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掌編小説|病識

「自分が狂うことの何が怖いか。決まっている、もはや自分ではその狂気を知覚できないことだよ。正気か狂気かの正確な自己診断なんて誰にも不可能だ。だから僕は、いつか誰にも気にかけられることなく、独り小さなアパートで静かに発狂していることを時折想う。凡ての思考が不安定で不確かな自意識に喰い尽くされ、自分が埃っぽい部屋の隅でくちゃくちゃの紙みたいに丸まっているのを。例えば、価値観の崩落。今まで白だと信じていたものが黒で、黒だと感じていたものが実は赤だった。そんな恐怖が体内を延々と循環して、肉体は寝台の上で無機物みたく動かない。友人の優しさは蔑みで、家族の暖かさは憐れみで、支えにしてきた言葉群は全て妄想だった! 正誤や実態は関係ない。過去の自分を一切恃みにできなくなること、それだけが特級の問題なんだ。ひとたびそんな災害が起これば、僕は僕を永遠に固定するだろう。今以上に思考と感情を剥奪して、取り出した精神はホルマリン液の底に漬け込むだろう。それ以外に自我の崩壊を止める術を僕は持たないから。……やっていることは延命治療と同じだ。無生産な脈を打つ僕ができあがるだけの、恐ろしく無意味な逃避だけれどね」

「退廃に自棄を乗算した世迷い事だね。君の精神がプレパラートガラスより脆いことを、そして君の人生が常人なら飛び越えられるハードルが一本現れただけで詰むクソゲーであることを、ここまで壮大に語ってみせる自己陶酔は十周回って崇高にすら思える。台詞劇の演者が天職じゃないかな、君が自身でなく他者のためにここまで言葉を饒舌に吐けるようになったら知り合いの演出家に推薦するよ」

「……貴方の申し出が実現してくれる日が来たらどれだけいいかと思うのだけど」

「意外だね。耳を貸すだけで毒される呪詛のような喚きを口にしておいて、そんなに殊勝だとは思わなかった。私も八割方冗談だったし、他者の言葉なんて素通りされると思っていたよ」

「……自分のこれがあまりに対症療法で、向上がなく、血を流さない自傷であることくらいは自覚しているから」

「ふぅん。案外病識があったんだね。それでどうしてここまで進行しているのかは知らないけれど、自分と心中するのが嫌なら、先ほど君が言った行動をそっくりそのまま反転させたらよいと思うな」

「わかった。……ありがとう」

「本っっ当に気持ち悪いね。調子が狂って絶不調だ。もしかして絶賛嫌がらせ中? 私は手遅れの妄言吐きを皮肉に揶揄う道化役だと思っていたのに」

「貴方は、先ほど『他者の言葉なんて素通りされると思っていた』と言ったよね」

「あぁ、うん」

「でも貴方の言葉は、『僕自身の言葉』でしょう? だから、辛うじて届いたんだと思う」

「…………そこまできちんとわかる癖に、どうしてここまで悪化したの」

「さぁね。ただ、貴方が知らないなら僕は絶対に知らないよ。貴方は僕のなけなしの客観性と賢さなんだから」

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