日本の美意識 ~珠光『心の文』より~

”この道の一大事は和漢のさかいをまぎらかす事、肝要〱、ようじんあるべき事なり。また当時、ひゑかるゝと申して、初心の人体がびぜん物・しがらき物などをもちて、人も許さぬたけくらむ事、言語道断なり。かるゝと云う事は、よき道具をもち、そのあぢわひをよくしりて、心の下地によりてたけくらみて後までひへやせてこそ面白くあるべきなり・・・。”

「心の文」茶人珠光から古市澄胤へ書き送ったもの。
「冷える」「かれる」というのが美と認識されている。
それ以前は「幽玄」が至高の美とされる。
この転換は、連歌師心敬が枯淡美の理論的指導者であったとされる。

”氷ばかり艶なるはなし。苅田の原などの朝薄氷、ふりたる檜皮の軒などのつらゝ、枯野の草木など露霜とぢたる風情、おもしろくも艶にも侍らずや”
心敬『ひとりごと』

心敬は冬枯れの野に究極の美を見出す。
「かれる」に美を見出す志向は、心敬、世阿弥、珠光、と共通している。

”柔らかでみずみずしい牧谿の画面が温和な気候に育まれた日本人の感性にかなったのである。ここに「牧谿の発見」といわれる日本人固有の美意識の発現を認めることができるのだが、この美意識が次なる文化のモードを生み出してゆく原動力でもあった。
 義政時代におこった新しいモードとはいわゆる枯淡美への志向であるが、その真髄を簡明に説いたものとして知られているのが、茶人村田珠光が古市澄胤に書き送ったと伝えられる、いわゆる『心の文』である。”
「室町人の精神」(桜井英治、2001年、講談社)より引用

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