松平家に仕え漆芸に従事した小島家の歴史



ご先祖 初代清兵衛

 小島家は、藩祖松平直政公が寛永十五年(1638年)に、国替によって信州松本より出雲に御入国されたことにより始まりました。その後に、出雲大社の御造営の計画があり、寺社仏閣の工事の専門の職人が必要になりました。当時、京都烏丸では、桃山時代から優れた漆工芸職人が住して仕事を行っておりました。その中の堅地屋(かたじや)清兵衛の二男であった者が、寛永十六年(1639年)直政公に招聘され、出雲藩塗師棟梁として入国し、名字帯刀を許され、小島清兵衛を名乗りました。以後、小島清兵衛を代々襲名することになります。先の堅地屋という呼び名は、漆の堅地からきており、本堅地など漆の堅牢さを表す意味を持っています。

 さて、初代小島清兵衛は、出雲大社の御造営塗師棟梁として活躍いたしました。若くして出雲藩塗師棟梁として招聘され、名字帯刀を許される格別の出世でしたので、母親が初代清兵衛に随伴して出雲の地に入国いたしました。清兵衛が妻帯するまでの予定で松江の材木町に住したと思われますが、何らかの理由で京都へ帰れなくなり、松江の地に眠っています。宗派の関係で、小島家のお寺である信楽寺ではなく、洞光寺にひとり眠っています。初代清兵衛の母親にとって、息子清兵衛の功は何よりの誇りであったと思います。

 初代小島清兵衛を小島家の御先祖として、私どもは感謝して思いを巡らせております。なお、初代清兵衛は、延宝三年(1675年)六月十九日に没しました。

二代清兵衛

 二代清兵衛は、初代清兵衛の長男として生まれ、出雲藩塗師棟梁として勤めました。元文四年(1739年)五月四日に没しました。

三代清兵衛

 三代清兵衛は、二代清兵衛の長男として生まれました。寛保三年(1743年)出雲大社御造営塗師棟梁を相勤めました。天明元年(1781年)十二月三日に没しました。

四代清兵衛

 四代清兵衛は、三代清兵衛の長男として生まれ、幼名を理兵衛といいました。出雲藩塗師棟梁として勤めました。大変な孝行者でそれが奇特であるとされ、宝暦十二年(1762年)十二月、年二十俵を生涯いただくことになりました。かつ、家が手狭であったため、京橋川の巾一間の埋立地を賜りました。この場所を孝行灘と申します。現在もアジサイの花が植えられて保存されています。また、「孝行理兵衛の図」という掛軸が当家に伝わっており、当時の町衆の様子をしのばせております。当家では、孝行理兵衛さん、と親しみをもって今も思いをはせています。寛政元年(1789年)九月二十一日に没しました。

孝行灘
「孝行理兵衛の図」

五代清兵衛(初代漆壺斎)

 五代清兵衛(初代漆壺斎)は、四代清兵衛の息子として生まれ、幼名を正道といいました。寛政元年(1789年)に襲名し、参勤交代で江戸へ赴かれました松平治郷公(不昧公)に随従して江戸の大崎下屋敷に勤め、ここで不昧公をはじめ、比類なき名工とうたわれた原羊遊斎に師事して、髹漆(きゅうしつ)、蒔絵その他を学びました。そして、研鑚すること多年、公の命により製作いたしました。

秋野棗が、公の思し召しにかなって、御目鑑一掛、及び、「漆壺斎(しっこさい)」の職名を賜り、文化十四年(1817年)三月に二十人扶持をいただきました。そのとき、公が身に付けておられた茶羽織の紐をいただき、さらに刀も拝領しました。その刀は、当時の工芸(木工、金工、漆工)の技術の粋を集めたものでした。

なお、公より賜りましたものは、物だけではなく心をいただいている事柄もあります。それは、公にお願いをして、御屋敷の庭で楽焼をさせてもらっていることです。手びねりの掛花入が残っています。ここでは初代が、公の御命令による仕事ではなく、自分自身の造形感を漆芸ではなく陶芸に求めています。余芸が許されていたのは、公のお眼鏡にかなった出来であったことと、公の信頼が厚く、これを息抜きとして漆芸に命を賭けるように、という公の造形に対する広く深いお考えであったからだと思います。初代は、不昧公の厚遇を受け、公の美意識に基づいて茶器の製作に励みました。不昧公は、酒井抱一、狩野伊川院栄信などの優れた下絵を、原羊遊斎、漆壺斎に蒔絵をさせて、公の「好みもの」を多くつくらせになりました。原羊遊斎、狩野伊川院栄信、酒井抱一による下絵が当家に残っておりますが、狩野派、琳派、それぞれの特徴が出ています。当家の宝として保存しています。これらの数々の品物、下絵などから、私の推測ですが、江戸大崎の藩邸は、一部分ある種の美術サロンのような役割があったと思われます。不昧公を中心として、茶道と美意識を媒体として身分を越えて厚い交流がありました。

 初代漆壺斎は、江戸から帰松後、江戸でのさまざまな出来事に思いをはせながら、漆の仕事に励んだと思います。江戸の空をなつかしく思い出しながら。
 初代漆壺斎は、不世出の名工、といわれるほどの名工でした。文政十三年(1830年)七月二十一日に没しました。初代の製作した品物は、雲州蔵帳に記載されています。

初代漆壺斎作 掛花入

六代清兵衛(二代漆壺斎)

 二代漆壺斎(六代清兵衛)は、文化九年(1812年)に初代漆壺斎の息子として生まれ、幼名を乗継といいました。父に、塗り、蒔絵を学び、文政十三年(1830年)に襲名しますが、病弱のため三十五歳で早世しました。緻密で技巧的な蒔絵を得意としました。余芸の作陶も緻密な作風でした。

七代清兵衛(三代漆壺斎)

 三代漆壺斎は、二代漆壺斎の弟で、幼名を林五郎といいました。一頃佐野家を継いだのですが、兄の早世にあい、復籍して三代を襲名しました。日頃、鈴の音をこよなく愛し、常に傍らに鈴を置いてその音色を愛で、自ら「鈴翁」と号しました。粋人で、蒔絵でも材質に鉛や錫、貝などを用いて琳派風のものを作るなど、意欲的な才人で名工でした。銘は金粉で入れて、陶芸その他にも興味を持ち、余芸として製作しました。明治十五年(1882)に六十五歳で没しました。

三代漆壺斎作 羅漢像
三代漆壺斎愛用の鈴
三代漆壺斎作 さざえ盃
三代漆壺斎愛用の扇
三代漆壺斎作 矢立
三代漆壺斎作 茶碗

三代漆壺斎までが、松江藩お抱え塗師として活躍いたしました。

四代清兵衛(四代漆壺斎)

 四代漆壺斎は、幼名を豊十郎といいました。明治、大正、昭和という変革期にあって、よく家業を守りました。作風は、真面目で整った美しさを見せています。同時代に、指物の名工といわれた初代小林幸八がいて、素地の多くはこの幸八が作ったため、四代の作品に優品が多いのもうなずけます。昭和四年(1929年)に没しました。

四代漆壺斎作 塗り瓢箪

九代清兵衛(五代漆壺斎)

 五代漆壺斎は、四代漆壺斎の二男として生まれ、幼名を久次郎といいました。印籠蒔絵師の梶川久次郎の名前にちなんで付けられたといわれています。

 松江で漆の仕事を習得しましたが、単に踏襲を続けて仕事をすることに先細りの予感を感じ、上京して東京美術学校(現東京藝術大学)の辻村松華教授に師事しました。この教育の導入ということが、六代、七代、そして次の代への続いていく基礎になりました。辻村先生の御指導のもと、東京と松江を行き来して仕事をしました。その頃、中央では、日本の美の再発見の気運が高まっていました。大正七年(1918年)に五代漆壺斎を襲名しました。歴代のなかで、初代漆壺斎と並ぶ名工といわれました。作風は、緻密で品格があり、蒔絵、塗り(真塗り、塗立てとも)の技術は、ずば抜けたものがありました。また、はりぬきの技法の香合など、いろいろ試みています。そして、三段食籠、各種の棗、変り型茶器、香合、お椀、お膳など、多数製作しました。彫金の塩津氏との合作も試みました。

  大正十年(1921年)に、三井物産を創立し、茶人でもある、益田孝様(鈍翁)の御注文を受けることになりました。その際の橋渡しを松平家の家扶の米村信敬様がされました。当時の松江事務所長でもありました。益田様より米村様への書簡、そして益田様より小島清兵衛への御注文の書簡が、当家に掛軸にして大切に保存してあります。それによりますと、益田様に五代漆壺斎の仕事を大変高く評価していただいたことがわかります。なお、益田様が京都から投函された封筒も残っています。松平家には、このように時代が変わっても何かと後押しと応援をしていただきました。

 また、五代漆壺斎は、茶人であり、有沢宗滴氏、山本百三郎氏へ入門いたしました。そして、地元のお茶人と交友も多く、手銭白三郎氏とは特に親交を深めていました。なお手銭氏は、後に県立博物館初代館長になられ、また財団法人手銭記念館を設立されました。

 昭和五年(1930年)、五代漆壺斎は後援者の後押しで、初代漆壺斎百周年忌記念碑を市内の信楽寺に建立しました。碑の題字は、東京美術学校初代校長である正木直彦先生の筆によるものです。除幕式と追悼が行われ、漆壺斎代々の遺作展も同時に開かれ、各界からの多数の参列者があったことを、当時の新聞が報じています。
 五代漆壺斎は、名工であり、そして茶人でもあり、漆壺斎の名を高めました。昭和二十五年(1950年)六十六歳で没しました。

益田様より米村様への書簡
益田様より米村様への書簡
益田様ご依頼の鮟鱇茶器木地
益田様より 五代漆壺斎への書簡封筒
益田様より 五代漆壺斎への書簡
益田様より 五代漆壺斎へご依頼の椀木地
五代漆壺斎作  はりぬき香合と下絵
塩津氏と五代漆壺斎の合作  香合

十代清兵衛(六代漆壺斎)

 六代漆壺斎は、五代漆壺斎の長男として生まれ、幼名を理吉郎といいました。東京美術学校(現藝大)で、松田権六先生に伝統漆芸の技法を学びました。卒業して高岡工芸学校で教鞭をとりました。父の病気で帰松して、昭和二十五年(1950年)に六代を襲名しました。

 兵役で北支に渡り、そのことが、後に終戦の解放感が伝わってくる作風のものを数多く製作する原動力となったようです。全般にモダンで、アジア風のものもありました。乾漆花器や、お盆、棗、その他多くの漆の作品を製作しましたが、特にお盆に力を入れていたようです。蒔絵は、青貝を併用したものが多く見られます。

 また、大変な読書家であったため、多数の蔵書があり、新聞に寄稿することも多く、文筆家でもありました。当時の島根新聞社社長の木幡吹月氏とは、文通を行うほど親交が深かったようです。お酒は大変好きでしたが、ほどほどのよい酒飲みでした。クラシック音楽が好きで、特にモーツァルトが好きでした。山歩きも好きで、広島県境の吾妻山に還暦を過ぎても登りました。

  県の文化財審議委員、そして、工芸連盟会長も務めました。平成六年(1994年)六月七日に没しました。

六代漆壺斎作  橙香合
六代漆壺斎寄稿記事と  掲載写真の文鎮
六代漆壺斎作  棗「蝶」

十一代史暉(七代漆壺斎)

 七代漆壺斎にあたる私は、昭和二十二年(1949年)に六代漆壺斎の長男として生まれ、幼名を史、後に史暉と改めました。東京藝術大学教授新村撰吉氏に師事し、蒔絵、髹漆(特に乾漆)、日本画を学びました。当時東京は、オリンピックも無事に終わり、戦後の復興も加速しているようでした。全世界もそんな感じがしました。産業、文化、スポーツ、その他のあらゆるものが勃興していく時期で、それを肌で感じると同時に、価値観の多様化を感じながら、仕事と勉強ができましたことは、私にとって大変に幸運であったと思います。また、松江と東京を十年近く行き来して学んだことは、松江を再認識することになりました。

 そして昭和五十六年(1981年)、七代漆壺斎を襲名しました。以後、乾漆、そして漆とその他の材質との融合問題、また、現代建築における、コンクリート、ガラス、スチール、その他の素材との調和に関する、漆の役割の研究を続け、後継者の育成にもつとめました。

 また、少年時代に浜田市の港町で、潮の香をかいで過ごしたことで、晩年まで海洋スポーツ(ヨット、カヌー)を楽しみました。特に、宍道湖の夕日に向かってカヌーを漕ぐのが好きでした。

宍道湖の夕日は、私にとってはなんともいえない、あたたかいものでした。母を失ってからは、心にポッカリあいた穴を埋めるためにカヌーに没頭しましたが、埋まりませんでした。

 そこで、とてつもないことに挑むことによって、それを埋めようとして、乾漆の大鉢の製作や、衝立(漆と発泡スチロールの融合)の製作に繋がりました。それらのことは、工芸とその他の分野との垣根を越えようと試みることになりました。その後、伝統工芸とは何か、漆芸とはどうあるべきか、を日々自分に問い続け、問題意識を持って、漆の仕事に対峙し続けました。

昭和22年 小島漆壺斎家の長男として松江に生れる

昭和47年 東京藝術大学教授新村撰吉氏に師事

昭和55年 島根県立博物館にて個展

昭和56年 七代漆壺斎を襲名

昭和58年 財団法人田部美術館にて個展

昭和58年 小島史暉うるし工芸サロンを設立

平成11年 島根県立美術館にて開館記念講演を行う

十二代有理(漆壺斎後継者)

 昭和五十年(1975年)七代漆壺斎の長女として生れました。東京大学歴史文化学科美術史学卒業後、東京藝術大学、武蔵野美術短期大学などにて学びました。現代的な漆芸で、フランスなど国内外の展示会に出展しています。後に漆壺斎後継者となり、意欲的に漆の制作を行っています。

小島漆壺斎家の系図


(小島史暉、『伝統の家に生まれて生きてそして』、2015年、p13~31より引用)


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