蝶」

 蝶は自分の美しさを呪いました。

「あぁ、私がありふれた蝶々だったなら。醜い虫であったなら」

 愛するものと引き裂かれた辛さ。愛するものを失った悲しみ。あらゆる絶望がいっぺんに蝶を襲いました。彼女は襲い来る激情に耐えきれず、ふっとその意識を手放しました。

 

 目を覚ますと、蝶は硬質の硝子の中におりました。ずきずきとした胸の痛みは、悲しみのせいばかりではありませんでした。その胸の真ん中に鋭い針が突き刺さっていたのです。羽は拘束され、身をよじることさえかないません。
 蝶は人の手によって、朽ちないように乾かされ、見栄えのいいように固定され、大変立派な標本となったのです。

「あぁ」 蝶は思いました。

「このために、私は美しく生まれたんだわ」

 彼女の特別は永遠となりました。

「だって私はきれいな蝶」

 蝶は幸せでした。磔にされたまま、満足そうに微笑んでおりました。
 今でもまだ笑っています。

(完)

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