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掌編小説|雨上がりの

水溜まりに映っていた。
風で水面みなもがゆらりと揺れて、細波さざなみが幾つも生まれて消えた。後ろでパシャンと車がアスファルトの水溜まりを抜けて、けれども直ぐに静かになった。
覗き込めば、私がゆらゆら揺れていた。酷く幼い顔をしていた。泣きだしそうで、いや、目元はもう充分赤くって。生まれてきてから今まで、ずうっと泣いてきたような、口端が微かに歪んで、不器用で、辛そうで、なのに頑張って笑って、大丈夫、大丈夫だからって。

そっと目を瞑って、顔を上げる。

この、雨上がりの空気が好きだった。
空中に漂っていた汚れが全て雨によって流されて、辺りがスウっと澄みきった、水分っけを含んだ透明な空気が。
それに、雨の匂いも。蜘蛛の網に雨粒が光って、キラリキラリと輝いているのも。花びらの上に一雫載せて震えている、こじんまりした、青の鮮やかな露草も。

深呼吸する。暗い色の凝りをゆっくり外に吐き出して大きく息を吸ったなら、鬱屈していた心が少しだけするりとほどけてくれる気がした。雨上がりの空気の神聖さに、その凝りでさえも幾らか薄らいだと見えて。
熱っぽい瞳にひんやりとした外気が心地良かった。男勝りな快晴の、独りぼっちだった夕暮れの、不規則に喘いで泣いたの、あの日の願いは何だったろう。
「夢と云うな」と云った、或る人の言葉が頭を過ぎる。「将来の『夢』だなんて綺麗に取り繕うな。欲望と云え、欲望と」と。

蜘蛛の巣にそっと指を乗せ、ぴん、と柔らかく弾いた。路肩の露草の元にしゃがみこんで、震える雫をふぅと飛ばした。

……きっと一時的なものなんだろう、と私だって判ってはいるけれど。

もう一度、大きく息を吸い込んだ。……あぁ雨の匂いだなと思った。土と水と空の混ざった、私の好きな匂い。気紛れに頭上を振り仰いだ。雲間に覗く、どこまでも明るい綺麗な青に顔が綻んでしまって。

あぁそうだ。そっと呟いてみる。今度買うハンカチーフは、露草色にしようか。次に泣き出しそうになった時、この日の事を思い出せるように。


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