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掌編小説|或る、花冷えの

霜柱の立った地面というのは存外見た目で直ぐ判る。良く見ると小さな穴が所々空き、薄く白い霜に覆われ、それに何より土がグンと浮き上がっているから。

ジャクッ!

勢い良く一歩踏み出せば、そんな小気味よい音を立てて私の足元は数センチ沈んだ。靴を地面から持ち上げれば、くっきり残った足跡の周囲に細い氷の束が幾つも倒れているのに気付く。何の変哲も無い近所の野良道が、一晩の内に私の遊び場に変わっていて。自分が思わず笑顔になっているのを自覚しながら薄白い地面に足を下ろした。ジャクジャクジャク。左足右足左足。まだ陽も高く昇っていない、寒い朝にしか出来ない小さな遊び。白い息を吐き、頬と鼻の先をほんのりと赤く染めながら、踏み締めた足の感覚と音の面白さに年甲斐も無くはしゃぎまわったものだった。……確か、あの日は六年生。時間も余裕も自信も、まだ存分にこの手の中に溢れていた、あの。

今日はもしかして「アレ」も出来ているかな、とアスファルトの舗装を駆けた。ここでは雪は滅多に降らないが深夜に氷点下まで気温が下がる事はままあって、しかも前日に水溜まりが出来ていたなら地面の窪みには氷が張る。直径1メートルにも満たない小さな小さなスケートリンク。子供騙しのようなものだけれど、でもだって、私は子供なのだ。

ものの数秒で着いた。スニーカーOKの、世界一小さなスケートリンクはそこにあった。視線をチラと落とす。氷に透けて水泡が見える時は表面が凍っているだけ、足を踏み入れれば割れて水浸しになるという合図だった。大丈夫。次に軽く足をかけてみる。ピシッと鳴ったら危ない。上には乗らないのが吉。
……よし。頷いて、体重とスピードを乗せた。まぁ滑るといっても二歩、三歩分くらいなのだけど。

充分楽しんで、まぁもう良いかなと小さなリンクに背を向けた。一歩踏み出して、何気無く振り返り……目を留めた、そして見開く。慌てて元の場所に駆け戻った。

さっきまで私が滑っていた表情に、桜の花びらが一枚。

咄嗟に周囲を見回す。この辺りに桜の木など無い筈だった。もうずっとここにいるのだ、良く来る鳥から道端の雑草の種類まで、ここの仔細は私が一番良く知っている。
……それに、万一遠くの方から風に吹かれて飛んできたのだとしても、この時期桜が咲いている訳も無いのに。

しゃがみ込んで手を伸ばした。間近の桜がふわ、と香った。優しくて儚い、春の香り。その小さな花びらに、悴んだ人差し指の先が触れるという所で――、

私は目を覚ました。

寝起きは悪い方なのに今日は何故だか良く冴えている。一つまばたきをした。寒い。えっ何でだろう。天井を見る。特に変わりない白のクロス。首を動かして右。これまたいつもと変わらない。じゃあ左で。見れば、カーテンが大きくはためいていた。……得心がいった。朧げな夢の中が冬の最中さなかだった理由。そう大した事でも無い、戸を開けっ放しにして寝ていたらしい。あぁ確か明日の朝は冷え込むと昨日の天気予報でも云っていたっけ。
だから、あんな夢を見たのか。今日は特別。暦の上ではあくまで三月の終わり、いつもなら例え朝でも寒さは大分だいぶん緩んでいる。

布団を胸元に強く掻きいだいた。あー暫くここから出たくないな、と。だって布団をけたら絶対寒い。嫌だ、ずっとこのままが良い。うだうだ云っている内に壁掛け時計の長針は、五分、十分と進んでゆく。

「……ああ、もう!!」

意を決して布団から出た。予想通り寒い。本当に寒い。普段なら勿論戸は閉めているし、多少開けていたとしてもこんなには寒くない。昨日の私は何故戸を開けたまま寝たのか。そもそも何で開けたのか。サッシの所まで爪先立ちで駆け寄って、直ぐにピシャリと戸を閉めた。光の速さで暖房を入れる。……そうして、ホッと息をついた。これで直ぐに暖かくなる筈。
寒さが消えるまではまた布団の中に潜り込んでいようか、なんて考えながら、何気無く脇の木目柄の机に左手をついた。ん。指先に微かな感触。……え、あれ、何で。何一つ置いていなかった筈の机上に、しかし今何かがあって。

パッと手元を見た。
視界には、小さな白。空の勉強机の上に、桜の花びらが一片ひとひら

息を呑む。慌てて左手を引っ込めた。さっき見た夢。あの夢が現実に侵食してきたんじゃないか、なんて現実味の無い事を咄嗟に考えてしまって。一呼吸置く。瞬きをする。相変わらず桜はそこにいた。
私は恐る恐る、今度は右手で、そろりそろりと人差し指を花びらの方へと伸ばしてゆく。
――ぴとり。
夢とは違って、指先はその小さな花弁に確かに触れた。……まぁそうか、だってさっき感触があったから気付いたんだもの。
そうっと摘み上げて、目の高さに翳してみた。……綺麗だった。あの日見た、桜の花びらだった。この時期になれば学校で、公園で、満開に咲き誇る桜が見られたものだった、……のに。

「……あーあ、」
苦く笑った。鍵のつまみを上げ、銀色のサッシに手を掛ける。
「今更、何でこんな夢見るかな」

開いた戸からベランダに出る。高層マンションの二十四階。見渡せば、見下ろせば、建物も道路も車も人も、皆一様に何かの模型のようだった。

合わせていた指先を離して、花弁を風に乗せてやる。

そうして、ほわぁっと欠伸をしながら大きく大きく伸びをした。胸いっぱいに吸い込んだ空気は、確かにいつもよりひんやりしていたけれど……そこには冬も春も感じられなくて。
桜が吹かれるのを見送って、私は今度こそ戸を閉めた。鍵をかける。……相変わらずの無機質な室内。溜息が漏れた。もう見慣れてしまった筈の「日常」が、何故だろう、心に引っかかってしまって、今日は上手に呑み込めない。

隅から隅まで舗装された道には霜柱なんて立たない。桜の咲かなくなったこの世界では花びらなんて舞いはしない。

それでも、……それでも。
「霜柱」という言葉は確かに辞書に載っていて。桜の咲く時期に一時いっとき寒さが戻るのを――ここでは今でも「花冷え」というらしかった。

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